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【ひ】

ぴあの【ピアノ】[名詞]
 イタリア語の「pianoforte ピアノフォルテ」の略語。「ピヤノ」とも書くし、日本人は実際そのように発音しやすい。世界で最も普及している鍵盤楽器の一種。といっても、この楽器は構造上は弦楽器でもあり、また打楽器でもある。奏者はピアニストという。ピアノは、楽器の世界では新参者(その歴史は18世紀以降)のくせに、あれよあれよと言う間に下克上を果たし、今では「楽器の王様」とも呼ばれる。最初にそう言い出した人はピアニストの友人に違いない。特にクラシック音楽では、ピアノの地位は絶大である。にもかかわらず、未だに女性の弾く楽器という偏見がバイオリン以上に抜け切れていないのは不思議だ。ピアノをその形態で見ると、クラシックの人が理想とする横型の「グランド・ピアノ」と、ジャズなどの軽音楽や貧乏な学校などでよく使われる縦型の「アップライト・ピアノ」に大別される。オモチャのピアノのほとんどは、この分類では意外にもグランド・ピアノの範疇に入る。アップライトは普通の酒場で圧倒的シェアを誇る安価なピアノで、死にものぐるいでがんばれば一人で背負って持ち運びもできる。さて鍵盤楽器というのは、弦を直接手で触れないので音程の微妙な変化を付けることができず、不器用な楽器と揶揄されることもあるが、我々ギタリストはそんな意地悪なことは言わない。むしろピアノの事は、いつもコンプレックスを抱くほど尊敬している。転調の自由度や幅広い音域もさることながら、特にあのバカみたいなヒジ弾きが素晴らしい! あれはギターには絶対に真似できない。チョーキングできないことをカバーしてあまりある、ステージ効果満点の奏法だ。ああうらやましい。ところでピアノを持っている人は、必ず一度はあの鍵盤カバーに指をバンと挟めて泣いたことがあるのだが、この恐るべき指のギロチン装置は、ピアノの発明以来全く改善される気配がない。こんなもの、いくらでもどうとでも改良できると思うのだが、一度楽器の世界で王様になってしまうと、改革に否定的になるのはやむを得ないのかも知れない。

ぴーえー【PA】[名詞]
 英語の「public-address system 拡声装置」の略語。
 @特に演奏会場に備え付けてあるミキサーやアンプなどの音響装置類を総称したもの。
 Aその音響装置の操作を担当する人。PAは難しい仕事だが、いかに優れていても所詮は裏方さんなので、残念ながら一般にはその業績は賞賛されにくい。しかし、ダメダメなPAはすぐに直接の批判対象になるので、まあ理不尽ではある。使うマイクやラインの出力がせいぜい2、3系統のソロ・パフォーマー1人が相手なら、PAも楽ではないかと思われがちだが、こいつときたらまあ音にうるさいの何の、立派に5人分くらいの注文を付けてくるのだ。

びーじーえむ【BGM】[名詞](補遺)
 英語の「background music 背景音楽」の略。『大辞林 第二版』によると「テレビ・ラジオ・映画などで背景として流す音楽。また、喫茶店・職場・病院などで、気分を和らげるなどの効果をねらって流す音楽」。比較的おとなしい音楽に対する悪口としてもしばしば使われる。BGMは、エリック・サティー(1866-1925)が提唱した「家具の音楽」と似た考え方で、人はその音楽を注意深く鑑賞してはいけないし、作曲者はその芸術性を殊更に主張してはいけないし、演奏者も注目を浴びてはいけない。あくまで場所の一部としての「環境音楽」である。BGMを収めたアルバムは、いわば家具のカタログ販売と言うところだろう。ただし昨今のBGMには、理想的な家具の音楽と異なる点が二点ほどある。まず一点は、場合によっては家具どころか拷問器具に変貌する危険性の存在である。これは、選曲者のセンスに寄るところが大きい。普通の家具はただ部屋に置いてあるモノなのだが、ある種のBGMは気が付かないうちに近寄ってきて大声を張り上げたり、人に噛みついたり、殴りかかってきたりする。悪趣味なBGMにはり倒された経験のある人は多かろう。そしてもう一点は、宣伝BGMの存在である。例えば諸君らは、待合室やコンビニなどのBGMでJ−POPの新曲をイヤと言うほど聞かされた経験はないだろうか。どの曲も売る気満々、あまりに自己主張が強いので、こっちは気分が和らぐどころの話ではない。場所の一部としての音楽から逃げ延びる唯一の手段は、その場所から出ていくことしかない。喫茶店での喫煙を禁止するくらいだったら、いっそのこと、この手のBGMも全面禁止してほしい。類語:ムード音楽(ただし官能的な場合)。

ぴーす【ピース】[名詞]
 英語の「peace」。
 @人差し指と中指でV字を作る、ピースサイン。最近は親指だけを偉そうに突き出すOKサインに駆逐されつつあり、子供、または観光地に来ている子供っぽい大人しかやらない。
 A平和。この英語形は、通常はラブ(愛)とセットで用いられる。ビートルズ、特にジョン・レノンの「ラブ&ピース」がテーマとなる一連の活動が一般に認知されて、特にその後のミュージシャンが平和を唱えるときに同じ言葉をしつこく連呼するようになった。確かにラブ&ピースが一番なことは誰でも知っている。しかし戦争反対、平和が一番と主張するのは、戦争状態ではCDの売れ行きが鈍る、ミュージシャンたちの商売上の都合でもあることは事実である。ラブ&ピースの主張は論理が非常に簡単で、批判の余地がない一方、複雑な国際情勢とその解決方法の具体的な検討について、何も悩まずに済むという利点がある。しかし、あのビートルズにすらベトナム戦争を止める力がなかった以上、たかだかミュージシャンが何を唱えても平和が本当に実現する見込みは薄い。何でも歌で解決できるとは思わない方がいい。平和を実現するのは、おいしいところだけ持っていきたがる清廉潔白なミュージシャンの役目ではなく、本来は、票を集めた責任を背負う汗とドロにまみれた政治家の役目なのだ。本当にそう言い切っていいかどうか、私も自信ないが。→平和。

ぴーでぃー【PD】[名詞]
 英語の「パブリック・ドメイン public domain 公の領分(著作権消滅状態を指す)」の略語。著作権保護期間が満了すると、全ての著作物はめでたくPDとなる。PDは、醜い利権争いから解脱した全人類の共有財産である。著作物がPDになるからこそ、英知の世代交代が進み、人は自由に文化の伝承活動ができ、ひいては新たな著作の創作活動が容易になるのである。音楽の場合も、PDならばどの曲をいくら使おうと著作権料を払わなくて済む。しかし、こうしてPDとして世のため人のために著作物を提供するには、原則として著作者が死んでさらに50年も経たなければならない。著作権を行使しないと宣言したフリーのPCソフトなどもあるが、今の日本の制度では著作権を「棄てる」ことはできないという。著作物は著作者の私有財産と見なされているようで、家族や親戚など遺産相続人の取り分も考えろということになる。ほーそうかい。じゃあ、あくまで財産という観点を貫いて、国は著作権に資産価値を認め、もっと徹底的に会計処理しなきゃおかしい。つまり、例えば著作者に著作権の減価償却を義務づけ、固定(?)資産税の納付を毎年させなきゃ話が合わんし、過去の作品などからの影響も、その真似っこの度合いに応じて直接原価や研究開発費に組み入れなければならない。子供の頃に聴いたアニメソングなどは、かなり長期の不良債務になる。オマケに、著作者が死んだら、相続人は著作権の分まで相続税を払うことになる。著作権という不完全な知的財産は、こういう客観的な会計処理が不可能であるが故に、借方と貸方が全く合っていないのだ。このアンバランスが解消されない限り、たまたま作品が当たった一握りのアーティストだけが文化的な富を独占する世の中は、これから先も続いていくだろう。まあ最近は、PDになる資格のありそうな素晴らしい歌がなかなか出てこないという、別のやっかいな問題もあるが。

びーとるず【ビートルズ】[固有名詞]
 イギリスが生んだ、史上最高のロック・バンド。編成はギター、リズム・ギター、ベース、ドラムスの4人組。ベースの方がギターよりギターがうまかったと言われているが、どうしてそういうことを言うのだろうか。このベース担当者は、後に全ての楽器を自分一人でやりたがるようになり、メンバーの反感を買った。そのためか活動期間は1962-1970年と短かったが、その様々な分野に渡る社会的影響力は計り知れない。偉大な作曲家であるバッハ、ベートーベン、ブラームスと並び称して「4B」と呼ばれることもあったが、ブラームスが嫌いなクラシック批評家は、彼を順番の最後に回そうとした。別にビートルズという名字の人間がいたわけではないので、ブラームスには大変気の毒なことだった。さて、昔はビートルズが新人ロック・バンドを評価する物差しとして健全に機能していたが、今ではビートルズに似ている要素は残念ながら酷評の対象になっている。その理由は複数ある。まず、多くの才能のないロック音楽家が、お手軽なサンプラーなどを駆使してベタなビートルズ感覚を演出することに、みんな飽き飽きしていること。つまり、工夫したつもりが、創意工夫の無さの代名詞になっているのだ。現在はロック音楽全体の商業的価値がビートルズの時代よりすさまじく減少していて、才能ある音楽家は別のジャンルに流れている。また、ビートルズが神聖なるナツメロとして認識されてしまい、違う形で応用するという音楽本来の伝承方法が許されなくなってきたという点も見逃せない。この業界を牛耳っているビートルズ世代の脳が、その着実に重ねられてきた年齢を考えてもカッチカチに固まっていることは容易に想像できる。我が青春のビートルズを汚す者は彼らが許さない。そして最も大きな理由は、ビートルズがみな男性であったということだ。今の時代、売れるミュージシャンは野暮ったい男の楽器演奏家などではなく、今にも脱ぎだしそうなほどセクシーな女性歌手でなければならない。

ぴーびー【PV】[名詞](補遺)
 @ 『EXCEED 英和辞典』によると経済用語の「par value 額面価格」の略。
 A 『デイリー 新語辞典』によると「page view」または「promotion video」の略。前者は一定期間内におけるウェブ・ページの閲覧頻度を指す。後者はポピュラー音楽の宣伝販促用に作られたビデオ(=ビデオ・クリップ)を指す。これはおそらく、アダルト・ビデオ(AV)と同じような略称であろう。なお、野球のホームランには「HR」という略称があるが、下院(the House of Representatives)やホームルームとの区別は、その都度状況に応じて行われる。言葉とは、むやみに略されることによって無用な混乱を招くものである。

ひげ【髭】[名詞](補遺)
 主に人間の口のまわりに生える体毛、もしくは髭状の毛一般を指す。なぜ人間の口のまわりに髭が生えるのか、という根本的な問いには、明確な答えが出ていない。しかし、文化によっては、これを生やすことで対人的な威嚇・社会的な権威を演出するという、一種のディスプレーの役目があることは確かである。つまり偉そうに見えるのである。一昔前の学校の先生の多くは、まるで競うようにチョビ髭を生やしていた。現在のミュージシャン、特に若手の男性シンガーにもほとんど同じ事が言えるが、今の人たちは長く伸ばすでもなし、きれいに刈り揃えるでもなしで、ひげ剃りをたまたま忘れてしまったかのような微妙な残し方である。まるで「いかに汚く生やすか」を追求しているように私には感じる。これでタバコくさかったら最悪だ。

びじゅある【ビジュアル(ヴィジュアル)】[名詞]
 元は英語の「visual 視覚の」。和製英語としての用法で、J−POPのジャンルを表す。つまり、外見のカッコ良さや、半ば変装に近い華麗なファッションなどをバンドのカラーとして前面に押し出したロック音楽を指す。また、そういう傾向を持ったバンドのことをよく「ビジュアル系」と分類する。海外では、1980年代のイギリス出身のバンド、カルチャークラブあたりが先陣ではないか。現代のよくあるビジュアル系バンドを音楽的に見ると、どことなくアニメの挿入歌みたいな曲が多く(実際アニメの挿入歌も多い)、バラードを速くしたような曲調に、奇妙な転調で驚かせるというパターンが読みとれる。バンドブーム当初、ビジュアルという語はすかしたハンサムたちへの誉め言葉だったが、今では、どこをどう見てもビジュアル系としか言いようがないバンドですらこう言われるのを嫌がる。しかし、ステージでさんざんカッコつけておいて、今更「オレはカッコだけじゃない」などと弁明するのは、かえって潔くないのではないか。容姿がセックスアピールに使えるのはデビュー後せいぜい十数年までだから、むしろ堂々とビジュアルであることを標榜すべし。どちらにしても、不幸にして目の不自由な人は、視覚効果に訴えた彼らの音楽に、妙に頑なな息苦しさを感じることだろう。

ぴっくあっぷ【ピックアップ】[名詞]
 英語の「pick-up (信号を)拾うもの」で、弦楽器に装着する電気装置の一種。ボディーやサドルなどの振動を電圧に変換するピエゾ型、鉄弦の振動を磁気コイルで感知するマグネチック型に大別される。狭義には空気の振動(自然音)を拾わないものだけを指すが、実際は小型の集音装置(コンタクト・マイク)のこともこう称することがある。狭義のピックアップの原理は、普通に人間が耳をそばだてる状態とはほど遠いので、どうがんばっても不自然な音になるのは免れない。ステージでは、多くのギタリストがまさに「仕方なく」使っている。自然音を拾わないのでハウリングには強いという、ほとんど唯一の利点があるためだ。試しに、複数のピックアップに複数のコードを引き回して、ラックに恐ろしいまでの重装備を装着したアコースティック・ギターをポロンとつま弾いてみると、まるで洞窟からヘラクレスが叫び声を挙げるかのような威嚇的な音が出てくる。こんなデカイ音は、ステージ上では確かに、ピックアップでなければ出せそうにない。かのセゴビアは、「マイクに向かって囁いたつもりなのに、出てくる音は大声で叫んでいる」と言って、生涯マイクの使用を嫌がったそうだ。その観点でいえば、上記の楽器を生楽器と呼ぶのはちょっと抵抗がある。技術屋さんには、ステージ上でのもっと自然音に近いPAシステムの開発を、是非お願いしたい。

ひっとちゃーと【ヒット・チャート】[名詞]
 レコードの売上金額の順番を表したもの。ただし、有線チャートやレンタル・チャート、カレッジ・チャートなど、人気投票的な性格のものもある。ミュージシャンを株に例えれば株式市場に当たり、馬に例えれば競馬の順位表に当たる。これに載ること、つまり勝ち馬になることは多くのミュージシャンの最終的な目標である。しかし、売れなくなってくると彼は急に、今まで自分が嬉々として参加してきた流行り廃りの業界に懐疑的になり、引退するか、引退したとは言わずに実質的には敗残兵として第一線を退く。今「敗残兵」と表現したが、音楽を戦争に例えることは本来間違っている。しかし、業界の勝利者たちや下克上を狙う革命家たちが利権を巡って常にトップを争う様は、まさに音楽戦争の名にふさわしい。巨大なレコード会社という名の列強諸国、メディア戦略という情報戦、甘い誘惑や陰湿な批判による言葉の機銃掃射、集中砲火を浴びて倒れたおっかけたち、ファンクラブというシェルターやサクラの掘った塹壕、有線という名の有刺鉄線、秘蔵っ子という地雷、音楽スクールという工場から次々と出撃していく戦車や爆撃機、市況調査の為だけに犠牲となる鉄砲玉、プロデューサーという戦争の親玉などなど、たとえに問題はあるかも知れないがみんな確かに存在し、ほとんどが戦って散っていく。ここに無いのは徴兵制度と大量殺戮兵器くらいのものだ。最近は国内や欧米の武器が弾切れなので、アジアに活路を求めつつあるらしい。こうしている間にも、血のように尊い労働者の金が、その愚かな息子や娘たちの手によって止めどなく流されていく。どんな世界でも、一位になるというのはつまり戦争に勝つことなのだと考えると、何だか力が抜けてくる。最近の私の趣味は、1980年代あたりのFM雑誌に載っているオリコンチャートを眺めること。今でも歌い継がれている曲はほんの一握りで、色即是空・諸行無常を学ぶ人生勉強になる。そんなヒット・チャートに私が抱く不満は、曲の順位だけが示されて売上金額が明示されていないことと、各プロデューサーやレコード会社毎の売上・所得順位がないこと。要するに戦争の親玉が一体いくら儲けたのか、それが音楽業界の一番本質的な経済指標であるのは疑う余地がない。

ひっぷほっぷ【ヒップホップ】[名詞]
 英語の「hiphop」。アメリカ黒人の新興文化の一種。広義にはヒップホップ的な文化全般を指し、狭義にはこの音楽スタイル(「ラップ rap」)を指すらしい。歌い手はラッパーという。最小限のテーマはあるものの、メロディーがほとんどないのが最大の音楽的特徴。打ち込みによる軽快なドラム・ループの中で、自分の主張を奇妙な音程や抑揚をつけて言いたい放題言いまくるだけの平坦な音楽。ヒップホップの若者たちは、よほど不満だらけの人生を送っているらしく、まあ言葉が多いわふざけて脇道に逸れるわ詰め込みすぎだわ、聞き取りにくいこと著しい。自分の考えを人にわかるように説明する気がないのかも知れないが、かと言ってきちんと説明されても少し困る。ともかく、その要旨をつかむには、聴き手にある種の訓練と才能が必要となる。これが日本に輸入されて日本語のヒップホップも生まれているが、まだまだ彼らのつもりつもった不満は伝わってこない。それどころか、ビートはクールなのに歌詞の中身だけは判で押したような励まし系という場合も多い。同じ詰め込み型歌詞でも、笠置シズ子の「買い物ブギ」の方がよっぽど面白い。メロディーの要素が乏しいというこの音楽の特徴は、作曲家がない知恵を絞って旋律を考えなくて済むということに繋がるので、最近は他のいろんな音楽ジャンルにも爆発的に取り入れられている。おまえら、楽すんなよな。

びでお【ビデオ】[名詞]
 英語の「video」。録画できる媒体や、録画機材(デッキやカメラ)の総称。しかし、再生しかできなくてもこの語は使われる。例:「ビデオCD」「LD」「再生専用ビデオデッキ」、これらはすでに絶滅状態。媒体は、アナログからデジタル、テープからディスクに移りつつある。もういい加減に醜い規格争いは止めろと多くの消費者が思っているにも関わらず、メディアが変わってもその戦いが終わる兆しはいっこうに見えない。私のようなベータの犠牲者は、未だにベータを捨てられない。どの媒体においても、数え切れないくらいのいかがわしいソフトと、まあそこそこ出ているその他のソフトがあり、常に前者がビデオの普及を促してきた。さて音楽はというと、そもそも視覚に訴えるべき性格の芸術ではないのだが、多くの若者にとってはアーティストの容姿や仕草、もしくは演奏手順こそが重要なので、やはり音楽ビデオもそこそこ売れる。しかし、ビデオにおける音楽は、むしろBGM(バック・グラウンド・ミュージック)として、雰囲気作りの役割を負わされることが圧倒的に多い。つまり空気と同じで、あってもなくても映像そのものは変わらない。例えば小樽運河の観光客は、ビデオカメラをあらゆる方向にかざし、私を一人の人間としてではなく運河の空気として撮っていく。空気には肖像権などない。

ひとみ【瞳】[名詞]
 目を表す、よりロマンチックな語。歌詞では、単音節の「目」よりメロディーを作りやすいという理由もあって、よく多用される。本来は「目玉の黒い部分」のはずだが、そんな生々しいものは素直に「黒目」と呼ぶべし。おそらく元々は、黒い部分の多く見える子供のような純真無垢な目を表したものらしく、それは漢字(童の目)に現れている。この語の「目」と異なる特徴は二つある。まず、慣用句的な言い回しがあまり効かない。例えば、盗んだり凝らしたり配ったり見張ったりできないし、毒にも薬にもならない。そしてもう一つの特徴は、鏡のように相手を映し出したり、キラキラと発光したり、高圧電流を発したり、奥が深海に繋がっていたり、吸い込まれそうになったりと、物を見るという本来の役割を逸脱した奇妙な現象を引き起こすこと。白目の部分が少ないというだけで、こうも違うものか。

ひひょう【批評】[名詞]
 本来は、対象をいろんな角度から比較したり吟味したりして、その善し悪しや意義についての評価を公表すること。ただ人を誉めて喜んだり、逆に人をけなしてせいせいすることだと思っている人が多いので、ちゃんとした批評にはなかなか出会えない。批評された側の人生は、心ない批評によって大きく変わることがあるが、批評した側にとってはそれは一時の軽口で、そんなことよりも毎朝飲むコーヒーがうまいかどうかの方が意味があるらしい。音楽家や芸術家には思った以上に打たれ弱い人が多く、かといってさしたる抵抗もせずに打たれることが自分のためになると誤解しているようなので、欲求不満の溜まった批評家にとっては格好のサンドバッグである。

ひひょうか【批評家】[名詞]
 評論家とも。たいていは人をけなしたり自分の好みに合うように大衆を扇動したりするのが仕事。言論の自由は、無責任な毒舌の悪魔を生み出すための温床と化している。批評家を批評する人がいればバランスが取れるとも思うが、批評家の批評家はやはり批評家だし、ミュージシャンの批評家はやはりミュージシャンだったりするので、いわば同業者同士。これでは、批判された人が適切なフォローをしてもらう機会はあまりない。かの『悪魔の辞典』の定義には、「批評家 名 おれに誉められるのは難しいぞと自慢するやつ。誉めてもらおうとする者がひとりもいないからだ」とあるが、実際はそれでも彼に誉めてもらって箔を付けたい人が、雨後の竹の子のようにわんさかいて困るくらいだ。一方、一つの苦言も呈さない善良な批評家は批評家ではなく、批評の精神を欠く太鼓持ちか、広告代理店から派遣された宣伝屋に過ぎない。真の批評家は、仕返しに酷評されても全然動じないような、面の皮の厚い人でなければ務まらない。ああ、何か書いててイヤになってきた。

びぶらーと【ビブラート】[名詞]
 イタリア語の「vibrato」。音程を微妙に上げ下げして音を震わせること。歌で言えばこぶしを指す。心の震えを表す非常に有益な技巧だが、残念ながらピアノや木琴、ハンマーダルシマーなど、打楽器の要素を含む一部の楽器では、構造的にこのビブラートができない。しかし打楽器でも、タブラやトーキング・ドラムなどは掛けられる。鍵盤楽器でも、オルガンの一部やシンセなどは掛けられるし、ビブラフォンのように常に掛けているものもある。管楽器や弦楽器の多く(ギターも含む)は掛けられるが、ハープ、大正琴のように掛けられないものもある。クラシック・マンドリンのように、一応掛けることは可能だが掛けない方が望ましい楽器もある。つまり、かなり楽器を選ぶ音楽表現。ビブラートは、西洋音楽ではあまりやりすぎると下品だと言われるので、ここぞというときに控えめにやるのがコツだが、普通の状態でもこぶしが掛かってしまう歌手がいるように、人によって頻度は異なる。方法も様々で、例えばエリック・クラプトンはチョーキングでビブラートを掛け、ノーキー・エドワーズはアームで掛け、ドイル・ダイクスはナットで掛け、ピエール・ベンスーザンはネックで掛け、BBキングは同じネックでも何と自分の首でビブラートを掛ける。

ひょうか【評価】[名詞]
 価値を認めること。また、認められた価値の程度も表す。例:「おいキミ、なんだかお客の評価が低いぞ」「ひょうかなぁ?」。評価には、ある程度の審査時間が掛かるし、人によっても環境によっても組織的陰謀によっても異なる結果が出る。また「色即是空」になって恐縮だが、評価にも常なる実体というものはない。地道に努力しているアーティストも、期待する評価はなかなか得られず、その評価がまあまあ適正と思われるレベルに達するまでに、つまらない批評に何度も悩まされなければならない。デビュー作がいきなりミリオンセラーなどと言う順風満帆な人にこそ、もう少し厳しい批評が必要だと思う。また、こんな事を書くのは気が進まないが、勲章と同じく、人はあの世に旅立つとその評価が二階級くらいアップすることがある。世の評価とは漬け物みたいなもので、もっと時間が経てばなお良い。著作権の絡みがあるので、死んでから50年あたりが再評価にはちょうど良いインターバルになる。真の芸術家であれば、存命中は大衆の正しい評価など期待しないのだ。→批評。

びょうしゃおんがく【描写音楽】[名詞]
 音楽とは直接関係のない現象を、音で直接描写しようとする音楽。写実主義の音楽版。しかし、音楽はあくまで音楽であり、描写されている森羅万象そのものとは本来別のものであることに注意したい。何をどこまで直接描写するのかは作曲者の節度の問題であり、これをあまりシツコクやるとどうも下品でいやらしく聞こえる。例えば、登場人物が腹痛であることを描写するのに排泄の様子を描写する必要はないし、男女がラブラブであることを表現するのに性行の様子を描写する必要はない(官能小説なら別)。このさじ加減は、音楽に限らずいろんな芸術描写に言える。

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