目次に戻る

【し】

し【詩/詞】[名詞]
 自分の心情を表現した、人に訴えるような言葉。本来は歌で使われる言葉を指す。同じ漢字で「詩(し)」とも「詩(うた)」とも読むのはその名残。歴史的には、文学が口承から執筆作業にゆだねられた時点で、詩(文芸)と詞(歌詞)は分離し、互いに独自の道を歩んだと思われる。特に文芸としての詩は独自の道を歩みすぎて、文芸マニア以外にはもうお手上げ状態。勝手気ままに字下げをするわ、不可思議なルビや傍点を振るわ、カタカナ語や外国語が飛び交うわ、何と欄外に注釈が付くわ、カッコが多用されるわ、同じ言葉をしつこく繰り返すわ、挙げ句の果てにわざと突飛で意外な言葉を使って人を煙に巻くわ、もはや「活字無法地帯」と化している。ある種の詩は「言葉の暴力」の範疇に入るかも知れない。その意味が暗示的で分かりにくければ分かりにくいほど、評論家の評価は高くなる。しかし、読解に参考書まで必要な、ものすごく芸術的な「詩」から意味を抽出してみると、意外にも「あいつ気に入らないな」とか「いい女だな」とか「失業しちゃって寂しいな」とか「母が死んで悲しいな」とか「居心地のいい旅館だな」とか、たいていは簡単な一言に要約できる。これでは言葉の無駄遣いだ。→歌。

しーしーしーでぃー【CCCD】[名詞]
 →コピーコントロールCD。

しーでぃー【CD】[名詞]
 @英語の「Cash Dispenser 現金自動支払機」の略語。昔は、音楽CDの自動販売機だと思われていた。
 A英語の「Compact Disc ぎっしり詰まった円盤」の略語。もちろんデータがぎっしり詰まった音楽CDを指すが、音楽の中身は別にスカスカでも構わない。場合によっては媒体だけでなく再生機材も指す。媒体の方はCD−Rと区別する意味で「プレスCD」とも言う。道理でぎっしり詰まっているわけだ。たとえ中身がどうしようもなくつまらなくても、プレスするだけで評価が大きく違ってくるのは印刷物と同じ事で、この世の理不尽と言える。CDが商品として出たての頃は、より正確な意味を表す言葉として「DAD(Digital Audio Disc)」とも言われたが、これは英語で父ちゃんという意味にもなるので、英語圏の人には都合が悪かった。さらに文字も「CD」より一つ多かったため、誰にも覚えられずにこの優れた名称は駆逐された。CDよりさらに多くのデータがぎっちり詰まっている「DVD」が、今一つ波に乗れないのも似たような理由だろう。円盤を回す方式を取る限り、最後のDが落としづらいのは辛いところだ。

しーでぃーあーる【CD−R】[名詞]
 英語の「CD Recordable 録音可能なCD」の略語。場合によっては媒体だけでなく録音機材も指す。プレスCDと似て非なるもので、盤面裏がCDより濃い虹のような色に見えるのが特徴。一回しかデータの書き込みができないという大きな欠点があり、その点ではロウ管に劣る。発売当初は媒体も機材も高かったが、Windows95が普及したあたりからPC用の記憶媒体として量産されて一気にブレイク。作りすぎて価格までブレイクしてしまい、今ではひどいはした金で売られている。この金額では、昔ならカセットテープも買えなかった。著作権問題のため、パソコン用のCD−Rとは別に、著作権料を媒体代に上乗せした音楽専用CD−Rというものが登場したが、現実にはメーカー側が著作権管理団体に差し出した生け贄と化している。音楽専用CD−Rのユーザーの多くは、必ず一度くらいパソコン用を間違えて買ってしまうので、それが無駄にならないようにパソコンを買う。CD−Rは、プレスCDに必要なある程度の初期投資と広大な在庫置き場を必要とせず、何のリスクもなく少量生産できるので、CD全体の一般的な価値認識を一気におとしめた。おかげで「アルバムを自主製作で多数発表しています」と私がいくら自画自賛しても、残念ながらLPの時代ほどインパクトがない。

しーでぃーあーるだぶりゅー【CD−RW】[名詞]
 英語の「CD Rewritable 追記可能なCD」の略語。一回しか書き込みができないCD−Rに対し、もうちょっとだけ多く書き直しができるものをこう呼ぶ。失敗作をいっそのこと全部作り直すことができて便利。全てのCDはかくあるべきだ。ただ、割高な媒体代がネックで、自分のマスタリングに少し自信のない音響クリエイターも普通はこれを使わず、湯水のようにCD−Rを使って失敗作を量産する。

しーでぃーげんか【CD原価】[名詞]
 CD(A)の原価のこと。商科大学出身のミュージシャンが、自らの卓越した計算能力を振るえる数少ない数学の分野だが、あいにく微分積分も平方根も因数分解も分数の足し算すらも出てこない。電卓があれば十分だ。大手レコード会社のCDは、枚数のスケールが大きい分、製作費用も宣伝費も桁違いに大きく、全て直接賦課すれば原価率がかなり高い。薄利多売どころか、かなりの枚数が売れないといきなり赤字になる。テレビや新聞でCMを打っているようなCDなら、本当は1枚1万円くらいで売りたいところだろう。一方、自主製作CDは、それとは比較にならないくらい安く仕上げることができる。特にギターソロアルバムなら、べらぼうに高いスタジオ料金も要らないし、掛ける時間も普通は少なくて済む。バカみたいに売れる見込みはまず無いから、主にホームページの宣伝や口コミに頼り、高い宣伝費も掛からない。よって、自主製作のギターソロアルバムが、大手のCDとまったく同じ売価なのは、よく考えればいかにも高額に感じてしまう。ちなみに、アメリカでの標準的なCDの売価はだいたい15〜17ドル、せいぜい約2000円というところだろう。これは、おそらく「高額売価の標準化現象」とでも言うもので、談合とまでは言えないが、公正な競争の結果とは違う要素がある。特に合理的な利益率の検討もせずに、みんな勝手に横並びで得な方に合わせてしまうのだ。「少量生産だからコストが高い」という自動車みたいな説明は、CDについてはある程度のスケールメリット以外考慮できない。動かしがたい大きな生産ラインがあるメーカーが、敢えて別ラインで稼働率の悪い生産をするような場合とは違い、CD自主製作では細いラインが一本しかないのだから。私も生活がかかっているので、まさか買わなくていいとまでは言えないが、聡明なる消費者は知っておいた方がいい。「オレの音楽の価値はそのくらいある」という我々インディーズ・アーティストのプライドを信用するかどうかは別にして、そこまでのお金を出していいものかどうか、単なる商品として冷静に、意地悪くじっくり検討してから購入を決めよう。

じぇーぽっぷ【J−POP】[名詞]
 現代日本の流行歌、特に若者向けの歌を指す。「歌謡曲」や「ニューミュージック」というこれまでの名称に満足できないものを感じていた宣伝企画者が、当時のJリーグの盛り上がりにひっかけて生み出した造語らしい。なかなか優れた言葉で、この音楽の驚くべき軽さを見事に言い表している。多くが踊りや振り付けを伴うという思わぬ特徴は置いておいて、肝心の音楽的特徴は主に三つある。一つは、打楽器はせわしない打ち込み系が多く、一昔前のテクノの影響が色濃いこと。これは、聴き手の心拍数を上げてドキドキさせる音響戦略である。また一つは、多くの歌手が不必要なほど甲高いキーキー声や聞き苦しい裏声を使うこと(おかげで何を歌っているか全然わからないため、恥ずかしい歌詞をつい聞き取ってしまって赤面せずに済む)。これは、例えば女性の助けを求める叫び声の高周波が、遠距離でも雑踏の中でも届きやすいことを逆手に取った音響戦略である。最後の一つは、呪文効果と名付けるべきもので、メロディーの単純かつ奇妙な音程の反復形をさらに執拗に繰り返すこと。これは、サブリミナル的な記憶の刷込を意図した、やはり音響戦略である。つまり彼らの多くはメロディーメイカーというより音響戦略家であり、人の耳元で呪文と奇声をあげ続ける魔術師だと言える。おかげさまで、多くの聴衆が精神的にではなく物理的・生理的に音楽に反応するようになった。近年、J−POPの形容にR&B(リズム・アンド・ブルース)がよく引き合いに出されるが、そんな形容をされてはBBキングも苦笑するしかない。

じがじさん【自画自賛】[名詞]
 自分で自分の作品や業績を賛美すること。自分が自分のよき太鼓持ちになること。ビッグマウス(でかい口を叩くこと)という類語もある。本来は悪口。古来より、日本人の美徳としては、一生を通じてこれを避ける「謙遜」の精神が尊ばれ、自分の肯定的評価に対してある一定の距離を保つこと、つまりおごってはいけないという態度ができていた。私もちょっと前までは謙遜のできる普通人だった。ところが、現代のミュージシャンほど自画自賛を喜々として行う商売人は希で、そうでないアーティストは無能扱いされる。これは商売・宣伝上の都合という側面もあるのだが、つつましやかな精神は、今や多くのミュージシャンの態度から失われつつある。自己を賛美する声が大きければ大きいほど、周りの人までそれに釣られてそう思ってしまうので、彼の声はますます大きくなる。思うに、自分のことを「ビッグ」「グレイト」(偉大だ)などと表現したロック・スターが出てきたあたりから、世の雰囲気が変わってきたらしい。自分に自信を持つというのと自画自賛をするというのは、意味が全く違う。この行動は、以前は自分に自信がなかったこと、または人から全く評価されなかったことの反動なのではないかと勘ぐる向きもあるが、それならまだ感情移入できる。しかし多くの場合は、単なる無神経だったり、カッコツケだったり、自らのカリスマ性を演出するちょっとしたテクニックを使っているに過ぎない。少しはプロ・スポーツ選手のさわやかさや奥ゆかしさを見習いたいものだ。

しがない【しがない】[形容詞](補遺)
 取るに足らない。つまらない。貧しい。経営基盤が心許ないミュージシャン、特にバスカー(旅芸人)が自らを卑下して形容するときによく使う語。例:「おいらはしがねえ歌唄い」。言葉を額面通りに取れば対象の全否定になるが、実はそうではない。この語を使う人は、「でも実はオレはスゴイんだよ」という事を言いたいがための前振りと位置づけている場合が多い。厳しいことを言うようだが、芸人はこんな情けない言葉を自分から言ってはいけない。つまらないかどうかはお客様が判断すべき事であるし、貧しいのなら素直に「貧しい」と言った方が、人がお金を恵みやすい。

しじ【師事】[名詞]
 特に武道や伝統芸能において、師の教えを受けること。とても重たい言葉である。語義から言えば、ある名手に長期間弟子入りするのが普通だが、最近では数日彼の横にいただけでもこの語が使えるらしい。師弟関係を重視するクラシック・ギター界では、プロフィールに師事の履歴をいっぱい書くのが奨励され、独学者は必要以上に邪険にされる。

しすこ【シスコ】[名詞]
 アメリカ西海岸の都市、サンフランシスコ(San Francisco)の略称。例:「シスコで今流行ってるのはこんな曲だよ」。ただしこれは日本独特の間違った略称で、正しくしかもぞんざいな略称はフリスコ(Frisco)という。シスコ(cisco)は、『大辞林 第二版』によると「(五大湖産)サケ科の食用魚」となる。同様に、ロサンゼルス(Los Angels)を指す略称の「ロス」も間違っていて、正しくはエルエー(L.A.)という。この手の誤用は特にミュージシャンに多いが、いいかげんにカッコつけるとかえってみっともない。だからといって本場の略称を使っても、普通の日本人にはわかってもらえない。言葉を省略するのも善し悪しだ。

しせい【姿勢】[名詞]
 @体の構え。音楽においては演奏時の姿勢を指す。正しい姿勢とは、別に教科書通りの姿勢とは限らず、その人にとって無理のない形のことである。しかし、「彼にとって無理のない姿勢」を彼本人に決めさせると、大抵芳しくない結果を招くので、やはり先生からは教科書通りの姿勢を勧められるのが普通である。初心者は、四の五の言わずにまず教科書通りに勉強し、しかしそのまま鵜呑みにせず、その姿勢が自分に合うか合わないか、嫌になるくらいの年月を掛けて確認しなければならない。かくして、結局は教科書通りの姿勢が最も適していることに、多くの人が改めて気づくのである。これを人生の回り道というなかれ。
 A心構え。態度。例:「う〜ん、あのさぁ、キミ、自分の音楽に対する姿勢が見えてこないんだよな」。審査員からこんなワケのわからない批評をされたアマチュアミュージシャンの怒りはもっともである。

じだい【時代】[名詞](補遺)
 @昔の一定期間を、大きな見方で説明するときの総称。例:「青春時代」「戦国時代」「性の暗黒時代」「あなたの時代は終わった」。
 A前の意味を踏まえて、話の時点ではちっとも実現していないのに結果論的または推量的に適用することもある。例:「彼は時代を先取りしすぎた」「これからはキミの時代だ」。つまり、まわりからかなりずれてるアーティストを慰める大義名分としての用法。

しつげん【失言】[名詞]
 言わなきゃよかった、と後で後悔するような発言のこと。いわば言葉のお手つき。本人にはそこまで言うつもりはなかったのに、感情のおもむくままにポロッと出てしまった言葉だが、中には失言を失言と感じていないニブイ人もいる。失言には、確かにちょっと微妙な例もある。例えば、医療事故で患者を死なせてしまった病院の院長が、「患者さんのご冥福をお祈りいたします」などとやってしまうのは、よく考えればやはり失言の一種だろう。弁論が仕事である国会議員に失言が多いのはけしからんが、最近はミュージシャンにもケアレスな失言が目立つ。このインターネット社会では、ホームページや掲示板でついつい筆が滑ってしまうことも失言の範疇であるから、怒りっぽい人はあえて書き込まない方がよい。筆は災いの元である。失言によって傷ついた評判は、ログが流れてもなかなか回復しないと心得るべし。

じべたりあん【ジベタリアン】〔名詞〕
 日本語の「地べた」と、英語の「vegetarian ベジタリアン(菜食主義者)」を掛け合わせたような愚にもつかない言葉で、椅子も敷物もなく地面に直接座り込むという変な主義を持つ輩のこと。人間としてのプライドを云々する以前に、当たり前すぎて恐縮だが不潔であることを指摘してもよかろう。彼らの出現多発地帯は主に三箇所ある。コンビニの店先、駅の構内、そしてストリート・ミュージシャンの周囲。主にこれらの場所で、彼らは自分が人生に疲れてへたり込む様を人に見せたがるのである。

じもと【地元】[名詞]
 出身地。地元のアーティストは、他の地域で有名にならない限り、なぜかその地元では冷遇されていることが多い。残念なことだが、文化というものは、一歩外から見て初めて魅力的に見えるものらしい。隣の庭の芝生と同じ事である。ここで注意したいのは、「地元アーティスト」と呼べる者は、今現在地元に住んでいるアーティストだけである、ということだ。地元から都会に移り住んだ人たちのことは「都会派アーティスト」などと言うべきである。不幸にして僻地に生まれ育ったアーティストは、このままでは商売にならんと、一旗揚げるべく上京または大都市へ移動、いつか成功して地元に凱旋して、地元の連中を見返してやることを夢見る。そうして運良く成功したアーティスト達は、もはや不景気でげんなりしている地元を振り返り、ご親切にもエールを送る。「がんばれ、我が懐かしの故郷よ!」 そのくせ、故郷に見知らぬ企業なんかが入り込んで経済活動を軌道に乗せると「昔の故郷の姿と変わってしまった」などと言って、心から残念がる。私がもし彼らの「故郷クン」だったら、さっさと田舎に見切りを付けて出ていってしまった彼らに、堅めの雪玉を投げつけてやりたい。

じゃず【ジャズ】[名詞]
 英語の「jazz ジャズ」。他ならぬジャズ。定義のできないアメリカ音楽。ラグタイムの敵。どうもすっきりしない・煮え切らない・中途半端なコード(和音)を使った即興音楽のはずだが、なぜか全く即興のないジャズもあるから話がややこしい。ジャズという言葉が普及していなかった頃、この音楽はスイング(swing)とも呼ばれたらしいが、これはラグタイムのシンコペーションを取り込んでスピードを早くしただけの印象がある。現代では、正統派のスイングジャズをやると、ラグタイムと同じく年寄り扱いされる。最も一般的なジャズの音楽的母体はブルースだと言う人たちもいるが、それにも関わらず彼らは不遜にもブルースのようなルーツ音楽を敬わず、例えば実力派ブルースマンをショーマン(show man 見せ物に出る男)などと呼んで毛嫌いしている。いったい何様のつもりだろうか。そもそもジャズは、1910年代くらいまで流行していたラグタイム(基本的には記譜された音楽)を駆逐した、譜面が読めない人たちのための自由参加型音楽だった。しかし、今では譜面はおろか、スパイの暗号のように複雑なコードネームもスラスラ読めないとセッションに入れてもらえない。ピアニストで作・編曲家のジェリー・ロール・モートンが1900年代にいきなり奇跡的に発明したという説が有力だが、この種のあらゆる眉唾話もルーツ論も笑って許すことができないという、特異な頑固さを持つ。あらゆる音楽の良質で印象的なところだけを柔軟に取り込むことには長けているため、ひさしを貸して母屋を取られた音楽は数知れない。かなり早い時期にジャズに吸収された音楽・ラグタイムを愛する者として言わせていただければ、ジャズは非常に狡猾な侵略者である。あるスタイルを取り込んで、演奏しすぎて飽きて頭が痛くなってきた頃に、別のスタイルを取り込んで頭痛の沈静化を図るという対処療法の結果、取り込んだスタイルが多くなりすぎて混乱し、また頭が痛くなるという悪循環が起きた。和音にテンション・ノートをむやみやたらと重ねすぎてその機能があいまいになり、その結果フラストレーションが解消されなくなったのも頭痛の一因であろう。こうして昔のジャズメンには頭痛持ちが多かったため、タバコが飛ぶように売れ、観客の目が発ガン性の煙でしみた。ジャズとタバコの相互依存関係は深刻だったが、時代が変わって、今ではどちらも世の中から駆逐されつつある。さて、1950年代にロック音楽が生まれた後、ジャズとロックという二大ポピュラー音楽が覇権を争い、喰うか喰われるかの吸収合戦が勃発したことは記憶に新しい。1970年代にその戦いはピークを迎え、共喰い状態の音楽(「ジャズ・ロック」「フュージョン」「AOR」など)が生まれたが、今はこれらもやはりジャズの範疇と見なされることが多い。モントルー・ジャズ・フェスティバルを見よ。ジャズを愛する人にとってのみ、あらゆる音楽はジャズなのだ。

じゃっき【弱起】[名詞]
 『大辞林 第二版』によると、「旋律や楽曲が弱拍、すなわち小節内の第一拍目以外の拍から始まること」。弱起はシンコペーションではないが、シンコペーションに似たノリを与える効果を持つ。日本でのシンコペーションのない音楽も、弱起によって強拍を外すフレーズはしょっちゅう出てくる。手っ取り早い例では「ソーラン節」や「東京音頭」を思い起こしてほしい。メロディーに、もしシンコペーションも弱起もなかったら、もう本当に強拍だけのマーチや童謡みたいなリズム。人をノらせなければいけない音楽には、まさに「強拍に屈しない」強い精神力が求められる。

しゃみせん【三味線】[名詞]
 和楽器の一種で、三弦のフレットレス撥弦楽器。昔は猫や愛猫家から恐れられた。沖縄では、これに似た三線(サンシン)という楽器もあり、地方によってちょっと違うものもある。現在の三味線ブームには、初代高橋竹山もビックリだと思う。なんせ、長唄も小唄も追分も相撲甚句も浪曲も浄瑠璃も、そして津軽民謡すらまともに聴いたことのない若者たちが、三味線でブルースを弾いているのだから。

じゃむる【ジャムる】[動詞]
 英語の「jam 即興演奏する」を日本語動詞化したもの。ジャムといってもパンに塗るジャムのことではない。言葉を換えれば「ジャズる」ことなのだが、特にジャズとは限らず、ロックやブルース、ブルーグラスなどの演奏家たちもこの語を使う。いろんな人が自由に混ざって演奏することから、ミックス・ジャムという比喩が生まれたのだろうか。不思議なことに、ブルーグラスのフェス会場では、素晴らしいパフォーマンスが繰り広げられるメイン・ステージを全く見ずに、自分たちのキャンプ前で果てしないジャム・セッションに興ずる人たちがいる。特に、ステージより数倍も盛り上がっているのは大学のOB連中なので、学生たちは手に負えない。彼らは、ベーシスト以外はたいていヘベレケに酔っぱらっている。なぜベースがシラフかというと、彼まで酔っぱらったら全く収拾がつかなくなるからだ。彼らのジャムは朝まで延々と続き、朝食のパンが焼き上がるまで行われるため、「ジャムが出てきたらおしまい」というのがジャムの語源、という説もあることを一応注記しておこう。

じゆう【自由】[名詞]
 制約がないこと。好きなようにすること。何をやってもどうなっても構わないこと。無法であること。対語:制約または制限。類語:解放。ちなみに「平等」とはまるで関係がない。あらゆるものは相互に干渉し合いながら存在しているので、完全な自由という状態はほとんどあり得ない。惑星ですら引力や慣性などの物理法則に支配されている。社会的・精神的・縁故的しがらみ、経済、性、幸福感などの些細な因果に支配される人間は、望ましくない制約を取り払うという意味でしか自由を定義できない。何の制約もなく全くハチャメチャな環境なら、確かに自由な度合いは通常より高まるが、おかげで道徳や倫理という制約までなくなってしまい、犯罪やテロ行為を招く可能性すらある。「自由に弾いてみろ」と言われても、音楽だってスケールや和音法則、周波数、メトロノーム、さらには虫の居所などに支配されている。ボブ・ディランの言葉だが、結局あなたは誰かに仕えなければいけない。いや、実に。

しゅうきょう【宗教】[名詞](補遺)
 神、人生、死後の世界などについて、人が信じる教え。本来は信者がたった一人でも宗教は成り立つのだが、そういうことはほとんど無いか、もしくは人に知られることがない。自分の信じる素晴らしい教えをみんなにも知らせなければならないと言う、おせっかいな義務感が発生しやすいのも宗教の特色の一つだからである。精神的芸術である音楽において、精神的動機である宗教を考えることは有意義である。人間が行う以上、両者は密接に関連せざるを得ないからである。もちろん、古今東西様々なアーティストが、その信仰心からたくさんの傑作を作ったのだが、ここに書くのも恥ずかしいようなひどいカルト宗教が増えた近代においては、宗教というキーワードが大衆音楽にとって商業上のマイナスに働くことが多くなってしまった。ミュージシャンにとって、入信することは音楽に対する迷いそのものであり、宗教の広告塔として利用されていると見られてしまうのである。まあ、信仰が個人の自由であることは憲法で保証されているのだから、実害がなければそっとしてやってほしい。ついでに言うと、神などいないと考えることも一種の宗教である。普段これが宗教として認知されないのは、そういう人の信じているものが行き当たりばったりで、論じるにも値しないからだ。

じゅうにおんぎほう【十二音技法】[名詞]
 1オクターブの中に切り分けられた12の音を全て平等に扱う「十二音音楽」を作る技法のこと。オーストリアの作曲家シェーンベルク(1874-1951)が確立した。十二音音楽は、音の構成や進行に決まった法則がある「調」という考え方を否定した無調音楽で、極端な平等主義を音の世界に適用した。しかし、単に無秩序な音を並べるだけでは曲にならないので、ある音の列をテーマにして、それを元に音楽を構築していく。この技法は、調性音楽の作曲家にも応用されているらしい。申し訳ないが、個人的には全く共感できないジャンルである。十二音主義者は、メロディーメイカーとして単にネタにつまっただけではないのか。彼らの平等主義を仮に認めるとしても、では彼らがなぜ12という数字にこだわるのか、私にはどうも見当が付かない。そういうことなら、別に1オクターブを20とか40とかに分けてもいいと思う。しかし、これではギターのフレットが不必要に増えるので、指が指板にのっからないし、弦を押さえただけで軽く二度くらいシャープしてしまうだろう。他にも、この手の音楽に対応した作曲ソフトを始めとして、ミュージカル・ソー、口琴、調律の甘いホンキートンク・ピアノ、デッキのヘッドに噛まれてしまったDATテープ、嫌々習っている子供のバイオリン、気性の荒い犬、鍵盤上の子猫など、実用的な無調音楽ツールが世の中にはいっぱいある。興味のある人は試してみればよかろう。

じゅんおんがく(じゅんすいおんがく)【純音楽(純粋音楽)】[名詞]
 読んで字のごとくだが、実に定義の曖昧な言葉。この語は場合によって受け取られ方が異なる。大衆音楽にも理解のある作曲家の、劇・映画用の伴奏音楽以外の作品を指すこともある。世俗に迎合しないアカデミックな作品だけを指すこともある。また、声楽曲に対する器楽曲を指すこともある。つまり映画の主題歌や挿入歌などというものは、ものすごくイヤらしくてヨコシマな音楽ということになる。サウンドトラックのプロデューサーに失礼ではないか。→絶対音楽。

じゅんせいりつ【純正律】[名詞]
 『大辞林 第二版』によると以下の通り。「音律の一。全音階中の主要な完全五度と長三度が和声的に純正に響くように、各音間の音程を単純な整数比で定めたもの。純正調」。純正律に調律された楽器は、転調すると途端に不快な響きになるため、転調が不可欠な近代以降の音楽では使いものにならない。逆に、現行の平均律和音が気持ち悪いと感じる古楽マニアもいるみたいだ。こうして根本的な感覚の違う聴衆同士は、永遠に分かり合えない。気持ちいいのが気持ち悪いんじゃ話にならん。まあ、何事もほどほどが一番。→平均律。

じょうおう【女王】[名詞]
 @女性の王。女帝。
 Aあるジャンルを極めた女性のこと。例:「ブギの女王」「演歌の女王」。王や女王は普通一国に一人しかいないが、特に音楽界では頂点があちこちに存在しているので、様々な王制が布かれる連邦もしくは「連峰」国家の様相を呈している。女王は複数の都市で頻繁に戴冠式を行い、家臣や下僕たちがその都度ペンライトで彼女の栄光を賛美したりする。中には二君以上に仕える不忠者もいるが。

しんくうかん【真空管】[名詞]
 中を真空にしたガラス管を用いる電子部品(TVで使われるブラウン管もでっかい真空管の一種らしい)。整流や増幅などの機能を持ち、電子機器には無くてはならない部品だったが、ICやLSIなどの集積回路が発明されると、真空管の時代は遠く過ぎ去っていった。今の日本には、すでに真空管メーカーは存在しないらしい。真空管は容積を小さくできないし、発熱するし、寿命があるし、時間が経たないと性能が安定しないし、ノイズもあるなど、デメリットが多かったのである。ところが、音響機器の分野では未だに真空管を使った暖かいサウンドが重要視されていて、特に近年では真空管復権の動きが著しい。英語では「チューブ tube」といい、チューブ・アンプ、チューブ・マイク、チューブ・コンプなど、これを使った機械は根強い人気がある。真空管は、仮に同じ規格でも、メーカーによる個性や個体差があるらしく、わざわざ外国から別の真空管を取り寄せたり、真空管のサウンドに近づける「アンプ・シミュレーター」なるものまでが現れる始末。だったら、そもそも集積回路なんか最初から使わなきゃ良かったのに。これは、人間の右肩上がりの技術進歩を根本から否定する現象の一つである。私も、真空管のような人間になりたいものだ。寿命は早そうだが。

しんこぺーしょん【シンコペーション】[名詞]
 英語の「syncopation 切分法、移勢法」。ある弱拍と次の強拍を繋げることによって、強拍の発音タイミングを早めて、リズムに躍動感を与えること。アフリカのポリ(複合)リズムの世界では、シンコペーションは自然に生まれる。一方、古い時代の西洋音楽や邦楽などには、シンコペーションはほとんど見いだせない。邦楽では「音頭」と呼ばれるダンス音楽の一部にシンコペーションらしきものが見られるが、これは近代西洋音楽の影響であるという説を聞いたことがある。ラグタイムやジャズをはじめとする軽音楽の世界では19世紀末から多用されて、今に至るまで基本的なリズム手法になっている。しかし少なくとも日本においては、民族性を無視して無理に取り入れたシンコペーションは長続きしなかったらしい。試しに、日本のとあるタテノリロック音楽のけたたましい伴奏部分を全て取り去ると、メロディーに内包されるリズムが妙にのっぺりしていて、シンコペーションの面白味にまるで欠けているのに気づくことが多い。よく聴くと、何とも無邪気であどけない子供が、指一本で懸命にピアノを鳴らすときの幼稚なリズムにそっくりなのだ。これなら音頭の方が遥かに躍動的だ。

しんじる【信じる】[動詞]
 信頼する。たとえ何の裏付けがなくても、嗜好のおもむくままに自分の無防備な心を誰かに預ける。何か明白な裏付けがある場合、もしくは信じるに足る裏付けをより多く探そうとした場合には、すでに「信じる」という行為ではなくなる。換言すれば、その対象のことを突き詰めて考えたり疑ったりするのを、ある意味止めてしまうことを表している。そうして信じた結果は思いのほか不安定であり、お金が絡んだ場合にはさらに不安定になる。長い時間信じ続けて安定してしまった考えは、たとえ客観的に見て間違っていても「信念」「こだわり」として尊ばれる。信じるという行為において、立派な人格者とただの頑固者とを線引きすることは難しい。歌詞の世界で「信じる」という言葉は、この素晴らしい無償の行為を讃えるかのように乱用される。現実では、人の良い面しか見ようとしない純真無垢な子供たちが、多くの悪人にだまされているのに。当の歌の作者は、裏切られたことがあまりないお人好しか、もしくはタチの悪い悪人だ。また、特に「自分を信じ続ける」のように、信頼の対象が自分自身に向かう場合は、別の意味で要注意である。自分に裏切られたことは、黙っていれば誰にもわからないから、イカサマがたやすい。

しんせ【シンセ】[名詞]
 英語の「synthesizer シンセサイザー」の略語。「synthesize」は「合成する」という化学用語。その合成の仕方によって、何だかいろいろな種類があるらしい。一時期は、シンセで合成された音が、なぜか本物の楽器の音よりももてはやされた。特に1970年代はシンセの黄金時代。スティービー・ワンダーや冨田勲らが好んで使い、オーケストラの伴奏業界は壊滅的な打撃を受けた。しかし今では時代が変わり、いかにもシンセという音色は色物扱い。サンプラーなのかシンセなのかシーケンサーなのか、よくわからなくて困るものも多い。現在の代表的なシンセの形は、PCのおまけについてくるソフト・シンセなど。全ての音楽家がパソコンマニアになる日もそう遠くない。

しんわ【神話】[名詞](補遺)
 @神の伝説。節が付いたものは神謡という。
 A残念なことに、神の信奉者を気取る不埒者どもの創作した伝説、話し手が信じていたい定説をも表す。例:「アイドル神話」「彼の曲のヒット神話が崩れた」。ちなみに、こういう神を讃える聖なる言葉を通常の世界で用いる場合、意味が微妙にねじれることがある。例えば「三種の神器」とか「天下り」のように。→伝説。

TOP 目次に戻る