ラグタイム・ギターについて(2001年11月14日更新)

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 1.ラグタイム・ギターの歴史

ストリング・ラグタイム

フォーク(ジャズ)・ギタリストによるクラシック・ラグ

クラシック・ギタリストによるクラシック・ラグ NEW!!

 2.ギタリストによるオリジナルのクラシック・ラグへの道

海外の例

国内の例

オリジナル・クラシック・ラグ実現のための要点

まとめ

 3.ラグタイム・ギター曲のリスト(別ページ)

 

 

 ギターによるラグタイムと言えば、一般には Blind Blake を頂点としたラグタイム・ブルース・ギターや、Merle Travis らがカントリー音楽の中で表現したギャロッピング・ギターを指すことが多い。しかし、決してそれだけではないことを私は力説したい。きちんとリサーチすれば、もっと多くのギター音楽がラグタイムに影響されていることがわかるはずだが、一つ一つの影響について語る余裕はない。ここでは曲がりなりにも「クラシック・ラグ」のイメージを保持したラグタイム・ギターについて解説していく(ラグタイム・ブルース・ギターとギャロッピング・ギターは除外する)。

 

1.ラグタイム・ギターの歴史(敬称略)

 まず、初期のカントリーとも言える「ストリング・アンサンブルによるラグタイム」(例えば Dallas String Band の「Dallas Rag」や Doc Watson の「Black Mountain Rag」など)が、ギターの関わったラグタイムとしてはおそらくもっとも古い独自の歴史を持つ。ジョプリンの「エンターテナー」(1902)がマンドリン・アンサンブルに捧げられた曲だという事実を考えると、少なくともピアノ・ラグと同時期か、もっと古い可能性も考えられる。そこでは、ラグがリールやジグなどの舞曲形式とほぼ同じ扱いで演奏されていることが多い。もともと、このような欧州の古い舞曲とラグタイムの同祖関係を取りざたする人もいるくらいなので、そういう扱いは無理もないことである(ただしこれは誤解である。ラグタイムのルーツまたは系統論に関しては、「ラグタイムのルーツ、近しい音楽について」で解説している)。

 ストリング・アンサンブルにおける主役楽器は、残念ながらギターではなくマンドリンやバンジョーだった。特に、1900-1910年代当時としては先駆的なレコード録音を残したバンジョーのヴァーチュオーソ、Vess L. Ossman(1868-1923)と Fred Van Eps(1878-1960)の神業的演奏は、弦楽器によるラグタイムの新たな可能性を示していた。

 

 しかし、ソロ・ギターによる純粋なクラシック・ラグ演奏の試みは、ギターが一般的に普及しだした1920年代以降からさらに時代を下って、1950年代から始まったフォークやカントリー・ブルースの復興運動からもやや遅れて、Dave (David) LaibmanDave Van Ronk によって、やっと1960年代から始まった。ラグタイム・リバイバルの台頭と、ギター・ミュージックの隆盛の描くバイオリズムが、やっとここで一致したと見ることができそうだ。それが結実したのは、奇しくも映画「スティング」の公開年と同じ、1971年のLP「The New Ragtime Guitar/David Laibman & Eric Schoenberg」(スチール弦)である。このアルバムは、クラシック・ラグタイム・ギター編曲の先駆けとなった。

 特に Dave (David) Laibman の功績は、クラシック・ラグタイム・ギターの偉大な金字塔だ。先のデュオ盤や数種のオムニバス盤への参加はあるものの、ソロ・アルバムは唯一「Classical Ragtime Guitar」(1981)のみだが(再発CDは除く)、そのマニアックな選曲、超絶の編曲・演奏技能、ラグへの愛情に満ちた熱演は、多くのギタリストのあこがれである。彼の優れた編曲は、Stefan Grossman をはじめ多くのギタリストが取り上げた。また、クラシック・ラグのみならず、ストリング・ラグタイムである「Dallas Rag」を取り上げたり、ノベルティーの「Nola」を快演したりと、音楽的幅の広さも魅力である。

 さて、クラシック・ラグタイム・ギターの歴史に触れる際には、キッキング・ミュール(Kicking Mule)のギタリストを外すわけにはいかない。彼らは1970年代前半から後半まで、Stefan Grossman らの呼びかけに応じ、アメリカをはじめ、欧米各国からキッキング・ミュール・レーベルに参加した。そしてその多くが「The New Ragtime Guitar/David Laibman & Eric Schoenberg」に追随して、多くのクラシック・ラグ編曲を残した。ただし、Dave Laibman の影響は無関係に、当時ちょうどリバイバルを迎えたラグタイムの趨勢からこれに取り組んだギタリストもいた。ともかく一時的にせよ、これほど多くのギタリストが一堂に会してラグ編曲を競い合ったレーベルは、後にも先にもキッキング・ミュール以外例がない。今となっては、貴重な文化だったと言えるだろう。現在、ギターによるラグ編曲という試みに一定の理解を示す人は、その多くがこの時代を経験していることからも、その計り知れない影響力がわかる。
 のちに、Shanachie がキッキング・ミュールの音源を使ったCDを再発している。

 キッキング・ミュールの魅力あるギタリストとして真っ先に挙げられるのは、オランダのギタリスト Ton Van Bergeyk(主にスチール弦)である。Stefan Grossman の影響でギターを始めたという彼は、バンジョー・ラグタイムの Fred Van Eps などから影響を受け、驚異的な早さでオリジナリティーを確立した。彼のダウンGチューニングなどを用いた生き生きとした編曲は、多くのギタリストの手本となった。また、今も精力的に活動する名ギタリストの Duck Baker(主にナイロン弦)も、味のあるアレンジを残している。彼は、全く独自にラグ編曲に取り組んだらしく、後に「自分以外にこんなことをやっている人がいるとは思わなかった」と振り返っている。当時から、ラグ編曲は革新的な試みだったことが想像できる。イギリスのフォーク・シンガー・ギタリストである John James の、楽しい演出を加えたラグ編曲もすばらしかった。その他にも、多くの才能あるギタリストがクラシック・ラグに取り組んだ。

 キッキング・ミュール以外からも、ブルース・シンガーでもある Rory Block(スチール弦)、ストライド・ギターの Guy Van Duser(ナイロン弦)、南米音楽が得意な Carlos Barbosa-Lima(ナイロン弦)、Steve Hancoff(スチール弦)、Joe Miller(スチール弦)などがこの試みをしている。それぞれ実力派のギタリストである。

追加(2001.11.7)

 今まで触れていなかったギタリストの中で、今ラグタイム界から最も注目されているのは、Bo Grumpus という3人組ラグタイム・ストリング・バンドのギタリスト/バンジョイストの Craig Ventresco(スチール弦)である。テリー・ズウィコフ監督の近年のアメリカ映画「Crumb」のサウンド・トラック演奏でも注目された(最近では映画「ゴーストワールド」に1曲参加、日本でもこのサントラ盤が発売されている)。彼のスタイルはブラインド・ブレイクなどのラグタイム・ブルースから発展して、スイング調、またオーセンティックなクラシック・ラグ編曲まで、かなり幅広く楽しいものである。現代ラグタイム・ギタリストの中では、日本でももっと評価されるべき人だと思う。

 

 一方、クラシック・ギタリストのラグタイムへの試みは、近年まで絶望的に少なかった。Leo Brouwer や John Williams など多くの著名なギタリストの取り上げ方は、「片手間」の感を拭えない。むしろ、無名のギタリスト Giovanni de Chiaro の意欲的な取り組みが特筆される。彼はスコット・ジョプリンのギター編曲アルバムを立て続けに4作出して、ラグタイム界を驚かせた。

 日本のクラシック・ギタリストでは、まず新間英雄が1980年代に行った本格的研究が注目に値する(実は、私もその影響下にある)。ドロップDでGの調を弾くというアイデアなど、今も傾聴に値する理論と豊富な知識が、一部の研究家の間で話題になった。彼の研究が一般に知られていないのは残念である。

 つい最近(2001年)、クラシック・ギタリストの上辻和信が、ジョプリンのピアノ曲を全て編曲し、55曲を何と4枚組みのCDにまとめるという快挙を達成した(『Ragtime for Guitar』)。Giovanni de Chiaro と同じく意欲的である。しかも、通常のナイロン弦ギターの他に、スチール弦を加えたダブルネック・ギターやエレキ・ギターの使用がユニークで、純粋なクラシック・ファンならずとも楽しめる力作である。

 彼等のように優れたクラシック・ギタリストの編曲は、フォーク・ブルースまたはジャズ・ギタリスト(これを執筆している私[浜田]も含めて)にはない、独特の丁寧なリリシズムがあり、こうした試みが多くのクラシック・ギタリストに、またジョプリンのラグタイム以外にも広がっていくことが、次の楽しみとなるだろう。

 

2.ギタリストによるオリジナルのクラシック・ラグへの道(敬称略)

 ギターによるオリジナルのクラシック・ラグという認識で曲を作る人は、海外を含めても非常に少ない。その原因はいろいろ考えられるが、やはり根本には、我々ギタリストのラグタイムに対する勉強不足、または動機の不足が挙げられるだろう。ストリング・ラグタイムやラグタイム・ブルースの延長でしかラグタイムを認識していない人が、特にギター・ファンに圧倒的に多いからだ。

 ここではまず、少ないながらオリジナルのクラシック・ラグと見ることのできそうな、過去の例を紹介していく。

 ・海外の例

 新間英雄は、南米パラグァイの Agustin Barrios Mangore(1885-1944)の曲の中に、クラシック・ラグの影響を感じさせる曲があることを示唆したことがある。確かに「マドリガル・ガヴォット」などはそういう感じもする。仮に偶然の一致だとしても、ロマン派音楽への強い傾倒、ソロ・ギターでシンコペーションの魅力を表現しようとしたその姿勢などには、明らかにラグタイム・ギタリストと共通する部分があった。

 時代は下って、キッキング・ミュールのギタリストの内、オランダの玄人好みのギタリスト Leo Wijncamp Jr. や、イギリスの John JamesDave Evans たちの独創的オリジナル曲にも、ラグタイムの要素がみられる。彼らは、ラグタイム・ブルースの世界から脱却して、転調を含んだ割と自由なシンコペーテッド音楽を編み出していた。いきなりノベルティやモダン・ラグに相当する音楽と見るのはやや乱暴だが、もともと「自由なシンコペーテッド音楽」だったラグタイムと非常に近しい音楽であるのは確かだ。

 イギリスの名ギタリスト John Renbourn は、John James との交流からクラシック・ラグに傾倒したらしく、『Hermit』(1976)で「John's Tune」と「Faro's Rag」という本格的なラグタイムの傑作を残している。ここでは主にクラシックの対位法を意識したと思われ、オルタネイト・ベースの呪縛から逃れて自由に書かれているが、メロディーはきちんとラグ風にシンコペートしていて、転調などの形式もクリアしている。これらはギターならではの新たなクラシック・ラグ表現として傑出していたが、この路線がその後のギタリストたちに受け継がれなかったのは残念である。レンボーン自身もその後ますます中世音楽に傾倒したため、こういうラグ風の曲はそのとき以来書いていないと言っていいだろう。

 また、Dakota Dave Hull の『Reunion Rag』(1991)にも数曲の転調を含んだギター・ラグがある。Dave Van Ronk の伝統をきちんとマスターした、すばらしいギター音楽だ。
 ストライド・ギタリストの Guy Van Duser の数少ないオリジナル曲の一つ「Seneca Slide」(アルバム『Stride Guitar』収録)は、まさにジェイムズ・P・ジョンソンの伝統を受け継いだストライドのノリを感じさせる珠玉の逸品である。

 もちろん転調にそれほどこだわらなければ、元イエスの Steve Howe、ベテランの Duck Baker、驚嘆すべき実力派 Eric Lugosch、カントリーまたはスイング系の Thom Blesh, Harvey Reed, Buster B. Jones, D.R. Auten, Mike Dowling など多くのギタリストのプレイにも、現代に生きるギター・ラグタイムが感じられる。
 新しいアコースティック・ギター音楽の潮流は、アジアの同胞・台湾にまで及んでいる。私が持っている二枚のオムニバス『Realms of Wind』(1998)『Portrait of Strings』(1999)は、ちょうど日本の『アコースティック・ブレス』シリーズに当たるもので、ハイ・レベルなアコースティック・ギターが楽しめる。その中でも、日本の歌謡曲のギター・ソロ編曲をしている Huei-Je Lin や、Jin-shing Wu のプレイがラグタイムを感じさせるが、ただしクラシック・ラグとまではいっていない。

 

 ・国内の例

 さて、日本において中川イサトによって開拓されたフィンガースタイル・ギターの文化の中でも、ギターによるラグタイムが盛んに演奏された時期(1970年代後半〜80年代前半)がある。ただ、多くは構成が2楽節で、転調せず、その意味ではストリング・ラグタイム、ラグタイム・ブルース系の曲と言えると思う。年代からもわかる通り、キッキング・ミュールなどの影響が大きい。新間英雄のラグタイム研究も、この時期とクロスしている。

 転調を含まないが、メロディーのイメージがクラシック・ラグに近い例としては、中川イサトの「Pepper And Salt Meet Rag」「Fickle Rag」「Yasu-Rag」「Stray Cat Two-Step」、マイナー調への転調を含む「らぐーん」などが挙げられるだろう。また中川イサトと同じく日本を代表するアコースティック・ギタリスト、岡崎倫典のオリジナル曲には、ニューミュージック系のポップな感覚が生きている。形式を逃れたより自由なシンコペイテッド音楽として見れば、ラグとの共通点が多いと思う。さらに、小松原俊、岸部眞明、打田十紀夫、押尾コータロー、夢和など多くの日本のギタリストにも、ラグタイムの影響が感じられる。

 新間英雄は、純粋なクラシック・ギター界から転身し、ラグタイムの研究を行う段階で、多くのオリジナルのクラシック・ラグを残している。少なくとも1984年には、3ヶ月の間に20数曲ものオリジナル・ラグを作ったという。私(浜田隆史)は、彼との交流の前から自作のクラシック・ラグを作ってはいたが、やはり彼の影響なしにはここまでクラシック・ラグに傾倒しなかった。私は、1986年の「Digital Delay Rag」以降、現在までに40数曲のクラシック・ラグ風オリジナル曲を作っている。その中の「Beginner's Luck Rag」は、新間英雄の方法論に基づいて作曲された。

 先のガイ・バン・デューサーに影響を受けた日本のギタリスト&シンガー・星野孝雄は、1987年から現在までテレホン・サービス(0798-40-2460、かかるのは電話代だけで、Q2ダイヤルではない)という形で自らのギター演奏を公開している。メインといえるスイング・ジャズのレパートリーの他にも、クラシック・ラグのアレンジや自作のラグを発表している。まさにストライド・ギターの真骨頂と言える彼の音楽はもっともっと評価されるべきであり、未だ出ていないようだがぜひともきちんとしたアルバムで聴きたいところである。未聴の方は、ぜひ彼の音楽に触れていただきたい。

 また、近年日本の自由なアコースティック・ギター音楽の普及に伴い、新しい動きも出てきた。例えば、私も第二作目から参加しているオムニバスCD『アコースティック・ブレス』シリーズ(1998〜)がそれである。ウインダム・ヒルからの影響が感じられる中で、数人の参加者はラグタイムに接近した曲も発表している。特に、最新作『A Long Way to Go』(2001)に収められた北村昌陽の「Sunday Afternoon Rag」は、転調をクリアした完全なクラシック・ラグといえる。Dakota Dave Hull を思わせる優れたオリジナルで、近年のギター音楽においてはとても希有なことだと思う。

 

 ・オリジナル・クラシック・ラグ実現のための要点

1.作曲論

 私のホームページが出来てからすでに半年以上が経過しているが、その間も「ギターによるオリジナル・クラシック・ラグ」がどこかで新たに生まれたという話は聞かない。私は、ピアノとは違う独自のギター・ラグタイム曲がどんどん生まれてくる事を切に希望している。ここでは、ギターによるオリジナル・ラグ作曲実現のための考え方、つまり作曲論を書いてみたい。

 ギターによる作曲は、ピアノでの作曲よりも、楽器としての制約に拘束されてしまう傾向が強い。アメリカン・フィンガースタイルによるギター・ソロと言う発想自体も、大雑把に見れば1959年のジョン・フェイにまでしか遡ることが出来ないので、それほど歴史あるものとはいえない。よって、安易な響きのアルペジオだけで満足せずに、もっといろいろな伝統ある音楽に対して試行錯誤しなければ、音楽の底が浅くなってしまう。クラシック・ラグは、そのいろんな音楽の一つと捉えることが望ましいし、そういう意味では理想的な題材でもある。

 作曲には、当然ながら土台となる音楽に対する愛情が不可欠だ。まずラグタイムならラグタイムを徹底的に聞き込む事をお勧めする。よく「ギター以外の音楽も聴かなければ音楽が狭くなる」といって、いやいや三味線や現代音楽などを聞きあさる人もいるが、その音楽に対する愛情を育てる事が第一歩だと思う。「批判とメディア」のページでも書いたが、「好きになる」ということには、想像以上の努力と勉強が必要だ。ちょっと興味本位で聞いてみるだけでは、わからない事がたくさんあり、わからないものを好きになる余地は生まれてこない。例えが突飛かもしれないが、物理学を相当勉強しなければ、アインシュタインに詩人を感じる事はないであろう。クラシック・ラグがそれほど好きでない人が、その実現のためにギターで四苦八苦する意義はきわめて小さい。
 知識としてのみ対象を認識し、「こんなものだ」と冷めた感覚で作った曲は、しょせんそれ以上のものにはならない(クラシック界が素材として取り上げるラグタイムがいい例だ)。言葉は悪いが、一度バカになるまで正々堂々と対象に没入し愛することが、作曲にとっても、そしてその人の人生にとっても、非常に尊いことだと思う。

 作曲には、大きく2つの精神的アプローチがある。まず、その好きになったエネルギーの命ずるままに、それを真似た曲を作ってしまう事。いわゆるパクリである。これは一種の愛情表現であり、クリエイティブな作品の礎になる一方、新たなものを生み出す事は少ない。
 そして、そこまで徹底的に没入したら、必ずどこかで「飽き」が来るはずだ。再三述べているようにクラシック・ラグの形式は一定なので、「飽き」の到来はひょっとしたら他のジャンルより早いかもしれない。また、好きになっている最中でも、「ここはもう少し...」と別の展開を期待する事もあるかと思う。このように、従来の樂曲に不満を抱くようになるまで聞きこめば、おのずと自分なりの新たな動機が生まれてくる。これが第二のアプローチであり、不満をエネルギーとする表現であることから、第一のアプローチとはちょうど反対だ。もちろん、実際はこの二つの愛憎が同時に絡み合いながら曲が生まれてくる。

 ただし、第二のアプローチも「全く新たな発想」とは言えないことが多い。この二次的な動機の中身を見ると、それまで自分が聞いてきた別のジャンルの音楽の節回しだったり、同じジャンルの中でも別の曲の印象を生かしたものだったりで、結局本当に自分独自のものであるメロディーを考案するという事はまずないだろう。西洋音階は12の音しかなく進行も規則があるので、あとは複雑ではあるが組み合わせやパターンの問題だ(この束縛から解脱した音楽は、西洋では12音技法を使った音楽しかないが、私は個人的に全然面白く聞こえない)。
 オリジナルの出自が複雑過ぎて、自分でもわからなくなっているだけで、私たちは例外なく、過去からの音楽遺産に生かされながら自分の音楽を紡いでいるのである。作曲には、この「自分でもわからない」状態になることが必要であり、それがひいてはクリエイティブな動機になっていく。いつまでも過去の音楽をそのままありがたがっているだけでは、新しい「組み合わせ」は何も生まれてこない。

 

2.ギターとクラシック・ラグの作曲

 少し話がギターから離れたので、ギターならではの話に戻ろう。まず、ギターに長年染み付いてきたAB型(血液型ではなく楽節構成のこと)のラグタイム・ブルース的な発想を払拭する事が必要になる。もっと簡単に言えば、変奏ではないオリジナルの楽節を3つ以上作る努力をしなければならない。クラシック・ラグに必ず出てくる「転調」をクリアする方法など、形式的な知識の一部は「ラグタイム・ギターの方法論」(現在再検討中のため、閲覧不可)ですでに述べたが、ここではもう少し一般論的な話をする。

 一般の作曲論では、「凝りすぎて余計なものを作らない」「一つのテーマやリフを生かす」など、一曲としてのまとまりを奨励する場合が多い。結構なことだが、ともすればそれは、音楽を小さくまとめようというつまらない態度に堕してしまうことも少なくない。多くのフォーク・ミュージシャンが、転調した音楽に意義を見いださないのは、転調がギターでは難しいということ以外に、フォークやカントリー・ミュージックのような美しいメロディーの構成だけで良しとする、冒険心のなさが大きく関わっているかも知れない。またジャズも、主題と変奏という形式にこだわりすぎて、大きく見れば主題から全く音楽的に動かないものになってしまうこともある。

 それに対して、ラグタイムが用いているソナタ・ロンド形式は組曲形式である。つまり、クラシック・ラグは組曲だということを、ギタリストはもっと認識すべきだ。クラシック・ラグにおける第三楽節以降は、AB構成の単なるおまけやオプションではないのである。ジョプリンの「Solace」やランプの「Creole Bells」などは、第三楽節以降の方が有名ですらある。組曲は、楽節間でほとんど相関性のないメロディー、つまり「多くのテーマやリフを繋げる」技術だとも言える。実際、クラシック・ラグにはメドレーが多い。これによる音楽的な広がりの可能性は、音楽家として是非チャレンジする甲斐のあるものだと私は信じる。当たり前だがクラシック作曲家は、比較的簡単なソナタなど及びもつかないような、もっともっと長大な構成を持つ作品にも取り組んでいる。これしきで音を上げてはいけない。

 異なる楽節の接合にまったく構成感覚が要らないかといえば、やはりそんなことはない。サビに適するメロディーやコード進行というものも、当然ある。例えば、サビのBやDパート頭で主和音を外し、属和音または下属和音から始まる構成は、割と定番である。もちろん、Arthur Marshall が「Swipesy」Dパートで見せてくれたように、堂々と主和音を使って、逆の意味で意表を突く繋ぎ方もある。私は自作の「平和の朝」などで、接合前に部分転調を試している(James Scott の影響)。異なる楽節をどう接合させるかというテーマは、一筋縄では行かない。しかし、AB構成の音楽とはそのバリエーションが全然違い、逆に言えば大変やりがいのあるテーマだと言える。

 とりあえず、初めてのギターによるクラシック・ラグ作曲には、核となる楽節とそれを受けるサビ楽節、そして全く関係のない転調後の楽節という「3楽節ラグ」の構成が適していると思う。ギターによる転調をC−Dと通じて維持するのは確かに難しいので、転調後はCのみの一楽節、終止した後はすぐにAやBに戻ってしまえばいいのだ。これなら、AB構成の拡張形的に作れそうだ。ただし、Cは必ず一度終止させること。ここを部分転調のパートにしてしまえば、組曲にならなくなってしまう。2つ以上の異なる終止があるからこそ、組曲と呼ぶのである。ちなみに確認しておくと、クラシック・ラグの通常の1楽節は16小節が基本、またCで(まれにBでも)必ず一度完全に転調しなければならない。

 3楽節ラグの構成は比較的簡単だが、注意すべきことが一つある。それは、最後に持ってくる楽節をAにすべきか、Bにすべきかという問題である。ちなみに、ピアノでは圧倒的にBで終わる場合が多い。ラグタイムという音楽形式が、本来は主題からの展開ではなく接合曲形式であるということが、BやDといったサビ楽節で終わる例が多いことからも推察できる。言い換えれば、BやDは本来「サビ」ではないのである。対して、ギターの小品は、主題に戻る傾向の曲が多い。やはり一曲としてのまとまり、循環、調和を大事にしているようだ。私も、自作のギター・ラグに関して言えば、「オタモイ・ラグ」「蘭島」などAで終わる曲が少し多い。
 もちろんどちらが良いという問題ではないが、主題回帰の傾向は、複数の楽節の音楽的充実が求められるクラシック・ラグにおいては、A以外の楽節の力不足をまねきやすいので、それだけは注意しなければならない。

 また、必要に応じてイントロ(前奏)やインタールード(間奏)を設定すると、性急さを抑えて格調が出ることが多い。通常はそれぞれ4小節であるが、その限りではない。そのモチーフは、全く他の楽節に関係のないものを持ってくる場合もあるにはあるが、それよりは他の楽節の印象的なメロディーやその音型を元に作る場合が多い。例えば、私の「キャッツ・アイ・ラグ」のイントロはAの冒頭部分、「デジタル・ディレイ・ラグ」のイントロはAの小サビ(7〜8小節目)の部分、「オタルナイ・ラグ」のイントロはBの冒頭部分、「ラグタイム・シサム」の間奏はCの冒頭部分が、それぞれのモチーフである。曲の導入部をスムーズに聴かせることもテクニックの一つであるし、逆に、思いついたイントロから展開して本楽節の曲想を膨らませることもよく行われる手だ。

 さて、3楽節ラグの構成に慣れたら、次はいよいよ本格的な「4楽節ラグ」の実践といきたい。特にピアノにおいて、4楽節ラグの理論上最も簡単な道は、3楽節ラグのBパートなどをCと同じ調に転調させて繰り返すこと。これはいわば「疑似4楽節ラグ」と呼べる。例えばジェームズ・スコットの「Sunburst Rag」や「Great Scott Rag」は、まさにそういう曲である。
 ただし、Bを転調してそっくり繰り返すのはギターではかなり難しく、実際はお勧めできない。むしろ、Bをモチーフにした新たな展開をDに付加する方が、転調後も全く同じ音型を維持するより簡単だし、音楽的にクリエイティブですらある。これなら、弾きやすい音を選ぶ余地も生まれるので一石二鳥だ。これが私の考える、ギターにおける最も簡便な4楽節ラグDの作曲法である。実際の例としては、私の「台湾からの手紙」が、Bの転調形をモチーフにしてDの新たな展開を呼び込んでいる。「オタルナイ・ラグ」も、DはBのケークウォーク的音型を流用・強調して、新たなメロディーを作っている。

 もともと転調とは、同じ調の中でマンネリ化しやすい音楽に新たな展開を導くものであり、それによって曲想を膨らませるのが本来の目的である。ギターにおいてそっくりそのままの転調が難しいと言うことは確かに楽器としての欠点だが、それを逆手に取ってモチーフを再活用していけば、その欠点は作曲においてはむしろ長所に変わる。ギター・ラグでは、そういう視点で転調をクリアしていきたい。

 最後に、本格的なラグタイム作曲のための考え方についてもう少し触れたい。

 ラグタイムの音楽的特徴の詳細に関しては割愛するが、形式論はかなり大きな意味を持っている。何事も形は大事なので、まずそこから勉強していけば得るものは大きい。
 過去のラグタイムの名曲が、どういう楽節構成、どういう調の選択をしているかを考えるだけでも、ラグタイムの作曲に大きなアドバンテージを与える。ジョプリンラグならではの構成、マイナー・キーを効果的に使った初期のラグタイムの割と自由な構成など。より具体的には、オルタネイト・ベースの接合を遅らせる「伴奏遅延」や「ストップ・タイム」のテクニック、ジャズやモダン・ラグに多い方法だが1楽節16小節という制約を一部打ち破る「変奏」「楽節内リピート」の考え方など、既存のラグタイムの様々なバリエーションを、理屈ではなく心の中で感じながらストックしていくこと。ここまで来たら形式の検討だけでも立派な作曲である。
 屋台骨がしっかりしていれば、他のジャンルの音楽要素の挿入もしやすくなる。これらの考え方は、決まった構成により行き詰まりやすいラグの作曲に変化を与えることになろう。そうして、ピアノの特徴を感覚で覚えてストックしていき、それをギターでどういう表現に置き換えていけばよいのかを検討する。実は考えが及ばなかっただけで、ちょっと工夫すればピアノに負けないアレンジができるのかも知れない。まず形の検討からである。

 一番忘れてはいけないことは、ラグタイムは何と言っても音楽スタイルの一つであり、それ以上でもそれ以下でもないこと。新間英雄さんがよく書かれていたのは、「どんな曲でもラグタイム風に演奏することができる以上、それは音楽のスタイルである」ということ。「浜辺の歌」や童謡までラグタイムにアレンジしてしまった新間さんらしい言葉である。私たちは、ラグタイムを愛するあまり、そして素晴らしいラグに感動するあまり「ラグタイムだから素晴らしい」と思ってしまうこともある。しかし、それは誤解であり、ラグタイム形式によるインスピレーションが作曲者を心地よく刺激するかどうかが問題なのである。
 最初の作曲論に戻ってしまうが、この形式でどうがんばってもやはりインスピレーションが湧かないときは、無理に作曲することを私は勧めない。しかし、願わくば多くのギタリストが、クラシック・ラグタイムの素晴らしいギター演奏で盛り上がってくれることを切に願うものである。

 

 ・まとめ

 フィンガースタイル・ギターの音楽性は、この数十年間で飛躍的に多様化した。何もクラシック・ラグにこだわらなくても、シンコペーションの魅力は十分表現できる。一般に、一つのジャンルにこだわりすぎれば、そこでマンネリを引き起こしてしまう。ラグタイムに Terra Verde という考え方が生まれたことは、その意味では自然だ。しかし、それはあくまで一つのジャンルをマスターした上でのバリエーションの問題だ。クラシック・ラグの伝統を深く理解し、その上で自分の視点を加えていくことは、音楽の新たな展開を切り開く道として、私は有意義だと感じている。

 

3.ラグタイム・ギター曲のリスト(別ページ)

 

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