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【み】

みーはー【ミーハー】[名詞]
 流行ものや有名人などに影響を受けやすい人のこと。例:「アンタ、そんなにミーハーだったっけ?」。「みーちゃん」と「はーちゃん」という二人の女性と思われる愛称を持った人がその語源となった。この語の存在は、彼女たちにとって永遠に続く不名誉である。しかし、もともと若者たちの思慮分別のなさを諭す悪口だったのに、今や知り合いの目の前で堂々とミーハー宣言をするダメな大人がいる。ミーハーで何が悪いと開き直られると、一体何と言ってよいのやら。ミーハーにちやほやされるのが仕事のアイドルやタレントたちは、本当に大変だと思う。ミーの事もハーのことも何とも思っていないのに、愛していると言わんばかりのサービスをしないといけないからだ。人は知らない人を愛することはできない。全ての人を愛するなど人間の知覚・記憶能力では不可能だし、むしろ知れば知るほど二度と会いたくない気持ちが沸いてくる人もいる。単なるミーハーの相手をするのは、芸術家にとって大いなる時間の無駄であるが、それが大いなる飯のタネだったりするので、邪険にもできない。彼らは今、こう思っているのだ。「さあ来い、飯のタネ!」

みす【ミス】[名詞]
 @英語の「Miss」で、未婚の女性に与えられる、うるわしき称号。既婚女性の場合はミセス(「Mrs.」)となる。最近はどちらも性差別用語と化しているので、ミズ(「Ms.」)と言わなければならないらしい。しかし日本においては、ミスは主にミスコンテストで優勝した人だけを指す、敬意の高い言葉。
 A英語の「miss 間違い、失敗」。ミステイクとも。こんな何でもない意味の表現に外来語が使われるのには、やはりそれなりの理由がある。つまり、自分の間違いを認めたくない人が「ちょっとしたミス」などと言い、見かけ上の重要度を外来語で軽減する用法が、一般用語としても定着したらしい。誰にでも、たとえ神様にだって間違いはあるが、プロは(まるでロボットのように)絶対に間違えないものと信じている音楽ファンは多い。ナンセンス。真のギターの達人、例えばチェット・アトキンスは、自分のミスをモチーフにしてさらに面白いフレーズを考えたりする。一方、こんな半人前のプロはいつか間違えるだろうと、耳をそば立ててあら探しする客もいる。そして、ミスを見つけてご満悦の表情。これがあまりに「してやったり」の顔なので、ひょっとしたらノーミスで弾くよりも彼に喜んでもらえたらしい。ふた回り目にはちゃんと弾けるような、たまさかのミスを酒の肴にするような意地悪は、ギタリストに嫌われる。ところでギタリストは、どうも弾いている間は仏頂面の人が多い。指板をじっと見つめてムスッとしている。これは、それなりに難しい曲の指遣いに集中しているためで、別に全てのギタリストが気むずかしいわけではない(確かに気むずかしい人が多いことは多いが)。しかし、なぜか彼らは、うまくいっている時は不機嫌そうなのに、ミスしたときだけニコリとうれしそうに笑うのである。変な話だ。それなら、ずっとミスばかりしてくれればいいのに。

みせがね【見せ金】[名詞]
 投げ銭活動をする人が、投げ銭箱(楽器ケース、空き缶など)の中にあらかじめ入れておくお金のこと。全く何もない状態の箱に、最初にお金を入れるのはお客様にとってなかなか勇気がいるものだから、すでに誰かが入れているように見せることでその奇妙な緊張を解くのである。見方を変えれば、演奏する側も何も入っていないと恥ずかしいので、いわゆる見栄の側面もある。もちろん、後でいくら入っていたかを勘定するために、見せ金の額くらいは覚えておく。ただし、見せ金を面倒くさがるアーティストもいるので、この辺の事情は千差万別だ。見せ金の適正額も人によって異なり、私のように慎ましやかに2000円程度を入れる人もいれば、「ここでケチっては禍根を残す」と、箱の底が見えないくらいにものすごい金額を入れる人もいる。まあ、あまりわざとらしいと客が引くことも考えるべし。

みち【道】[名詞]
 @何かが通行するための細長い場所。現代の道には、歩道と車道と鉄道(線路)の三種類+ケモノ道がある。水道とか滑走路とかがあるじゃないか、などと屁理屈は言わないように。車は特別な場合を除き歩道や線路を走ることはできないし、人も同じく車道や線路を歩くことはできないし、電車は線路以外を走ることができないが、聞き分けのない者たちが次々とうっかりそのルールを破って亡くなっている。「特別な場合」の解釈に多少問題が残るが、普通にきちんと進めば絶対に誰も死なないはずだ。交通戦争という言葉がずいぶん前によく言われたが、けだし名言。実際の戦争も、ホントはこんな単純なものかも知れない。
 A比喩で、人生の進路や将来の選択肢など、先行きや目的に向かう課程のことをこう表現する。歌の文句として、耳にタコができて腐り落ちるほど頻出する単語。例:「キミにはキミの道がある」「男の道」。ところで最近は、通行や通信といった人や情報の「道」は、社会基盤として保証されるべきものであり、これで儲けたり損したりするのは間違っているという説が一部の識者から指摘されている。交通、通信または流通にかかる費用は、生産そのものにとって直接関係がない、つまり無い方がよいものであり、これは理想的には無料とすべきであるという説だ。大きい道路を開通させても、町の活性化には今一つ繋がっていないのはみなさんご存じの通り。言い換えれば、今の時代は、どんなに立派な道もただ作って歩んだり進んだりするだけでは無価値なのだ。ターンするとか、ムーンウォークするとか、ギター弾き語りするとか、思わぬ所で踏み外すとか、途中でもう少し芸が欲しい。人生道において最も尊ばれる価値は、もっともらしい実績などではなく、実は面白い話のタネである。

みっくす【ミックス】[名詞]
 英語の「mix」で、混ぜること。音楽の場合は、編集作業を指す。つまり、録音した多くの音(多トラック)を混ぜ合わせて曲をこしらえる(ステレオつまり2トラックにまとめる)こと。ミックス次第で、同じ曲でも印象はガラッと変わる。ミックスを変えれば同じ曲でも別ミックス(リミックス)として新たに稼げるのだから、ホント、いい商売だ。最近の一部の音楽ジャンルでは、ほとんど作曲と同義になっているが、これは作曲家に才能がないからではなく、経済的に効率がいいからである。しかし、元がよくないと、いくらミックスしてもやっぱりよくないし、やりすぎてかえってダメにしてしまう場合もある。→MTR。

みでぃ【MIDI】[固有名詞]
 英語の「Musical Instrument Digital Interface 楽器のデジタル・インターフェース」の略語で、1982年に提唱された電子楽器の統一規格。シンセやシーケンサーなど電子楽器の様々な制御をデジタル信号でやりとりするもので、異様に太いのにフニャフニャしていて今にも断線しそうなMIDIコード(線)が愛好者に親しまれている。何か便利にはなったらしいが、機械の進歩に信号の転送スピードが全く追いつかない。ギターのように不安定で微細、かつ連続して変化する音色をMIDIで表現するのは難しいので、新たな高速の規格が望まれる所である。MIDI規格の最大の功績は、一部のプロに電子楽器の便宜や多様な選択肢を提供したことではなく、パソコンが普及する以前に音楽の分野でのオタク人口を激増させたことだろう。楽器業界における統一規格の経済的効果は計り知れない。逆に、電子楽器に関心のない人は知らなくても全然構わない。というか、むしろ知らない方がいい。知ると果てしなく散財するし、頭痛の種がラックの肥やしと共に一気に増える。

みはてる【見果てる】[動詞](補遺)
 『大辞林 第二版』によると「最後まで見る。全部を見る。見届ける」。しかし私は、この語が本来の肯定形で用いられた実例を誰の口からも聞いたことがない。現在ではもっぱら「見果てぬ夢(を追う)」という恥ずかしい慣用句で使う人が多いからだ。なぜここだけが古文なのか、なぜ「あの映画、ボク見果てちゃったよ」などと応用しないのか、少し考えてほしい。彼らの言葉は、つまり誰かに言わされている言葉なのである。この句を今でも臆面もなく使う人たちの羞恥心は、あって無きが如しと我見受けたり。→夢

みみ【耳】[名詞]
 音を聞くことができる、ありがたい身体器官。馬に念仏を聴かせる箇所。良い話にはすり寄ったり傾いたりするのに、都合の悪い話には鈍痛が走るという現金なヤツ。人間の耳は、同じような音を聞きすぎるとタコができる。今や多くの人々の耳は、まさにタコ殴り状態。同じような音楽が同じように流行り、同じような人たちが同じ感慨を分かち合っている。耳のタコどころか、中耳炎でも起こしているのかも知れない。たまに耳新しい音楽が登場すると、耳の貸し渋りが生じ、テレビか何かのお墨付きがないと、なかなかみんなの耳に馴染まない。耳は良いに越したことはないが、むしろ悪い方が大成するチャンスが増える。ベートーベンやエジソンがよい例。人の言うことを聞かない悪い子の方が、独創的になれるものなのだ。

みゅーじしゃん【ミュージシャン】[名詞]
 英語の「musician 音楽家」。日本においては、軽音楽の演奏家を指すハイカラな言葉で、例えばクラシックや邦楽の演奏家にはなぜか使われない。先に訳を挙げたが、この語、実は解釈に少し注意が必要だ。というのも、演奏家をより適切に表す語は別にあり(「プレイヤー player 演奏家」)、歌手もしかり。日本において、作曲家も編曲家も普通は「ミュージシャン」と呼ばれないが、音楽を作っているという意味ではまさに音楽家である(英和辞典では作曲家も musician に含む)。そもそも音楽は、「マジシャン magician 手品師」にとっての手品、「テクニシャン technician 技術屋」にとっての技術と違い、作り手の努力だけでは完成しない。聴いて満足してくれる人がいないと、音楽は本当の意味では完成しないのである。実際、音楽と呼ばれているものを聴いて楽しむには、それなりの訓練と、伝統や芸術を愛する心の成熟、そして一種の才能が必要で、その意味ではリスナーすらも立派な音楽家と呼べる(英和辞典では「音楽通」も musician に含む)。このように、たくさんの音楽に関わる人が、本来は全て「musician」の範疇なので、「音楽家」よりは「音楽人」や「音楽を愛する人」「音楽主義者」などという訳が適切かも知れない。何という素晴らしい言葉! しかし、この語本来の深遠かつ幅広い定義と、日本における実際の用例のズレに、何か意図的なものを感じるのは私だけではあるまい。つまり「今の音楽は、軽音楽の演奏家だけが勝ち得る、カッコイイ栄光である」と多くの日本人が考えていると解釈できるのだ。ああ、全ての人よ、真のミュージシャンたれ。

みょうじ【名字(苗字)】[名詞]
 家名。姓。英語で言えば「a family name 家の名」。家紋と共に、自分または配偶者などのご先祖様から受け継ぐ、最も身近な文化遺産と言える。日本では、人を呼ぶ正式名称において名字が最初に来る。確かに、どんなものでも大きな所属から順に述べた方が、分類学上の理にかなっている。例:「日本国北海道小樽市入船町の安い貸家に住む浜田隆史」。欧米人の場合は、まるでこの反対になるのが面白い。一方、ミュージシャンは、昔から芸名というものを使ってきたのだが、最近の芸名の傾向によると、ご先祖様を踏みにじるかの如く、大事な名字をさくっとカットしてしまう人が多い。それだけでなく、名前を何とローマ字表記にして「NAOTO」だの「KATSUMI」だの「NOBUHIRO」だのと書く始末。一体なんだこれは。誰だお前ら。ウルトラ隊員か。人をなめてるのか。あっ、いかん、我が怒りが臨界点に達してきた。落ち着こう。こんな事で激昂(げきこう)してもつまらない。まあ、彼らのことを善意に解釈すると、自分が恥ずかしいことや悪いことをしても(そして仮に超売れっ子になっても)、実家や知り合いに迷惑がかからないような配慮をしているということなのだろう。彼らの、良い意味でも悪い意味でも世にはばかるような人生が、ちょっと気の毒に思えてくる。実はそういう芸名を使っている知り合いも何人かいるので、前言撤回、とりあえずオールOKということにしておく。

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