私の哲学(2008年6月26日更新)

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 目 次

 はじめに

  1.国産アコースティック・ギターについて

 

はじめに

 この随筆は、ライブレポートの体裁の「ライブ日記」以外の随筆では、『投げ銭随筆』シリーズ以来となります。

 私もギタリストとしての生活が長くなってきて、また無駄に齢も重ねてきて、常々自分が理想として、または矛盾として思ってきたことが一つの哲学になりつつあるのを感じてきました。
 なお『大辞林 第二版』によると、「哲学 (1)世界や人間についての知恵・原理を探究する学問。もと臆見や迷妄を超えた真理認識の学問一般をさしたが、次第に個別諸科学が独立し、通常これらと区別される。存在論(形而上学)、認識論(論理学)、実践論(倫理学)、感性論(美学)などの部門をもつ。(2)自分自身の経験などから得られた基本的な考え。人生観。」とのことです。

 (2)の意味の哲学は、得てして独りよがりになることが多いのですが、人の言う事をよく聞かないで生きるのもその人の自由。ちょっと聞くのも、鵜呑みにするのも、反面教師にするのもその人の自由。それもその人の哲学の一種、人それぞれです。

 私がここで野暮ったくも自分の考え方の一部を説くのは、みんなにもその通りに考えていただきたいというのではなく、ただ備忘録のようなもので、書くことで「自分がこんな考え方をしていたんだ」と整理してみたくなったからです。また、こんな私の偏屈な考え方でも、ほんの何がしかの参考にでもなればいいなと思って執筆します。

2008年6月26日
浜田 隆史

 

1.国産アコースティック・ギターについて

 このホームページで一番更新頻度が高いかもしれないページは「私のギター列伝」です。
 このページに見られる通り、私の所有ギターは、ヤマハを筆頭に、1970〜80年代の国産アコースティック・ギターが多いのです。これは、いわば「国産ギターマニア」の範疇に入るだろうと思います(もっと凄い人は結構いるのですが...)。

 私はなぜこんなに国産ギターに入れ込んでいるのか。
 各ページにそれぞれそれっぽいことも書いているのですが、ここに改めて整理してみましょう。
 まずは反証として、「なぜ海外のギターをあまり弾かないのか」を説明してみます。
 そもそも、私は国産ギターしか弾かない人間だったわけではありません。人生で二本目のギターは、あのマーチンのD-18STでしたし、「私のギター列伝」ではあまり書いていませんが、会社員時代はマーチンOO-21、ギルドF-30RNT、ラルビーPresentation、モスマンDYなどを一時期持っていました。また、テイラー、フロッギーボトム、ソモギ、グレーベンなどの有名ギターも何度か試奏したりして、その魅力にも私なりに真剣に向き合ってきたつもりです。

 しかし、これにのギターは、私にとってずっと使っていこうという風には思えませんでした。個別の理由はいろいろあるのですが、要約すると次の二つの理由に絞ることが出来そうです。

1.弾きにくかった
2.サスティンが長すぎた

 1の理由は、最も基本的なところでの相性ですので、ここではじかれたギターは誰にとってもなかなか持ちづらいものがあります。そもそもギターにはいろんな形がありますが、海外のギターはともすれば大きい物が多く、日本人としては平均的な体格の私にとっては抱えづらいものもありました。試しに、ドレッドノートのギターをクラシックギターのスタイルで1時間くらい抱え続けてみてください。ボディーにくびれがないのでずり落ちてきたりして、なかなかしっくり来ません。
 といっても、私はドレッドノートのギターも結構持っていますから、抱えづらいことは特に大きな障害にならないかも知れません。私が「弾きにくい」と感じる一番大きな要素は、ボディーの形ではなく、ネックや指板の形状です。

 近年は、フィンガースタイルが見直されている時代ですので、ネックの厚さが薄く指板の広い形状が一般に好まれているようです。しかし、この傾向の強いギターは、実は私にとって弾きづらいのです。ネックは薄ければ薄いほど弾きやすいと思われがちですが、実際に薄いネックでセーハと普通の握りを繰り返すと、普通の握りの際にグリップの余地が取れなくてかえって疲れてしまうことがあります。また、親指で6弦を押さえる奏法(親指セーハ)がやりづらくなります。私の奏法では(というか普通のギター曲には付き物のはずですが)セーハが多いのですが、セーハを楽にするグリップというのはただ薄いものではなく、握りを繰り返す手にちょうどよく馴染む適度な厚さがあるものだと思います。

 こういう視点からいうと、私にとっては三角ネック(ヴィンテージ・ギターなどによく見られる形状)もアウトです。セーハと通常の握りを繰り返す「円運動」を三角が邪魔してしまうのです。私の持っている国産ギター「フィールズFカッタウェイ」は、実は若干三角ネック気味なのですが、幸いなことに親指を掛けるためのグリップが端の方に付いていて、いわば五角ネックと言える形状。慣れは必要ですが、なんとか違和感なく弾けるものです。 

 もう一つの理由は、普通はギターに求められる最も肝心な性質の一つですが、実際に私は、長すぎるサスティンのために自分の演奏がコントロールできなくなる状況に何度も遭遇してきました。極端ですが、ちょうど洞窟の中でギター演奏するのを思い浮かべてください。こうなると音が後から後から追加されて、今出したい音、聞かせたい音がぼやけてしまい、いわゆる「レスポンス」が悪くなるのです。

 特に、私はフィンガースタイルでラグタイムを多く演奏するため、ベースのリズムをカット、つまりミュートしないと歯切れよい演奏にならないのですが、長い残響音がそのミュートの努力を邪魔することが多いのです。
 私の感覚でいえば、ソモギに代表される、鳴りを極限まで追及した手工ギターの多くに、残念ながら自分に合わないものを感じています。こうしたギターの多くは、表面板が非常に薄く、また「スキャロップト」のようにブレイシングの強度を抑えているものもあり、外で長時間演奏する私のスタイルについて来れない可能性も高いのです。

 ただし、全くサスティンがいらないというわけではもちろんありません。そのさじ加減が最も厄介で、個人差のあるところなのでしょう。私の持っているマーチンコピーモデル、例えばモラレスBM-100もリバーブ成分は割とある方ですが、その減衰の仕方はマーチンより早く、自分にとってちょうど良い柔らかさを醸し出しています。

 また、「分離の良さ」も焦点の一つ。マーチンギターの多くに見られる見事なコードの響き、各弦が溶け合ったかのような一体感は、ピックでコード・ストロークをする場合には理想的ですが、裏を返せばフィンガースタイルでは弦と弦の分離が悪いことを意味しています。先のモラレスBM-100は、あまり分離がよくない方で、その点がウイークポイントの一つ。私が長年使ってきたヤマハS-51は、分離のよさはありますがBM-100ほどのきらびやかさは欠けているなど、それぞれのギターに一長一短があります。

(続く)

 

 

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