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【や】

やつら【奴ら】[代名詞]
 第三人称複数「彼(彼女)ら」を表す粗野な語。見知らぬ悪い連中、または自分と同じくらい悪い友人たちを指す。60〜70年代フォークまたはロック・シンガーの作るプロテスト・ソングでは主に前者を指し、特に国家権力や大企業などの組織を表した。こうした歌手は、世の中の多くの問題を「奴らの企み」として糾弾した。もちろん多くの名曲が生まれた。小市民対権力という古来からの対立構造をあおり立てる言動は、しかしイデオロギー闘争がだいたい終わった現在では時代遅れの観を拭えない。思うに、歌手という傍観者であることで、自分の正当性を確保したまま当事者を非難するのは、ある程度までならともかく、説得力の点でやはり限界がある。仮に政治の当局者に個人的な不満があるのなら、歌を歌う前に信頼に足る人に投票するか、自分で立候補して政界に入るべきだった。実際、政界入りした芸能人は多い。今にして思えば、なんだかんだ言って結局メディアに頼り、大衆を思い通りに扇動した彼らも、「奴ら」と同じくらい悪い友人たちではなかったのか。→連中。

やりなおす【やり直す】[動詞]
 一度始めたことをやめて、また改めて始める。タイムマシンのない我々の人生には、やり直しが効くことと効かないことがある。多くの場合やり直しが効くのは、例えば色恋沙汰のような、相手にも責任があったり、選択肢が他にもいっぱいあるような場合である(ただし、あんまり何回もやり直していると信用が無くなる)。例:「おれたち、やり直せないかなぁ」。一方、「ハイそれまでヨ」になりやすいのは、例えば退職の後で景気がガクンと悪くなった場合。普通は、二度と同じ会社には復活できない。バブル期に、終身雇用の終焉とか売り手市場とか転職の時代なんて言われて調子に乗った多くの世渡り上手たちは、思いがけず不況の時代に遭遇してしまい、自分の勇気ある無謀な冒険や名誉ある挑戦を、せめて話のタネとして寂しい酒を飲むことになった。でも、たとえ転職が希望に添うものではなかったからといっても、とりあえず新天地を別に求めたのだから、やり直したことにはなる。注意したいのは、何をやっても、どこに行っても、何度やり直しても、人生にはやっぱり別な形の苦難が待ち受けているということだ。やり直すという行為が、当面の困難から逃げ出すための衝動のみで為されるならば、いつまで経ってもその人の人生は落ち着かないことになる。一方、やり直しが絶対に許されないものがある。それは、例えばソロギタリストのステージ演奏。「あっすみません、間違えました。もう一回やります。」なんてみっともないセリフは口が裂けても言ってはいけない。たとえ曲中で間違っても、間違ったままで強引に押し通すべし。最初と最後で曲調が全然変わっていたりすることもあるが、それでいい。OK。「メドレーでした」と言えば済む。文句があるなら、終演後の飲み会で、客に愛想良く酒を振る舞ってごまかそう。仮にもプロならば、一度始めたことをやり直すくらいなら、サムピックで腹を切るとかカポタストで指を詰めるくらいの覚悟でやらなければならない。

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