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【ち】

ち【血】[名詞]
 @血液。リンパ液、だ液、涙、汗、目やに、鼻汁、胃液、胆汁、その他の分泌液、精液、おしっこなどと同じく体液の一種。その中でも、何とガンにかかる可能性があるのが珍しいところ。心臓というポンプから血管を通して全身にくまなく流れ、体に必要な物質を運んだり、よくわからないがいろいろな役目を果たす。普通の人間の血は赤いが、思考の善悪によって青くなったり黒くなったりすることもあるし、末代まで汚れることもあるらしい。バケモノの血は緑色なのが相場だが、これはゴールデンタイムの怪獣番組が、優しい色の血で刺激を抑えたいと配慮した結果だと言える。
 A血縁関係を表す。扶養関係や肉体関係は表さない。例1:「血を分けた兄弟」。しかし実際には、別にどっちかが流した血をどっちかが吸っている訳ではない。例2:「父から受け継いだ芸術家の血」。芸術センスが遺伝するかどうかは異論のあるところだが、しかし実際には、父子二人して奇妙な人生を送って母を困らせているだけの、はた迷惑な奴らであることは確かだ。
 B血(A)の用法を拡大解釈した表現として、文化の地域性・民族性・国民性を誇張した比喩表現にも使われる。例3:「彼らにはブルースの血が流れているんだよ」「やっぱり日本人の血が騒ぐぜ」。ある種の文化におけるマニアックな愛好家・信奉者・評論家がそういう比喩をよく持ちだして、本場の自然な素晴らしさや地域的連帯感をうたい上げ、よそ者の不自然な模倣者を一刀両断に切り捨てる。血を完全に本場の人と入れ替えることはできないので、この意味では文化の模倣者にはほとんど改善の余地がない。しかし、人間の文化の本質は、精神的な技術つまり知恵の積み重ねであり、ほとんどが後天的な努力によって修得できるものである。例えばアメリカ人だから三味線が弾けないと言うことはないし、日本人だから弾く権利があると言うものでもない。そのかわり、異文化の修得には、血を流すくらいの覚悟が必要なのも確かだ。アイヌ文化の例では、和人の子として生まれながら、幼くしてアイヌ民族に育てられ、苦労して激動の世を生き抜き、気がついたら立派な文化伝承者となっていた人もいることは事実である。「純血」への幻想は、まさに純血主義、ルーツ至上主義、文化的国粋主義へと続く狭い狭い思想である。さらに言えば、あらゆる文化は、伝搬課程で様々な人の手により変化していくのが興味深い点なのであり、「血」という比喩は人間生活の新たな可能性をも奪ってしまう。アメリカ音楽を多くレパートリーに取り入れている私は、決してこういう話をして自らに予防線を張っているのではないが...まじめすぎて説得力ないかな。

ちいささ【小ささ】[形容詞+接尾辞](補遺)
 形容詞「小さい」の名詞形で、小さいこと。相対的なものであり、相対する二者の大きさを比較することによって初めて生まれる概念である。物理的に小さいことも、心や器の小ささも表す。例:「自分の小ささに気がついた」。この種の言葉は、うっかり音声にして人に聞かせてしまった時点でアウト。自分の小ささを気にすること自体が小さいことにまず気が付かねばならない。小さくて悪いか。大海を知ったカワズの仲間たちにたいした大きさの違いなど無いし、海より大きいカワズなどいないのである。

ちから【力】[名詞](補遺)
 『大辞林 第二版』の記述を要約すると、一義的には「ものを動かす働き(筋力などの物理的な力)」、二義的には「心を動かす働き(心理的な力)」と見ることができる。後者はそもそも表現法として、前者の比喩から派生したと考えられる。後者をさらに分類すると、「権力」「国語力」「経済力」「統率力」など、対象の持つ具体的な能力を指す場合と、「愛の力」「友情の力」「運命の力」「やさしさが彼の力」「キミが私の力」など、いわばどうとでも解釈できる抽象的な能力を指す場合がある。歌詞の世界では、このわけがわからぬ抽象の力が大変もてはやされていて、類語の「強さ」とともに、歌詞や演劇の世界でのみ通用する、実体のない空虚なエネルギーを発散し続けている。分類に迷う微妙な使用例もいくつかあるが、ここでは「つらい時も笑える力」を挙げてみたい。これは一見、頬の筋力が強いことを表しているようにも見えるのだが、実際はそうではなく、面の皮が厚いこと、またはつぶしが効くことを表している。

ちけっとのるま【チケットノルマ】[名詞]
 催し物の必要経費を、お店(ライブハウス、ホール)側から出演者に分配する制度の一つ。出演者は、一定の枚数のチケット代金をお店に前払いすることで、その経費を肩代わりする。つまり、ライブの主催者はお店ではなくやっぱり出演者なのだということを、出演者に身を持って知らしめる制度。これ自体はすばらしく合理的なしくみだと思う。しかしこれによって、ライブハウスの多くは、ミュージシャンとの関係さえ切れなければ、死にものぐるいの集客活動をしなくても経営が成り立つようになる。ともすれば集客活動はもっぱら出演者の義務となり、出演者はわざわざノルマを払って、ついでにライブハウスの宣伝までさせられていることになる。ノルマを達成した後のささやかな売上すら、チャージバックでかすめ取るアコギな所もある。これは、いわば封建時代の地主と小作人のような関係に違いない。バンドブームが去り、ミュージシャンの数自体が少なくなってきているという事があり、どんなアーティストでもノルマさえ払えば出演できるお店もある。しかし私は、こと宣伝や集客に関してはお店にも責任の一端があるという事を強く主張したい。「お店」としての真剣な集客努力をするに値しないと判断されるようなスカタコなミュージシャンならば、最初から出演を拒否すればいい。それがプロの商売というものだ。学生はまだまだ参加することに意義がある程度なので、かわいそうにタダで友達にチケットを配りまくる奴もいる。恐喝まがいで押しつける奴もいる。ああ、まさにチケット残酷物語。

ちっぽけ【ちっぽけ】[形容動詞](補遺)
 『大辞林 第二版』によると、「小さく、とるにたらないさま」。歌詞の世界では、形容詞「小さい」の代わりに、より卑小な感じのする「ちっぽけな」を使うことが多い。実は全然そうじゃないと思っているのにわざとこの語を使う人も多く、これはすなわち巧妙な反語の一種である。例:「ちっぽけなボク」「ちっぽけな勇気」。このあざとい修辞により、良識ある聞き手は、彼の言わんとしていることが確かにちっぽけであることを理解するのである。→しがない

ちゃーじばっく【チャージバック】[名詞]
 チケット一枚あたりの売上高(ミュージック・チャージ)を、お店(主にライブハウス)側から出演者に定率で分配する制度。もちろん残りはお店側に入る。ミュージシャン側から見れば、たとえお客が少なくともとりあえず損はしないので、リスクが少なく有利な制度である。チャージバックの率はお店によって異なり、ある一定以上の枚数から適用される率が変わることもあり、マスターの性格やその日の気分によっても変わる場合がある。以前私は、とあるお店で、うっかりチャージバック率を確認せずにライブを敢行したことがある(プロ失格)。だがそこは何と、ホステスが行き交う夜の社交場だった。ソロライブのはずが、おいおい、ムード歌謡のバンドも入っているではないか。ほとんど誰も聞いていなくてとてもガッカリしたのだが、終演後トッパライでギャラをもらうと、羽が生えたように私の心が軽くなった。チケット制度だの、率がどうだの、プライドだのという些細な問題は、現ナマの前では全くどうでもいいことなのだ。

ちゃのみばなし【茶飲み話】[名詞]
 お茶を飲みながら話すような、たわいもない話。堅い言葉で言えばインフォーマル(非公式)な会談。しかし実は、政権政党の懇談会以上に心の真実が語られたりする。茶飲み話でないと本当のことを話せない人までいる。特にミュージシャンの茶飲み話は本当に面白い。頼みもしないのに業界の裏の裏まで、実に積極的にしゃべってくれるので、悪い噂などはあっと言う間に広まってしまう。口は災いの元。どこかで人の噂に戸を立てなければいけない。茶飲み話が面白すぎるからといって、うっかりインターネットなどに流すと、その人の信用は地に落ち、さらなる災いの元が彼に向かって攻撃の矢を仕掛けるのだ。

ちゃぱつ【茶髪】[名詞]
 茶色に染めた(または脱色した)髪のことを表す現代用語。不良たちのツッパリルックとしてかなり古くから存在し、実は今に始まったファッションではない。しかし、特に近年は普通の若者まで茶髪にしたがるため、親たちに注意する気力が失せてしまった。というか、親たちも茶髪という家庭が多いので、是非も無い。髪を金色などの別色に染めるのもほとんど同じ事。今に学校でも「金髪先生」まで登場しそうな勢いである。金髪のチンピラを指す「ヤンキー」という俗語は、ヤクザのヤーさんと(金髪の)アメリカ人を指す俗語のヤンキーをかけた言葉ではないか。この人たちは、海外からも賞賛される日本人の美しい黒髪がなぜかお気に召さないのである。毛は伸びるものなので、いくら染めても時間が経つと根本だけ黒かったりする。不気味なツートンカラーである。このファッションのさらなる欠点は、髪の毛以外の毛(さらに目の色)まで全て染め上げることが難しいため、毛の生えている場所によっては色の不整合が起きると言うことだ。普段見えない場所の毛がどんな案配かは、茶髪の人と一緒に銭湯に入って確認してみるとよい。彼らをじっと見ていると、失礼ながら結構笑えてしまう。茶髪や金髪は、本来は若者のファッションだが、商売上若く見られないと都合の悪いオジサンたち、特に年輩のミュージシャンや芸能人関係者は、好んで茶髪や金髪にする。このため、彼らのカッコが、さらにお茶の間の雰囲気を茶髪容認に誘導するという悪循環ができる。「若者文化に迎合する日和見主義者め!」「年を考えろ!」などと非難するのは簡単だが、彼らにはちょっと可哀想な事情もある。これは、白髪を隠すための絶好の口実でもあるからだ。逆に言えば、いい年こいたオジサンがいきなり茶髪にすると、白髪の隠蔽を疑われてしまうこともあるし、残念ながら実際ほとんどそうなのである。道徳的にはいろいろ思うこともあろうが、笑いをこらえながら黙っていてあげるのがせめてもの優しさである。

ちゅうせい【中世】[名詞]
 歴史の開始点から現代までの中間あたりに位置する、比較的幅の広い時代区分。しばしば「上代(じょうだい)(かなり昔)」「近世(近代)」などと対比される。いつからいつまでが中世かという解釈は、国によっても研究者によっても変わるので、実は結構いい加減に使われている言葉だ。例:「この曲は、中世ヨーロッパの雰囲気を醸し出している」。世に言う音楽評論の多くは、このように本当かウソかよくわからない言葉を修飾語に使っているから、一般人にはなかなかツッコメない。

ちゅーにんぐ【チューニング】[名詞]
 英語の「tuning 調律」。音や電波などの周波数を適切に合わせること。特に弦楽器では調弦のこと。例:「チューニングを合わせる」。これが合わないと優れた名演も台無し、しかしだいたい合っていればいい。なお、ギターのような弦楽器では、調弦そのものもさることながら、調弦の基本となる弦の音配列を表すこともある。例:「スタンダード・チューニング(6→1弦 EADGBE)」「オープン・チューニング(DADF#ADなど)」「ヘンタイ・チューニング(CAbCFCEb)」。ステージ途中での調弦タイムは、観客にとって結構退屈な時間なので、多くのミュージシャンはその間、気の利いたMCで客の心の周波数まで合わせようとする。例:「え〜、今私が弾いておりますのは『チューニング』という曲でありまして...」。こういうセリフを聞いた客は、気まずい愛想笑いをし、ふうっと深いため息をつき、目が泳ぎ、急速にその後のライブへの興味を失うだろう。なるほど、最近では、チューニングと実際の演奏との垣根は無くなりつつある。演奏している真っ最中にチューニングするのがカッコイイと思っている、奇妙なミュージシャンまでいるのだ。この人は、演奏を始める前にいったい何をやっていたのだろうか。曲の途中で音が無視できないほど狂うようなギターは、事前に調整すべし。当たり前の話だと思うが、チューニングという曲は誰だってあまり聴きたくないし、あえて人に聴かせるようなものでもない。

ちょーきんぐ【チョーキング】[名詞]
 「choke 窒息させる」を語源とする和製英語で、ギターの弦を指板側で縒るように押し上げて(または下げて)撥弦後の音程を変えること。本来の英語では「bend 曲げる」と言う。最近は「和製英語憎し」という世論が妙に強く、ベンド、ベンドと通ぶった奴らがのたまっている。しかし、あの苦しそうにキュゥッと締まる音は、単に曲げるというよりも何となく窒息という表現で合っていると私は思うのである。アコースティック・ギターによるチョーキングは特に苦しく、指がまさに窒息気味。この言葉、息が止まりそうなくらいの感情がこもっている感じではないか。

ちょさくけん【著作権】[名詞]
 何かの作品を作ったときからその作者に発生する権利。私有財産権の芸術版の一つ。過去の作品からさんざん影響を受けまくった作品であっても、新しい作品である以上は作者だけの個人的な財産となる。極端な場合、変えるのは作者と作品の名前だけでもOKという許せない例がある。そのくせ著作者は、自分の作品にちょっとでも似ている後世の模倣には、猛々しく神経をとがらせるようになる。現実の著作権法は、主に無遠慮な模倣者やコピー業者相手に訴訟を起こす目的で設定されている。実はもっと激烈なことを書くつもりでいたのだが、私の親しい友人が最近、実際に著作物の悪質な盗用(無断使用)にあってしまい、しかも係争中なのである。文字通りしゃれにならないので、これ以上哲学的なことを書くのは差し控えたい。では権利期間について。著作権の有効期間(永遠に残る著作人格権は除く)は、日本においては作者の死後(正確には死亡年の翌年1月1日から)50年間だが、日本は第二次世界大戦の敗戦国であるため、ペナルティーとして連合国側の戦前作品に関しては10年あまり余計にカウントしなければならない。これ、まるで冗談のようだが本当の話。アメリカでは、ついこの間、死後50年間から70年間に伸びたばかり。映画業界やミッキーマウスの策略だと言われている。多分、20年後くらいにはまた20年間くらい伸びるだろう。著作者が死んだすぐ後に生まれた人ですら、最低でも70歳にならないとPDとしてその著作物を利用できない計算になる。長すぎると思わないだろうか? この「作者の死後何年間」という計算方法は、作品自体の歴史とはまるで関係がない。100歳まで生きた日本人アーティストが100歳の時に自分で彫った位牌の著作権有効期間は50年、5歳の時に書いた絵の著作権有効期間は何と145年ということになる。このため、よい著作者は、未来の愛好者から早急な死を望まれている。

ちらし【チラシ】[名詞]
 @ちらし寿司。
 A宣伝のために発行する紙資料。ビラ。例:「チラシを撒く」。つまり種まきと似たような感覚だが、観用植物と同じくなかなか芽が出ない。しかし、チラシは言うまでもなく有効な宣伝ツールである。何とかアーティストの顔を実際のつくり以上に素晴らしく見せたいが為、最新のデジタル画像処理技術がフル回転する。元となる写真には、ホームページからサクッと拾ってきたような画質の悪いものを使うとなお良い。アラが程良く見えなくなる。さて、この「チラシ」という言葉(「散らす」の名詞形)からすると、昔は人の集まっている場所に豪快にまき散らしたものだったらしいが、今ではそんなことをしても誰も拾わない。街なかには、手渡しのちり紙ですら受け取る余裕のない、心の狭い人たちがゴマンといるではないか。そんなわけで、行きつけの店先で、精魂込めて作ったチラシが今日も束になってひっそりとたたずんでいる。

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