アメリカ日記(2001.10.10完結)

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 2001年7月20〜22日の3日間、私はアメリカ・テネシー州ナッシュビルのNAMMトレード・ショーに行って来ました。TABギタースクールの打田十紀夫さんのご紹介で、モリダイラ楽器「モーリス・ギター」のデモンストレイターの仕事をしたのです。いろいろお世話になったモリダイラ楽器のスタッフの皆様、そしてTABギタースクールの打田十紀夫さん一家に、まず言葉では言い尽くせない感謝をしなければなりません。至らぬ私に暖かいご配慮をいただき、おかげさまで楽しい時を過ごさせていただきました。
 初めての渡米と言うこともあり、私の人生の中でもかなり特別な出来事だったと言えるこの経験、短い期間でしたが思う存分満喫してきました。特にドイル・ダイクスやパット・カートリー、ジェイソン・デニーといった優れたギタリストとお話ができたこと、ブロードウェイ通りで投げ銭ができたこと、モリダイラの優れた手工ギターを弾きまくってきたことなど、是非ご紹介したい出来事がいっぱいありました。
 ここで、これらの体験を旅行日記風に、簡単にレポートいたしました。

追記(2001.12.19):森平茂生さんの名前が、こちらのミスで今まで「茂夫」となっていました。本日をもって訂正いたしました。すみません。
 

 
2001.7.17
 
 この日の朝、小樽から千歳空港、そして東京へ。日程に余裕を持つため、アメリカ出発の一日前に東京へ行き、打田さんの家に一泊することになったのです。東京には1年に数度行く機会がありますが、何回飛行機に乗っても落ちないかどうかの心配をしてしまいます。ギタリストに飛行機事故が多いのも気になるところ。
 
 TAB に着いたのは3時頃。TAB の本拠は、新宿からごく近い幡ヶ谷というところにある、オフィス兼ギター教室兼レコーディング・スタジオです。2年前の春にここで、一週間ほど「クライマックス・ラグ」の録音をしました。この日にも、ついでに未発表曲のデモ録音をしたのですが、夏まっただ中にクーラーを切って入ったので、録音ブース(俗に「反省室」と呼ばれる)の中は地獄のような暑さ。反省していると言うより拷問を受けているのに近い感じでした。しかし、アメリカの予行演習のような感じで、はやる心を抑えながらの演奏は楽しかったです。というか、明日からの旅の期待と不安で、演奏しないではいられなかったというのが正直な気持ちです。
 
 その後、打田さん一家に壮行会を開いていただきまして、武蔵小金井の駅前にある居酒屋で一杯。本当に打田さんには感謝のしっぱなしです。そこで、打田さんの息子さんの昇太郎君と回文談義。

 

2001.7.18
 
 昼までに再び TAB へ。今回のお仕事をいただいたモリダイラ楽器の森平茂生さん(会社の創設者である森平利男会長の息子さん)と、そこで待ち合わせになりました。メールや電話でのやりとりはあったものの、実際にお会いするのはこれが初めてでした。しかし予想通りとてもよい方で、しかも私と一月違いの同い年と言うことがわかって話も合い、すぐに打ち解けてしまいました。茂生さんの運転する車での成田までの道のりの間、ギター談義で大いに盛り上がりました。
 
 茂生さんは、モリダイラ楽器のフィンガースタイル用の新型ギターについて熱く語ってくれました。現在のアメリカ市場では、テイラーがかなり有力なメーカーであり、モーリス・ギターは彼らの牙城を崩すべく、今回初めてアメリカ市場向けに、新たにフィンガースタイル用に開発されたギターで対抗するのです。
 私は事前にそのギターと同タイプのギターを徹底的に弾き、その完成度と弾きやすさ、コスト・パフォーマンス、そして何より国産離れのしっかりした音に感心しました。サイド&バックの材はマホガニー、表面板はシダーのモデルがメインであり、ネックの形状・指板の広さ・カッタウェイなどにも一貫したポリシーがあり、プレイヤーとして納得できます。仕事で当のモリダイラ楽器にお世話になった私が言っても説得力がないかも知れませんが、この新型ギターは本当にお世辞抜きでいいギターで、全てのフィンガースタイル・ギタリストにお勧めします。
 
 さて、その茂生さんと成田に入ると、ここからは私の未知の空間。だいたい海外旅行は初体験で、パスポートもこの日のために取ったのです。成田空港の搭乗手続き所はメチャメチャ広くて、おまけに混んでいました。各航空会社のカウンターがずらりと並び、私一人なら確実に迷子になっていたことでしょう。留学経験もあり海外を仕事場にする茂生さんが、とても頼もしく見えました。
 そしてついに、アメリカ行きの飛行機へ。飛行機は、一度シカゴのオヘア空港まで行き、そこでナッシュビル行きの国内線に乗り換えるのです。このシカゴ行きのユナイテッド航空の飛行機、所要時間が11時間ほどで、話には聞いていましたがやはり長い。乗客やフライト・アテンダントにはアメリカ人も多く、機内食もアメリカ風で(スナックとしてカップラーメンもどきの「きつねラーメン」が出たのにはビックリましました)、ここから既にカルチャーショックでした。英語で機内食を選ばなくてはいけないときは、開き直って茂生さんのメニューに相乗り状態。この「選ぶ」「選ばせる」という行為は、自由の国アメリカの一つの特徴的文化でもあるのだと後になって思うことになります。
 そして、初めて「時差」も体験したのです...。

 

2001.7.19
 
<飛行機と空港>
 
 「時差」があるということを理屈ではわかっていましたが、飛行機の中でほとんど寝てないのに夜が駆け足で通り過ぎ、明るくなってきてしまったのを見ると、やはり驚きます。機内食は「スナック」、夕食、そして到着前の軽食の計三回で、なかなか素晴らしかったのはもちろんですが、よく考えたら結構頻繁です。「いいから寝てないで起きてろよ」という風にも思えました(いやもちろん、食べずに寝ていることもできるのですが、せっかくですからね)。
 ここまでフライトが長いと必然的におトイレに行かなければならないのですが、実は国内線も含めて、私は飛行機のお手洗いは初めて入りました。流すと耳をつんざくような勢いで排出されるのが恐ろしかったです。私の座っていたのは窓側でしたが、何度もお手洗いに行くような人は、あらかじめ通路側の席を取るのも一つの手だなと感じました(寝ているお隣さんを起こすのが気兼ねするからで、これは特に帰りの飛行機で実感しました)。
 
 長い飛行時間の後、ついにシカゴのオヘア空港へ到着。眠たいはずなのに、はっきりいって「おだって」ました。入国手続きは慣れてないと結構大変みたいですが、茂生さんが教えてくれたおかげですんなり通ることができました。到着ロビーからして既にアメリカ。当たり前ですがみんな英語で話したり笑ったりしています。たとえが悪いかも知れませんが、まるで「スター・トレック」のエンタープライズ号に、宇宙人乗組員たちが大勢集まって談笑しているシーンを思い出してしまいました。何だか映画のセットの中にいるみたいなのです。この感覚は、アメリカ滞在中ずっと感じることになりました。
 
 次のナッシュビル行きの飛行機の待ち時間の間、空港内でいろいろ面白い発見をしました。この空港はとても広く、ターミナルが1、2、3、5と分かれていて(なぜか4がない)、それらの移動に専用のモノレール(無料)が使われていました。今回の旅行では電車のたぐいには乗りませんでしたが、ここでその雰囲気を味わいました。
 老人や身体障害者などを乗せて移動するために、空港内ではムカデのような屋内用自動車が往来していました。空港内はかなり混雑していたのですが、それが来ると歩いている人が当然のように道をあけていたのが、何とも紳士的で微笑ましかったです。
 かの「スターバックス・コーヒー」にて、茂生さんに飲み物を選ぶように言われましたが、例によって選択肢がいっぱいあるし、売り子さんはもちろんアメリカ人なので話が通じないと思い、茂生さんと同じものをお願いしました。すると、普通のサイズのはずなのにやたらにデカイ、モカ・シェイクみたいな飲み物でした。うまい! しかし甘い! そしてなかなか減らない! ユナイテッド航空の会員専用のお休み処でゆったり休んでいる間、他の人がもっとデカイ飲み物を平然と持ち歩いているのを見て、いやぁ、アメリカ恐るべしと思いました。
 
 予定より少し遅れて、ナッシュビル行きの国内線が出発。日本ではジャンボジェット機しか乗ったことがないので、アメリカ国内線の異様に小さな機体にまずビックリしました。まさにバスのような感覚。大きな体のアメリカ人たちが、ここではおとなしく見えました。先に長時間飛行機に慣れてきたので、一時間半ほどの飛行時間(札幌→東京くらいかな)がとても短く感じました。ナッシュビル空港に着いても、カントリー風の帽子(テンガロン・ハット)や革のブーツををキメている人はなかなかいませんでした。ちょっと期待していたのに...
 ここからタクシーで、NAMMショーの会場近くのホテルに向かったのですが、まずタクシーが小型のバスみたいに馬鹿でかく、運転手が陽気そうな黒人、BGMにボブ・マーリーというのが何か粋でした。白人音楽カントリーのメッカであるナッシュビルでは当然かも知れませんが、黒人はそれほど多く見かけませんでした。
 
 
<モリダイラ楽器の人たち>
 
 ホテルのロビーに到着すると、モリダイラ楽器の皆さんが私を温かく歓迎してくれました。私たちとは別に、既にこのホテルに到着していたのです。
 まず大変ビックリしたのが、何とモリダイラ楽器の創設者、森平利男会長がいらっしゃったこと。一見して、頑固一徹!という感じの素敵なオヤジさんでした。しかし、ロビーでちょっとみんなで話している間にも、NAMMショーにやってきた超一流楽器メーカーのお偉方とご挨拶、楽しそうに談笑されている姿を見て、実はすごい場面に出くわしている自分に今さらながら気がつきました。ちょっと歩くだけで、また別のお知り合いとのご挨拶になってしまい、なかなか前に進みません。

 以下順不同でモリダイラ楽器の皆さんのお名前を挙げると、茂生さんの妹さんの英津子(イツコ)さん。何とまた私と同い年というセールス・マネージャーの犬山さん。発注業務のベテランらしい酒井さん。レスリングが趣味なのに音楽家という(?)私にとって未だに正体のつかめない「さわき」さん(しかも後から聞いたら名字じゃなくて名前だと言う...)。会長、犬山さん以外は女性です。みなさん個性的で、魅力ある人たちでした。
 
(写真上:ホテルのカフェにて。右から森平会長、英津子さん、茂生さん、犬山さん)
 
 まずすごいと思ったのは、みなさん英語がペラペラなのです。会長のお話を聞くと、今から40年近く前、初めてたった一人でモリダイラ楽器としてアメリカに行き、そこで言葉の壁に大変苦労されたそうです。そのため、ご自分の子供をアメリカに留学させ、世界に通用する人材に育てたのです。会長には、もちろん大企業のトップとしての貫禄がありましたが、それだけでなくその言葉には自らの実体験から来る重みがありました。短い間でしたが、学ぶところが大変多かったです。

 これから22日まで、毎晩皆さんと夕食をご一緒させていただきましたが、とてもアットホームな雰囲気でした。一応私は、この仕事に雇われただけの部外者だったはずなのですが、みなさんはまったくそんなことを気にする様子もなく、最初は緊張していたものの、私もすっかり仲間の一人として打ち解けてしまいました。このことは、今回の旅において、ひょっとしたらNAMMショー以上にうれしいことだったかも知れません。
 
 
(写真下:近くのシーフード・レストランにて。右から犬山さん、さわきさん、茂生さん、やたら陽気なラテン系ウェイターさん、森平会長、私、酒井さん)
 
<ナッシュビルの様子>
 
 ホテルから歩いてそう遠くないシーフード・レストランに行く途中、私は初めてアメリカの町なかを歩きました。最初「何で郵便ポストがこんなにたくさん並んでいるのか?」と思ったものは、実は新聞の自動販売機でした。中には「FREE」と書いているものもあり、イマイチ理解不能。信号は「WALK」「DON'T WALK」とあり、英語が読めない人はヤバイと思いました。
 歩くと、程なくあの名高いカントリーの聖地「ライマン・オーディトリアム(ライマン公会堂)」が見えました。ラジオの公開番組で一世を風靡し、きら星のようなスターたちが現在でもライブをしている由緒正しい歴史的建物です。威風堂々とした美しい建物でした。ちなみに、あのエミルー・ハリスも「Live at Ryman」という名アルバムを出しています。見ると、外の方でブルーグラスのジャム(リハーサルか)をやっている人たちがいました。NAMMショーに日程を合わせ、この町全体でもお祭りムードが高まっていて、ライマン公会堂でもそれに合わせたライブが行われていたようです。
 
 ご飯を食べた後、少しみんなで寄り道。ナッシュビルの「ハードロック・カフェ」を横目に見ながら、近くの川縁で開かれていた野外音楽祭を見物したのです。すごい人混みをかき分けてステージが見えるところに行くと、大音量でファンキーなジャズをやっていました。それが一段落すると、よくわからないのですがミス・コンテストの州毎の優勝者たち(?)が集まって歌を歌ったりしていました。見物客たちは、みんな思い思いの格好で真夏のお祭りを楽しんでいました。
 
 また、帰りはブロードウェイ通りを見物。ブロードウェイといっても別にみんなハッ!とかいって踊っているわけではなく、カントリー・グッズのお店やカントリー・バーなどが立ち並ぶ、まさにカントリーっぽい歓楽街でした。道行く女性の格好はセクシー、夏というせいもありますが慎みがなく、おじさん許しませんよという感じ。
 あの有名なギター・ショップ「グルーン」もこの通りにありました。ただし、5時で終わってしまうらしく、一度も入ることはできませんでした。でも店先が結構雰囲気があり、「この辺でストリートでもできたらなあ」といつもの習性で思いました。
 
(写真:ハードロック・カフェの前で犬山さんと。後ろに観光用の馬車が見えます。)
 
 ライマン公会堂の下に位置するブロードウェイの通りで、ひときわ目立っていたのはやはりカントリー・バーでした。入り口が狭くて縦にひょろ長い形のバーが、ずらっと軒を連ねているのです。おお、いるいる、ハットかぶってる。他の場所ではあまり見なかった格好なので、こういうわざとらしいカントリー・ファッションは、ある特定の場所でしか通用しないコスプレみたいなものなのかなと思いました。気がつくと、ほとんどオールスタンディング形式のお店が多く、一方、日本にも意外にたくさんあるカントリー・バーの中ではこういうお店は見たことがありません。アメリカの方がやはりお客がたくさん入るということなのでしょう。
 しかしカントリーは、やっかましい。カントリーというと、我が国ではまだ古き良き時代の西部劇の音楽、アコースティックな田舎の音楽と思っている人もいますが、現在進行形のカントリーはドラムやエレキ・ベースなどのリズム隊がかなり目立っていて、むしろロカビリーに近いものだと思います。まあ、後でじっくり見ようと思い、この場はサッと通り過ぎます。
 
 近くに、ギターを持った女性の流しもいました。いや、ひょっとしたらステージの出番を待っている人がついでにストリートをしていたのかも知れません。この姿を見てモリダイラの人たちが「あれ、じゃあ浜田さんもやればいいじゃない」という話になり、こっちも(もともとそのつもりだったので)その気になりました。私の経験上、「やりなよ」と勧められた機会を逃してしまうと、その後自分一人では体裁が悪くて行きづらくなるということを知っているのです。そこで皆さんのお言葉に甘え、いったんホテルに戻ってから会長を除く全員が再集合。私は、明日からNAMMショーで展示するルシアー・メイドのS120を畏れ多くも持ち出して、みんなと一緒にブロードウェイに再び向かったのです。
 
 
<初めての投げ銭>
 
 先ほどブロードウェイを歩き、頭の中でつばを付けておいたグルーンのお店あたりでやろうかなと思いながらバーの辺りを歩くと、思いがけずにとあるお店の店先で店員さん(店長さんか?)に呼び止められました。後で思うに、ギターケースを持っていた私を筆頭にして集団でぞろぞろ歩いていたので、日本人カントリー・バンドのご一行だと勘違いされたようなのです。英語が聞き取れるみんなが訳してくれたところによると、「この店で明日演らないか?」と言ってくれたようなのです。とにかく店の奥に案内されました。
 お店の中は二階を使った二重構造になっていて、意外に広いのです。といっても、中はスタンディングのお客でごった返していました。一階と二階ではそれぞれ反対側にステージがあり、別のバンドが別のお客相手に大音量のカントリーを演奏していました。二階に上って、店の片隅で私が、アメリカ人に受けそうな「メイプル・リーフ・ラグ」などをそのお店の人に聞かせたのですが、バンドの大音量で自分のギターすら聞き取りにくい始末。その人は「誰が歌うの?」といったことを聞いてきたようです。茂生さんたちが英語でちゃんと説明してくれたのですが、この人、やっぱり何か勘違いしてるんじゃないか?という一抹の不安を抱えつつ、「明日10時半に来てよ」というお言葉を信じ、夢心地で再び店の外へ。
 
 とりあえず明日の楽しみもできたし、軽くストリートいってみようか! と少し鼻息が荒くなりました。例のグルーンのお店まで行くと、何と先ほどには見なかった先客がいました。男性歌手が歌っていたのです。でも、何となくいいかげんモードで、「ウェルカム・トゥ・ナッシュビル!」みたいに愛想笑いしたりしてました。そこで、そこから少し離れた駐車場近くで、街路樹の生えている段々に腰掛けて、モリダイラの皆さんをサクラにして、ついにアメリカでの初ストリート・パフォーマンスを敢行しました。ギターケースをあけ、CDはダメモトで18ドルと書いて置いておきました。
 
 いつも運河で使っているようなアンプもなく、外は雑踏で車の音も目立ち、もともと条件的にそれほど引き合わない場所でした。「投げ銭随筆」でも解説予定ですが、外でのプレイは音をお客の耳に届かせるのが第一命題。音量に制限があると、小さいギターの生音では必然的に弱い音の曲が聞こえなくなり、よって音の表情が付けにくくなり、強い音の曲を一本調子で演奏せざるを得なくなってしまいます。しかし、夢にまで見た初めての人生体験に、そんなデメリットの計算などヤボというものです。私はできる限り強く、途切れずに演奏しました。やるからには、いいかげんにやるのは大嫌いなのです。

(写真上:なかなか入らなくて少し寂しげな私。奥にはサクラのさわきさん。)

 

 

 
 初めて数十分は全く入りませんでしたが、そのうち少しずつ見てくれる通行人が現れ始めました。どうやら、NAMMショー関連でこの町に来ていた人がよく聞いてくれたようです。ギターのチューニングを聞いてくれた人があのアレックス・デ・グラッシに似ていて、一瞬本人かなと思いましたが、後でよく考えたら、アメリカ人はアレックス・デ・グラッシに似ている人って多いようですね。うれしかったのは、近くの駐車場で警備をしていた人が聞いてくれて、「この辺ではよく流しが来るが、こんなギターの上手い奴は初めてだ」などと言ってくれたらしいのです。私はプロとして活動し始めてやっと5年目くらいですが、未だに誉められ慣れていなくて、舞い上がってしまいました。
 
 1時間ほどでやっと5ドル(日本円で600円くらい)入りました。自分一人ならせめてメシ代が手に入るくらいまで3時間くらい粘るところですが、明日の仕事もあるし、モリダイラの皆さんにこれ以上ご迷惑をおかけするわけにもいかないので、ここで終了しました。
 
(写真下:聞いてくれている方たち。右にいるのが駐車場警備の人。)
 
 TAB の打田さんは「浜田君ならアメリカ人に大うけだと思うよ」と言ってくれて、私も口では謙遜していても内心そうかも知れないと思い、正直、天狗になっていたところもあるのです。だからこの結果はくやしくて、でも納得できるところもあるのでうれしくて、何とも言い様のない不思議な気持ちでした。一方、同じ場所にもしドイル・ダイクスがいたら、彼は少なくとも私の100倍は稼ぐだろうということが何となくわかるのです。
 私も投げ銭のプロですから、数字では表せない幸せな気持ちは、次回の機会に数字として表れるための励みになるように、これからも努力したいと思います。
 
2001.7.20
 
<NAMMトレード・ショー会場>
 
 時差に体がついていけず、この日は朝3時頃目が覚め、一生懸命二度寝をしました。今日から始まるNAMMショーへの期待に興奮気味で、寝るのもなかなかの苦労。
 前日、下見だけはさせてもらっていました。泊まっているホテルのすぐそばに隣接する形で、会場となるナッシュビル・コンベンション・センターが続いているのです。パスを胸に付けて歩けば、厳しいチェックの目もOK。ここの関係者になっているということが否応なく実感できて、少し誇らしい気分。
 
 会場に向かうまでに、だだっ広い会議室や踊り場のようになっている階段、また個室のショールームなどをちらちら眺めながら感嘆しきりです。私は過去、日本の放送機器の展示会を幕張メッセで見たことがありますが、確かに広さはあるものの、こうした通路や階段などのちょっとした所にも人の熱気が感じられたかどうか、記憶にありません。
 会場は、大規模な体育館といった面もちで、もちろん広い。ここだけでなく、実はいままで通ってきた通路や会議室なども、全てがNAMMのブースやイベント会場になっているのです。さらに、この建物から連絡されて行けるスタジアム「ゲイロード・エンターテイメント・センター」にも、放送・オーディオ機器中心に展示されていたようです。茂生さんからは、冬季に開催されるウィンターNAMMの方が規模は大きいという話を聞いていましたが、これより大きいとはどういうことか?という程です。前日はまだまだ搬入作業が続いていて、凝った作りのブースなどはまだまだどの会社かもわからない様子でしたが、当日になると昨日の状況がウソのようにきれいにまとまっていました。
 ただ広い、大きい、だけではなく、これから何かが始まるという予感に、私だけでなくみんながそわそわしているように見えました。
 
 モリダイラ楽器(Moridaira USA)のブースは、広さの最小単位を1ブロックとすると2ブロックあり、結構余裕がありました。ところが残念なことに、別便で日本から空輸されてくるはずの数台の展示用ギターが、何と輸入時の税関に引っかかったそうなのです。私もこの辺には疎いのですが、禁じられている希少な動植物などは、輸入に際しては確かにストップがかかります。ここではおそらく装飾に使っている貝が、禁じられているものなのかどうかのチェックに時間が掛かってしまったようなのです。しかし茂生さんによると、装飾も含め、そういう希少材料は使っていないとのこと。結局、NAMMの期間中これらのギターが展示されることはありませんでした。茂生さんが直接持ち込んだ2台のギターだけが展示されることになったのです。

 何の非もないのに、必要以上に厳しすぎる税関のチェックのために、楽器としての晴れ舞台を逃してしまったギターたちがかわいそうでした。モリダイラ楽器の皆さんの表情も、この不幸な出来事で心なしか浮かない様子でした。しかし、もともとギター王国アメリカにフィンガースタイル用のギターで初参入する日本メーカーという、かなり不利な立場からの挑戦なのです。幸いにして残った2台のギターを頼みの綱にして、皆さんは気を取り直しつつ売り込みに精を出していました。私も仕事を共にする以上はモリダイラの一員、一層張り切ってギターを弾こうと思いました。
 
 視点を変えて、モリダイラのブースのまわりを見てみると、いろいろな企業が揃っています。期間中、私はそれほどいろいろなところは回りませんでしたが、少しだけご紹介しましょう。ひときわ目立っていたのは何とヤマハのブースで、ほとんど新車発表会みたいなディスプレイが派手でした。モリダイラのブースのお隣さんはあのグッダール。向かいは「ストラム・スティック」という棒みたいな弦楽器を展示しているメーカー。2人のかわいらしいレディーが実演しているのが超・素晴らしかったです。マーチンは、これでもかというくらいいろいろなモデルをずらりと並べていました。テイラーがないなと思ったら、後で知りましたが、別の場所で個室のトロピカルなショールームを持っていました。ここは、はっきり言ってテイラーの勝ちかな。他にもハンマーダルシマー、アンプやエフェクター、ドラム、ギターのストラップ、ピックアップ、楽譜、キーボードなどなど、いろいろなメーカーがなんとか目立とうと楽しいブースを作っていました。しかし見たところ、手工ギターのメーカーは、意外にもそれほど多く入っていなかったようです。
 
 
<デモ演奏とお客さん>
 
 さて、いよいよ演奏というときに、各ブースに置かれていたNAMMからの通知を見せられました。それによると、「85デシベル以上の音を出してはいけない」「5分間以上続けて演奏してはいけない」ということで、最初は少し戸惑いました。
 私は小樽運河での投げ銭暮らしが長いせいか、ギターソロを途切れずにずっと弾くことにかけては自信があります。体に負担の少ないクラシック風の持ち方、弾きやすい自分流のチューニング、指の肉&爪での弾き方など、長い時間弾くのに適したスタイルになっているのだと思います。むしろ、ずっと続けてマイペースに弾くことのできない状況は心苦しく、最初はどうしようかと思いました。ただし、始めて見れば、いくらアンプで大きくしている音とはいえ、生ギターの音はそれほど大きく思われないらしく、茂生さんからも「気にしないで弾いて」と言われたので、徐々に調子が出てきました。
 
 アンプは、現地調達(モリダイラさんと親しいブースから借りてきたらしい)というのがNAMMショーならではという感じがしました。最初に使っていたアンプもいい音を出していましたが、後で併用した大きめのアンプは、とてもナチュラルで全く文句の付けようのない音を出していました。メーカー名などは覚えていませんが、これは要注目です。B-BAND のステレオ・ピックアップ出力&ミックス・システムも使いやすく、ルシアー・メイドのS-120の生音をかなり活かしたものになっていました。他のページで少し触れていますが、私は個人的にマイク派です。どんなにいいものでもピックアップは「必要悪」だと思っているのですが、この体験でひょっとしたら少し認識が変わったかも知れません。
 
 お客さんは、ほとんどが音楽業界関係者ということで、それなりに耳の肥えた人たちが集まっているはずです。でも少しずつ自分の演奏に反応が起きて、人が集まってくるのを見ると、いま自分がモーリスのデモ演奏をしているという立場を一瞬忘れて、昨日の投げ銭の「リベンジ」をしている気分になってしまいます。
 「どうだコノヤロー、オレの歌を聴け〜!」という感じ、いや、ちょっと違うか...。
 曲目でいえば、もちろんビートルズなどの有名曲は評判がいいのですが、やはりアメリカということで、カントリーっぽいレパートリーがいい反応でした。ラグタイムとカントリーの近親関係については「
ラグタイムのルーツ、近しい音楽について」で解説予定ですが(もう1年以上引っ張っていますがカントリー方面の知識がそれほど無いもので...)、一聴してもやはり似ているので、ラグタイムはもう思う存分弾きました。TABの打田さんから宣伝用のチラシも持参して置いたのですが、持っていってくれる人を見るともう感激。お金を投げてくれるのと同じくらいうれしいものでした。
 
 また、茂生さんから、アメリカ人はスキヤキソング(坂元九の「上を向いて歩こう」)が好きなので、できないかどうか尋ねられました。私も面白いかもと思い、即席でアレンジしてみました。幸いにして、メロディーのあまり複雑でない、ラグタイムっぽい曲であれば、オタルナイ・チューニングに適しています。投げ銭でもそうですが、どういう場所であっても、相手が好きそうなレパートリーを考えながら演奏するのが、私のプロとしての課題です。
 
 昼休みは、茂生さんに連れられて会場内の軽食。当然ながらかなりの混雑ぶりで、なかなか席が空かないため、とある2人の親子と相席になりました。茂生さんとその人が話していると、その人の奥さんが日本人とのことで、日本に詳しい方でした。アメリカにはいろいろな人がいることに改めて感心するとともに、ほんの少しの隙間の時間にも、さりげない会話で退屈を回避したり緊張を解いたりするのが、アメリカ流でいい感じでした。これは最終日の話ですが、オヘア空港で帰りの飛行機を待っていると全く知らないアジア系アメリカ人がとりとめなく話しかけてくれて、おかげで退屈しないで済んだということもありました。本当は日本でもどこでもそういう社会だったはずなのですが、今のギスギスしがちな日本では、そういう心の余裕は持ちにくいものです。
 
 昼休みの最後の時間、少しだけテイラーのブースを見ることができました。何とあのドイル・ダイクス(翌日の項でも取り上げます)のデモ演奏があったので、ショールームの中は超満員。途中から見たのですが、まさにアメイジングなギターソロ。そのダイナミックかつ繊細な表現力、美しいハーモニクスによる劇的な演出、カントリースタイルなのに意外なコードや転調まであったりして、もうイケイケ状態。特に、女性ボーカルとの共演「アメイジング・グレイス」での叙情的なプレイには鳥肌が立ちました。明日も見られそうだったので、この場はサッと退散。
 
 その後、ちょっとした休みの時間を除き、ほぼ時間いっぱいギターを弾き続けました。NAMMショーは10時から6時まで(最終日の22日のみ5時まで)なので、約6時間はギターを弾いていたと思います。通常、私が小樽運河でギターを弾く際には、だいたい6時間が、続けてギターを弾く体力の限界だと思っています。しかし、体力の消耗が激しい屋外での演奏と違い、NAMMショーの会場は空調が完備されていてやりやすいのです。さらに自分一人の苦しいパフォーマンスではなく、演奏に集中できる環境をモリダイラ楽器の方々に整えていただいたため、それほど苦労を感じずに楽しく演奏できました。向かいのストラムスティックの人たちに迷惑でなかったかな、と少し気が引けていたのですが、気にしていない様子だったので一安心。むしろ「あの人(こんなに続けて弾いて)大丈夫なの?」と言われていたようです。
 
 
 
<バー顛末記&2度目の投げ銭>
 
 
 私は、今日の昼食べたご飯を晩に忘れてしまうくらい忘れっぽい性格なのですが、この日の晩に連れていっていただいた不思議な中華レストランのことはよく思い出すことができます。みんなでタクシーに乗っていくと、超人気というアメリカンな中華レストランに着きました。店の中にはおどろおどろしい昔の屏風絵やら、秦の始皇帝と一緒に埋められていたような墓守兵の像やらがありました。その割に、店の中央には洒落たバーラウンジがあったりして、ワクワクするミスマッチ気分。
 案の定、メニューも日本での中華料理とは少し距離があり、まるでハンバーグみたいな点心、タイ米を使ったチャーハンなどが興味深かったです。何故かおみくじもあり、何だか人を煙に巻くような訳の分からないことが書いてありました。アメリカ人の考える東洋思想が、少しかいま見える感じもしました。
 
 さて、ホテルに戻った後ちょっと休んでから、みんなで昨日の約束通り、10時半にカントリー・バー(横の写真)へ行きました。「本当にやらせてくれるんだろうか?」とちょっと疑心暗鬼だったのですが、正直に言って期待もしていたのです。
 ところが、行ってみると昨日「来い」と言った人がどこにもいないのです。いろいろ探しましたが、奥の方のステージにもいません。店の中は昨日よりも混んでいて、カントリー・バンドの大音響。ギターと荷物を持ってうろつき回るのは少し辛く、皆さんのご厚意もあってがんばりたかったのですが、結局あきらめることにしました。やるだけやってブーイングされるならまだしも、一番すっきりしない結末...。
 
 外国でのあやふやな口約束というのは、こういうものだと思い知らされました。推察するに、店の人にそれほど客を呼べないと見切られたか、時間ぎりぎりに行ったので「あいつら、来ないのか」と思われて別のバンドを入れられたのか、そもそもお客(ミュージシャンだってお店から見ればお客になり得ます)を勧誘する手段の一つだったのか、いろいろ考えられます。これがお仕事だったら、「アメリカ流に」私も強硬な自己アピールをするところですが、これは人の厚意に支えられなければ実現しないお話だったので、支えがなければそれまでとなります。ちょっと情けなさを抱えながら、私たちは店の外へ出たのでした。
 
 しかし、投げ銭活動ならば身一つで、どこででもできます。私はめげつつもアメリカ二度目のストリート・パフォーマンスをやりました。こういうことに備えて、昨日のCDや宣伝の紙などもそのまま持ってきてありました。もともとそのつもりだったし、このまま何もしないで帰ったら、同行していただいたモリダイラの皆さんにも悪いと思い、昨日以上に燃えました。今度は、昨日先客があってできなかった「グルーン・ギター」の前で演奏することができました。
 
 昨日の続きなので詳しくは省略します。
 結局、昨日より短い時間で
7ドル稼ぎました。ちょっと進歩した...?
 もう暑さとやるせなさと奇妙な充実感で、汗びっしょりでした。ひょっとしたら、すごい顔で演奏していたのかも知れません。次の日以降は予定もあったため、これで私の初めてのアメリカ投げ銭活動は終わりましたが、次にやるときは勝手が分かるので、もっと自分のペースで落ち着いてできればいいなと思いました。何事も、相手のペースに幻惑されてはいけないのです。

 

2001.7.21
 
<朝食>
 
 昨日の体験がかなりエネルギーを要したのか、心の中で何か納得できたのか、この日はほとんど時差を感じずにぐっすり眠れたようです。心の余裕ができたところで、ちょっと朝食について触れたいと思います。
 
 ホテルに泊まっている間は、ずっとホテルのグリルを利用させていただきました、グリルとは私にとって耳慣れない言葉でしたが、私たち日本人の言う「バイキング」にあたる言葉です。アメリカでは「バイキング」とは言わないらしいのがまずビックリ。何か「グリル」だと魚焼き機の方を連想してしまい、違和感あり。「ジンギスカン・バイキング」なんて、世界標準で言えばとても変な言葉だったのですね。
 普通、日本のホテルの朝食バイキングなら、軽めのものをサッと取っておしまいとなります。ご飯や味噌汁、納豆や卵や海苔、ほんのちょっとのおかずがあれば満足という人は多いでしょう。私もそうです。
 ところがさすがアメリカ、やはりボリュームが違います。フランクフルトのどでかいソーセージなんて当たり前、ポテトに焼きハムや肉、甘そうなパンケーキやベーグル、ごろごろ転がっているフルーツ類、その場で調理してもらうチーズ入りのオムレツなど、かなりなものでした。オレンジジュースのおいしさにも感心しました。もちろん普通の食事より高いものだったのですが、今回の滞在費・食費全てモリダイラ楽器にお世話していただいたので、恐縮しつつ、しかし遠慮はせずにいただきました。
 
 そして、一ついい言葉を教えていただきました。普通、ウェイターさんから勧められたものを断るとき、「ノー・サンキュー」と言うことは知っていたのですが、その他に「アイム・ファイン(「私はもう満足です」かな?)」とも言うようなのです。確かに「サンキュー」と「ノー・サンキュー」だけでも意味は通じますが、第三の言葉に私は何か上品なものを感じました。「イエス・ノー」をはっきりすることの多いアメリカでは、「イエス・ノー」に言及しないことで奥ゆかしさを倍加させるのかも知れません。
 私がアイヌ語を勉強していたとき知ったのですが、言語学者の服部四郎さんが書いていたお話を思い出しました。その中で、ロシアで働いていた日本人漁師が流暢そうに現地人とロシア語を話しているのに、基礎的なロシア語をその人に尋ねると全くわからないということがあったそうです。例えば「汚い」という(普通は基礎的ながら)その人にとって未知の語彙を表すのに、以前から知っている「きれい」と「ない」を使って「きれいでない」のように表していたらしいのです。意味は通じるかも知れませんが、これだけでは言葉の世界は貧しくなります。次にこういう機会があれば、私も堂々と「アイム・ファイン」と言ってみたいです。
 もちろん満腹してから、ですが。
 
 
 
<ドイル・ダイクス>
 この日は、私にとって最も刺激ある、夢のような日となりました。
 お客さんの反応はかなりよく、いろいろ励まされながらこの日も演奏を続けました。中には、昨日ストリートでやっていたのを見ていた人もいて、「お前、昨日見たぞ」という人もいたようです。昼はなかなか時間がなかったのですが、センター内のハンバーガーをいただき、茂生さんと一緒に再びテイラーのブースへ。今日もドイル・ダイクスのライブがあることがわかっていたからです。
 
 私が初めてドイル・ダイクスを知ったのは約5年前の1996年、私が編集をしていたギター同好会での情報からでした。「フィンガースタイルギター」誌にCD付き楽譜が載っていた名曲「Jazz in a Box」が、当時のマニアックなギター愛好家たちの間で話題になっていたのです。その曲を含むデビュー・アルバムの「Fingerstyle Guitar」を友人から聴かせてもらい、私はその痛快なソロギターにしびれたものです。これだけ優れたギタリストなのに、牧師さんでもあるというのはすでに有名です。
 
 ドイル・ダイクスは、モリダイラ楽器がたびたび日本に招聘していて、茂生さんとはもちろん親しいのでした。茂生さんから紹介されるのを待っていた方が私にとってはよかったはずですが、しかし私は、昨日に増して凄みあふれるプレイを間近に見て「おだって」しまい、ステージが終わると思わず直接握手しに行ってしまいました。間近に見ると、意外に小さい人で、人なつこそうな笑顔が印象的でした。日本で彼を見た人たちも、その素晴らしいパフォーマンスに酔いしれたことだろうと思います。その後、時間が空いたらモリダイラのブースに寄って欲しいと茂生さんが要請しました。彼は忙しそうだったのですが、とにかく一度寄ってもらうことになりました。でも、私にとっては「あのドイル・ダイクスと握手ができた」だけで充分だったのです。
 
 その後、私がブースに戻って再びモーリスを弾いていると、思いがけない人が聴いてくれました。昨日、相席で昼食をご一緒した親子連れの父親が、目の前で私の演奏を聴いてくれたのです。彼もギターが好きな人のようで、ラグタイムを楽しんでくれたようです。私がCDを出していることを知ると、「おお、売って下さいよ」ということになり、(本来ここで商売してはいけない規則なのですが)こっそりお渡しいたしました。
 
 そうこうしていると、その場にドイル・ダイクスが現れました。「え〜? もう来たの?」
 ちょうどその時茂生さんはお仕事で席を外していて、モリダイラ側は私と犬山さんだけだったと思います。先ほどCDを買ってくれた人も、思わぬ大物の登場に驚いていました。
 私はその時、エンターテナーを弾いていました。ビックリしながら、とにかくカタコトで語りかけました。「あー、あなたのプレイはとてもアメイジングです」「私はラグタイムがとても好きです」などと。
 ドイルは、「ラグタイムはギターで弾くのはとても難しい音楽だけど、キミはよくやってるね」のように話していたと思います。私はそのことを聞いて、本当に感激しました。今までの人生が報われたように思えて、うれしくて泣きたいような気分だったのです。
 
 ドイルはあちこちで引っ張りだこ、どうもすぐに別の場所に移動しなければならなかったらしく、残念ながらモーリス・ギターに触れる程度、バリバリ弾いていただく時間はありませんでした。ただ、左に紹介する写真が、モリダイラのブースにやってきてくれたことを証明するものであるとともに、私のギターヒーローとの初めての出会いを伝えるものでもあるのです。

 

<パット・カートリー>
 
 その少し後、興奮さめやる間もなく、今度はパット・カートリーが夫婦連れでモリダイラのブースに訪れました。おいおい、驚きの連続。パット・カートリーもわれわれギタリスト仲間では話題になっていた人で、カントリー風のトラビス・ピッキングから、ケルティック・フィンガースタイルまで、さまざまな音楽性を持ちながら、オープン・チューニングによるユニークな響きが特徴的です。ウィンフィールドのチャンピオンにもなりました。私は名作「ケンタッキー・ギター」を持っていますし、またTABから発売されているケルティック・ギターソロのビデオにも、彼は出演しています。
 パットも私のラグタイムを楽しんでくれたらしく、しばらく腰を落ち着けてモリダイラのギターを触ってくれました。
 
 先ほどは、ドイルが忙しかったということもありますが、充分に偉大なギタリストとの邂逅を楽しむ心の余裕がなかったため、今度はじっくりとパットの技を堪能しました。
 新作から、シンディ・ローパーの「タイム・アフター・タイム」をやってくれたとき、まず驚きました。最近、岡崎倫典さんが同曲のアレンジをやっていたのを、ちょうど打田さんの家を出発する前に聴いていたのです。偶然の一致。
 また、メロディアスなケルティックの曲も、さすがに風格を感じるアレンジで、ダック・ベイカーと並んでこの分野の達人であることをよく伝えてくれました。
 
 
 
 
 
 
 私も負けじとラグタイムで応酬。
 お互い話し合った内容は、実はもうあんまり覚えていないのですが、チューニングの話になったときに、私の変態チューニングにビックリしてくれたので、「いやいや、パットさんもダッドガッドでトラビス・ピッキングやってるじゃないですか!」と切り返しました。
 
 専門用語の解説をすると、ダッドガッド(DADGAD)はDモーダル・チューニングとも言い、6弦から1弦までをそういう音にしたチューニングのことです。ピエール・ベンスーザンの使用で有名で、普通はモーダルな弾き方をすることが多いチューニングだと思います。
 また、トラビス・ピッキングはマール・トラビスが始めたカントリー風のラグタイム・ギター・スタイルで、親指がミュートされたオルタネイト・ベースを通奏します。いわば、かなりコーダルなスタイルです。
 CDではおなじみなのですが、二つの異質そうなテクニックの融合は、やはりとても不思議な響きでした。
 
 
 
 「それもそうだね」と言わんばかりに、やっぱりダッドガッドでトラビス・ピッキングやってしまうパットの勇姿! こういう規格外のことを自然にやってしまうギタースタイルはとても魅力的でした。
 最後に、彼から新作CDを記念にプレゼントしていただいたので、私も新作の「オリオン」をお渡しいたしました。
 ああ、サインもらっておくんだった...。

 

 

 

 

 

 
<ジェイソン・デニー>
 
 この日は、その他にもいろいろな人がモリダイラのブースを訪れました。前述の通り、ギターは二本しかなかったため、試奏用のギターが足りなくなる事態も度々ありました。私はご承知の通りオタルナイ・チューニングという変態的なチューニングを常用しているため、普通のチューニングに急いで直してお客さんに渡すということを何度かやって、ついには弦を切ったりしていました。ちょっとせわしなくて大変でした。
 お客さんたちも様々なスタイルでギターを弾いていました。ジャズっぽいソロを取る人、力強いストロークの人など、どれも地に足のついた、オープンな野太さを感じるものでした。そんな中で、とある人が中々面白い音を出していて、おおっと唸ってしまいました。ジャズのようでいて、ケルティック・スタイルのようで、ウィンダム・ヒルで有名なアレックス・デ・グラッシの初期のころの瑞々しさのようなものが感じられる音でした。誰なんだろうと思っていると、その人は一枚のCDを私にプレゼントしてくれました。その人の名は「ジェイソン・デニー Jason Dennie」。テイラーの関係者として来ていた人でしたが、その新鮮な音楽は素晴らしいものでした。パット・カートリーも彼のアルバムを賞賛しています。
 先にご紹介した二人に比べて、日本での知名度はそれほどではないと思いますので、ここで彼のCDについてご紹介したいと思います。
 「Just Enough」(2000)というタイトルで、全11曲。ギターソロの他、あのサム・ブッシュなどのサポートの入った曲(これがかっこいい!)もあります。しかし、すべてきっかりとアレンジされていて、音楽的完成度は高いです。デイブ・エバンス「Sad Pig Dance」の感覚もある流れるようなジグ、やはりケルティックを感じさせるロマンチックなメロディー、後期のキッキング・ミュールの雰囲気も感じる少しアーティスティックな要素など、私のツボを的確についてくれています。このCDは、あっという間に私のフェバリットになってしまいました。疑いなく、隠れた名ギタリスト・名アルバムでした(ああ、写真を撮っていなかったのは一生の不覚!)。この他に「Collection of Sounds」「Living On Melody Lane」などのアルバムがあります。詳しくは、彼のホームページでお調べください。試聴もできるので、ぜひお勧めします。
http://www.jasondennie.com/
 実際、後で茂生さんに聞かせると、たいそうお気に召した様子でした。
 
 
<タクシー騒動&おみやげ購入など>
 
 さて、いろいろなことがあったNAMMショー2日目も幕を閉じ、お楽しみのお食事の時間。今度はなんと日本料理店に行くことになり、用事で別行動の茂生さんを除いたみんなで、ホテルからかなり離れたところにあるお店に行きました。
 入ると、「いらっしゃい」という日本語の声。妙に感動でした。メニューはちゃんとバイリンガルだったのですが、どういう物か名前だけではよくわからない品もあり、魚の種類もそれほど多くなく、少し日本の感覚と違うところはありました。また「うな丼」より「かつ丼」の方が高いのも、おもしろい発見でした。ウェイターさんは、確かタイの人と言っていたようで、日本語はしゃべれませんでした。
 
 さわきさんが頼んだトンカツ定食は、まあ予想すべきことかも知れませんがカツが爆発的にでかく、日本の常識ではたっぷり二人前ありました。私の住んでいる小樽市には、「はれるや」という学生御用達の安い定食屋さんがあるのですが、そこのボリュームたっぷり二層構造の「チキンかつ定食」より大きかったようです。
 私が感涙と共に頼んだ「シャケの照り焼き定食」! アメリカ人を意識したボリュームの大きさを抜きにすれば、ちゃんと日本の定食、味噌汁(赤味噌)までついていて大満足でした。ビールまでちゃんと「キリン」「サッポロ」などの馴染み深いものが揃っていました。概して、昨日の怪しい異文化を感じた中華レストランとは一線を画した、本物志向のお店でした。また、自分がやっぱり日本人なのだということが、食べ物を前にして嫌でもわかったのでした。

 さて、タクシー騒動について語らなければなりません。
 日本料理店から、みんなで例の大型タクシーに乗ってホテルまで帰る時の事でした。黒人の運ちゃんはいかにも陽気そうな人で、助手席の会長と楽しそうに話しながら運転していたのですが、その道がなんだか来た道と違うようなのです(私は全然わかりませんでしたが)。英津子さんはすぐにピンと来たみたいで、これは遠回りしてタクシー代を高く取ろうとする不届きな行為だったらしいのです。どうやら、日本料理店から出てきた日本人なら、地理には疎いだろうとタカをくくったらしいのです。楽しそうにへらへら笑っていたのは、その不正な運転をうやむやにしようとしていたのでした。
 
 英津子さんは怒って英語でアピールして、隣町のメンフィスまで行こうとしていたタクシーを引き返させて、何とか事無きを得ました。ただ、犬山さんによると、あまり激しくやり合うと向こうも怒りだして結構危ないらしく、実は冷や汗モノだったようです。実際、降りるとき、運ちゃんからは笑顔が消えて不穏な顔をしていました。そのときの対応をめぐって、英津子さんと犬山さんが少し衝突したりして、私にとってこのことはあまり楽しい思い出ではありません。
 あいまいなこと・間違ったことを嫌い正々堂々とアピールした英津子さん、最悪の事態を危惧して相手を刺激しないようにした犬山さん、対応は違うものの、どちらも正しい考え方だと思います。ケースバイケースなので難しいのですが、私も自分を守るための処世術を自分で見つけていかないと、この国ではイザという時困るのだなあと感じました。
 
 次の予定は、事前に情報を得ていた「Acoustic Cafe」というタイトルのギター・ライブを見に行くことでした。チケットによるとPhil Keaggy, Jamie Findley, Ed Garhardらが出演予定で、別行動だった茂生さんが先に見に行っているはずでした。しかし上記のゴタゴタがあり、少々時間がオーバーしていたため、会場がどこかを探しているうちに見る時間がなくなってしまいそうだったので、私たちはさっぱりとあきらめることにしました。正直に言って、個人的な好みで言えば、この不利な条件をおしてまでぜひ見なければいけないという程とは思わなかったので、その時はそれほど気になりませんでした。
 
 思いがけず時間ができたので、私は皆さんにお願いして、おみやげの買い物に付き合っていただきました。恐らく最終日は早めに寝ることになるだろうし、今日を逃すと買い物は苦しくなるところだったので、実はジャストタイミングだったのです。
 ブロードウェイの通りには、おみやげ屋さんも建ち並んでいました。いろいろ物色していくと、ワンダフルな世界。買う気がないものも見学の意味で覗けば、革靴やテンガロン・ハットの高いこと! また、エルビス・グッズが笑ってしまうくらいたくさんありました。エルビス・プレスリーは、ロックの神様であると同時にカントリーの王様でもあり、ナッシュビルは彼のゆかりの地でもあるのです。エルビスがマーチンを持ってポーズを決めている姿は、それほど思い入れのない私が見てもカッコイイなと思います。
 さんざん餞別をもらっておいて、何もなかったように手ぶらで帰る訳にも行かないので、申し訳程度の物をそそくさと買いました。中でも、Tシャツは中々派手なものが多く、日本人でも気恥ずかしくなく着られるものを探すのが大変でした。犬山さんから、日本人ならサイズはSでも充分間に合うことを教えてもらい、小さいのを探す必要もありました。しかし私は買い物で悩むタイプではなく、さくっと決めました。向こうのTシャツはやはり本場、しっかりした素材を使っているのが素人目にもわかります。あとはちょっとしたキーホルダーなどの小物類、おみやげになるものは、日本でもアメリカでも、それほど変わりがありません。
 お金(ドル)を使ったのは、実はこのおみやげ購入が始めてでした。いただいたドルの投げ銭を使う快感は、やはり格別でした。
 
 
<シャワーとフィル・ケーギー>
 
 ホテルに戻ってみると、まだ茂生さんは帰ってきていませんでした(私と茂生さんは相部屋なのでした)。ささっとシャワーを浴びました。
 私は初めての海外体験で、話すことが今までもいっぱいありましたが、思い起こすにこのホテルのシャワーも中々日本と違っていました。シャワーの水が出てくるところが固定式で、取れないのです。また、水とお湯のつまみが別々にあるのではなく、1つのつまみを右や左に回して温度を調節するのです。このつまみを一度引っ張れば蛇口から、もう一度引っ張ればシャワーからお湯が出てきます。こういう仕組みに気がつくまで私はたっぷり半時は悩んでしまい、まるで棒とミカン箱を渡されたサルのように、いろいろ試行錯誤をしてしまいました。なぜこういう作りになっているかは定かではありませんし、これがアメリカの標準なのかどうかはわかりませんが、稼動部分が少ない装置の方が壊れにくいということは言えそうです。シャワーで気づく文化の違いでした。

 しばらくすると、茂生さんが帰ってきました。茂生さんだけは例の「Acoustic Cafe」ライブに行ってきたので、「何でみんな来なかったの?」 かくかくしかじかということで、せめてもの楽しみに、茂生さんのライブ報告を聞かせていただきました。すると、先に触れたフィル・ケーギーが素晴らしかったとの事、彼のCDもいっぱい持ち帰ってきました。
 フィル・ケーギー Phil Keaggy はかなり年季の入ったベテラン・アーティストで、現在はナッシュビルをベースに活動しているそうです。私は、昔買ったCDやビデオである程度見知っていました。特殊奏法も使いながら叙情的な曲想を得意とするギタリスト、くらいの認識だったと思います。
 ところが、茂生さんの持ち帰ったCDをポータブルCDプレイヤーで聞いてみると、これがすごい。6〜7枚あったと思いますが、音楽的内容がそれぞれ全然違い、あるCDではバリバリのカントリーアルバム、別なのはスペイン音楽、別なのはSSW〜ビートルズ系、別なのはニューエイジ系と、全部別の人のCDではないかと思えるくらい幅広い音楽性だったのです。ギターもスチール弦、ナイロン弦やエレキを使いこなし、歌モノからインストまで網羅し、かつ1年で2、3枚もアルバムを出すほどの多作家でした。なお、ライブではマイケル・ヘッジズばりのタッピングをやっていたという話で...おいおい。

 ここで今更ながら、終わってしまった「Acoustic Cafe」ライブが気になってしまいました。あ〜あ、もうしょ〜がないな。

 

2001.7.22
 
<NAMMショー最終日>
 
 ついに最終日の朝になりました。
 いつものようにホテルのグリルをいただいた後、最後の会場へ。たった三日間なのに、もうこの体育館のようなにおいが懐かしくなってしまいました。昨日がピークだったらしく、最終日は心なしか人の流れも落ち着いていました。「ハウドゥユードゥー?」と言われて「アイムファイン、センキュー」とやっと返せるようになったのに、もうお別れのときが近づいてきています。ついつい長めに弾いてしまい、気がついたらもうお昼という感じでした。その時たまたま、会長と茂生さんと私の三人でお昼を食べに行くことになりました。

 今まではコンベンション・センターを行ったり来たりしていたのですが、お昼を食べる場所がみんな込んでいたので、この時だけ隣のゲイロード・エンターテイメント・センターという所へ行ったのです。ここは屋内スタジアムになっていて、ちょっと覗いて見ると、以前に触れたように放送・オーディオ機器中心に展示されていたようです。
 私たちはそこの軽食用のカフェでお昼を済ませました。私、「忘れっぽい性格」と自分のことを語った割には結構覚えているようで、ここではハンバーガーか何かを食べたと思います。やはりデカイ。食べるというよりむしゃぶりつかないと口に入らない代物で、これなら一個で充分です。日本のマクドナルドの平日半額ハンバーガーなら三個分はあったかな。

 この日は、最後ということで気が張っていたのか、演奏に少しでも集中しようとしていたのか、何事も無くあっという間に過ぎてしまいました。前日までより一時間早く終了したこともあるのですが、瞬く間にお開きの時間になってしまいました。なんかこうして書くと尻切れトンボみたいですが、実感として本当に充実した一日だったことに変わりはありません。
 
 ここには書ききれない、いろんなことがありました。日本と違うトイレのアバウトな仕切、忙しすぎて不機嫌そうなレジのお姉さん、楽しそうに作業する会場スタッフの皆さんたちの笑顔、歩き回って疲れて座り込んでしまうお客さん、パソコンか何かのトラブルで、激しい口論の末喧嘩別れしてしまった隣のブースのオジさんたち、たまたま目が合えばとにかく愛想を振りまく陽気な人たち、そして懸命に営業活動するモリダイラ楽器のスタッフたち。私も、素晴らしいギターをお借りして、できる限りのパフォーマンスをしたつもりですが、それはいろんな人に助けられたからこそできたことでした。
(写真:私と英津子さん。私は、カッコつけるとキュッと目を細めるクセがあります。)
 
 
 
 時間になると、電気が落ちて、ささっと床剥がしなどの片付けが始まります。ここは当然ながらNAMMだけの施設ではなく、早くも次の催しの準備をしなければならないのです。
 
 記念写真を撮り、最後までご迷惑をかけた向かいのブースのストラムスティックのお姉さんたちにご挨拶して、名残惜しいですがここで私たちのNAMMショーが終了いたしました。サンキュー・ベリーマッチ!

 

(写真:犬山さんと私。私の持っているのが、噂のストラム・スティックだ。ギターの要領で持てるからマウンテン・ダルシマーより弾きやすく、適当にかき鳴らしてもちゃんと音楽になるのがナイス! 日本でも、どこか輸入代行してくれないかな。)

 

 

 

<インド料理とナッシュビル最後の夜>
 
 お開きとなり、会場からホテルに戻るまで、みんなハイタッチしたりふざけあったりして、お祭り騒ぎの余韻が続いていました。ロビーは、もう人でごった返していました。普通に一階からエレベーターに乗ろうとしても、これではメチャクチャ込んでいて乗れないだろうと、茂生さんの先導で私たちはまず二階までエスカレーターで上り、いったん下りのエレベーターに乗るというずるい事(?)をやりました。みんな同じことを考えたようで、一階につくと「Oh〜」すでに満杯のエレベーターに、一階の人たちは苦笑い。
 ちなみに、ホテルの宿泊客はほとんどNAMMの関係者のようで、例えば昨日は、私たちの部屋の隣でちょっとしたギターバンドがジャムセッションをしていました。普通、ホテルではこんなことは許されないはずですが、「いいじゃん、カタイ事言うなよ」という感じでした。
 
 最後の晩餐、今度はインド料理店ということになりました。限られた日程で、何だか世界中の料理を楽しませてもらったみたいで、私は最後まで恐縮至極です。
 インド料理は、当然ながらカレーのバリエーションがすごく、白かったり黒かったり緑色だったり、また後からじわりと来る辛味が粋でした。振り返ると、日本のカレーライスはこれらと全く違って「カレー丼」「カレーあんかけ」みたいな感じに思えます。以前、マイカル小樽にあったインドカレー屋さんにも行った事がありますが、やはり独特のスパイスが効いていました。また、「インドなのに何故?」と首をひねりながらデザートに頼んだ「プリン」は「ライス・プリン」というもので、お米でできているドロッとしたヨーグルトみたいな、私の理解を遥かに超えたものでした。今だから正直に言いますが、このプリンはやっとの思いで食べました。

 みんなでテーブルを囲んで、今回良かったところ、悪かったところ、いろいろ語り合いながら、最後の夜を惜しんだのです。昨日は茂生さんがいなかったのですが、今回はにぎやか、最後ということで怪しげな芸まで繰り出したりして、その場を楽しくしてくれる人だなあと思いました。
 モリダイラ楽器の皆さん、改めまして本当にお世話になりました。

 

2001.7.23
 
<再びナッシュビル空港へ>
 
 朝早く、お世話になったホテルに別れを告げ、ちょうど同じ日の似た時間に移動のある酒井さん、さわきさんと一緒に、ナッシュビル空港へ行きました。茂生さんはまだアメリカに滞在するので、私は一人で東京まで戻るのです。

 来るときは寝ぼけ眼かつ興奮状態というわけのわからない条件で見ていたものも、こうして落ち着いて見ると、改めておもしろい発見があります。特に、公衆電話のユニークさは特筆すべきで、ブリキのおもちゃみたいにメタリックな感覚がありました。おまけに何か頼りなさげに小さいのも特徴で、ホテルのあのシャワーと同じく丈夫そうで壊れない印象がありました。

 また、私の見る範囲が狭かったのかも知れませんが、日本でよく見る「電話ボックス」の形になっているところがあまりありません(NAMMショー会場でも同様だったと思います)。ボックスは密閉された空間で、ひょっとしたら何かの犯罪を誘発する要素があるために、こういうオープンな作りの公衆電話が多いのかも知れません。

 カントリー音楽のMTVがかかりっぱなしのカフェで、ちょっとした軽食をいただいた後、お二人と別れて、しばしの時間の余裕を楽しみました。ちょっと足りないかなと思っていたおみやげを空港の売店で買い足し、待合所で読み捨てられた新聞を読んでいると、恰幅のいいアメリカ人が話しかけてくれました。片言の英語で自分の身分を説明すると、わかりやすい英語で答えてくれます。

 この人は音楽好きらしく、その関連の本をいっぱい持っていて、自慢げに見せてくれました。イーグルスやザ・バンドの自伝的読み物でした。私もアメリカンロックは好みなので、いろいろお話をして、楽しい時を過ごしました。ご親切にもナッシュビル観光用の絵葉書を何枚もくれたので、私も「ジャパニーズ・スナック」と称して、自分の持っていた酒のつまみをあげると、おいしそうに食べてくれました。
 私は「詩集」のページに、例のテロ事件を受けた「身近なレクイエム」という詩を執筆しましたが、その際真っ先に脳裏に浮かんだのは、この気さくな人の笑顔でした。あの事件と、アメリカの楽しい思い出が交錯して、私はどうしても書かなければいけないような気がしたのです。

 

<オヘア空港でのこと>
 
 正直に申しまして、初めて一人でアメリカに投げ出されて、私は心細さが先に立っていたのですが、この人のおかげで私は幾分安心して旅路につくことができました。自慢ではありませんが、私はこう見えてもかなりの方向音痴で、それほど旅先でバイタリティーを発揮するタイプの人間ではありません。中学生のころ、友人と一緒に札幌から小樽に帰るために汽車に乗ったつもりが、反対方向に乗ってしまったことがあります。じゃあ乗り換えれば済む話なのですが、そのとき私はかなりうろたえたらしくオロオロしてしまい、友人によしよしと慰められた記憶があります。結構頼りない、情けない奴なのです。

 さて、ナッシュビルからカナダのオヘア空港へ舞い戻り、さあ乗り換えだ!という時にも、どのターミナルだったか判然としなくなってしまい、やっぱりオロオロしてしまいました。とにかくモノレールに乗って、着いたターミナルが違うところだったことがわかり、さあ大変。迷っているうちに、搭乗時間の余裕がだんだんなくなってきました。
 聞かぬは一生の恥だということで、手近の案内所の人に片言の英語で尋ねたのでした。ここで話が通じなければ、浜田隆史一生の不覚だったのですが、何とかわかってもらい、教えてもらったターミナルに行くと、いやはやどうやらセーフ。窮地を乗り切ると、自然とニヤニヤ笑ってしまいます。まったく、いつまでたっても進歩がないのです。

 

<空から>
 
 再びユナイテッド航空の国際線に乗り、ついにアメリカとさよならです。さらば、シカゴよ! また会う日まで! って、あれ? 搭乗したのになかなか出発しません。まず、動き出したと思ったらバチン!と全ての電源が落ちてしまい、復旧までに20分くらいかかったのです。クーラーが効かなくなったので、めちゃめちゃ暑かったです。それが終わったと思ったら、今度は雲行きが怪しくなってしまい、また離陸滑走路の順番待ちが重なり、結局出発は2時間も遅れてしまいました。しかし、噂には聞いていましたが、スチュワーデスさんたちは全然悪びれた様子もなく、また乗客たちも黙って席に座っていたり、また席を立って知り合いと談笑していたりと、特に気にしていない様子。「あ、これはやっぱりアメリカだな」と思いました。

 空から見るアメリカは、今まで見てきた町並みと同じように、広くて、雄大で、おおらかでした。土地を切り取る区画の分け方が、かなり大雑把に見えます。少し脱線しますが、ラグタイム王スコット・ジョプリンが支援した数少ない白人、ブルン・キャンベルの自伝では、19世紀末のアメリカの土地の分け方の仕方に少し触れています。州から土地を分けてもらいたい人が集まり、本当に徒競走のようにロープを持って走り回り、「縄張り」を勝ち得た人がその広さの土地を得られたという、冗談のような話が書いてありました。本来考えなければならない、土地を奪われた先住民族の悲劇はとりあえず置いておきますが、この話はあながちホラばかりでもないのだなと思いました。

 行きの飛行機より、帰りの方がかなり北寄りの航路だったらしく、アラスカやオホーツクがばっちり拝めたのは、今思えば夢のようです。全く人が住んでいないような太古の氷河! 雲の隙間から見える真珠のような輝きのオホーツク海! 行きの飛行機では、短いながらも「夜」が訪れたのですが、帰りはいつまでも続く「昼」を追いかけていたので、ほとんど寝ることなく、窓の外の景色を楽しんだのでした。

 

2001.7.24 NEW!!
 
<帰国>
 
 私は、いつか北方四島(千島、国際的にはクリル諸島と言います)に行ってみたいと思っているのですが、何の支障もなく行くことはひょっとしたら生きている間は無理かも知れません。例の領有権問題があるためです。飛行機、オホーツク上空から千島が見えるかと思ったのですが、運悪く雲が立ちこめて、その姿はどうしても見えません。私は、もうかなり前のことですが、根室の納沙布岬から千島の最も近い島、水晶島を見たことがあります。こんなに近いのに、どうして行けないのだろう、というごく当たり前の疑問が沸いたものの、事態はもう少し複雑だということも後でわかりました。

 少し脱線します。
 もともと全千島では、アイヌ民族(「千島アイヌ」と言われる、北海道アイヌ民族とは文化の異なる人たち)が狩猟・交易生活を送っていました。しかし日露戦争後、千島樺太交換条約で全千島が日本の領有となり、日本は千島を好き放題に我が物にしました。特に、北千島に住んでいたアイヌ民族を南の色丹島に強制移住させて弱体化させ、狩猟民族であるアイヌたちに慣れない農業を押し付け、日本人の持ち込んだ伝染病により多くを死に追いやったという歴史的事実があるのです。わが国は、これについてアイヌ民族に公式な謝罪をしていません。このことを考えるたびに、「ここは日本でもロシアでもない」と思わざるを得なくなってしまいます。今ある国の歴史の成り立ちは、空から見る風景からは想像もつかない、身勝手で悲惨なものでした。

 それでも世界は、本来は空から見た風景のままであると私は思うのです。私は、短い期間ではありましたが、アメリカの雄大な世界が、日本と同じ空につながっていることを確認してきました。空から見た懐かしい日本の鳥瞰図は、いつもの狭っちい町並みながら、何か暖かく、やはりどんな国よりも美しく思えます。よく、洋行帰りの学生さんあたりが「日本はここが遅れている」「日本はなってない」「アメリカならこうなっている」などと外国かぶれをアピールすることがありますが、こうして私のような日本人が日本に帰ってきたときの安心感は、誰がどう説明しようもありません。どんなに遅れていてダメな国でも、日本は私の愛する故郷。アメリカは少し大きな隣国というだけ、同じ空の下の人間同士です。私は、もっと自信を持って「自分」というものを出していきたいと思います。

 次に空から下界を見るとき、クリル諸島はどのように見えるのでしょうか。

 

 
<また会う日まで>
 
 成田空港に着き、またTAB経由で打田さんのお家に一泊させていただき、翌日の飛行機で私は北海道に帰りました。

 次の日から再びいつものように小樽運河に行き、投げ銭活動はそこそこに、知り合いにおみやげを配りまくり、自慢話で一日つぶしたような気がします。「浜田さんも偉くなったねえ」「いやいや、それほどでも...」 いやホント、まんざらではありません。2日前までアメリカにいたというのが、自分でも信じられないくらいなのですから。

 その後、いそいそとこのページを執筆し、モリダイラ楽器の方々から激励のメールもいただき、また海外を含む一般のファンの方からも反響があったおかげで調子に乗ってしまい、少し長い連載になりました。途中、テロ事件のために自粛するという事態にもなりましたが、このページを何とか無事書き終えることができました。これも皆さんのご支援のおかげです。本当にありがとうございました。

 アメリカよ、また会う日まで!
(完)
 
 

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