アイヌ語随筆(2005年1月13日更新)

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 浜田隆史が書く、アイヌ語に関する随筆のページです。
 以前このページにあった『アイヌ神謡集日記』も残しておきます。

 

目次

◆アイヌ神謡集日記(2003年5月14日まで)

 ★ 知里幸恵の『アイヌ神謡集』について
 ★ 『アイヌ神謡集』新企画本について
 ★ 制作日記
◎ 片山龍峯さんについて
◎ 『ウパクマ』絵本について
◎ アイヌ語幌別方言について
◎ 雅語について
◎ 昔話の倫理観について

 

◆片山 龍峯さんの想い出(2004年9月24日より)

 ★ 訃報について
 ★ アイヌ語同好会「パルンペ」の想い出
 ★ 『ウパクマ』制作の想い出
 ★ 『アイヌ神謡集を読みとく』制作の想い出 NEW!!
 ★ その他の想い出

 

 

◆『アイヌ神謡集』日記(2003年5月14日まで)

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 2月のライブが終わった後、私はアイヌ語漬けの毎日です。
 トップページでご紹介している通り、アイヌ語絵本『ウパ
クマ』の作者・片山龍峯さんと中本ムツ子さんが取り組んでいる新刊の入力・校正作業に入っています。アイヌ文学者・知里幸恵さんが唯一残した不朽の名著『アイヌ神謡集』の解説と、実際のカムイユカ(神謡)の復元という、とても意義のある企画で、微力ながらそのお手伝いができることを光栄に思います。
 ここでは、そもそも知里幸恵さんの『アイヌ神謡集』とはどんな本か、と言うことも含めて、この企画に取り組む私の日々雑感をつづっていきたいと思います。

 

★ 知里幸恵の『アイヌ神謡集』について

 登別出身の知里幸恵(1903-1922)は、アイヌ文学史上最も有名な本『アイヌ神謡集』の作者です。祖母はモナシノウク、叔母が『ユーカラ集』で有名な金成マツという、口承文芸の伝承者でした。さらに、後に北海道大学の教授となる、アイヌ民族出身のアイヌ語学者・知里真志保の姉でした。母語であるアイヌ語に堪能なのは言うまでもありませんが、その美しい日本語は、『アイヌ神謡集』の序文を少し読んだだけでも、誰もが感じ入ることでしょう。

 彼女は、アイヌ語学の第一人者・金田一京助に、アイヌ語学上重要な示唆をいくつも与えました(この貢献がなければ、現在のアイヌ語学は成り立たなかったと言っても過言ではありません)。その金田一のすすめで、彼女は口承文芸の文字化に着手しました。短い期間に数々のノートと『アイヌ神謡集』の原稿を残すも、生来の病弱がたたり、滞在先の東京で、わずか19歳で亡くなりました。
 (叔母の金成マツは、その意志を継ぐ形で、数え切れないほどのユーカラをノートに書き残しています。その一部は金田一の『ユーカラ集』に、そして残りは萱野茂さんによって順次訳を付けたものが刊行されていますが、量が多すぎて、未だに全部は訳し切れていません。)

 死後出版された『アイヌ神謡集』(1923、郷土研究社)は、アイヌ民族自らが残した初めてのアイヌ文学の本として、今に至るまで不滅の輝きを放っています。
 内容は、「カムイユカ
 kamuyyukar」または「カムユカ kamuyukar」と呼ばれる、神が自ら物語る「神謡」という口承文芸です。フクロウ、キツネ、竜、シャチ、沼貝など、いろんな神が主人公です。全13話、アイヌ民族独特の世界観と、ユーカラならではの美しい言葉をたたえています。また、知里幸恵自身の日本語対訳がまた素晴らしいのです。
 アイヌ文学に興味のある人が、まず最初に触れるべき本だと思います。

 

★ 『アイヌ神謡集』新企画本について

 今回の「新企画本」(タイトルはまだ聞いておりません)は、アイヌ語絵本『ウパクマ』が好評の片山龍峯さん、中本ムツ子さんの本です。カタカナ、原ローマ字、現在の音素表記によるローマ字、逐語訳というアイヌ語表記に、原訳、片山さんによる新訳、そして英語訳まで含むのが本文部分。さらに、読者の理解を助ける、物語の背景や難単語の解説、グロッサリなど、その内容は多岐にのぼります。おそらくかなりのページ数になることでしょう。

 さらに注目すべきは、実際の「神謡」の復活です。
 そもそも、アイヌ口承文芸は、文字ではなく口伝で伝えられます。特に、一般にユーカラと呼ばれる節付きの物語は、「歌」と言ってもいいものです。ユーカラの中でも「カムイユカ
 kamuyyukar」は、「サケヘ」と呼ばれるリフレインがあり、これがなければ「神謡」ではないというくらい大事なものです。
 今回は、準拠されるCDにより、実際のカムイユカ
が聞けることになります。片山さんと中本さんは、以前にも『カムイユカ』(1995、片山言語文化研究所)という音源付きの本を出しています。中本ムツ子さんによって、『アイヌ神謡集』がどんな節で歌われるのか、私は早く聴きたくて仕方ありません。

 まだ完成までは先が長いのですが、実際の仕様が決まったら、ここで随時お知らせしていきたいと思います。

 

★ 制作日記

 日記と言っても、何月何日に何をした、という箇条書きではなく、昔を振り返りながらのんびりと書いていきたい。なお、ここから文体は「である」調になることをお許しいただきたい(何となく日記という感じで...)。

 

◎ 片山龍峯さんについて

 私が片山さんと最初に出会ったのは、確か1994年、千葉大学の中川裕 助教授が当時開いていた「パルンペ」というアイヌ語サークルだった。
 私は学生時代から知里真志保の『アイヌ語入門』などに親しみ、会社員時代は、神田の古本屋街でアイヌ語関連本を購入するのが楽しみの一つになっていた。そんな中、片山さんの『日本語とアイヌ語』(1993)という本に出会い、いろいろ勉強させていただいた。一方で、金田一京助著作集の校正をされていた中川先生の存在を知り、「パルンペ」に参加させていただき、そこで片山さんと初めてお会いしたというわけである。「まさかあの本を書いた人?」と、ここで初めて本の世界と実際の世界が一致したのである。

 片山さんは、映像制作という多忙な本業の傍ら、アイヌ語・アイヌ文化の教材作成に積極的に関わり、これまでにビデオ『萱野茂 アイヌ語会話(初級編)』『アイヌ語日常会話集1 凍ったミカン』、音源付きの本として『カムイユカ』、そしてこのホームページでもおなじみの『ウパクマ@A』がある。アイヌ語を学ぼうにも教材が少ない、と言っている人はぜひ利用してほしい。
 特に『カムイユカ
』(1995)は、今回の『アイヌ神謡集』のカムイユカというジャンルと全く同じで、実際にユーカラを体験したいという人にとっては、またとない教材である。

 

◎ 『ウパクマ』絵本について

 片山さんから初めて仕事を依頼された『ウパクマ@』(1999)は、印刷業者とのデータ共有のため、とあるDTPソフトでの作業となった。「エディカラー」というあまり聞かないソフトだが、一度慣れてしまえば比較的使いやすい。ただ、やはり最初は大変だった。今でも「検索」「置換」機能の使いづらさ(置換ウィンドウを出しながら本文の訂正作業をすることができない)はどうにかならないものかと思う。
 さらに、マックとウィンドウズは本来の文字コード体系が違うため、データをウィンドウズからマックに渡すと、例えば欧文アクセント記号が全部文字化けする。また、フォトショップなど他の標準形式との互換性もない(私の持っているバージョンだけかも?)。フォント情報のメンドクサイやりとりとともに、今でも頭を悩ませるところである。

 慣れない作業と言うこともあったが、1998-1999年は、個人的事情もあって大変だった。と言うのも、今だから言うが、この作業に着手したのは、私の父が亡くなって間もない頃だったので、やるせない気持ちを抱えながらの作業だったのである。本当に苦しい時期だったが、でも何かやることがあるというのは、今思えば私にとって幸いだった。無事に完成したときは、さっそく仏壇に供えた。

 その後、『ウパクマA』(2001)も制作されたが、私もこの頃にはDTPの作業にも慣れてきて、比較的快適に作業ができた。別ページがあるので、内容については割愛するが、今まで注目されていなかった「ウパクマ」について視覚的に学ぶことのできる、素晴らしい本だと思う。

 

◎ アイヌ語幌別方言について

 さて、今回の『アイヌ神謡集』だが、これは私が今まで勉強してきた沙流・千歳方言や、十勝の澤井トメノさんの言葉とは、二つの意味で少しずつ違うアイヌ語が使われている。
 まず方言が違う。普通「アイヌ語幌別方言」と呼ばれている言葉で、知里真志保などによって沙流・千歳方言に負けないくらい多くの資料が残されているにも関わらず、わからないことが多い。というのも、その資料は文字資料が大半で、実際の音声資料を私は聞いたことがないのである。

 そもそもアイヌ語は、北海道・樺太・千島、そして東北で話されていたことがわかっている。この大きな地域の間で方言が大きく違うのはある意味自然だが、同じ北海道の中でも地域によって少し違う言葉が話されている。もちろん、同じアイヌ語であるから、共通する部分は多いが、例えば沙流で「マカナ makanak どのように」という言葉を幌別では「nekona」、十勝では「nekon」(樺太ライチシカ方言では「temana」)と言ったりするように、小異も目立つのである。
 現在は、アイヌ語話者自体が少ないので、大きな地域区分だけでなく、川筋ごと、また話者ごとに方言は違うと思ってかからないといけないらしい。

 現在、最も学習人口が多いであろう沙流・千歳方言は、いろんな言葉を他の地域と比較すると、どうも他の方言と一線を画している部分があり、違う言葉が多いようである。一番知られている方言が、北海道全体から見ればむしろ特異な言葉であるというのは、勉強する立場で言えば少し都合が悪い。
 例えば、他のほとんどの方言が「ク・オマン ku=oman 私は行く」という所を、沙流・千歳方言は「カ
パ k=arpa」と言い、単語の差異のみならず、人称接辞の付き方など基本的な文法まで違うのが戸惑うところである。
 私もご多分に漏れず、文法から本格的に勉強したのは沙流方言からだったので、他の方言を勉強するときはやはり迷いながらの感がある。しかし、現在は、そういう方言の違いを勉強するのも楽しみの一つとなっている。

 

◎ 雅語について

 もう一つ、『アイヌ神謡集』が普通と異なる部分は、「神謡」としての雅語が使われている所。
 神謡は、神を主人公とする自叙の形を取る物語だが、その第一人称接辞は、日常会話の私を表す「ク・ ku=」ではなく、引用文中の第一人称を表す「ア・ a=」や「・アン =an」でもなく、普通は第一人称複数(私たち)を表す「チ・ ci=」「・ア
 =as」が使われる。

「私は...と思う」
...kuni ku=ramu(日常語)
...kuni a=ramu(引用文)
...kuni ci=ramu(神謡)

 また、日常会話と少し違う、いわゆる「あや」を付けた劇的な表現が、そこかしこに出てくる。ワンフレーズを4〜5音節にするための修辞法も見られる。英雄叙事詩と同じような表現も使われている。例えば、りりしい顔つきということを次のように言う。

ラメト
 イポ エイポットゥム ニウナタラ
rametok ipor / e-ipor-tumu- / niwnatara
(勇者の顔で、容貌が猛々しくなっている)

 また、「転がる輪のように」ものすごいスピードで走っていたオキキ
ムイ(偉い神)が、竜をやっつけるために家に弓矢を取りに行く様を次のように言う。

シネ チセ チセ ウ
 コラウォマ ホントモ タ ソヨテ
sine cise / cise upsor / korawosma / hontomo ta / soyoterke.
(一軒の家、家のふところに突っ込み、その途中で外に飛び出した)

 「突っ込み終わらないうちに出てきた」というのは、いかにも急いで出てきた感じがする、おもしろい表現である。さらに、この rawosma はもともと「ra-osma 下・に突っ込む」という意味なので、オキキ
ムイがまるで空を飛ぶかのごとく走っていたことを表しているように感じる。
 時間に追われながらの作業は確かに苦労だが、勉強すればするほどわかってくる内容の興味深さ、面白さに引き込まれて、私は日々楽しみながら作業を続けている。

 

◎ 昔話の倫理観について

 さて、実際にこの日記を書き連ねる暇もなく時は流れて、これを書いている現在(5月14日)にはすでにこちらの作業が一段落している。ツアーに宿題を持ち込んでホテルに缶詰で作業を行ったり、土壇場でマージン変更に四苦八苦したりと、いろいろな苦労話はあるが、私は苦しかった記憶はそんなに振り返らない主義である。とにかく、一応無事に終わってよかった。

 自分のホームページの更新でも始めるか、と気楽にテレビを見ながらパソコンに向かうと、なにやらテレビでおもしろい番組をやっている。とある局の朝のワイドショーで、今の日本昔話が子供向けの絵本にされる際、残酷描写や汚い表現をリアレンジされて、誰も死なない毒のない話に改変されているのはいかがなものか、という内容であった。例えば、おばあさんが狸に殺されて婆汁になってしまう昔話などはもってのほか、おばあさんは死なないし、狸も最後は改心してめでたしめでたし、という感じ。猿カニ合戦に登場する牛の糞は、何とコンブに変えられているというからお笑いである(コンブは北海道でとれるもので、例えば江戸時代には結構貴重品だったはず)。
 某絵本作家が「昔話が時代に合った変化をするのは当然のこと」と主張するのに、あの温厚な梨本さんが「それは違う」と喰ってかかったりと、なかなか番組としてエキサイティングであった。エキサイティングすぎて、見ていられなくなって途中でチャンネルを変えてしまった。

 伝承課程で自然に変化するならまだしも、「時代に合った変化」を一部の権威者が勝手に判断して、一般の人たちに強制するのはかなわない。確かに、今の時代には合わない表現があるという主張も、一理あるかも知れない。でも、伝承されてきた昔話には、些末な表現まで含めてそれなりの意味がある。
 残酷な話であっても、子供に敢えて聞かせることで、「こんなことは絶対にしてはいけない」「こんなことをしたら復讐にあって死ぬことになる」と心の底から教え諭すのが、昔話の特徴の一つである。一生忘れることのできない倫理観を、恐怖と共に反面教師として子供の心に残す。言葉は悪いかも知れないが、誰も死なないのでは、話としてパンチが弱くなってしまい、「よかったね」で、すぐ忘れてしまう。つまり、残酷さなどの刺激が、話を覚える際の記憶力にも影響するのである。

 カムイユカのようなアイヌ口承文学の世界でも、同じ事が言える。私の愛読書である『アイヌの物語世界』(中川裕著)でも、そうした教育効果が言及されている。
 『アイヌ神謡集』にはこういう話がある。
 悪い心を持つキツネが暴風の魔を呼んで、人間の舟を嵐に巻き込ませて、乗っていた三人の内二人を殺してしまう。もう一人もあと少しというところで、怒った彼の放った矢によってキツネは首を射抜かれてしまう。キツネは、苦しみのあまり昼も夜も七転八倒しながら意識を失う。ただの人間と思って見くびっていたのに、彼はオキキ
ムイという偉い神であった。キツネは彼の家に連れて行かれて、「位の高いキツネの神様は、死に方も見事なものですね」と皮肉を言われて、上顎をオキキムイの便所の土台に、下顎をオキキムイの妻の便所の土台にされて、体も腐って、悪臭に苦しみながら死んでしまう。だからこれからのキツネたちよ、悪い心を持つな、という話。
 こういう話を誰も死なない筋書きに改変することはできない。文字通りお話にならないのである。
 問題は死や残酷さではなく、ものの道理を教えることだ。物語の登場人物たちは、それを自分の命を賭して子供たちにわかりやすく示しているとも考えられる。

 子供に丹念にトゲを取った魚ばかりを食べさせ続けていたら、骨の取り方やトゲを刺したときの痛さがいつまで経ってもわからずに、いつかひどい事になってしまうだろう。

 

 

片山 龍峯さんの想い出(2004年9月24日より) NEW!!

 

★ 訃報について

 片山龍峯さんについては、前の「アイヌ神謡集日記」◎ 片山龍峯さんについてでも触れています。
 私は、千葉大学内のアイヌ語同好会「パルンペ」でのおつきあいから十年あまり、いろいろ個人的にも、公私ともにお世話になった人でしたが、今年の8月にご病気のため亡くなりました。正直言って今でもショックです。

 片山龍峯さんの訃報を、友人の大野くんから聞いたのがつい先日でした。
 あまりにも突然の話だったので、最初は話をうまく認識できませんでした。私は大野くんとも「パルンペ」時代から親交があり、彼の誠実な人柄がわかっているため、まさかウソではないとは思うものの、にわかには信じられない気持ちだったのです。しかし、大野くんの「(千葉大学教授の)中川先生にも電話で確認しました」という一言で、ああ、やっぱり本当なんだと思って、返す言葉に詰まりました。
 中川裕教授と片山さんのお二人も、やはりパルンペでの交流があり、その後片山さんはアイヌ語関連の多くの著書で、中川先生にいろいろアイヌ語に関するご相談をされていました。パルンペの仲間たちとの、たとえつかの間でも有意義で楽しかった交流を思えば、この重い言葉にウソということはありえないのです。

 でも、あまりにも突然すぎました。聞けばもうお葬式も済んでいるとのこと。まさに電話の話の中だけなのです。これでは、片山さんがいなくなってしまったということがやっぱり腑に落ちなくて、私の心の中に、片山さんの部分だけポッカリと穴が空いてしまったのです。
 今でも、片山さんから何事もなかったように電話が掛かってきて、「浜田クン、それでね、またちょっとお願いできないかな?」などと、例によってちょっと無茶な日程で仕事の依頼が来るのではないか、とすら思えてしまうのです。

 私と片山さんとの個人的なおつきあいについて、ウェブ・サイト上に記すことに一抹の不安も感じます。しかし、私のページを訪れて下さったアイヌ語関連本の愛読者の方々が、せめて故人をしのぶ一助となるように、拙文にて私の片山さんとの想い出話を綴るのも無駄ではないと思って、あえてここに記します。

 

アイヌ語同好会「パルンペ」の想い出

 「アイヌ神謡集日記」◎ 片山龍峯さんについてで書いた通り、私は同好会「パルンペ」で片山さんと出会いました。「パルンペ」は、当時助教授だった千葉大学の中川裕先生が、一般の人たちを対象に開いていたアイヌ語・アイヌ文化同好会でした。私は、独学でアイヌ語の本を読んでいる頃、中川先生に「ファン・レター」を出した事があるのですが、光栄にもお返事をいただき、そこでだいたい二週間に一回(週末)、千葉大学の研究室で同好会が行われるということを知り、ドキドキしながら参加したのでした。この頃は、一般の人が参加できるアイヌ語の会というもの自体、ほとんどない時代でした(今でもあまり多くないですが)。

 パルンペではアイヌ語同人誌の制作を中心に、原稿検討会、アイヌ語勉強会、ビデオ鑑賞などが行われました。本で読むしかなかったアイヌ文化との関わりが、一気に現実として認識できるようになってきました。中川先生の研究室にあった山のようなアイヌ語関連本。当時は専門書や『バチラー辞典』を除いて、まともなアイヌ語辞書が一冊もなかったのですが、通称『久保寺辞典』と呼ばれる久保寺逸彦の辞書資料の存在に驚いたりしていました。
 成田さん、丹菊クン、大野クンといった若い人たちとの出会い。そして1995年、初めて一般的なアイヌ語辞典として発刊される『アイヌ語千歳方言辞典』(中川裕著)の校正のお手伝いで、パルンペの有志の皆さんと共に、中川先生の家に泊まり込みで参加したことも良き思い出です。
 アイヌ語を勉強する上で、全てが大いに刺激になりました。

 パルンペは現在休止中のようですが、私はパルンペに集った1年ほどの間に、多くのことを学んだだけでなく、多くの仲間たちと共に勉強できるんだ、してもいいんだ、という心強さを得たのです。この経験が、私のアイヌタイムズの編集作業にも生きていると思っています。

 さてちょっと時代は戻って、片山さんとの出会い。なにぶん10年前の話で、細かいところはもう覚えていないのですが、パルンペの何度目かの検討会にて、中川先生の隣に座っていた人が最初は誰だかわからなくて(どこのおじさんかな?という感じ)、終わった後、中川先生からこの人が片山さんだと知らされてビックリ。
 「ええっ、あの『アイヌ語と日本語』の片山リューホーさん?」
 「いえ、タツミネです」
 という微笑ましい(?)やりとりが最初だったと思います。 

 千葉大学は私の住んでいた埼玉県浦和市からはちょっと遠くて、電車に乗っている時間が長かったのです。パルンペが終わって帰りの電車の中で、途中まで同好会仲間とともにそれぞれのアイヌ語体験について語り合うのも楽しいことでした。あの本の説はマユツバだとか、知里真志保の説によるとこうだとか、時には議論になることもありました。今にして思えば、当時アイヌ語で自己紹介すら満足にできなかった私が、よくこんな話し合いに参加できたとも思います。

 片山さんは、知里真志保の著書をよく研究していた人で、その後も折に触れて、知里真志保流とも言える「語源分解」の世界を追求されていたように感じます。その姿勢は、最後の著書となった『アイヌ神謡集を読みとく』でも変わらなかったと思われます。
 今でも覚えているのは、例によって帰りの電車の中で、私が「osoma うんち(する)」という自動詞の語源について「os-oma 後ろ・に出る」ではないか、また「osor お尻」は「os-or 後ろ・の所」ではないかという自説を出したところ、おもしろい説だけど「oma」はただ「存在する」ということなので違うのでは、という旨の反論をされて、お互いに熱っぽく語ったりしました。
 また、別の方の著作で、アイヌ語学者・知里真志保についてこっぴどい批判を展開しているAという奇観本があるのですが、私が無邪気にも「Aには意外におもしろい説もある」と言うと、片山さんは「いや、そんな本は読まない方がいい」ときっぱりと言ったりして、いろんな意味で熱く語る人だなあと思いました。

 でも、決して自説を曲げない頑固な人なのではなく、むしろその反対にいろんな人の意見を参考にして真実に近づこうとする、懐の深い人でした。後に片山さんが、アイヌ語新聞編集をなんとか続けていた私に、光栄にも著作校正への参加を呼びかけてくださったのも、私のような若輩者の生意気な意見でもきちんと聞いてくれた、片山さんの人徳の故でもあったと思うのです。

 

★ 『ウパクマ』制作の想い出

 今にして思えば、片山さんは、一心不乱に、まるで何かに急かされるように物事に打ち込んだ人だと私には感じられます。

 私が初めてアイヌ語絵本『ウパクマ1』(中本ムツ子語り、片山龍峯著のアイヌ語絵本・解説書)の校正・入力作業の話をいただいたのは、1998年暮れの話だったと記憶しています。
 当時、私は父をガンで亡くしたばかりで、まだ悲しみが癒えないままの作業になるため、本当は最初お断りしようと思っていたのです。しかし、「アイヌ語の校正作業は誰にでもできるというモノではない」「『カムイユカ
』の制作でお世話になったAさんは、今回都合のためできない」「アイヌ語に詳しい浜田クンに頼むのが一番いいと思って」などとお言葉をいただきました。その熱のこもった、というかせっぱ詰まったような言葉にほだされて、私のような者でも少しでもお役に立てるならと思い直して、お引き受けしました。
 また、仮にお引き受けするにしても、少なくともちょっとインターバルが欲しかったのですが、機構から出版助成をもらうため日程が決まっているので、今すぐ取りかかりたいとの事。

 印刷所にあるものと同じDTPソフトを、私のPCへの入力作業のためだけに購入していただいたりもしました。片山さんは、本業がお忙しい中、たびたび北海道に来ては、千歳の中本ムツ子さんの元でお話の収録、画家の西山史真子さんとの打ち合わせ、さらに札幌の印刷所(きかんし印刷)で私との打ち合わせなど、いろいろと大変だったと思います。
 今だから言いますが、『ウパ
クマ1』は大変な難産の末に生まれました。私も初めての体験で本の制作に慣れていなかったというのもありますが、レイアウトが二転三転したり、なかなか絵が上がってこなかったり、片山さんの追加執筆が滞ったり、マックとウィンドウズの間で文字化けが起こったりと、何かやるたびに面倒が起こりました。たまたま制作時期が冬だったので私も時間が取れましたが、そうでなければマズイところだったと思います。

 まさに万難を排して期日までの完成を目指して、努力の末にいったん初版が出来たのですが、完成を急いだあまり、いろいろと不備が見えてきました。本の厚さが薄く見えたのでもっとツカを増やしたいとか、色校の検討が不十分なのでもっと改善したいなど、どんどん改善点が出てきてしまい、片山さんは何と版を差し替え、全面的に本を作り直してしまったのです。今店頭で見ることのできる『ウパクマ1』は、その改善後の版なのです。
 片山さんはお仕事でたびたび海外に行っていたり、私も色校については素人だったりと、マイナス要因も重なりましたが、やはり私には「片山さん、こんなに急がなくても...」と思われたのです。

 でも、何か大きな事を成す人は、細かい障害や批判、慎重論を抑えて、とにかく行動を起こすという強固なエネルギーを持っているものです。万全を期した余り、例えば10年後に完全版が出ました、というのではあまり意味がありません。私はこの作業を通じて、片山さんからそういうエネルギーを分けてもらったような気がします。

 『ウパクマ2』は、そこからすればずいぶん作り慣れたところがあり、『1』ほどは難航しなかったように記憶しています。

 

★ 『アイヌ神謡集を読みとく』制作の想い出

 片山さんの『ウパクマ1、2』は、絵本という視覚に訴える本にしたのが功を奏していて、解説部分抜きでも楽しめる本になっていますが、やはり片山さんの解説が持つ、独特の語り口の魅力を無視することはできません。単なるうんちくだけでなく、多くの記述で多面的に考えさせること、そして問題提起が含まれている点は、もっと注目してほしいと思います。

 そしてしばらく時が流れ、私が最初に『アイヌ神謡集を読みとく』制作の話をお聞きしたのが2002年暮れだったと思います。知里幸恵の不朽の名作『アイヌ神謡集』の解説と神謡の復活という大きなテーマ。今までの口承文芸を録音したもののテキスト化という流れとは全くアプローチが反対で、テキストから実際の神謡を捉え直していくことになります。今までの本とはまるで違う構想だったので、私はどことなく半信半疑で、一番最初は「本当にやるのかな?」と思って、最初から泣きを入れてしまいました。

 「アイヌ神謡集なら、切替さんが辞典を出されていますよね?」「新たな解説は要らないんじゃ?」
 「行数が4つになると、レイアウトが難しいですね」「えっ?英訳も付ける?ウソ...」
 「ページ数がもの凄く厚くなります」「なんと、5月締め切り? ム、ムリっすよ...」
 私の受け答えはこんな感じでしたが、片山さんは大変すまなそうにしつつも、

 「うん、そうだね。...でもやろうよ!」「うん、もう決めた、これで行こう!」
 「札幌で待ち合わせね。ヨドバシカメラのマクドナルドで。」
 という感じで、全くかみ合わない。こういうやりとりがまたおかしくて、やっぱりこの人のお手伝いをしていると楽しいなあ、と私は思うのでした。そう、片山さんが札幌に来ると、待ち合わせの場所はいつもヨドバシカメラのマクドナルドでした。今となっては懐かしいです。

 ともかく2003年1月から実際の作業が本格化していきました。
 細々した作業の話は単なる苦労話と思われるのもしゃくなので、先の随筆には書きませんでした。ここで改めて思い起こすと、本文のテキスト化に始まり、片山さんの意訳、新表記、逐語訳、単語の位置合わせ、解説文の検討、アイヌ語解釈の再吟味など、片山さんにいろいろ教わり、こちらからも気がついた点をメールでお知らせしながら、少しずつ積み上げていきました。
 私はテキストや解説・グロッサリがらみの苦労でまだ済んでいたのですが、片山さんは実際の神謡がどういうメロディーだったかの調査、中本ムツ子さんを謡い手とした録音・編集作業、貝澤ジュリーさんへの英語対訳依頼、またテキスト入力請負さんへの分担作業の根回しなど、総合的なプロデュースをやっていました。仕事をしながらの作業は、熾烈を極めたに違いありません。

◆ 苦難を乗り越えて: NEW!!

 私も個人的には、ちょうどこの年の3〜4月に本州ツアーが2つも入り、ツアー先のホテルなどで版下校正という修羅場を経験しました。特に最初のツアーでは風邪までひいてしまい、さらに2回目のツアーではホテルに缶詰状態になるなど、子細は当ホームページの「ライブ日記」でも詳しく書きました。
 その間にも片山さんは、仕上がった解説部分やテキストデータなどをメールで私に送りましたが、あらゆるデータが揃って初めて内容の不備に気づいたりして、校正が必要な箇所は私たちにも把握しきれないくらい膨大になっていきました。テキストの量は単純に言えば前作、前々作の3倍ほどになったでしょうか。片山さんとのメールのやりとりは合計200通近くに及びました。

 ツアーから戻って4月末、私のプリンタでやっと全てのデータを紙出力して、そこに自分でできる限り朱書きで校正したものを片山さんに渡し、東京の印刷所にもデジタルデータを渡して青焼きという状態になりました。私は北海道で遠く離れていたため、最後の校正は片山さんが行いました。
 しかしここで手違いが起こったことを、私は(書こうかどうか迷いましたが)書きます。
 片山さんは、本当に時間に追いつめられて焦っていたようで、校正を急ぐあまり、印刷所の青焼きを見ずに、私の紙出力データでのみ最終校正をされたそうなのです。そのため、私の Windows 環境と印刷所の Mac 環境の差が出てしまって、青焼きでは機種依存文字(例えば英字のカギカッコなど)の文字化けが出ていたのを見落としてしまったのです。

 片山さんの名誉のために敢えて申しますが、これは印刷所にも、そして私にも責任があります。というのも、版下データを作った私が Windows 環境だったことは印刷所も知っていた上に、機種依存の文字化けは、ごく一部の文字に限って必ず起こるハード的な問題なので(しかも同一機種間ではこの問題に気づけません)、印刷所としても回避をはかるべきなのです。この種の文字化けは、前々作の『ウパクマ1』(1999)制作時、札幌の印刷所とのやりとりにおいて、すでに私も認識していたので、ここでも朱書きの校正の最初にはその旨を確かに書いたのですが、結局それは生かされませんでした。私も、関係者にもっと強く注意を喚起すべきだったと思います。

 ここで責任問題を云々するのは本意ではありません。結局、その問題も含めて一部の校正を施した第二版も出たのですが、このミステイクも片山さんの心労に繋がったはずです。片山さんからの電話越しの声が、非常に疲れているように感じたのはこの辺りだったと思います。第二版の校正を私と友人の大野くんに任せて、お仕事で海外に行くという電話をもらったときの、声の弱々しさは今でも覚えています。
 あらゆる意味で全力を出し尽くした著作だったと思うのです。

 ともかく、この本の価値は不変です。
 多くの『アイヌ神謡集』解説本の中でも、その多岐にわたる卓見を含む解説、学術研究論文とはひと味違った親しみやすさ、そして何とか現代に知里幸恵の神謡を蘇らせようとする、アイヌ口承文芸への強い愛情が感じられる点で、私は特筆すべきだと思うのです。結果的に、新作としてはこれが片山さんの最後の著作になってしまいましたが、中本ムツ子さんの素晴らしい神謡の響きをCDで聴くたびに、これが、あの片山さんの望んでいた「現代に生きる神謡」だと感じ、胸が熱くなるのです。
 願わくば、もっと多くの方たちに知っていただきたいと思います。

 

★ その他の想い出 NEW!!

 

(追加執筆予定)

 

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