「批評とメディア」について(2000年7月1日「2」更新)

 

0.はじめに

1.批評とは

 ・批評の意義

 ・する側とされる側の関係

 ・批評によって生じるいろいろな責任

 ・批評の表現についての補遺

2.メディアの影響力について

 ・テレビなどの放送媒体

 ・印刷物

 ・インターネット

 ・同好会や知り合い同士の口コミの場合

3.まとめ

 ・望ましい批評のあり方についての一思案

 

4.補遺(批評する側ではなく、される側の心構えについて) NEW!!

 ・批評のおさらい

 ・何を真摯に受け止めるか(否定的・批判的評価の場合)

 ・木に登れ(好意的評価の場合)

 

 

0.はじめに NEW!!

 私は、気が小さい方なので、どんないいかげんな批評にも落ち込んでしまう。我ながら情けない。ずっと以前から「批評」「批判」についてはいろいろと苦しめられてきた。ある時期は「批評する側」として、そして今は「される側」として。また、自分のみならず、才能ある友人や知り合いたちが、批評によって心理的に力を失い、ついに活動停止に至ってしまった例も多く見てきた。私も、全く励まされる内容のない批判をもらったら、次の日はギターを握りたくなくなってしまうだろう。

 今まで私は、あまりにも自分に自信がなくお人好しだったので、黙っていろいろな批評や批判に甘んじていた。しかし、もういいかげんにそういう泣き寝入りのような態度はやめようと思う。ここでは、私が日頃感じていた「批評とメディア」についての一私論を書きつづりたい。いろいろな場合を想定して、可能な限り冷静に書いたつもりだ。少しつまらないかも知れないが、ご一読いただきたい。

 

1.批評とは

 ・批評の意義

 ものづくりをする人間にとって、また何かのサービスを提供する側にとって、提供される側の批評は必ずつきまとうものだ。「私は絵が描けないが、その批評はできる」という(誰が言ったか知らないが友人に教えてもらった)有名な格言がある。確かにある意味ではその通りだ。全てのものは批評(評価)されることで、その存在意義を得たり、間違った方向の軌道修正をすることができる。逆に、多くの人の批評にさらされない生産は、道しるべを失ったり、独りよがりになったりして、存在意義を減少してしまう。

 ものやサービスを作っていく人たち(生産者)は、当然ながらその提供物に対して責任を負う。自らの良心に対してはもちろんのこと、社会的にも。音楽や文学、絵画などの文化活動は、基本的技術はともかく、絶対的価値基準を設定することが困難なのだが、それでもそういう責任から逃れることはできない。定量的な(デジタルな)評価ができない、つまり採点しにくい分野だからこそ、相対的にその存在意義を評価する「批評」という行為が意味を持ってくるのだ。生産者は、そういう相対的な価値基準の元に、自らの責任と望ましい方向性を認識していく。

 例えば、私もいろいろ著作物に関するご批判をちょうだいしているが、特に「歌」に関する批判は手厳しかった。ただし、口頭で面と向かって言ってくれたり、お手紙でも具体的に歌詞の問題点を指摘してくれたり、本当にこれからの私の歌に対して期待を含めてのお小言だったりと、当時は頭に来たが、今思えば全てが私の為になっていた。そういうご批判をいただいて、私はさらにがんばろうとするエネルギーを得ることができたのである。これが、批評のあるべき形ではないだろうか。

 以上のように、生産にとって、批評の精神は絶対に必要なことであるのは言うまでもない。しかし、もし批評が「生産そのもの」に対して否定的な立場をとるならば、一体どうなるだろうか。社会にとってもっとも貴重なエネルギーは、ものを生み出す力だと思う。行動する力と言い換えてもいいかも知れない。それをコントロールし、育てていくはずの「批評」が、単なる「非難」に変わったとき、ものを生み出す力は間違いなく心理的に阻害される。場合によっては、風評被害として社会的に阻害されることもある。

 ものを生み出す力をいたずらに妨害するような結果を招く批評には、何の意味もない。

 

 ・する側とされる側の関係

 生産にとって、批評の精神は絶対に必要なことであるということは、批評が生産を規定しかねないという逆の結論も導く。「批評家」「評論家」と呼ばれる人たちは、たいていがその分野で大成した権威者や研究者であり、生産に対して圧倒的な発言力を持っている。これは極端な例で、現在の社会は「一億総批評家」と言ってもいいくらい、何か言わないと気がすまない人たちで満ちあふれている(かくいう私ですら、「ラグタイム音楽」などに関しての詳細な解説をこのHP上で行っている)。その意味で、生産者は、非生産者(消費者)による批評と常に戦わなければいけない運命にある。

 批評する側とされる側には、基本的には何の個人的つながりもない方が、客観的判断ができる。もしそうしたつながりがあれば、結局は「身内のお手盛り」になり、必要以上に甘い評価が出てくるだろう。しかし全く逆に、批評する側がされる側の表現に対して何の勉強もせず、興味も湧かず関心もないような場合、その人はいい加減な批評しかできない場合も多い。批評対象に対して全く興味を覚えない、その背景にも興味がないとなれば、どうしてその対象のことを本当にわかることができるのだろう。

 少し突飛な例になるが、アイヌ民族を研究する学者は、一時期アイヌ民族側から相当非難された歴史がある。学者は、アイヌ民族側から貴重な資料を奪うだけ奪い、アイヌ民族側には何のフィードバックもなく、学者はその資料を基に論文を書き賞をもらって、ただ学者の社会的地位が向上するだけ、という構図ができてしまった。アイヌ民族を人間として見ていなかった過去の学者の研究態度のおかげで、未だに両者の間に見えないわだかまりがある。批評においても、批評される側が何らかのフィードバックを感じなければ、単に言いっぱなしで終わり、その発言だけが一人歩きをしてしまう。客観的な批評とは、学問とも通じる部分があるので、このことは頭のどこかで覚えていただきたい。

 「対象に対する本当の理解」については、最後の項でも触れたので、そちらをご参照いただきたい。

 話を少し戻そう。批評する側とされる側の関係では、もっと無視できないことがある。「批評家」「評論家」と呼ばれる人たちに限らず、社会的に有名な人は、ちょっとした個人的趣向や感想を漏らしてしまっただけでも、その影響力は計り知れないものがある。人は後ろ盾が欲しいものなので、そういう有名人のお墨付きをもらったものに群がる行動をとりやすい。それが単なる感想ではなく、もしもある特定のものに対する非難めいた言葉だとすれば...考えただけで恐ろしい。その対象が社会的に抹殺されると言うことも十分に考えられる。よって、有名人や権威のある人は、その行動や発言に、社会的影響力を考えた配慮をぜひお願いしたい。

 もう少し両者の関係について述べたい。批評の歴史をひもとく知識は私にはないが、例えば権威に対する闘争、政治に対する風刺など、批評の標的は昔から大きな影響力のあるものに対して設定されてきた。昔、批評する人は、される側よりも圧倒的に非力な場合が多かった。だからこそ「ペンは剣よりも強し」という勇ましい格言が生まれたのだろう。ところが今の時代は逆で、批評される側よりも、批評する側の方が有利な場合が多いと思う。批評にさらされる側の人権が問題になるくらい、ジャーナリズムは発達しきってしまったのだ。そしてその奇妙な関係は、インターネット時代を迎えてさらに少し変わろうとしている。それについては、次章で述べたい。

 

 ・批評によって生じるいろいろな責任

 批評は、その内容次第では、生産者にとっていろいろな好ましからざる結果を招く可能性がある。しかし、個人でそういう内容を思っているだけならば、全く責任は発生しない。あくまで外部にその批評を開陳する限り、批評には様々な責任が伴うはずである。以下、私の経験に基づいて、箇条書きにしていきたい。

 まず、批評する側は、その実名、できれば連絡先を明らかにする必要がある。新聞における社説なども、現在は実名が原則である。インターネットの匿名性は、私には大変恐ろしい。普通の人は、本名もわからない人と手紙でやりとりなどするだろうか。

 そして、批評の表現には、批評される側の人格を傷つけないような配慮が必要である。これはあたりまえの話。料理店で自分の口に合わない料理を出されて、その場で「まずい! もうこの店には来ない」とストレートに言い放てる人は、批評家としては一流かも知れないが、人間としてマナーに欠けている。

 これは上とも関係するが、もしその批評について苦しんだり迷惑を被った人がいるという事実が発覚したとき、そのことについてすぐ直接に謝罪するのが望ましい。文章になった批評というものは一人歩きしやすく、たとえ批評した本人が意図していなくても、さらに否定的な意見として受け取られやすい。全くその批評対象のことを見たことも聞いたこともない人が、その批評文だけで人を判断する恐れが強いのだ。そのようにして、時間が経つにつれて、迷惑を被る人の被害はどんどん増えていくので、注意が必要である。

 さらに、これは前項と矛盾するかも知れないが、一度した批判を簡単に覆すことはタブーである。ケアレス・ミスならともかく、簡単に変えられるくらいの薄っぺらな意見ならば、最初から外に出してはいけない。仮にも人様を批判する言葉を書く以上、その文言にはそれほどの重みと責任があるはずだ。おしゃべりは消えても文字は残るので、知り合いを囲んだ茶飲み話や酒の席ならともかく、文章にするとその重みは限りなく増大する。「男に二言はない」じゃないが、言葉というものはそれほど影響力のあるものである。

 また最後に、批判的意見を載せたメディアは、可能な限り、その批評に対する様々な意見を同じように紹介する義務を負う。現代の批評の世界においては、する側の方がされる側に対してかなり優位な位置に立っている。なぜなら、直接の手紙のやりとりならばまだしも、実際には批評する側の一方的な「言いっぱなし」で終わってしまうことが多いからだ。される側にとって、反論のチャンスはあまりないのが現実である。

 

 ・批評の表現についての補遺

 最低限の責任については前述したので、次はもう少し批評の内容について、細かくチェックしていきたい。

1.十分でない表現

 批評は、単に褒めちぎったり、逆にけなしたりするのがいいわけではない。感じたことをそのまま言うだけ、またはあたりさわりのない無難な表現をして、後は安穏としている批評文を散見する。「自分の好きな音楽に対しては手放しで賞賛し、嫌いな音楽に対しては容赦なく切り落とす」。本来、人間の心の中での判断というのはそうなりやすい。そうでないと、人は自分の心の価値を築くのに、いちいち苦しい逡巡と学習をしなければならず、とても煩雑だからである。しかし、仮にも批評をする人として、その批評を見ている人に何らかの益となる情報を提供したいならば、そういう単純な価値観に基づく表現では浅く、十分でない。場合によっては、批評する人の画一的な色眼鏡で、本人が意図しなくても、簡単に読者をミスリードすることが可能となる。

 例えば音楽ならば、その音楽内容をきちんと把握した上で、それに対する評価を紙面が許す限りちゃんと表すことが望ましい。自分の理解の範囲を超えているものを批評すること自体、もっと勉強が必要なことだが、その勉強を回避して、批評家が持ち合わせている少ない語彙の中での、上っ面だけの表現に終始している。そういう稚拙な批評が、残念ながら世の中には多い。また、たとえ明らかなミスがなくても、全く十分でない批評が、批評対象の一般的な評価に悪影響を及ぼすことは、見過ごしてはならない。その分野に関して革新的な、または高水準の、もしくは可能性のある業績を持つものに対して、正当な評価をせず「まあまあだろう。水準作だ」のように軽くあしらってしまうことは、たとえ「非難」ではなくとも批評家の罪である。

 もしいいところがあれば、それがどういう意味を持っているのか、悪いところがあればなぜそうなのか、改善できるものなのかどうかという情報を、生産者は求めている。これは言うまでもないが、肉体的欠陥などのように、改善の余地が全くないものに関する批評はタブーである(最近の映画評論などでは、役者に対してそういう愚劣な評価をする意地の悪い人が少なからずいるので、注意したい)。さらに、過去の業績であれば、その歴史的な意味にも言及することが望ましい。

 批評の読者は、批評対象がどういうものなのか、それが自分の価値観にもあっているかどうか、文章から探り、想像する。そう考えれば、批評の表現一つ一つが、生産者を含めていろいろな人に影響を与えることがわかるだろう。間違った表現、深い理解にいたらない未熟な表現、感情的・個人的表現がどういう結果を招くことになるか、批評者はもっと誠実に考えていただきたい。

 

2.事実と主観

 また、批評者は、「事実」と「主観に基づく表現」を区別しなければいけない。これは、批評の表現としては基本であろう。例えば歴史的事実は動かしがたい。誰が何のギターを弾いているということも事実。何曲演奏したというのもそうだし、何の服を着ていたというのもそうだ。こういう事実は、批評の前提条件を提示するのに必要な場合が多いが、事実である以上、何の評価もいらない。逆に、主観に基づく表現には、批評者の評価が入る。こういう客観的事実ではないものに関しては、なるべく断定口調を避けるべきだ。さもなくば、とても大上段な「えらそうな」言い方になってしまうのだ。

 例えば、あるギタリストの名盤に対して「全ての曲が同じような音色だ」「テクニック的には十分」などと断じている批評があった。こうやって人様をジャッジできる人の感覚は、とても権威主義的で、いやな響きがある。音色や技術などの表層面を評価するのは、批評家にとってとても簡単なことだ。しかし、あくまでその評価は主観的であることをきちんと認識すべきだ。また本当の問題は、その表現している内容や世界に関する評価をきちんとすることであり、音楽的内容に全く触れない批評表現は、音楽家にとってとても失礼だと言わざるを得ない。

 

2.メディアの影響力について

 批評や批判といった形による価値判断は、メディアと結びつくことで、時に想像以上に広がり、人間の意識や行動を変えてしまうこともあり得る。以下に、批評に使われる際の、大まかなメディア別の性格とその影響力について、「保存性」「伝搬性」「匿名性」「双方向性」の四つの切り口から、批評される立場で解説していきたい。ただし、幸か不幸か、私は放送媒体で批評されたことは一度もないので、そこだけはいい加減な書き方かも知れない。

 

 ・テレビなどの放送媒体

今はあまり問題にしない。

1.保存性

 ビデオやテープに録画をしない限り、言った内容はすぐに消えてしまう。証拠にも残りにくい。ただし、その圧倒的な伝搬能力のため、多くの人の記憶には残りやすい。

 

2.伝搬性

 この点において、放送媒体はメディアとして最も優れていて、かつ批評される側にとっては恐怖を感じる。見よう・聞こうと思っていない人まで一度に大量に巻き込むのが、このメディアの最大の特徴である。いつぞやの某テレビ局での「ダイオキシン騒動」の例からわかる通り、風評被害が起これば防御する手だてにまったく乏しい。

 

3.匿名性

 事件や何か人権問題が絡むような場合以外は、ほとんど匿名ということはないはず。

 

4.双方向性

 基本的には一方通行のメディア。双方向テレビは、夢の夢かな。

 

 ・印刷物

1.保存性

 繰り返しになるが、印刷物として残った文字媒体は、いつまでも残る。おそらく私の寿命が尽きてもどこかに残ることだろう。再版や訂正記事などの他には、やり直しがまったくきかない。そういう意味では、見ようによってはとても恐ろしい性質がある。この点において、印刷物はメディアとして最も優れていて、かつ批評される側にとっては恐怖を感じる。ただ、それを逆手にとって、批評家の意識を過去にさかのぼって証明する際には有益になる。つまり、言い方は悪いが、証拠能力に優れているメディアだ。

 

2.伝搬性

 地元のミニコミ誌程度の範囲では、その地域の中だけの伝搬性にとどまり、影響は比較的小さい。しかし、全国紙や専門誌といった大手の出版社の媒体では、その伝搬性は桁違い。ほぼ毎日発行される新聞ならまだしも、仮に月刊誌では、一度載った記事を訂正するのに1ヶ月掛かり、その間、読者はその内容に毎日影響され続けてしまう。また、未だに私たちは「活字信仰」という考えが捨てられないようで、「きちんとした」雑誌や新聞に載ることで「すごいなあ」と思い、そのことだけで対象に対する評価を一変してしまうことが多い。実際、私もとある新聞に載っただけで反響が多かった。よかった、というよりも、メディアの怖さを肌で実感した次第である。

 

3.匿名性

 新聞などでは、まだ解説に匿名記事を載せることがあるなど、多少問題はあるが、この件での意識改革は進んでいると言える。著名記事がかなり浸透してきたのである。しかしまだ充分ではない。これだけ情報の出所がぐちゃぐちゃな世の中で、編集者だけを出していればいいというものではない。記事を書いた人の名前が載ってこそ、その論理的根拠や立場に対する説得力が増すのだと思う。匿名とは、返す刀の非難から逃れるための都合のいいバリヤーであり、その発言者が社会的に自信のない立場か、または露見するとまずい立場にあることを自分で暴露していると思う。

 

4.双方向性

 「読者参加形の企画」「読者投稿」のような手段以外には、基本的には一方通行のメディア。しかも、記者と違って一般人の投稿には、編集者の裁量が加わる場合もある。当たり前だが、出版社には多くの記事が集中してくるので、載ること自体も難しい。よって、メディアにおける批評に対してメディアによる反論を試みることは、多くの人にとってとても困難である

 

 ・インターネット

新しい媒体であり、まだ行動倫理などが十分に整備されていない。何か問題が起こった際の解決方法もわかりにくい。

1.保存性

 ホームページをダウンロードして登録することは簡単。ブックマークも簡単。全てのデータを丸ごとダウンロードするようなソフトもあるという。一度閉鎖されたホームページとそっくり同じ内容のページを、全く別の人が作ってしまうということも問題になる。私は、気になるページの情報は、可能な限り保存することにしている。この世界では、いつ読むことができなくなってしまうか、保障されないからだ。

 

2.伝搬性 NEW!!

 コンピュータの普及率は、日本においては驚異的に伸びてはいるものの、まだまだ限られた人のものなのかも知れない。しかし、ひとたび繋がれば世界のどこにでもアクセスできるという点で、インターネットによる通信はメディアとして最も優れている。アメリカでは、ネットを利用することができたりできなかったりで、新たな経済格差や社会的差別が起こっているという。貧困層の人たちは、そういう環境を用意したくてもできないのである。しかし、これからネットの利用者の範囲はもっと増えていくことだろう。

 キーワード検索を使えば、ある事象に関しての数え切れないホームページを閲覧できる。そのため、時には見たくもないような(?)エッチなページにいってしまったりする。冗談はさておき、全く意図しないページを閲覧することで、ページ制作者本人の意図とは違う捉え方をされることもあり得る。ここでは、例えば「同好会的なノリ」で趣味の似ているもの同士が語り合う空間に、いきなり何の関係もない人が入り込むことも可能なのである(同好会の影響については次項へ)。これは大変に怖いことであるので、インターネットは公園のような場所を提供する道具であることを認識しよう。ある情報を不特定多数の目に触れる機会を提供してしまうインターネットでは、その情報の信憑性や善意を疑ってしまうような表現を避けるべきである。

 もう一つ付け加えたい。インターネットの情報伝搬性は、狭くはないが偏っている。最初に述べたとおり、インターネット人口は、増加しているとは言ってもまだ限られている。つまり、インターネットで発言したり反論したりできる人の範囲は、コンピュータをうまく利用できる人に比較的限られているのだ。これは、ある世代にとって、貧困層にとって、低学歴層にとって、特段理由はないがパソコンに興味のない人たちにとって、また余暇をとれない人たちにとって、やはり新たな社会格差を引き起こしつつある。ことは、アメリカだけの話ではない。

 よって、そこで紹介された意見が、コンピュータに疎い、多くの人たちの誠意ある批判や反論を受けないまま、ネット上でまかり通ってしまう可能性が大いにある。たとえ「掲示板」のような双方向性の高いツールであっても、それを利用できる人が限られていれば同じ事だ。そのため、インターネットで伝搬される情報の精度やその影響については、客観的な視点をよくよく考えて、掲示する側が節度と責任を持つことが必要である。

 

3.匿名性

 ハンドル・ネームなどという習慣は、私には理解できないが、コンピュータの世界では広く行われているようだ。責任の所在を不明確にしてしまう、天下の悪癖だ。場合によっては、メールアドレスも省略可能、ホームページアドレスもダミーにすることが可能らしい。その人がどこに住んでいるか、何をしている人なのかなどまったく関係なく、通信を行うことが非常にたやすい。この点において、インターネットによる通信はメディアとして最も優れていて、かつ批評される側にとっては恐怖を感じる。コンピュータはあくまで道具であり、つきあうのは人、発言するのも人、怒ったり悲しんだり笑ったり励まされたりするのもすべて人である。ネット空間では、そういう感覚はマヒしやすい。匿名では、そのあだ名を知っている人以外には、人のぬくもりが感じられないのである。ハンドル・ネームもいいだろう。しかしもし、匿名の意見がどこかの掲示板にあれば、私はその発言を一切認める気になれない。

 

4.双方向性

 この点において、インターネットによる通信はメディアとして最も優れていて、かつ批評される側にとっては可能性を感じる。なぜなら、批評した人に対して、誰もがいつでも自由な反論を加えることが可能だからだ。しかし、いろいろな意見を戦わせる掲示板では、そのような利点に惑わされ、節度を忘れた収拾のつかない議論に陥ることが多い。

 議論とは、お互いの接点を探る駆け引きの中で建設的な解決方法を生み出すもので、人間のあらゆる精神活動の中で最も高度なものの一つだ。アイヌ民族はそれを「チャランケ caranke」と言い、まず片方の意見を1時間でも話せるだけ話してもらい、言い分が出なくなったら次にもう片方の意見を同じように述べる。そうやって相手の言い分をよく聞くというところから議論を出発させる。そして、納得いかない限り昼夜を問わず議論が続き、必ず結論を出すという。これが真の議論というもので、悪意を持った人たちがみだりに非難し合っているというだけでは、何も生まれようがない。

 

 ・同好会や知り合い同士の口コミの場合

 同好会では、自分の好きなことが、悪口まで含めて好き放題言えるという。本当だろうか。

 私は、別のページでも書いたが、最近までギター同好会の「ギタリスツ」に在籍していた。このことは触れない方が私にとっては有利なのだが、あえて恥ずかしい過去を告白する。そこで私は、同好会の会報のために、ギター音楽に関するいろいろな記事を書いていた。多くは肯定的な内容だったのだが、時に上記のような「言いっぱなし」批判を展開してしまったのだ。会員数40名ほどの同好会だったが、そこでも言い過ぎた批判に対して苦情がいくつか届いた。さらに、そのことで謝罪の連絡を会報に書いた後、全く反対に「じゃあ批判はできないのか」という趣旨の反論をいただき、すっかり編集者である私の精神は疲弊してしまった。不特定多数の目どころか、たかだか40人の目すら、一つとして同じではないのだった。結局、このことが直接的な引き金となって、私は1998年春に、長年続いた同好会を解散させてしまった。

 このことは、私にとって今でも人生における大きな後悔である。もともと、純粋にギターが好きで、優れた音楽を紹介したいと思って参加したのに、どうしてこうなってしまったのだろう。もっと批判対象に配慮すればよかった。もっと意見を戦わせればよかった。しかし、いろいろな想いがぶつかることに、当時の私は耐えられなかった。私事だが、当時は父親の余命を宣告されていて、それどころではなかった。心がボロボロで、とても弱かったのである。批評をする人間には、その批評で生ずる責任に耐えるだけの心の力が必要なのかも知れない。

 少し話がそれた。よく、同好会では好きなことが言えるとして、そのような集まりが増えていると聞く。もちろん、その集まりの中だけでならば、意味のある発言かも知れない。顔を突っつきあわせることで、意志疎通が図られている連中ならば、たとえある人に対する非難めいたことを言っても問題になることは少ないだろう。しかし、注意したいのは、その仲間内の発言が漏れてしまわないような配慮が必要だと言うこと。

 一度、ある知り合いが、そういう仲間内の会話を耳にした人の又聞きとして、「ある人が『アコースティック・ギター/ソロ』という私のプロデュースしたオムニバス盤のことをけなしていた」と報告してくれたことがある。もちろん私にとってそのこと自体は残念だが、それよりも、その発言をした人が直接言った言葉ではなく、又聞きだったということに多少問題がある。仲間内では、当然趣味趣向が似てくることが多いので、自分の個人的な好き嫌いのことを何の気兼ねもなくしゃべることができる。私だって、そのようなインフォーマルな場では、個人的趣向に基づく発言をしてしまうだろう。そこで意見の衝突があれば、知り合い同士で直接話し合うことだってできる。しかし、そういう仲間内に不用意に漏らしてしまった配慮の足りない言葉が、全く趣向の違う第三者に届いてしまうと、この例のようにそれが口コミで別の人に届き、思わぬ波紋が広がってしまう。

 もしその発言の言葉尻だけをとらえて、その人のことを悪く考えてしまうとすれば、その人にとっては迷惑な話だ。あらゆる話には、TPOが存在するので、その場所でだけ有効な意見というものもあり得るのだから。また、面と向かって話をするならば、おそらくほとんどの人が、その対象に何らかの配慮をした表現をするだろう。人の発言は、このように周囲の環境によって変わるのだ。このことを、労務管理などの学問分野では「グループ・ダイナミクス 集団力学」という。人間の行動が、いかに集団の中の力関係で変わっていくかということを研究する学問である(私は小樽商科大学在学中に一応習った)。私たちは、決して一人だけでものを考えたりしているのではない。ある個人の考えとは、他の人の意見や考え方、その場の環境や雰囲気などにかなり影響される、とても不安定なものなのだ。そういう現象に対する配慮も考えなければ、その人個人に対して誤った評価をしてしまいかねない。

 なお、その発言の主はどうも、とある有名な人らしい。社会的に有名な人の影響力についてはすでに述べた。仲間内に、個人的好みすらうっかり話すことができないのは、ちょっとかわいそうな気もするが、世間一般ではそれを「有名税」という。

 また話がそれた。結論として、たとえ同好会的な集まりであっても、場合によっては外に対する配慮の気持ちを働かせることが必要であると言える。特に、インターネットによる集いならば、どんな場合にも関わらず必須となる。

 

3.まとめ

 ・望ましい批評のあり方についての一思案

 全ての分野において、批評とは、とても勉強の必要な行為である。その点においては、学問とあまり変わらない。音楽だから簡単に批評ができると考えるのは間違っている。だから、真剣な批評ならばどんどんすべきである。批評も一種の作文と同じで、練習することでよい(または的確な)批評になる。そういう練習を経ていない多くの人にとって、音楽は、それぞれの心の中で「好き」か「嫌い」かだけで感覚的に分類することが、最も簡単な道なのである。「私は絵が描けないが、その批評はできる」という冒頭の格言は、あくまでそういう意識レベルでの話なのだろう。もし批評に全く勉強がいらないのだったら、例えば美術評論家の存在意義はない。

 好きか嫌いかだけなら、3才の子供だって言える。そういう個人的感想は、口外しない以上、何の制限もないし、誰に何の影響も与えない。当たり前だが、腹の中で何を考えようが個人の自由である。それを、わざわざメディアに載せようとするからこそ、面倒な問題になる。もし貴方が「批評によって生じるいろいろな責任」に耐えられないと感じるなら、批評される側の立場で、私が話すことは何もない。

 「好きになること」すら、私はとても勉強の必要な行為だと思っている。これは私の哲学だ。「To Know Him Is To Love Him」というポップスの名曲があるが、これは本当に人生における真実だ。人は、その人を知らないと愛せない。そして知るほどにもっと深く愛せるのである。これは恋愛に限らず、あらゆることについて言える真理だと思う。「批評」という客観的な評価と、「愛情」という主観的な評価の根本は、対象に対する深い理解が求められる点で、私は共通していると信ずる。

 そして望ましい批評とは、望ましい生産のためになるべきものである。ものを作るエネルギーをよりよい方向に向けるための触媒である。ただでさえ、この不景気の世の中では、もの作りのエネルギーが疲弊している。そういう貴重な力を妨害するような批評、何の逃げ道も残さない対象の全否定は単なる「非難」であり、それならしない方がいい。

 何かを批評しようと思っている方たちへ。

 私がこんな野暮ったいページを書いたのは、批評される側と同じく、する側にも努力をしてもらいたいという一念があるためだ。無理に批評対象(例えば私)を好きになれとは言わない。ただ、個人的感情による好き嫌いとか、上っ面だけの稚拙な表現とかでなく、もっと努力して対象を知ろうとしてほしい。もっと努力してよりよい道を示してほしい。それが、人間が人間を評価する時の努めなのではないだろうか。

 そして、上に挙げた「批評によって生じるいろいろな責任」を決して忘れずに。これは、批評される側からの、少しあやしげな批評家たちへのささやかなエールである。

 

 このページに関してのご意見、ご感想を募集いたします。私、浜田隆史宛へメールをお送り下さい。ただし、私は実名を出しています。逃げも隠れもいたしません。だから、そちらも実名とメールアドレスをお忘れなく。メール爆弾はやめてね

 

4.補遺(批評する側ではなく、される側の心構えについて) NEW!!

 この項は、このページの本論である「メディアと結びついた批評の影響力」というテーマから少し離れるが、無関係ではない。今まで述べてきたことは、主に批評する側、そしてメディア側の問題点であった。しかし、いくらこのような問題点の指摘をしたところで、実際には「生産に悪影響を及ぼす批評」というものはなくなりそうにない。人間は、批評する側もされる側も、決して完全ではない。時には過ちを犯すこともあり、どんな人でも心の未熟さ故に自分自身や他人を傷つけることがあり得る。
 そのため、批評する側だけでなく、批評される側にも相応の心構えが必要になる。特に、まだ成長段階で、自分に自信のない人たちは、批判に対して心が無防備であることが多い。逆に、心の防備を堅めすぎた人たちは、自分のためになる忠告を無視し、望ましくない方向に陥ってしまう場合もある。自分に向けられた批判をどう捉えるかで、人は人生を有意義にすることもあれば、その悪影響により道を踏み外すこともある。批評する側にとってはたとえ一時の軽口であっても、される側はその言葉をどう捉えるかで、極端な話、人生を左右するのである。

 よってここでは「批評をどう受け止めるべきか(または受け流すべきか)」という精神論を述べてみたい。いろいろな批判に対する気構えの問題。それは人によって、性格によって、そして場合によって、適用方法が微妙に異なってくることをお断りしておく。あくまで私なりの指針というわけだが、このページに関心を持つ人たちにとっては何らかの参考になると思って執筆する。

 

 ・批評のおさらい

 美術や音楽などの芸術・文化活動は、いろいろな側面がある。よって、何をもってその活動を評価するかという物差しは、いくらでもある。単純にその美を良しとする場合もあれば、目立って技巧的なものを要求されることもあるし、経済的成功が求められる場合もあるし、場所による相性を求められる場合もあるし、実験を期待されるときもある。前にも書いたが、芸術・文化活動は定量的な評価がしにくいものであるので、ある相対的な物差し、または比較的定量化しやすいポイントの評価がよくなされる。どういう点が評価されやすいかを、すこしおさらいしてみよう。

 例えば技術的な成熟度。初心者に対する批評の多くは、当然こういう点に多くなされる。
 例えばユニークさ。何でも目立つことは大事なので、人目を引く要素は評価の対象として高く見られる。
 例えば経済的成功度。これは定量化できるものなので、プロの作品はそういう評価をされる。
 例えば場所との調和度。作品単独の評価と、TPOの評価はまた別物である。
 例えば作品の構成や完成度。作品にはわかりやすさも求められる。
 例えば伝統的な価値をきちんと取り入れているか否か。「規定演技」のような評価には強い。
 例えばコスト・パフォーマンス。商品としての評価の切り口。

 ここで挙げたような例は、場合によっても変わっていく。例えば、初心者の(普通は下手かなと思われるような)歌に「味」を見つけたり、逆にベテランの売れ線作品にマンネリを感じたりすることも多いかと思う。しかし、技術的に言えば「下手」としか評価されなかったり、売れてさえいれば「不動の地位を築いた」などと評価されたりする。このように、定量化しづらい評価の方が実は本質を突いているという場合が、芸術は特に多い。また、日本においてはあり来たりに見えても、海外の目には画期的に写る場合もあるように、評価する人の文化や嗜好の違いで結果が変わることもよくある。とにかく、批評の方法とその結果は、時と場合によって様々であるということをここで触れておきたい。

 

 ・何を真摯に受け止めるか(否定的・批判的評価の場合

 初めにお断りしておくが、ここでは好意的批評のケースはあまり考えない(後に触れる)ことにする。精神衛生上、問題になるのは、何と言っても生産者に対する否定的・批判的評価だろうから、まずはそういう場合を考えてみよう。

1.定量化できる評価

 批評が定量化しづらいということは、その批評をされる人がそれを様々に受け止める可能性がある。時にはどう受け止めるべきかわからないこともあるだろう。つまり逆に言えば、批評される人は「比較的定量化できるところの(例えば技術的)指摘は、明らかな嘘でない限り、極力真摯に受け止める」ことが望ましい。例えば歌のうまい下手は、音程、歌詞の発音、こぶしの仕方など、単純に技術的なチェックができる部分が多い。ギターのフレージングやミスタッチも、わかる人にはわかる。CDが何枚売れたかなどはまさに数字でわかるので、動かしがたい真実である。絵画においても、デッサン力や画面構成などで同様なことが言える。作文における文法チェックも同様。もちろん、別の切り口からの評価もできることがあるのだが(例えば歌の「味」など)、それはまた別の話である。

 批評とは、批評される人が「してもらいたい」と思う指摘や切り口とは違う場合もあることを覚えておきたい。批評される人は、概して「主観的な評価(前の話でいえば「愛情」と同義)」を心のどこかで求める傾向があると思うが、批評者は「客観的な評価」を理想としている。前の「批評と愛情は表裏一体」という話とは少し矛盾するのだが、批評者の趣味、主観や腹の虫の居所で、主観的評価はころころ変わる場合がある。その点、純粋に客観的または技術的な指摘ならば、正しいか間違っているかという判断がしやすい上に、批評された人が改善する余地があることが多い(もちろん、批評家の勉強不足による、誤った指摘の場合もあるだろうが)。そういう指摘を受け入れることは、感情的な話はとりあえず置いておいて、特に難しくないはずであり、自分のためにもなる。

 よく「欠点がわかってよかったね」などということもある。思い入れの強い自分の内側からは見えない欠点が、外から客観的に見るとわかることもある。それは何といっても自分のことであるから、指摘されたとたんに自分でも合点が行くことが多いものである。自分が少しでもためになると思った有意義な批評は、つまらないプライドをいったん捨てて(これは初心者ですら意外に難しいものだが)、耳を傾けてみたい。もちろん、すぐには直せない欠点の場合もあるだろうから、それで落ち込んだりせずに、時間を掛けて自分を磨くきっかけとして、気に留める程度でもいい。自分以外の人の意見で自分を磨くことができるのが、人間のいいところだと私は思う。

 しかし、そうわかっていても、人間悪いところは認めたくないものである。これには、自己防衛(都合の悪い指摘に正面から向き合わず、理屈をつけて回避すること)という、批判を受け止める人間の心理ももちろん問題になるが、批評家の言い方にも問題があることが多い。例えば、初心者に向かって居丈高に打ちのめすような言葉を吐いたり、逆に上級者に向かって素人がプライドを傷つけるようなことを言ったりするような。同じことを言うのにも、人間は言い方によってその受け止め方が違ってくるのだ。言葉尻一つを捉えて一喜一憂するような性格の人もいる。きついまたはぶっきらぼうな言い方か、オブラートに包んだ言い方かといった、相手への配慮の有無が、内容以上に批判される人に影響を与えやすいものである。

 よって、上手な批判の受け止め方の第一歩は、批判者の感情や言葉尻ではなく、批判の内容から客観的または定量的な評価に当たるものを見つけることである。逆に、そういう裏付けのない感想的な批判は、無視してもかまわないのである。

 ケーススタディーとして、恥ずかしい話だが私自身の苦い批判経験を示すことも無駄ではあるまい。
 一度、私はある人から、自主制作した25曲入りの楽譜『ギター作品集1』の値段(2500円)が高いと電話越しに言われた事がある。「100ページのオフセットなら、アニメの同人誌でももっと安いのがある」というのがその論法だったと記憶している。きちんとした会社からきれいな装丁で出ていない以上、こんな自主制作の印刷物を商売にしてはいけない、そんなにプロごっこがしたいの? という調子。
 当時、それなりに苦労して暗中模索で出したものだったので自分に自信が全然なく、私はものすごく落ち込んだ。泣いた。こんなもの、発表しなければ良かったと思ったこともある。今思えば、その人は私を励ます意味で、「もっとちゃんとした所からきちんとしたものを出せよ」と言いたかったのだろうが、だとしてもひどい言い方だった。

 冷静に考えてみると、商品の値付けというのは、社会的水準や競争を著しく阻害するものでなければ、ある程度自由である事が、商法にも記されている。どんなもので商売をするかは、違法でない限り事業主の自由であり、それが自主制作楽譜だっただけの話である。また、同じ印刷された著作物でも、マンガの表現内容と楽譜の情報とは根本的に異質なものであり、その値段を同じページ数で判断することはどちらに対しても不公平である。普通の生産物が世に出るには、本来いろいろな社会的手続きが必要であるが、その手続きを回避して敢えて自主制作というゲリラ的な手段に甘んじていたとしても、それは生産者の罪でもなければ怠慢でもない。人生におけるただの選択肢なのであり、他人に非難されるいわれは全くない。
 「値段の指摘」は、一見定量的で客観的なものと思われがちだが、この場合上記のようによく考えれば、裏づけが全然ない。つまり、客観的評価に値しない単なる個人の感想なのだ。そもそも、そんなにイヤなら買わなければいいだけの話だといえる。

 この論理的な結論に早く到達すれば、その批評が真摯に受け入れる必要のないものであり、「私のやっている事は、少なくとも悪くはないのだ」ということがわかって安心できる。しかし心の未熟だった当時の私は、「何でマンガなんかと比較するんだ」「偉そうに説教するな」「俺の活動はプロごっこなのか?」などと、批判の内容よりも相手の横柄な態度や言葉尻に対してずいぶん感情的に怒り、そして悩んだ。よく「若いうちにいっぱい悩みなさい」というが、こういう結論の出ない空しい悩みは、無遠慮な言葉を残した相手に対する悪い感情を増幅させるだけで、人生にとってほとんど益にはならない。性格が悪くなるだけだ。

 これではいけない。楽しいはずの文化活動で、進んでいやな思いをする事はない。誰かを恨みながら生きる必要もない。多くの人は、そのいやな思いから逃れようとし、最悪のケースでは活動を停止してしまう事もある。私もそういうことを考えた事がある。そうではなく、その前に「言葉の悪意」から自分を開放し、感情的にならずに、批判された内容自体をもう一度よく考えよう。
 批判内容の冷静な検討と取捨は、批判される側が鍛錬すべき、紳士的精神活動である。スタートレックのスポックではないが、思考が論理的でありさえすれば、それは本来簡単なのである。批判内容を冷静に吟味することは、すぐには無理でも、時間が経って初めてできる部分もある。だから、もし現在の自分にとってそれを考えることが苦痛ならば一時聞き流し、心に余裕ができたらもう一度よく考えてみるという手段も有効だと思われる。何もすぐに結論を出す必要はない。

 また熟考の結果、仮に批判された人にやはりそれ相応の理由があったとしても、それを受け入れるかどうかは結局批判された人が決める事であり、当たり前だが人生は自由なのである。間違ったまま突っ走ることだって選択肢の一つであり、その意味で生産者は批評者よりも自己の生産に圧倒的権限と責任を持っている。生産者はそういう自らの立場の強さを胸に抱きつつ、批判と冷静に向き合い、自分のためになる情報を得ることが必要だ。
 つまり、批判をいたずらに恐れるのは、むしろもったいないことだと思った方がよい。人間は注目されているうちが花、自分に降りかかる批判を、感情抜きで単なる「情報」として捉え、利用できるものは利用するのだと考えれば、たとえ悪い批判であってもずいぶん気が楽になるのではないだろうか。

 

2.定量化できない評価

 さて、もう一つのポイントがある。最初の「批評のおさらい」で、「定量化しづらい評価の方が実は本質を突いているという場合」について触れた。つまり、定量化できなければ全ての批判を無視していいかというと、そうとも限らないのである。ただし、そういう評価は客観的ではない故に、時と場合、また評価する人間の主観などによって異なる。よって、そういう場合の批判の上手な受け止め方は、批判された人が自分の都合によいように受け取ることである。逆に、都合が悪ければ、無視してもかまわないのである。

 先の例で言えば、技術的には下手な歌だが、これから先トレーニングすればいくらでも完成度を高くすることができるという場合を想定しよう。その場合も、もしその歌手が技術を磨く必要性をその批評によって感じたならば、そのように受け取って(「歌の味」はとりあえず放っておいて)とにかく技術を磨くべきである。もし「細かい技術なんかどうでもいい、自分の歌の持ち味を伸ばすのが先決だ」と考えるならば、テクニカルな批評は(心に留めることはあっても)無視して自分の持ち味を評価してくれた批評を好意的に受け取るべきである。その方が、自分の意志に反したボイス・トレーニングなどよりもモチベーションが上がる。それによって仮に歌の完成度が下がったとしても、または個性派歌手として名を挙げたとしても、それは全て歌手の権限と責任で行われたことである。もちろん、心に余裕があり、どちらの批評の切り口も間違いでないならば、どちらも受け入れてしまうのが一番よい。

 また、売上的にはすばらしい成績のCDが、音楽的にはかなり保守的な内容である場合も、「じゃあ次はもう少し冒険してみよう」と思うのか「売り上げがいいならOKじゃん」とするのか、場合によって異なる。多くの人に支持されるということは、理由はどうあれすばらしいことには違いない。このように、定量化できない批評は、どちらが正しいとか間違っているとか言う問題ではない。批評する人もされる人も、断定はできないのだ。好意的でない、そして客観的でもない評価は、それを自分の主観や心の余裕に照らしてみてから、うまく取捨するべきものである。

 定量化できない否定的批判の中で最も多くなりがちなものが、いわゆる「悪口」である。悪口には感情的なもの、偏見に基づくもの、無知(または批評者の狭い体験)から来るもの、優越感から来るもの、危機感から来るもの、価値観のずれから来るもの、浅い思慮から来るものなど様々なケースが考えられるが、悪口は悪口。その内容に論理的な理由や意義を見いだせない限り、批判された人が気に病むことは全くない。悪口を悪口で返せば、それこそ泥沼である。ドカベンの岩鬼くんのように、悪口を何でも自分の都合のいいように解釈する得な性格の人もいるが、私を含めて多くの人はそこまで人間が大きくないだろうから、都合が悪いと思ったらやはり無視した方が精神衛生上好ましい。
 人間は感情の動物なので、もし怒った方がすっきりするなら徹底的に怒るという選択肢もある。その怒りのエネルギーを文化活動に昇華できるならば、もう言うことなし。廃物利用のようなもので、悪口も立派に社会の役に立ったということだ。

 全ての「批判」に共通するが、それが自分を将来的に利するようなアドバイスなのか、またはただの悪口なのかを判断し、それを生かすかどうかを決めるのはあくまで当事者である。そのような原点に回帰し、批判された自分自身に負けないように努力しよう。そうすれば、たとえどんな批判であっても、それによって心を無駄に惑わされることはなくなるはずだ。

(続く)

 

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