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【い】

いいひと【いい人】[形容詞+名詞]
 性格のいい人、顔のいい人、気前のいい人、気配りのある人、キップのいい人、ひたむきな人など、世の中にはいろんな「いい人」がいる。しかし、より正確には「よさそうな人」というべきで、彼の人間としての最終的な評価は、彼が天寿を全うするまでは決定できないと心得るべし。特に昨今は、「いい人」に限って実は悪い人だったりする。また、彼がいい人かどうかは、彼の音楽の質とはまるで関係がないということも覚えておこう。試しにある曲を聴いても、歌詞のような手がかりがあるにしても、その作者がどんな性格の持ち主であるか、どんな性癖や前科を持つかなど、まずわからない。せわしない曲だからその作曲者がせわしない人かと言えば、予想に反してヒドイ呑気者だったりする。演奏者の誠実そうな性格や愛想、容姿のよさ、1日の驚異的な練習時間数、美談、私的な友情、さらにはタレントとしての人気などによって、彼の音楽の受け取られ方が左右するのであれば、それは正しい音楽評論とはかけ離れている。我々は過去、人のよさそうなミュージシャンたちに数限りなくだまされてきたし、その状況は今後も続くだろう。「いい人」にこそ、公正なる厳しい視線を向けるべきだ。

いぇー【イェー】[間投詞]
 いわば「外来間投詞」で、英語の「yeah」。この語は「yes はい」と同義らしいから、本来の日本語なら囃子の「ハイ!」とか「ハー!」に当たる言葉と思われる。ライブ会場がイマイチ盛り上がっていないとき、このかけ声を掛けることで局面を打破しようと意図される事が多い。アメリカナイズされた先人たちの献身的努力の甲斐あって、イェーは老若男女に至るまですっかり日本人に定着してしまった。一体どうしてくれるのか、私までついつい使ってしまっている。日本人のイェーの使用頻度たるや、実は欧米人以上、あのビートルズがたじろぐほどである。最初にこの語がビートルズの「シー・ラヴズ・ユー」と共に紹介されたときは、あのイェーイェーイェーという歌詞の発音が当時の日本人には難しかったのでヤーヤーヤーと訛り、これが映画の邦題(『ビートルズがやって来る ヤーヤーヤー』)にまでなったことも、今となっては微笑ましい。

いきざま【生き様】[名詞](補遺)
 『大辞林 第二版』によると「生きていくにあたってのありさま。生き方のようす。「すさまじいまでの―」」とのことで、面白いから例文まで引用してしまったのだが...どうもこの筆者が定義に苦慮していることがうかがえる。畏れながら申し上げるが、この語が使われる状況に言及しないのは、定義として充分ではない。生きる有様といっても、別に今までに何回呼吸したかとか、何回排泄したかなどという生理現象の遍歴を指すわけではないのだ。この語は主に、紆余曲折あった人の人生やその哲学を、総括的に(多くは誉める意味で)言及するために使われる言葉である。例:「オレの生き様を見ろ」「何て言うの? あの生き様に惚れたのよね」。またこの語には、軽はずみな批判をいっさい拒絶するほどの居丈高な印象もある。現在では使用者の大部分は芸能関係者であり、どうもエエカッコシイの匂いが抜けない。一般の人は、彼らの非常に特殊な生き様が、本質的にはどうにも理解しがたいのである。

いきつぎ【息継ぎ】[名詞]
 区切りの良いところで息をすること。流行歌の世界では、区切りの悪いところ(都合のいいところ)で勝手に息をする人が多いが、本来は、こういうところで息をしてはいけない。つまらないことをだらだらと区切り無くまくし立てる作詞家は、将来有望な若手歌手を窒息死させようとしている。→アーティキュレーション。

いく【行く】[動詞]
 本来は「ゆく」と言う。
 @(普通動詞として)[どこかに]移動する。向かう。例:「浜田隆史のライブを毎回見に行く」。その他にもいろいろな意味があるので、詳しくは国語辞典を参照のこと。
 A(補助動詞として)動詞の連用形などに付いて、主に動作の継続を表す。例:「浜田隆史のCDがどんどん売れて行く」。さて、この用法での「いく」は、口語や歌詞の世界では正しく発音してもらえず、「い」が省略される場合が多い。例:「歩いていく」→「歩いてく」。「夕日が沈んでいく」→「夕日が沈んでく」。なお過去形「いった」は、口語ならともかく歌詞では語呂が悪いのか「い」の省略が現在形よりは起こりにくい。つまり「歩いてった」という形だが、やはり歌詞でもそうなることがままある。この省略、アイヌ語にも確かに同じような例があり、母音「i」が、他の母音の直後では「y」と子音(二重母音)化して、ひいては落とされることがある。しかし、こと日本語に限って言えば、どうも舌っ足らずな印象は拭えない。こういう「てくてく」「てったてった」言葉に出会うと、私の心は理由もなくむずがゆくなり、作詞者をその都度はり倒したくなる。

いじょうせいよく【異常性欲】[名詞]
 同性愛、SM、児童への性的虐待、フェティシズムなど、普通でない種類の倒錯した性欲。異常性欲者は、いわゆる「変態」の一種である。変態、タイヘン。ちなみに私の「ヘンタイ・チューニング」とは直接関係がないことを急いでお断りしておく。ああ異常性欲、変態性欲、性的倒錯! 口にするのも筆で書くのもパソコン入力するのも恥ずかしい言葉だ。この中には、人に迷惑を与えない種類のユルい倒錯もある。例えば同性愛者は、昔白い目で見られていたが、今や多くのコミュニティーで市民権を得ている。全ての人の深層心理には倒錯願望がある、という何だかいやらしい心理学者の説も聞いたことがある。しかし、特に児童買春や虐待は、子供が被害に遭うという点で、他の倒錯行為と区別すべき大きな社会問題。主な逮捕者は、何と学校の先生や市役所の職員など、国家公務員がやけに多い。彼らが今まで得てきた給料は、問答無用で国庫に返納してほしい。残念なことに芸術家、もちろんミュージシャンにも、この手の輩はいるようだ。ビッグ・ネームも例外ではない。実は最近も、世界的ビッグ・ネーム逮捕のニュースが流れた。そういう話は「おいおいやっぱりか」なんて思うくらい、すでに噂になっていたりする。この期に及んで何とか彼を理解しようとする熱狂的なファンがかわいそうだ。大衆音楽のようなサブカルチャーの担い手は、社会的抑圧からの解放を歌い上げることも多い。しかし、最低限の社会規範とか、人間としてのささやかな理性からも解放されるヤツは、どんなに名声があろうと莫大な資産家だろうと、犯罪者であることに変わりはない。

いすと【〜イスト】[接尾辞]
 英語の「...ist」で、名詞や形容詞に接尾して「〜を使う人」「〜主義者」のような意味の合成名詞を作る。楽器の奏者を指す言葉にもなる。例:「ギタリスト guitar-ist ギター奏者」「リベラリスト liberal-ist 自由主義者」。名詞によっては、直前の母音を落としてから接尾するものもある。例:「ピアニスト pian(o)-ist ピアノ奏者」「サイクリスト cycl(e)-ist 自転車に乗る人」。イストは、どことなく英国風の響きのある語で、同じく米国風の「...er」と対比される。ただし、どんな言葉にもホイホイ付くわけではなく、慣用的に限定されるらしい。例えば三味線奏者のことをシャミセニストとか、ムックリ奏者のことをムックリストとか、何にでもマヨネーズをかける人のことをマヨニストとは普通言わない。微妙な意味の差にも注意すべきで、例えば「naturalist」と言えば自然を大切にする人のことだが、「naturist」と言えば裸体主義者(ヌーディスト)のことになってしまうらしい。いっそ、全て日本語を使えないものか。しかし、ギタリストとかギター・プレイヤーとは気軽に言いやすいのに、少なくとも私には「ギター奏者」とはなかなか言いづらいのだ。何か、ちょっと高尚でもったいぶった感じがして、言葉にした後で本当に自分がギター奏者なのか不安にかられてしまう。

いつか【何時か】〔副詞〕
 不特定の将来。そのうち。若者向け歌詞の世界では未来の希望を象徴するキーワードとして使われるが、実社会ではむしろ相手の提案をやんわりとお断りするときによく使われる。一種の婉曲表現。例:「またいつかお会いしましょう」(=もう二度と会えないかも)、「いつかそのうち」(=悪いけど当分やりません)。これに対して、遠慮会釈なく思い切りお断りする時は、実現不可能な将来を表す副詞「おととい」を使うことがある。例:「おととい来い」。

いのち【命】[名詞]
 生命、またはその生命を維持する力。「魂」と場合によっては似た意味になる(例:「この歌に命を捧げる」)が、死んだり殺されたりすれば無くなるのが相違点。ひょっとしたら魂以上に重たい言葉なので、軽々しくは口にできない。例:「君こそ我が命」「命で笑え」「歌は私の命です」。生きるか死ぬかの立場まで追いつめられないと、なかなかこの語を使う心境には到達できないはずだから、ちょっと「?」と思う表現に出会っても皮肉屋はチャチを入れにくい。→魂。

いやしけい【癒し系】[名詞]
 取り立てて人様に訴えたい主張や個性がない、もしくはそういうとんがったものを排除したい人たちが作った、心地よい睡眠のための文化を表す言葉。または、そういう雰囲気を持った、話しているだけで眠たくなる人を指す言葉。癒し系には、文字通り人の疲れを癒す効果があるとされているが、実際はこれによってかえって疲れてしまう場合もある。なお、特に音楽であれば、一定以上の音量を出してはいけない。私が思うに、全く聞こえないくらいがちょうど良いかも知れない。

いる【いる】[動詞]
 @(普通動詞として)[人間や動物が]存在する。例:「浜田隆史には兄弟がいる」。その他にもいろいろな意味があるので、詳しくは国語辞典を参照のこと。
 A(補助動詞として)動詞の連用形などに付いて、主に状態の持続を表す。例:「浜田隆史は結婚している」(ウソ)
[注:2004年の執筆時点で]。さて、この用法での「いる」も、「いく」と同じく、口語や歌詞の世界では正しく発音してもらえず、「い」が省略される場合が多い。例:「輝いている」→「輝いてる」。過去形「いた」も頻繁に「い」が省略される。例:「愛していた」→「愛してた」。「て」をメロディーの都合により伸ばして「あいしてぇたぁ」とも歌われるが、「ぇ」に当たるメロディーに省略されていた「い」がなぜか当たらないという、文法上奇妙なことになっている。しかしどういうわけか、「いく」の「い」の省略ほどは、私の心はむずがゆくならない。ホント、言葉とは不思議なものだ。

いろけ【色気】[名詞]
 欲や色情など、即物または俗物的ないやらしさを感じさせる度合い。例:「色気のないヤツだな」(欲がない、または胸がないなど)。私の人生の先輩は、「色気のない音楽は人に支持されない」と意味深長な格言を教えてくれたことがある。なるほどとは思うが、では色気のある音楽とは一体どういう音楽かというと、どうも判然としない。ギターを弾きながらアッハンと吐息を発することではあるまい。では色気の本質とは何かだが、これが実に難しい。仏教によると、色(しき)とはこの世のあらゆる存在(形あるもの)であり、それは空(くう)である(常なる実体がない)と捉えられる。般若心経では、色即是空 空即是色(あらゆる存在は空であり、空であることが存在である)と説かれる。もうちょっとわかりやすく解説すると、どんなに強烈な色気も小皺と共にあっという間に消え去るので、男は老女を見ながら「色気は空しい」「空しいものが色気である」という悟りの境地に達する。確かに色気は空しい。空しいものを求めず、人が見向きもしないような色気のない音楽にこだわって、ガンコにのたれ死ぬことが、真の音楽家が希求する運命だと我は覚えたり。...これも何かちょっと変だな。そういう心のこだわりこそが空なのではないか。失礼、もうちょっと経典を勉強します。

いろにそめる(そまる)【〜色に染める(染まる)】[慣用句](補遺)
 ある興味対象に関して、支持したり没入したり偏愛したりする度合いが高くなること(またはそういう雰囲気で盛り上がること)を、染め物にたとえて言う慣用句。おそらく演歌の歌詞か、アダルトビデオのタイトルあたりから派生した用法だろう。例:「あなた色に染まりたい」「ボク色に染めてあげる」「歌手Aは、ライブ会場を見事にA色に染めた」。あんな野郎の色に染まってしまう自分を想像してほしい。最近目立つおかしな語法の中でも、とびっきり気色の悪い言葉であることは言うまでもない。まさに、身の毛もよだつ表現。

いん【韻】[名詞]
 一対の詩句について、その一部の音節(よく知られているのは最後の音節)の響きを似せることでリズムや風情を醸し出す詩作の技術。日本語は、語尾に来る言い回しがだいたい決まっているので、本来はわざわざ韻を踏む必要があまりない。例:「おっと子供はビールはいけません/喰わえタバコもやってはいけません」(拙作「プハプハ」より)。これでは風情もヘッタクレもないので、韻を踏みたい人は、主に倒置と省略を使ってわざわざ語順を変更した上で、その技を競うこともある。例:「兎追いし かの山」「小鮒釣りし かの川」(高野辰之作詞「故郷」より)。別に山が獲物を追うわけではないし、川が釣りをするわけでもないことに注意されたい。欧米・中国などの言葉は語尾が全く決まっていないため、韻を踏むのは特に意味のある作業。「韻を踏まない詩」というのは、気が利かなかったり、ルール無用であることを形容する悪口の一つですらある。ボブ・ディランの韻の踏み方は革新的、というかある時期ではアバンギャルドであった。私も、小粋な韻の踏める男になりたいものだ。

いんご【隠語】[名詞]
 一部の仲間内だけで通用する語。類語:「業界用語」。隠語は、様々なジャンルの中でも、特にミュージシャンや政治家に深く愛されている。この人たちには浮き世離れしているという共通点がある。音楽界における隠語で最も有名なのは日本のジャズメン用語で、彼らはどういう訳だか、言葉を逆さにして使った。今は亡き私の父も、思えば必要以上に多用していた。例:「ジャズ→ズージャー」「ポーカー→カーポ」「ベース→スーベ」「コーヒー→ヒーコー」。この場合、抑揚は平坦になり、あまり下降しないという特徴があるらしいが、どこにアクセントがあっても聞き苦しいことに変わりはない。まあ、微笑ましいというかアホらしいというかオヤジくさいというか、いわば狂気の沙汰である。ジャズメンには詩を作ってもらいたくない。これ以外にも、解説されないと全く理解できない隠語は多く(例えば涙のことを「ガンスイ(顔水)」などと言うらしい)、深入りすると業界人に洗脳されてしまう。こんなものを覚えるのは貴重な脳細胞がもったいない。

いんすとあずなう【イン・ストアズ・ナウ】[慣用句]
 新作CDがすでに店頭に並んでいることを英語で「In Stores Now もうお店にあるよ」と表現するらしい。日本では、「発売中」という漢字が書けない人が使う。いうまでもなく英語が苦手な人はこの語を読めないので、一般商品の宣伝効果としてはデメリットがある。そのため、しぶしぶ地味な「発売中」という表記に戻すアーティストも増えている。無理しなくていいのに。この語は、全国展開しているメジャーなレコード会社の作品に適用される。自主制作盤の場合は、通信販売か、ライブ会場か、ごく一部の慈悲深くありがたいストア(お店の単数形)にしか置いていないため、この語は使えないはずである。

いんすとあらいぶ【イン・ストア・ライブ】[名詞]
 レコード店や楽器店、デパートなどのお店で行う無料ライブのこと。と言ってもあんまり長い時間やるのはまれで、実際は軽いイベント程度という場合が多い。英語では「In-store live」と言うより「Live in-store」とか「In-store performance」などと言うらしい。アーティスト側には良い宣伝効果が得られるが、やりすぎるとわざわざチケット代を払ってライブを見に来るお客さんが激減する。痛しかゆし。

いんすとぅるめんたる【インストゥルメンタル】[名詞]
 英語の「instrumental 器楽曲」。略してインストとも言う。歌無しで、楽器だけで演奏される音楽のこと。この語に馴れない人は「インストロメンタル」と発音したりするが笑ってはいけない。あやしげな英語を使っている点では我々も五十歩百歩だ。奇妙なことに、オーケストラやビッグ・バンド・ジャズのことを改めてインストとはあまり言わない。インストという音楽の主な目的は、高価なもしくは珍しい楽器をその楽器の愛好者に見せびらかすことだからである。→楽器。

いんせんてぃぶ【インセンティブ】[名詞]
 英語の「incentive 刺激」。平たく言えば売上報奨金のこと。金に関する言葉は生々しいので、ストレートに言わずに外来語を使って、見かけ上の欲望を軽減する。この多種多様なメディアが存在する時代、音楽業界のこれからの経営に、なくてはならないものになりそうだ。この語を場合によって「モチベーション motivation 動機」と似た意味で使う人もいるみたいだが、それは間違いだ。多少の刺激を与えても全然動いてくれないニブチンはいくらでもいる。

いんでぃーず【インディーズ】[名詞]
 どのメジャー会社にも属さない自営音楽家たち、または彼らのCDの販売方法(自主製作)を指す。つまり自分勝手な奴らである。インディーズはなぜかCD販売店に憎まれていて、店がクレームをつける担当者を一本化するために、特定の問屋を通すことを要求される。話もしたくないのだ。運良くCDが取り扱われても、まるで不吉な暗黒物質のようにアルファベット順の棚から専用の棚に隔離され、販売依頼者が失意のうちに引き取りに来るのを待っている。インディーズ・アーティストの多くはアマチュアまたはパッとしないプロで、たいてい箸にも棒にも引っかからない貧乏人だが、ごくたまに金になる者が現れると、そのCDの驚くべき利益率(1万枚も売れたら田舎のマンションが一戸買えるほど)をねたんだレコード会社が名刺を持ってやってくる。なお、つい最近までメジャーだったライブ活動主体のアーティストが、自らの高潔な信念のために、反旗を翻してインディーズを選択する場合もある。今まで掛かっていた莫大な宣伝費は、知名度の点ではもはや要らないので、上手い商売と思われがちだが、墜ちたイメージは拭えないので軒並み苦戦を強いられている。自分勝手な奴になるのも楽じゃない。

いんとろ【イントロ】[名詞]
 英語の「introduction 序」の略語。音楽で言えば序奏部分に当たる。いきなり歌い出しということになると、歌手が戸惑って出だしを外してしまうので、イントロには本編開始の秒読みとしての役目もある。名曲には名高いイントロが付くことも多い。しかし、イントロ当てクイズが流行った80年代あたりから、すでにポピュラー音楽没落の兆候は始まっていた。そんなくだらない事でもしないと退屈が収まらないくらい、新しい曲がつまらなくなってきたのである。

いんぷろ【インプロ】[名詞]
 英語の「improvisation 即興」の略語。即興と作曲の違いは、クロッキーと油絵の違いと言えばわかりやすいが、本質的には同じ作業のアプローチの差、または時間的な差だけを指す。例えばジャズの即興演奏に必要なスケール、コード進行、モード奏法などの知識と練習法は、実はインスタントな作曲法の一種に他ならない。メロディーを作る際、偶発的な要素に安易に頼るのは、作者としての責任または債権の放棄と見ることもできる。作曲はできないという即興演奏家は、一時間の間に弾いたフレーズを200個ほどに分けてじっくり考えれば、良い結果が得られよう。逆に即興のできない作曲家は、一時間の間に200曲ぐらいサクサク作るつもりでやればよい。

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