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【て】

て【手】[名詞]
 腕の先端に位置する、本来はものを触ったりつかんだりするための身体部位。手の甲、手のひら(掌)、手の指、手首などにより構成される。二足歩行のできる人間の手は、他の動物の「前足」より神経が細やかである。バスドラやホルダーに挟めたハーモニカのように手を使わない楽器もあるが、大抵の楽器は手で操作して演奏する。サッカー選手が無意識に手を使うことを「神の手」ということがあるが、楽器演奏家にとっては手こそが神なのだ。演奏家の中には、炊事洗濯をしないことを「手の保護」という大義名分で正当化する輩がいる。手は確かに大事なので別にそれでもいいのだろうが、彼らの音楽は得てして生活感というものに欠けることがある。この世の中、たとえ神さまだって苦労して生活しなければならない。さて、手が音楽を奏でるというのは、実は楽器の操作においてだけではない。主にクラシック演奏家の演奏を注意深く見ると、演奏の合間合間にとても優雅でしなやかな「手の返し」を見ることができる。これはおそらく楽譜には記されていないフィギュアスケート的な動きであり、クラシックの演奏家に委ねられている数少ない即興の所作である。女性ハーピストの手の返しなどは、見ているだけで聴衆まで陶酔しそうななまめかしさである。この大仰な手の返しがあるのと無いのとでは、聴衆に対するアピール度においてかなり大きな差が出る。特にライブ・アーティストは、こういう手の動きを不必要なまでに強調したい。この点では、楽器演奏家より歌手の方が、より効果的に手でアピールできる。特にバラードを歌うときの、歌手が手を広げたり拝むように組んだりして訴えかけるポーズ(振り付け)は、誰もが見たことがあるだろう。単にカッコツケのポーズとして一蹴することはたやすいが、これは人間行動学的に興味深い題材だ。人に訴えかける時に、彼らが何でこうやって手を挙げたり広げたり前に出したり引っ込めたり曲げたり伸ばしたりするのか、よく考えればとても不思議である。本来、両手は動かさないように後ろに回した方が、胸が広くなって声量を稼げるはずなのだ(合唱団や応援団を見よ)。おそらく歌手本人にもその行為の意味がわからないから、この無意識の振り付けこそまさに「神の手」と言える。ボケッと突っ立っているヒマがあったら、手でも何でも使えということなのだろうか。

であい【出会い】[動名詞]
 動詞「出会う」の名詞形。普通は人と人とが偶然に出くわすことだが、異性同士の用例が比較的多く、中には用意周到に仕組まれた出会いもある。後に振り返って、感傷的な運命、偶然以上の意味あるものとして引き合いに出されるとき、このロマンチックな名詞形がよく使われる。特に、異性が倦怠期気味の相手を引き留めるときの美辞麗句。例:「あの時の出会いは運命だったんだ」。普通に会ったことが後に「出会い」にまで昇華するには、様々な苦労と友情・愛情の歴史が必要だが、別に長い時間は要らないらしい。例えば街頭インタビューにうっかり答えたりすると、だんだんインタビュアーの話に熱がこもってきて、たった今会ったばかりなのに彼はこの言葉を口にする。これは、私が経験した、人生で最も早い出会いの例だった。この出会いを無駄にすると損をする、というのは未然の脅迫に他ならないから、とりあえず出会ってから一年くらいはよく考えたい。

でぃーてぃーえむ【DTM】[名詞]
 英語の「Desk Top Music 卓上音楽」の略語で、実際の楽器を使わず、パソコンやシーケンサーやMIDI音源などを使い、打ち込みで音楽を作ることを言う。印刷業界における「Desk Top Publishing 卓上印刷」をもじった言葉らしい。何でも机の上でできてしまう人たちの言葉には、今一つ重みが感じられない。

てぃーぴーおー【TPO】[名詞]
 J−POP・ユニットの略称ではなく、英語の「Time, Place, Occasion 時、場所、場合」の頭文字を採った略語で、意外なことに日本の某氏の造語だという。要するに「場をわきまえろ」「身だしなみに気をつけろ」という意味。確かに常識的で、かつ社会生活には不可欠な考え方だが、一方このTPOは、時として自由であるべき人間の行動様式(特に芸術活動)に制約を課する。アレもコレも金も名誉も女も人の目も関係ないと言う、真の意味での純粋な芸術ならば、TPOは乗り越えなければいけない精神障壁とも言える。場をわきまえない人、よくあるシチュエーションに安住しない人こそが、真の芸術家になり得るのである。しかし、だからといって、例えば歩行者天国のど真ん中で習字をしたり、満員電車にギターケースを3本も持ち込むような人は、やっぱりはた迷惑だと思う。

でぃーば【ディーバ】[名詞](補遺)
 イタリア語の「diva」で、オペラのプリマドンナを指す。そもそも、インド神話におけるアーリア人の神々を表す言葉が語源らしい。日本ではなぜか「歌姫」と誤訳されている。実力あるオペラ歌手でもプリマになるのは難しいのに、ちょっと歌がうまいだけでいい気になってディーバを自認する人がそこかしこに存在する。「歌の女王」とまで言うのは差し障りがあるのだろうが、それにしても神聖なる神の名をかたるとは不届きな連中だ。ほめるにしてもほめ殺し、キャッチコピーならば誇大広告の範疇に入る。男性歌手にはこれに当たる言葉(例えば歌の皇太子とか)がないことを考えると、女性歌手のあつかましい自己陶酔の度合いがよくわかる。→女王[本編]。

でぃーぶいでぃー【DVD】[名詞]
 英語の「Digital Video Disc」の略語で、ビデオ媒体の規格。映像がCDの大きさの円盤に記録できるなど、誰も予想していなかった。もし予想できていれば、LDのようにムダなビデオ・ディスクは出てこなかった。これからのビデオ・メディアを席巻する予定だが、それにはまず録画機器や媒体のさらなる価格低減が必要。しかし安い録画機器が普及したら、違法コピーも増えて、結局業界全体の儲けが薄くなり、不景気の悪循環を迎える。また、気が遠くなるほど大量のソフト、特に18禁ソフトも普及には必要不可欠。どのメディアも一度は通った悪の道を、こいつも思い切り通過している真っ最中だ。

でぃすこ【ディスコ】[名詞]
 今ではあまり使われなくなった言葉で、主に70〜80年代の洋楽に合わせてフィバって(=おだって)踊るダンスホールを指した。今では「クラブ」がそれに該当するが、音楽はともかく中身は大して変わっていないし(だいたい未だにLPレコードを掛けているくらいだ)、何の部活動なんだかよくわからないから、余計な言葉のすり替えだった。ここに備え付けられていたミラーボールという小道具は、カラオケでもよく使われている。恥ずかしながら、私も一度だけ大学の仲間に誘われて市内のディスコに入ったことがあるが、フィバるどころか耳をつんざく爆音ですぐに気分が悪くなり、自分はなぜここにいるのだろうかと哲学してしまった。ダンスホールで哲学してはおしまいだ。それからその店はほどなくして閉店してしまったので、今となっては記念写真でも撮っておけばよかったと後悔している。ほろ苦い青春の思い出、とはいかなかった。

でぃすぷれー【ディスプレー(ディスプレイ)】[名詞]
 英語の「display 展示」。
 @パソコンなどの画面表示装置。モニター(A)。
 A展示の仕方や工夫、またはそのために使われる小道具を表す。売上誘導の一手段。レコード店やライブ会場など、商品の売場での展示方法は、売上に直接影響する。極言すれば、音楽の内容自体よりもむしろ展示方法の方が重要だったりする。棚で言えば平積み、並べるならば一番手前、CDを立てるためのスタンドもある。付箋にちょっとした手書きの推薦文や宣伝文句などを書けばベスト。多くの人間には、大した吟味もせずに文章や外見で音楽を評価するという、宣伝広告担当者にとっては好ましい習性があるので、たとえ心にもないウソを書いてもそういうものだと思ってもらえる。このことは、音楽商品に限らず一般の商品にも言えるし、実は人間の評価についても同じ事が言える。あなたは、決して短くはない人生の中で、ヤツの巧みなディスプレーにだまされた、と思ったことが果たして一度もなかっただろうか?

できちゃったけっこん【できちゃった結婚】[名詞]
 妊娠が発覚してから(仕方なく)結婚すること。なぜか芸能人にやたらと多い。あまり望ましいゴールインとは言えず、昔はスポーツ新聞のネタとして大きく取り上げられたものだが、今時こんなのはフツーだから、時代と共に扱いが小さくなってきている。いきなりジャンルは違うが、不正が発覚する前に辞職する政治家はまずいない。それどころか、発覚後も堂々とバッジを付けようとするあきれたヤツがいる。腐った大人たちに、若者の軽率さをなじる資格はない。

てくにっく【テクニック】[名詞]
 英語の「technic 技術、技能」。音楽では、特に演奏技巧を指す事が多い。別に普通の言葉なのに、どうして英語が特にそのまま使われるのかというと、一部の人がこの外来語に「カッコだけ、上っ面だけのもの」という否定的ニュアンスを持たせようとして使ったものが、肯定的な意味でも広まったからだと私は推測している。例:「音楽はテクニックではない」「テクニックは十分だが」「テクニックをひけらかす」。超絶技巧の演奏家を「すごいテクニックの持ち主だ」と誉めることは多いが、音楽自体の表現内容に言及しないならば、その評価は片手落ちである。いやむしろ、テクニックがすごいが為にそちらに目が奪われてしまい、大して実質的な吟味もせずに「あいつはテクニックだけが売りだ」と思う人がやけに多くないだろうか。これは、優れた音楽表現をそれなりの苦労の末に修得した演奏家にとって、理不尽としか言いようがない。いっそのこと、技術レベルを落としてヘタウマになった方がウケがいいのかも。音楽は、もちろん演奏技巧だけでは成り立たないが、心を表現するには形が必要であり、技巧が限られていれば心の表現範囲が狭くなってしまうのも確かなのだ。

でじたる【デジタル】[名詞/形容動詞]
 英語の「digital」。二進法(○か×か)の計算を使っている論理方式を指す。いわば二者択一なので原理が単純な上に、組み合わせることによって計算を大規模化・高速化しやすいという利点がある。このデジタル方式により、コンピュータなどの情報処理機器が格段の進歩を遂げた。音楽の分野も、今はほとんどがデジタル技術によって製作・流通がなされている。デジタル媒体の、アナログ媒体と違う特色は主に四つある。
 1.ノイズが少ない。
 2.劣化しにくい。
 3.場所をとらない。
 4.コピーしやすい。
 最後の項目が大問題。あまりにコピーしやす過ぎて、著作権が侵害されるなどの弊害が起きているが、このコピー天国を招く技術の開発者の責任は問われなかった。核兵器の例を出すまでもなく、ある技術を使いこなす技術を開発するのは、どんなジャンルであれ良からぬ考えを持つ第三者なのである。
 さてデジタル技術については、今でも難しい印象を持つ人がいて、「オレはアナログ人間だからデジタルは性に合わん」と言う人が年配者を中心に多い(平成生まれは、逆にアナログって何?といぶかしむ事だろう)。デジタルは、例えば△を表すのに○と×の組み合わせで表すもんだから、哲学的拒絶反応を示す人がいるのはもっともである。しかし、自分が単に機械オンチなのを、アナログ、アナログとか言ってあんまり自慢しない方がいい。思うに、人間の論理とは、実は全てがデジタルの精巧な組み合わせである。例1:「生きるべきか死すべきか、それが問題だ」。確かに、それが問題だとすれば二者択一以外の選択肢はない。例2:「残された道は二つしかない。アメリカの側につくか、テロリストの側につくかだ」。敵の敵は味方という論理はまさにデジタルの悪しき見本で、過去その論理は何度か破綻している。寝返りの要素を考慮していないからだ。例3:昼飯を選ぶとき。カレーにしようかラーメンにしようか悩んだ挙げ句、どちらでもないチキン照り焼き定食を選んだ人も、翌日以降はやっぱりラーメンとカレーの狭間で揺れ続けることだろう。チキンも牛丼やチャーハンなど他のメニューも、選択肢が増えただけで、やはりデジタルの組み合わせ。このように、アナログ人間とか言ってる人の△も、実は多くの確率で○と×の組み合わせだったりする。

でじりば【デジリバ】[名詞]
 英語の「digital reverb」(デジタル残響音付加装置)の略語だが、単体エフェクターとしてのデジタル・リバーブが時代遅れになってしまい、今はほとんど使われていない。デジタル・ディレイ(デジタル遅延音付加装置)が「デジディレ」とならなかったのは、単に言いにくいからだろう。例えば戦前ブルースマンのロバート・ジョンソンのことは「ロバジョン」と言うのに、映画俳優のロバート・レッドフォードのことを「ロバレッ」と人が言ったのを私は聞いたことがない。私はこういう現象を「略語主義者の言語差別」と仮称したい。

てびょうし【手拍子】[名詞]
 調子に合わせて一定のリズムで手を叩くこと。合いの手。客とミュージシャンが一体となる、美しい光景を思い浮かべてほしい。手拍子を客に要求するミュージシャンは、頭の上でオモチャの猿みたいに手を叩く。一見楽しそうだが、彼の内心は「誰も叩いてくれないんじゃないか?」と、結構必死の気迫がある。みんな、ノリが悪いぞ、もう一回。お客たちは、叩かなければ悪いかもと思い、意外とバカにならない手の痛みに耐えながらも懸命に大役を果たす。しかし「ただ友達に誘われて来てやっただけなのに、何でオレが手を叩かなきゃいかんのか」と、終始ムスッとしている人もいる。そのご意見は至極もっともである。手拍子は最後あたりで少しくらいなら微笑ましいが、特に70年代フォーク世代のミュージシャンたちは、あんまりこれを何度も無理強いしない方がよい。たびたびお客様にご負担を強いることを前提にステージが進行しているのであれば、手拍子代としてお客様にギャラをお支払いすることを考えるべきである。

てれび【テレビ】[名詞]
 英語の「television」の略語。解説不要の文明の利器。孤独を紛らわせ、殺伐とした雰囲気を緩和する家庭の道具。2011年には現行の地上波アナログ放送が消滅する予定なので、バカ高いデジタル・テレビを買わなければいけないらしい。うちの14型テレビは、多分あと20年くらいは保ちそうなのに。音楽の流行はかなり以前からテレビに支配されているが、最近その傾向は特に著しくなった。日本国民の平均年齢が上がり、足が重くなって、外に出歩かなくなっているからだろう。ライブ会場にわざわざ足を運ばなくても、音楽なんてテレビを付けていればタダで耳に入ってくる。しかも映像付きだ。テレビで人気のアーティストのライブをわざわざ見に行く人は、明日もテレビでその人と出会えるだろう。テレビと対決する抵抗勢力は残念ながら絶滅した。だって、何と井上陽水や中島みゆきまでうれしそうにテレビ出演しているのだから。テレビでかからない曲はだいたいヒットしないし、ヒットしそうな、もしくはさせたい曲はやっぱりテレビで取り上げられる。みんながテレビに出たがっている。テレビは次のメガヒットの企画を考えている。オーディションまで番組になる。今や完全に、音楽はお茶の間の映像に敗北したのである。しかし、それでいいではないかと言われると、私は意外にも返答に窮する。...本当にそれでいいのかも知れない。

てろ【テロ】[名詞]
 英語の「terrorism」の略語。政治的・国家的な問題を、殺人・破壊行為・誘拐・脅迫などの暴力で解決または報復しようとする、卑劣で間違った考え方。この考え方を支持する人、特に実行犯をテロリストという。テロは、しばしば大衆によってやむを得ず支持される「戦争」という行為と本質的に同義で、大義名分の解釈や実行犯の人数の規模的な違いしかない。やっていることはどちらもただの人殺しだ。近年の社会問題になっているテロだが、実は最近、別の所にも問題が発生している。テロを憎む大衆の心理を利用して、テロという言葉を感情的な「あおり文句」として使い、紳士的で慎重な討議を回避するズルイ人が多くなったという問題である。つまり、相手がちょっと配慮に欠けた言動をすると、その被害者がとたんに「○×的テロ行為」「これは一種のテロだ」として糾弾することがあるのだ。例えば、礼を失した引退勧告に怒った、とある大物政治家もこの言葉を突然口にした。テロというあまりにも深刻で憎むべき言葉が、しちめんどくさい議論をすっ飛ばすために、悪の代名詞として軽々と使われている。こういう風潮を私は嘆きたい。そうそう、嘆いた後で何だが、やっぱりちょっと使ってみよう。よいミュージシャンは政治に口を挟むべきではない。大衆音楽を通じて獲得した人気を利用して、自分個人の政治的理想を説くのは、一種の音楽的テロである!

てんしょん【テンション】[名詞]
 英語の「tension 緊張」。ミュージシャンが「緊張」という日本語の方を素直に使う時は、ステージ裏で出番を待っているときや、ガチガチになって本番でトチったときなど、マジで緊張している場合が多い。一方、「張りつめたテンション」「テンションをキープする」などと外来語を使う時は、主に良い意味での緊張感に対する誉め言葉として使っている場合が多い。確かに、音楽にテンションは不可欠である。コード(和音)の構成音に付加する、解決を求めるような不安定な音のことを「テンション・ノート tension note」、そのコードを「テンション・コード tension chord」という。ジャズやボサノバなどのファンは、あらゆる曲のあらゆるコードに常にテンションが入っていないと逆に落ち着かない人たちだが、これは微妙に悪い意味での誉め言葉に値する。童謡にまで凝ったコードを付けるのはいかがなものか。複雑なコード理論をマスターしているのはよいことだが、緊張はここぞと言うときにすべきものなのだ。

でんせつ【伝説】[名詞](補遺)
 人が語り継ぐ話。本来は昔話と同義だが、実際はもう少し神聖なもの、例えば創世譚や神話などに多く適用される。ただしそれとは別に、以前に目立った活躍をしていた人間や物事の偉大さを良い意味で表す場合に、「伝説の〜」「〜伝説」という多少オーバーな連体修飾をする用法がある。例:「伝説のロック・シンガー」「ガッツ伝説」。ある存在を伝説扱いするための期間にははっきりした基準がないので、たかだか1、2年無理せずマイペースで活動していただけで、早々と伝説になってしまう人もいる。継続的に活躍していなかったことを暗に表すための、いわば失礼な敬語でもあることに、言われた本人を含めてたいていの人は気づいていない。

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