私のアイヌ語地名解2窓岩からトド岩まで〜(2004年5月31日更新)

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目次

  序文

北海道小樽市「山中」「川平」について 

  オタモイ海岸から赤岩海岸までの地名資料整理と、その位置の検討

★(オタモイ海岸〜山中海岸)
 1.アイカ
 2.窓岩
 3.シュプンモイ
 4.オタモイ
 5.プクサタウシ
  (* ここまでが昔の忍路領、以降は高島領)
 6.イクシタ
 7.モイ
 8.ポイシ
 9.ポンモイ
 10.チパトイ

★(山中海岸〜赤岩海岸)
  (* 山中海岸入口)
 11.チャセナイ
 12.ポンチャセナイ
 13.川平
 14.ノテトゥ
 15.ケトゥチ
 16.「ヲタ子ウシ」「クツタラシ」
 17.ピカワッカ NEW!!
 18.「ウコロシケ」

★(赤岩海岸〜祝津方面)
 19.フレチ
 (* 青い岩塔)
 (* 赤岩海岸入口)
 20.ワタラ
 21.ハンタカイシ
 22.赤岩(ポン赤岩または三角岩)
 23.ノテトゥ NEW!!
 24.メナトマリ
 25.チャヌスマ
 26.トド岩

 

 序文

 一度入れこむと、しばらく止まらなくなるまで集中してしまうのが、私の良いところでもあり、悪いところでもあると思っています。熱しやすいのは良いのですが、冷めやすいのがいただけません。アイヌ語地名の検討も、やりたがっているうちにやらないと、すぐ熱意を失ってしまうのではないかと思い、ここ数日はまるで学生のように資料の整理を行っています。ホームページで先日書きはじめた「山中」に関する地名随筆を検討していくうちに、どんどんわからないことが増えてきて、このままでは知的な欲求不満で悶え苦しみそうになったので、ここで改めて集中して検討していきたいと思います。

 「私のアイヌ語地名」では、思いついた地名解を思いついた順番に綴りましたが、ここではテーマを絞り、オタモイ海岸の窓岩から祝津のトド岩までの地名を順番に見ていき、過去の地名関連資料の記述を、積極的に比較検討していこうと思います。もちろん、そこから私なりの地名解釈や位置の検討も記していきます。
 仕事の都合や個人的事情により、更新は不定期になるかも知れませんが、どうか気長にご覧ください。私は地名解に関してはまだまだ駆け出しの身ですから、ご意見ご要望、叱咤激励などもご遠慮なくお寄せください。

2002年3月30日 浜田隆史

 では、この「地名解2」ページを書く契機となった、「山中」「川平」に関する地名随筆をまずごらんください。

 

・北海道小樽市「山中」「川平」について

 このページを更新しなくなって、実質的に2年ほど経ってしまいました。あれだけ熱中した地名解の検討も一段落、自分の中で是非触れておきたい地名解という事に関して言えば、これまでの解でだいたい区切りがついたと思っていたのでした。その間、新世紀を迎えるわ、私は本業のギタリストとして少し忙しくなるわで、いろいろなことがありました。
 いつの間にか2002年になっていましたが、私は相変わらず小樽の売れないミュージシャンで、なかなか他の土地を調べたりする余裕ができません。このページで触れている大部分の地名のように、子供時代に慣れ親しんだ地名について、少しずつエッセイのように触れていくくらいしかできないのです。

 もし小樽の海に関する地名を挙げるとすれば、もちろん「蘭島」「塩谷」という二大海水浴場は外せませんが、私が特に親しんだ地名として、もう三つ挙げたいと思います。それは「山中(やまなか)」「赤岩(あかいわ)」「オタモイ」です。三箇所とも、私が子供の頃から大学生の時まで足繁く通った、夏の思い出の地です。
 結論から先に言っちゃいますが、「オタモイ」以外はアイヌ語地名ではありません。よって、「私のアイヌ語地名解」に載せるのもどうかと思いますが、地名解をやっていく中で一番大切なことは、その土地への愛情と敬意だと思いますので、こういう個人的な思い出を綴る随筆も、少なくとも無駄ではないと思います。どうかご勘弁を。

 この項では、まず「山中」と、その海岸にある岩場を指したと思われるアイヌ語地名「川平」について綴っていきましょう。

 さて、いきなり奇妙なことに気がつきました。
 地名の資料にてっきり記述があると思っていた山中海岸は、何と意外にも、『データベースアイヌ語地名』にも『北海道地名分類字典』にも『北海道蝦夷語地名解』にも載っていませんでした。巻末の索引を調べた限りでは、『北海道地名分類字典』の方に「寿都町」の地名としてのみ載っていましたが、小樽市の山中海岸ではありません。前述の通り「山中」はアイヌ語ではないのですが、アイヌ語地名でないからといって載せなかったというわけでもないと思います(もしそうだとしたら変です)。とにかく、私としては少し残念でした。しかし、最初私は見落としていましたが、かろうじて『北海道の地名』には、「川平」という地名の解説のところで「山中という小部落」が登場していました。
 確かに、この「山中」という地名は、町名でも住所を示す字でもなく、バス停の名前にもなっていなかったと思います(?うろ覚え)ので、地元の人以外はあまり注目しない土地かも知れません。しかし私は、それこそ小学生の頃から何度も親に連れられて海水浴に行った、思い出の地名です。赤岩も好きでしたが、山中の海はもっと好きでした。

 ここの最寄のバス停は確か「オタモイ団地」で、そこから山の中、うっそうと茂る森の中へ入っていくという感じでした。そして、赤岩ほど急ではありませんが、ずっとこの山の中の道を降りていきます。この道は舗装されていなくて、いつもぬかるんだ水溜りがあって歩きにくかったことを記憶しています。かなり歩いて、やっと海岸にたどり着くのです。山の中を抜けたところにある海岸だから、山中海岸。全くその通りだと思います。
 そこは観光客が通うような正式な海水浴場ではありませんが、隣の赤岩海岸と同じく岩場が続くところで、まさに「穴場」。単に海水浴だけでなく、風光明媚な景色、さらに釣りやツブ(岩に引っ付いている、黒く小さな貝)取りも楽しめるとあって、釣りの好きな父が好んだ場所でした。山道から海岸への入り口付近には、あまり使っていなさそうな漁師の舟がつけてあったのも覚えています。昔はこの海岸もニシン漁でにぎわったらしいという事を、母から聞きました。

 岩場はかなりごつごつと連なっています。その点、赤岩と同様です。その岩磯を海に向かって右に行けば赤岩へ、左に行けばオタモイへ続いています。私たち家族は、いつも赤岩側へ少し行き、父はかなり大きい磯岩の上に竿を固定し、いつも磯釣りをしていました。子供だった私たち(三人兄弟)は、その近くの浅瀬で、岩と岩の間で区切られた海を「プール」に見たてて、「ここはオレのプール」「じゃあこっちはボクのプール」などと言って陣地を作って遊んでいました。潮の満ち引きでプールが大きくなったり小さくなったりするのを見て、不思議に思ったものでした。今思えば、そんな小さな発見を楽しい遊びに変えてしまう、子供の頃の想像力はすごかったなと思います。

 アイヌ語で岩のことをシラ sirar と言います。海岸の磯岩を指すことが多いですが、千歳辞典には「sirar nupuri 岩山」という例もあり、「磯」とは限りません。萱野辞典には「(粥や糊が)固い」という意味でも載っています。シラとという言葉に、岩のような固いもののイメージを連想していることは明らかです。
 これに対して、類語のカマ kama またはカマソ kamaso という言葉があり、こちらははっきりと「海中、川中にある偏平な岩」(千歳辞典)です。もう一つ、「(厚さが)薄い」という動詞でもあるカパ
 kapar という言葉があり、これも地名小辞典によると「水中の平たい岩」という名詞の意味を持っています。もう一つオマケに、ワタラ watara(海中の岩)という言葉があります。これらの言葉は混同しやすいので、シラとの微妙な違いに注意しておきたいのですが、まだ私にもその意味の住み分けが捉えきれていないようです。

 この山中のあたりから赤岩までの海岸には、石原もありますが、だいたい sirar が続いているのです。榊原さんの『データベースアイヌ語地名』にある地名「カパシラ(kapar は厚さが薄い、sirar は岩)は、この山中海岸にある地名です。
 『データベースアイヌ語地名』によると、過去の語形は以下の通り。伊能忠敬の『伊能中図』には「カハシラヽ」、武四郎の『東西蝦夷山川地理取調図』には「カハリシララ」、永田地名解では「カパラシララ」、明治25年の地図には「カウシラ」とあるそうです。さらに『北海道の地名』には、同じ地名が「川平」(前述)という名で載っていました。その解釈はもっぱら「kapar sirar」を思わせる解に揃っていまして、アイヌ語解釈の疑問は私にはありません。
 薄くまたは平べったく見える岩場は、この辺にはいっぱいありそうです。私は、学生の頃歩いて山中から赤岩まで歩いたことが何回かありました。大学生の頃は、漁師の依頼でウニやアワビなどの密漁監視員のアルバイトをやっていたので、赤岩が中心でしたがかなり歩き回りました。

 榊原さんは「カパシラ」の項で、「この岩礁については、筆者の観察では確認できなかった」と記していますが、それはこの「カパシラ」という単語を「海の中の波かぶり岩」に限定して解釈したからだと私は思います。
 知里真志保は、おそらく語源解「sir 地 + rar 水へ潜るという意味の語根?(久保寺辞典より推定)」という観点から「波かぶり岩」というイメージを得たのではないかと私は当て推量していますが、「sirar nupuri 岩山」「sirar sayo 固いおかゆ」「sirar nisu (石の)挽き臼」などの例からわかる通り、私はそのように意味を限定する必要を感じません。シラ
とは、岩でさえあれば、必ずしも波をかぶるほど海の中になくてもOKだと私は考えるのです(もちろん、かぶっているケースもあるでしょうが)。

 地名をつけた理由を探るときには、名付けた人がそこで何に注目したのかを考えてみます。すると、やはりこういう岩場の多い海岸では通行そのものが大きな関心事だと思います。海岸の岩場は、場所によってはかなり大きくゴロゴロしていて渡りづらく、普通にサクサクと渡れる平らな岩場を、その対比で「カパラ 薄い」と呼んだと私は仮定しました。ちょうど赤岩と山中の真中辺りは、けっこう渡りやすい場所があったはずで(よく学生さんたちがキャンプをやる場所もあったと私は記憶しています)、おそらくそういう岩場をカパシラと呼んだ可能性は高いでしょう。
 『データベースアイヌ語地名』によると、カパ
シラは、武四郎の西蝦夷日誌の記述に「チヤラセナイ、(二町)カワリシララ」とあることから「(チャセナイという滝状の川)の200mほど東側にある岩礁を指すものと考えられる」としています。この「岩礁」を、上記のように読み替えて海岸部を見ていけば、地点はほぼ特定できると思います。それは次回の宿題にしておきます。

 なお、アイヌ語に多少詳しい人にはむしろ意外かも知れませんが、少なくともアイヌ語沙流方言の音韻変化には、r + s → s + s となる法則はありません。だから、kapar + sirar → kapassirar とは、理論上はなりにくいはずなのですが、何故か実際、カパッシラ kapassirar と言うところが他にあります(渡島西部乙部町「蚊柱(かばしら)」、北見枝幸「カパッシララ」など)。
 『伊能中図』の「カハシラヽ」という語形は、小樽でもそういう音韻変化があった可能性を示唆しています。「川平」はこの「カパッシラ
」の日本語音読地名と言えるようです。「東北弁がシ、ヒを混同した...」(『北海道の地名』)ということです。

追加(2002・3・30):できの悪い生徒のように、いつも宿題を先延ばしにするのは良くないと思い、私は2002年3月28日に、上記のように当たりを付けた後、改めて山中〜赤岩へ実地検分に出かけました。まだ山道には雪が残っていて、今思えばかなり危なかったのですが、私にとっては今の季節くらいしか行くチャンスがないのです。久しぶりに山中へ行くと、昔の思い出が蘇ってきました。チャセナイで水を水筒に入れたこともありました。もちろん疲れ果てるまで遊びました。岩でひじをすりむいたりしました。もう家族そろって海水浴に来ることはできませんが、本当に気持ちの良いところです。
 いろいろ見て回りましたが、ここでは「チャ
セナイ」と「川平」に注目します。

 チャセナイは「carse-nay ザァっと言う・川」で、勢い良く流れる川の音を擬音語で表した地名で、かなり類例が多いです。『データベースアイヌ語地名』によると、武四郎は「チヤラシナイ」「チヤアラシナイ」、永田地名解は「チャラセナイ」。全く同じ地名が同じ小樽の張碓にもあり、ここはほとんど滝といってもいいくらい落差のある水の落ち方でした。どのくらい大きいと「ソ so 滝」と言うのか、逆に研究が必要かも知れません。


(写真1.)「チャセナイ」と思われる西側の滝。

(写真2.)「ポンチャセナイ」と思われる東側の川。

 山中のチャセナイについて、榊原さんは「「オタモイ海岸」の東側には二筋ほどの小滝が確認出来たが(初夏)」と記しています。私が行ったのは春先で、雪解けのために水量はかなり多く、小さな滝ということで言えば、山中海岸の入り口から300メートルくらい東へ行く間に少なくとも3箇所は出来ていました。しかし、一番大きくて目立つ滝は一目瞭然で、入り口から歩いてほんの少しの所にあるもの(写真1)でした。榊原さんの記した二筋のうち、オタモイ寄りの川のことです。もう一つの方(写真2)もそれなりに大きいのですが、いわゆる「滝壷」にあたる岩場には草が生い茂っていて、それほど勢いも強くありません。対して、大きな川の「滝壷」部分は、水の勢いが強すぎるせいで流域には何も生えていないため、遠くからでもよくわかります。どちらをメインの地名に残すかというと、やはり大きな方ではないかと私は単純に考えます。


(写真3.)左端ポンチャセナイ、右端遠くにチャセナイが見える。

 このチャセナイの位置を特定すると、続く「川平」の位置解明が楽になります。先の西蝦夷日誌の記述から、チャセナイから二町(約200メートル)の圏内を見てみると、200はありませんがだいたい100メートルくらい離れたところ(ちょうど先ほどの小さな方の川が流れているあたりから東方向)がちょっとした小石原になっています。
 その地点の海上だけは、ごろごろした磯岩が見当たらないのです。東西を見てみると、やはりごつごつした岩が海上にも岸にも目立ち、実際歩くのに苦労します(ここ以降は、久々にゴロゴロの岩場を歩き、恥ずかしい話ですがヘトヘトになりました)。ふと、その地点の海を覗いて見ると、背後の岩山から続く、コバルトブルーの平らな岩盤が見えるのです
(写真4、5)。この床のような岩盤は、溶岩が溶けて固まったような、のっぺりした感じです。ここの小石原は、その岩盤上に敷き詰めたようになっていたのでした。なお、青い岩は山中海岸でよく見かける色で、赤岩の赤い岩とは対照的です。


(写真4.)「川平」と思われる場所。
 
 青く平らな岩盤が海中に続いている。
 平ら過ぎて海草が生えないところがある。

(写真5.)「川平」の岩のアップ。
 

 

 私は、ここが「川平(kapassirar)」だと感じました。前の方で推論した話は的中とはいきませんでしたが、私はここに間違いないと私は思います。一万分の一の地図「小樽市街図」に載っている「川平」の位置ともほぼ合致するようです。「川平」は先に触れたようにアイヌ語地名なのですが、もし「川の近くにある平らなところ」という日本語の文字通りの意味合いも持たせた地名だと考えれば、実地検分ともぴったり合致するのです。

 

 オタモイ海岸から赤岩海岸までの地名資料整理と、その位置の検討

 ではここからは、私が知り得た限りの地名資料による、過去の語形の一覧表をとりあえず載せてみます。過去の原典の中でも一番具体的で信頼に足る『西蝦夷日誌』を基準に、アイカからトド岩までの地名を順に並べました。『津軽図』の2、3のみ順番を入れ替えていますが、その他は資料に記載のある順番を踏襲しました。誤植と思われるものは、ヘタに直さず、とりあえずそのまま記しています。孫引きが多いのは、私の不徳の致すところです。
 以下は、取り上げた資料とその略称です。

津軽図...『文化7年(1810)津軽藩旧蔵 蝦夷地図』(山田秀三氏の写しより)
西川図...西川文書の絵図類(『小樽市博物館紀要7』(1994)の引用より孫引き)
西蝦夷...『西蝦夷日誌』(松浦武四郎)
山川図...『東西蝦夷山川地理取調図』(山田秀三氏の写しより)
永田解...『北海道蝦夷語地名解』(永田方正、初版復刻版、1984、草風館)
紀要7...『小樽市博物館紀要7』「小樽市の「地名」調査概報−1−アイヌ語に由来する地名−」(石神 敏による近・現代の地名)
データ...『データベースアイヌ語地名1 後志』(榊原正文、1997、北海道出版企画センター)

その他
伊能図...『大日本沿海實測・伊能中図』(『データベースアイヌ語地名1 後志』の引用より孫引き)
廻浦...『廻浦日記』(松浦武四郎、『データベースアイヌ語地名1 後志』の引用より孫引き)
明20万...明治25年発行の『20万分の1地形図』(陸地測量部、『データベースアイヌ語地名1 後志』の引用より孫引き)
明5万...明治43/44年発行の『5万分の1地形図』(陸地測量部、『データベースアイヌ語地名1 後志』の引用より孫引き)
仮製5...明治29〜31年発行の『仮製5万分1北海道地形図』(陸地測量部、北大北方資料室にて閲覧)
現1万...『エリアマップ 小樽市(1万5千分の1地図)』(昭文社)

 私の調査日は以下の通り。

第一回目 2002年3月28日 山中海岸入口から赤岩海岸(「ワタラ」手前)まで
第二回目 2002年5月13日 オタモイ海岸(「シュプンモイ」手前)から赤岩海岸(「ぽん赤岩」手前)まで

津軽図 西川図 西蝦夷 山川図 永田解 その他 紀要7 データ
1. アイカツフ アイカフ アイカツプ
(岩岬)
アイカフ Aigap
(能ハズ)
アイカイフ【伊能図】
アイカツフ【廻浦】
アイカフ崎【明20万】
あいがっぷ aykap
(出来ない)
【浜田】 「アイカ aykap 行き止まり」

(執筆予定)

津軽図 西川図 西蝦夷 山川図 永田解 その他 紀要7 データ
2. フヨマシラヽ フエオマエ フヨマシラ
(大穴岩の義か)
- Pui oma shuma
(洞岩)
フユマシララ【伊能図】
フヨマシラリ【廻浦】
窓岩【現1万】
窓岩 puy-oma-sirar/suma
(穴・ある・岩)
窓岩
【浜田】 「プヨマシラ puy-oma-sirar 穴・〜についている・岩」
      「プヨマスマ puy-oma-suma 穴・〜についている・岩」
      「プヨマイ(プイオマイ) puy-oma-i 穴・〜についている・所」

(執筆予定)

津軽図 西川図 西蝦夷 山川図 永田解 その他 紀要7 データ
3. シユツモイ シエフノモイ シユブンモイ
(二八多し)
シユフフモエ - シユフントマリ【廻浦】 中の浜 sup-un-moy
(渦・ある・入り江)
【浜田】 「スモイ sup-moy 渦・湾」
      「スプンモイ sup-un-moy 渦・〜に入る・湾」
      「スプントマリ sup-un-tomari 渦・〜に入る・港」

(執筆予定)

津軽図 西川図 西蝦夷 山川図 永田解 その他 紀要7 データ
4. モヲタモイ ヲタモエ ヲモタイ ヲタモエ Ota moi
(沙湾)
ヲタモイ【廻浦】
ヲタモイ【仮製5
オタモイ海岸【現1万】
オタモイ ota-moy
(砂浜の・入り江)
オタモイ
【浜田】 「オタモイ ota-moy 砂・湾」
     「モオタモイ mo-ota-moy 小さな・砂・湾」


(写真1.)オタモイの駐車場から撮った絶景。
 見えにくいが左の崖に通路が続いている。

(写真2.)絶壁に開けられた通路の入口。


(写真3.)オタモイ地蔵のある丘と砂浜。
 ここが「オタモイ」の由来。

 オタモイ海岸の代表的な地名であり、小樽市で唯一現存するカタカナによるアイヌ語地名です。私は子供の頃、山中に行く途中に何度もこのカタカナ地名に触れ、ただの地名ではないなと言うことを何となく認識していました。その意味で、私がアイヌ語地名に興味を持つ原点だったと言えるかも知れません。
 2002年5月13日、私は3月の調査に続き今年二度目の海岸歩行を試みました。このオタモイからできれば祝津まで歩こうと、勇んで出かけたのですが、結局疲れ果てて赤岩どまりになってしまいました(松浦武四郎はやっぱりすごい健脚です)。

 さて、このオタモイは、アイヌ語解釈としては全く簡単な部類に入り、類例も多い地名です。過去の地名解も軒並み同じ解釈で、何の疑問も湧きません。よって問題は位置の確認に絞られますが、これも現地に行けば一目瞭然で、駐車場から断崖絶壁に空けられた通路(写真1、2)を恐る恐る伝って、現在「オタモイ地蔵」が祭られている丘まで行き、その下を見るとやはり小さい砂浜が広がっています(写真3)。下りて見ると、そこには漁師の舟が泊められていました。その辺りから、上の丘と荷物を運ぶトロッコを上げ下げしていた(いる?)らしく、ワイヤーが繋がれていました。
 オタモイ海岸から祝津の海岸に到るまで、砂浜になっているところはここ辺りしかなく(他は総じて石浜や岩が続く海岸)、地名にする意義も充分あります。私はオタモイから「窓岩」の方、3のシュプンモイに向かってちょっと歩きましたが、岸伝いに行くには少しばかり悪路が続くため、後日改めて見て行きたいと思います。

 オタモイにわざわざ「モ mo 小さい」という連体詞をつけてモオタモイとも言ったのは、蘭島や塩谷などの規模の大きな砂浜がその前に現れているからだと思いました。たしかに、昔の絵葉書などから察しても、ここは海水浴場として使われてはいたのです。しかし交通の便が今一つな上にあまりに狭すぎて、蘭島のような大賑わいは物理的に不可能でしょう。

 オタモイを訪れる人は、やはりオタモイ地蔵や昔の「竜宮閣」(目も眩むような断崖絶壁に建てられた宴会場で、戦後焼失)跡地を巡る方々が多いと思いますが、恐ろしい岩崖のある中で小さなオアシスのように存在する砂浜は美しく、少しだけでも注目していいのではと思います。

津軽図 西川図 西蝦夷 山川図 永田解 その他 紀要7 データ
5. フクシカタウシ ホクシヤタウシナイ ホクサタウシ
(沙濱)
- Pukusa ta ush nai
(葱ヲ採ル澤)
プクサタヲシ【仮製5 プクサタウシ -
【浜田】 「プクサタウシ pukusa-ta-us-i ギョウジャニンニク・〜を掘る・いつも〜している・所」
     「プクサタウ
ナイ pukusa-ta-us-nay ギョウジャニンニク・〜を掘る・いつも〜している・沢」

 西蝦夷日誌によると、「ヲタモイ、(七町五十一間)ホクサタウシ(沙濱)」と書かれています。(註:原文では「ヲモタイ」となっていますが、どう考えてもケアレスミスと思われます)
 上の項でのオタモイの位置(もと竜宮閣跡の西側にある、この辺りで唯一のちゃんとした砂浜)から700メートル過ぎということですから、おそらくオタモイの駐車場の東辺りにある沢を指しているのではないか、と私は最初に考えました。2002年5月13日に改めて確認してみましたが、この辺りにプクサは生えていませんでした。確かに沢はありますが土くれが剥き出し、硫黄の匂いがする「クズレ」のような所で、かなり上まで上らないと草一つ生えていない状況です。この辺りは昭和初期の「オタモイ遊園地」のあった場所の下ですが、山崩れで多くが流されたと聞いておりますので、植生の確認は少し困難かも知れません。

 だいたい、よく考えてみると、西蝦夷日誌の記述では「ホクサタウシ(沙濱)」となっている点が非常に気がかりです。ここまでが忍路領の境で、次が高島領となっている点を考えても、次項の位置と矛盾(前後)することになってしまいます。「竜宮閣」のあった断崖絶壁は、海岸伝いにさくさくと歩けるような場所ではなく、ここが領境であったと思われるので、ホクサタウシはこの断崖絶壁より忍路側になければならない、と私は考える事にしました。

 ではどこがホクサタウシなのか。残念ながら私はまだ分かりません。ギョウジャニンニクの自生をどこかで確認しなければいけないのですが、少なくとも海岸伝いに見ていった限りでは全く確認できませんでした。七町五十一間(750メートルほどか)という距離に惑わされてしまいましたが、何も植物など生えていなさそうな海岸を無理やり渡る必要はなく、オタモイの砂浜からオタモイ地蔵の丘をさらに山の方へ入っていけば、あるいは答えが見つかったかも知れません。山の方は緑が豊富、小さいながら畑があったりしました。ただ、今回の調査では海岸に意識が集中していて、そこまで頭が回っていませんでした。ここは次回の宿題にしたいと思っています。

 もちろん地名位置の確定は懸案事項ですが、それ以外にここで特に注目したいことがあります。それは方言の問題です。
 プクサ pukusa(ギョウジャニンニク)という単語を使うのは、沙流や幌別など主に南北海道の地域で、それ以外の地域ではキト kito(ギョウジャニンニク)という言葉になるという、いわゆる方言差があるのです。ちなみに旭川(石狩方言)ではキトを使います。キトウシ kito-us-i やキトタウ
ナイ kito-ta-us-nay といった地名も多いのです。

 小樽ではどちらを使ったのか、私はよくわかりません。小樽方言の研究は遅れている(というか今やほとんど不可能に近い)と思うのです。この地名から、アイヌ語小樽方言ではギョウジャニンニクをプクサと言ったらしい?と仮定したいところですが、実は永田地名解の小樽関連地名に「Kitu esan nai」(朝里川の支流)「Kitu ush nupuri」(天狗山)という例がありました(永田地名解ではキトが「キトゥ」と誤認されている場合があり)。キトだと、「地理的に見て石狩方言の影響を受けているのではないか」という今までの私の見方と合致することになります。

 考えてみれば、「小樽方言」とアイヌ語の傾向を一つにくくってしまうことは、少し乱暴でした。まず、今は「小樽市」の中であっても、昔は別々の郡(小樽内、高島、忍路)でありました。朝里・星置側は札幌方面(石狩・キトを使う)、赤岩・オタモイ側は南方面(虻田や長万部・プクサを使う)と、それぞれ繋がりがあったと考えてもおかしくありません。そもそも川筋が違うだけで方言も違うとすら言われる、アイヌ語研究の難しさがここにも現れていると感じました。

(追加執筆予定)


津軽図 西川図 西蝦夷 山川図 永田解 その他 紀要7 データ
6. - - イクシタ - -   - -
【浜田】 「イク タ i-kus ta (その)向こう側に」

 西蝦夷日誌によると、「タカシマ領」の書き初めで「イクシタ、(一町廿三間)モイ(小湾)」と書かれています。
 私には、地名というよりも「句」に見えます。オタモイの砂浜から東を見ると、昔に竜宮閣が建っていた岬のあたりが蔭になって、そこから東側の海岸は隠れてしまいます
(写真1)。そのため、その岬を境にしてたまたま「あちら側には...」などと言っていたのでは。他の資料に記載がないことなどから、とりあえずそう考えておきます。
 なお、『北海道の地名』奥尻島の項によると、武四郎の郡名建議書に「ヲクシリはイクシリの転語。イクはイクシタ(向こう側)の略。シリはモシリ(島)の略にて、此の向島の儀」とあります。

 追加:新たに疑問が湧きました。それは、武四郎たちがどうやって竜宮閣の岬
(写真1、2)を渡ったのかということです。西蝦夷日誌にはそういう記述がありませんが、ホクサタウシの項で書いた通り、ここをただ歩いて渡るのはかなり大変そうに見えます。この岩崖さえどうにか越せば、後は楽に歩いて行けるのですが、実際、私は怖くてできませんでした。今でこそこの断崖絶壁の上に刳り貫かれた洞穴や橋が通り、そこを伝って駐車場の方へ歩いて行く事ができますが、これは竜宮閣建設時の道で、江戸時代にはなかったはずです。さりとて、西蝦夷日誌には山越えをしたという記述がなく(彼の資料の常として、回り道をしたらそのように書いてあるはずです)、やはり海岸を通って行ったのではないかと考えられます。

(写真1.)「オタモイ」より竜宮閣跡地を望む。

(写真2.)竜宮閣崖下の裏は、マリンブルーの岩湾。
 はっきりいって怖い。

 すると、イクシタにはもう一つ考えられる解釈が出てきます。
 「イクシタ i-kus-ita 人・〜を通る・板」(人がそこを通る板)
 まったく資料的な根拠のない試案ですが、この岬を渡るのに楽なように、海側に簡単な橋を作ったのではないかと考えたのです。この形であれば、副詞句で終わっている前の解釈よりも、名前として自然なのですが...。もちろん全くの試論です。引き続き、検討していきたいと思っています。

追加(2004-2-14):

 イクシタとは結局何を指して言ったのでしょうか。私はやっと自分なりの結論に達しました。
 ともかく、この辺りは一度山を上がり下がりしないと、オタモイから徒歩で交通のしようがないのです。海岸づたいには歩いていくことができません。これは曲げられない事実です。よって、「タカシマ領」の出発点であるイクシタは、地名解はさておき、この山道の入り口だったと考えるのが一番自然です。すると、以下の場所になります
(写真)

(写真.)竜宮閣に向かう通路から東側の海岸を撮影。
 遠くに次項「モイ」中の小さい岬が見える。

 今までうかつにもそういう考えが及ばなかったのですが、イクシタがここだと仮定すれば、先の解の印象はかなり具体的なイメージを持つことになります。つまり、「人」ではなく「舟」が板を通るのです。

【浜田】 「イクシタ i-kus-ita もの・〜を通る・板」(もの[舟]がそこを通る板)

 写真中央、ちょっとわかりづらいですが漁師の舟と、その舟を海上に進水させるためのハシゴのような木の枠(レール)があります。昔の木の小舟は、今のヨットなどと違って海に浮かべたままではやがて腐ってしまうので、長いこと乗らないときはかならず海から上げたはずです。あの恐ろしげな崖に橋を渡すことはかなり難しそうですが、この「木のレール」のことをイクシタと言ったのだとすれば、ようやく私の疑問が解けることになるのです。
 もしこの解が正しいとすれば、改めて、アイヌ語地名の観察眼の鋭さ・細やかさと、この現代にまでその風情が残る土地の美しさに、私は感じ入ってしまうのです。

津軽図 西川図 西蝦夷 山川図 永田解 その他 紀要7 データ
7. モイ モエ モイ
(小湾)
- - モイ【仮製5 - -
【浜田】 「モイ moy 湾」

(写真1.)駐車場の中程から崖下を東方向に写す。
 緑の生え際に沿って海岸に下りることができる。
ただし少々危ないので注意。

(写真2.)小さい岬の反対方向の海岸から大岩を写す。

 西蝦夷日誌で、このあたりの説明をもう少し長く引用してみます。「イクシタ、(一町廿三間)モイ(小湾)、此所岬有。往昔はここを以て境目となせし由。ホイシリハ、(ならびて)ホンムイ(小澗)...」。イクシタが前述の通りと仮定すると。そこから100メートルあまりは、写真のような湾が続きます(写真1、2)

 オタモイの項でも明らかなように、アイヌ語で「モイ moy」は「湾」という意味で、いわば基礎単語です。地名解はこのようにごくごく簡単ですが、ポイントは、西蝦夷日誌の記述で「境目」になっていたという岬です。私は、写真1でよくわかる小さい岬がそれに当たるだろうと思います。場所的にも、このモイ(湾)の途中にぽつねんと存在する岬はピッタリだと思いますし、次項「ポイシパ」以外の岬はこれしかないのです。
 ところで、この岬の海岸寄りには、人目を惹く大きな岩があります。何だか頭(パ pa)のようにも見えるので、「ポイシ
パ」との関連も疑う人がいるかも知れませんが、実はシパ(岬)という地名の他の類例から見て、こういう岩の地形は形が違います。シパは、もっと山自体が海にせり出す形になるのです。詳しくは次項をご参照下さい。

 このモイは意外に長い範囲を指したらしく、私は次のポイシ
パまでが一つのモイだったと思います。次の次に出てくるポンモイ(小さい湾)との対比があるからです。一方、アイヌ語地名においては、写真1のちっぽけな岬や奇妙な大岩などに着眼していない(名前が残っていない)のが面白いです。別に通行の邪魔にもならないし、この程度の大岩はそのまま通り過ぎていたのでしょう。

津軽図 西川図 西蝦夷 山川図 永田解 その他 紀要7 データ
8. - - ホイシリハ - - モイ崎【仮製5
モイ崎【明5万】
- -
【浜田】 「ポイシパ poy(pon)-sirpa 小さい・岬」

(写真1.)先の「小さい岬」からポイシパを写す。

(写真2.)同じ方向から撮ったモイとポイシパ。

 前項「モイ」が過ぎると、また岬になります。しかも今度は、山の尾根部分とほぼ一体になっています(写真1、2)。余市のシリパ岬などと比べると全く小規模ですが、この地形は「シパ sirpa 岬(大地の頭)」と言って良いと思われます。これに「ポン pon 小さい」が付いて、音韻転化Cにより「n + s → y + s」となって「ポイシパ poy sirpa」となります。「私のアイヌ語地名解1」のフゴッペの解で登場した「ヘサキ<hesankei 頭を浜の方に出す者」と外見的に違うのは、ヘサキほど山の一部が半島のように思い切り海にせり出してはいないことですが、「シレトゥ sir-etu 大地の先端」との使い分けとともに、今後もっと多くの用例を確認しなければなりません。

 さて、ここでなぜ「pon 小さい」が付いているのか、実はよくわかりません。次項「ポンモイ」は、前項「モイ」の小さいものと見れば解決しますが、少なくともこの辺りの地名としては、比較の対象が現れていないのです。まあ、先の竜宮閣の恐ろしい崖に比べたらかわいい地形だし(もちろん歩いて向こう側に通行できます)、ポンモイがすぐ後に続くため、この岬も単に「小さいもの」として認識されたと見るのが妥当かと思うのです。

津軽図 西川図 西蝦夷 山川図 永田解 その他 紀要7 データ
9. ホンモイ - ホンムイ
(小澗)
- -   山中 -
【浜田】 「ポンモイ pon-moy 小さい・湾」

(写真)ポイシパの次にある小さい湾。

 ポイシパを越えると、写真のように小さい湾があります。地名解は記している通りで、特に付け加えることはありません。この湾を越えると、地元の人ならわかる「山中海岸」の入り口付近にたどり着くのです。オタモイから山中まで歩くのは、まあまあ良い運動になりますが、そこからさらに赤岩海岸まで歩くとなると、私のような運動不足の人間にとってはかなりの労働になります。

津軽図 西川図 西蝦夷 山川図 永田解 その他 紀要7 データ
10. チヘトイ - チハトイ - -   - -
【浜田】 「チパトイ cip-at-o-i 舟・綱・〜に付いている・所(舟の綱がそこに付いている所)」


(写真)ポイシパ付近の岩に埋もれた「綱」。

 西蝦夷日誌によると、「ホンムイ(小澗)、チハトイ、(八町廿間)チヤラセナイ」と書かれています。
 次のチャラセナイの位置は特定できているので、逆算でそこから800メートルほどオタモイ寄りを見ると、山中よりはオタモイ寄りとなり、やはり
9.「pon-moy」の湾あたり。石原が広がっている所です。

 語分析の結果、ニシン漁で舟が賑わって、海岸に繋がれていた所を指したと私は推論しました。
 この位置について、二度目の調査で「舟の綱」に注目して海岸を見まわってみました。すると、オタモイ海岸から山中辺りまでは確かに舟を係留したと見られる綱が、動かないように石原の中に埋めてある所が(この辺りも含めて)何箇所か見られました
(写真)。見たところ比較的新しい綱だと思われますから、江戸時代のチパトイを証明する根拠としては少し弱いのですが、こうした「埋めた」綱で舟を曳き上げたり繋いだりしたのでは、と考えることは特に変ではないと思いました。

 ただし、この辺に特に綱が多いというわけでもないので、きちんとした証明にはなりません。後の裏付けが必要になりそうです。なお、西蝦夷日誌の書き方によれば、このチパトイと次の11.チャセナイの間にある「山中海岸の入り口」は、特に何の地名も付いていないことになります。山中には昔、小さい村があったそうなのですが、今は家が建っていたと思われるいくつかの跡と、漁師の舟が一艘あるだけです。山を登り切ったところには神社の鳥居、建物、お地蔵さんの列があります。また、私が子供の頃は、山中海岸の入り口付近にも小さな祠か何かが建っていたように記憶しているのですが、うろ覚えです。江戸時代の地名から辿れる「山中」はここまでですが、山中の「村」としての具体的な歴史や、周辺地域の歴史との関連がわかれば、さらに面白い発見があるかも知れません。

津軽図 西川図 西蝦夷 山川図 永田解 その他 紀要7 データ
11. チヤラシナイ - チヤラセナイ チヤラシナイ Charase nai
(小瀑)
チヤアラシナイ【廻浦】 ちゃらつない charse-nay
(ザァーッという
(滝状の)・川)
【浜田】 チャセナイ carse-nay ザァっと言う・川」

 上記「川平」についての随筆参照。

津軽図 西川図 西蝦夷 山川図 永田解 その他 紀要7 データ
12. ホンチヤシナイ - - - -   - -
【浜田】 「ポンチャセナイ pon carse-nay 小さな・チャセナイ」

 上記「川平」についての随筆参照。
 川平の近くの、小さな滝のことを指していると思います。


津軽図 西川図 西蝦夷 山川図 永田解 その他 紀要7 データ
13. カバシラ カワシラ カワリシラヽ カハリシラリ Kapara shirara
(磯岩)
カワシラ【仮製5
カウシラ【明20万】
かわひら kapar-sirar
(平たい・(海中の)
波かぶり岩)
【浜田】 カパシラ kapar-sirar 薄い(平らな)・岩」
     「カパッシラ
 kapassirar」(音韻変化形)

 上記「川平」についての随筆参照。

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14. ノテツ - - - -   - -
【浜田】 「ノテトゥ not-etu 岬・〜の先」


(写真1.)「ノテトゥ」と思われる岩。
 見えにくいがくちばしのように尖っている。


(写真2.)この岩の先端部分。

 古い資料で、地名が記されている順番は重要な手がかりです。
 津軽図の地名が書かれている順番は、位置的な検討には欠かせない基準となる紀行文・西蝦夷日誌とよく符合しているので(ただ2と3はどう考えても順番が逆なので、この表では入れ替えてます)、そうすると
15.「ケトチ」13.「カバシラ」の間にこの「ノテツ」が来ることに、私はとても不可解なものを感じていました。この間に「ノテトゥ」と呼べるような場所はなさそうだと思っていたからです。もしこれが17.「ヒルカハツカ」の後に出てきたならば、その先にある「青い岩塔」(赤岩山鳥瞰図より)を指していることになったと思いますが、そうではないようです。なお、「青い岩塔」は、遠くからも目立つ、海岸近くの岩の塔です。赤岩海岸の下り口からも見ることができます。奇岩の一つと言ってもいいでしょう。

 さて、二度目の調査(5月)で、川平とケトゥチの間に、私は「これは」と思う岩を見つけました
(写真1、2)。前に来たときにはそれほど注目していなかったのですが、よく見ると海岸側に派手にせり出す、尖った岩があるのです。先端部分が中に浮いている形になっているので、目立つといえば目立ちます。もし川平とケトゥチの位置が私の考える通りで、『津軽図』の地名出現順番も確かであるならば、この岩以外にノテトゥに当る場所はなさそうです。

 ノテトゥは、もともと「あご」を表すアイヌ語ノッ(not)と、位置名詞で「〜の先」を表すエトゥ(etu)という言葉でできています。「あごの先」転じて、岬の先端部を表す言葉です。
 ちょっと細かい話になりますが、沙流方言の日常語では、動かないものの位置的な「先っぽ、先端」をエトゥ
 etupsik またはエル erupsik と言います。一方エトゥと言えば、普通は「鼻」の意味になりますが、この「先端」の意味で使われる場合もあります(例:kem etu 針の先)。
 他の方言(例えば本別方言)では「エトゥイ etuy 〜の先端」という別の語形があり、この「先端」のエトゥと同じ言葉らしいのです。ところが同じく本別方言でも、鼻は相変わらずエトゥと言い、エトゥイとは決して言いません。よって、先端を表す「エトゥ(またはエトゥイ)」と鼻を表す「エトゥ」は、言葉としてきちんと区別する必要があると思います。地名で出てくるエトゥをうっかり「鼻」と訳してしまうと、not-etu を「あご・の鼻」などと訳すことにもなりかねないので、場合によっては注意が必要です。

津軽図 西川図 西蝦夷 山川図 永田解 その他 紀要7 データ
15. ケトチ - ケトヂ - -   - -
【浜田】 「ケトゥンチ ketunci 毛皮を広げて干した物」


(写真1.)3月に撮った写真。

(写真2.)5月に撮った写真。
 光の関係で少し黄色く見えている。

 この特異な語形から判断できるアイヌ語は、妙にこじつけなければ、かなり限られてしまいます。
 萱野辞典によると、ケトゥンチは「鹿や熊の皮を広げて干した物」とあります。地名小辞典では以下の通りで、意味が若干異なるようです;「獣の皮を張って乾かす枠。[<ケッ・ウン・チセ 皮張り棒の・付いている・家];生皮を張った枠を両方から屋根のように寄せかけて、その下で火を焚いて乾かすようにしたもの」。私は、萱野辞典の意味で検討しました。

 私は不勉強なもので、ケトゥンチというものの実物を見たことはありませんが、とにかく動物の毛皮のような何かだとすれば、思い当たる節があります。実は、私は実際に赤岩海岸で妙な岩を見ているのです
(写真1)。位置は、「赤黄のガレ」(赤岩山鳥瞰図より)の下です。
 この辺りは山が崩れた沢のような地形で、大昔の噴火か何かで赤い溶岩が溶け、そのまま固まったように剥き出しになった岩がありますが、何と海岸付近でその岩に苔がむしているのです。苔は、沢を伝って沁み出ている水を吸って生きているようです。この苔は、見方によっては毛皮のようにも見えるのでした。こうした苔の状態が昔と一緒とは限りませんが、大昔から未だ手付かずの自然が残る赤岩海岸では、そういう可能性も少なくないと考えます。

 なぜケトゥンチの「ン」が落ちてしまうのか、まだきちんと証明できませんが、この「ン」音脱落の癖は、以前地名解をやったフゴッペの項で出てきた「フンコヘサキ」「ポロヘサキ」のヘサキ(ヘサンケイ he-sanke-i 岬)にも通じることだと思います。
 アイヌ語の「ン」は、あまり強く鼻に掛けて発音する訳ではなく、比較的弱い発音です。そのため、別のページで触れている音韻変化Cにより「pon seta → poy seta(ある地方では posita など)」、音韻変化Bなどにより「temmun-ya → temiya」のようになってしまいます。ここでの「ン」脱落は、そういう弱い「ン」音のせいで聞き間違いが起こったと考えます。

追加:さて、二度目の調査でもう一度ケトゥチだと思われるところを調べてみました。季節は春の始まりから初夏へ、雪も完全に解けてなくなっていることから想像していた通り、苔はさらに濃く、見事に海岸を覆っています
(写真2)。これなら明らかに「毛皮」に見えます。また、そうした苔むした所が、そう遠くない場所にもう一ヶ所、合計二ヶ所あるということがわかりましたが、目立つのは西側に最初に登場する所でした。

津軽図 西川図 西蝦夷 山川図 永田解 その他 紀要7 データ
16. ヲタ子ウシ - クツタラシ
(*1)ワッタラシ
- - - わたりし -
【浜田】 「オタネウシ ota-ne-us-i 砂・〜状になる・〜のが常である・所」 
      「クッタラ kut-ta-ras 崖・にある・割り端」

   註:(*1)紀要7の引用での形。執筆者が誤植だと判断した語形。

 二つの文献で、それぞれ違う語形になっていて、私も検討にかなり時間が掛かった地名です。
 西蝦夷日誌によると、「ケトヂ、(ならびて)クツタラシ、(ならびて)ヒルカワツカ(小川)」と書かれています。この書き方だと、これら3つの地点はそう遠くない所にあるようです。紀要7では、西蝦夷日誌の「クツタラシ」を「ワツタラシ」の誤植と見て、明治の地図の地名「ワタリシ」もこの語形に近いため、全体として「ワタラウシ watara-us-i 大きな岩・〜に付いている・所」という解釈が提起されています。
 確かに川平を過ぎるとこの辺りは岩だらけですが、そういう解釈でいいのでしょうか。私は、この解釈には反対です。

 確かに、津軽図の「ヲタ子ウシ」も「ワタラウシ」の誤植と考えられなくもありませんが、西蝦夷日誌も含め、今の私にそれらを誤植だと判断する材料はありません。都合が悪くなるとついつい「誤植かも知れない」と疑ってしまう気持ちにもなりますが、材料が乏しい以上、初心者の私はもう少し謙虚に資料を見ていくつもりです。なぜワッタラシやワタリシという語形のアイヌ語解釈を疑ってしまうのか、私の理由を説明する前に、「ワタラ watara」とは一体何なのかを、ここで少し見ていきましょう。

 「山中」の随筆で書いたように、アイヌ語には「岩」を表す言葉がたくさんあります。その中の一つであるワタラは、地名辞典には「海中の岩」、バチェラー辞典に「A rock. A cliff.」、萱野辞典に「平磯」とあります。しかし実は私にあまり資料がなく、どういう岩がワタラであるかと改めて問われると、わからないことが多いのです。『北海道の地名』『データベース...』には、意外にもほとんどワタラが登場しないので、少しやりにくいです。北海道で登場するワタラの実例をもっとたくさん見ていかないと、仮に私が訳している「大岩」(これは20.の大岩がワタラであるという仮定に基づく)であるかどうかすら、きちんと説明できないことになります。

 では、ワタラが珍しい地名かというとそんなことはなく、知里真志保の『著作集3』中の斜里郡、網走郡の地名解には、ワタラが結構たくさん出てきます。『永田解』にも十勝、釧路、根室などで登場。また、『北方四島のアイヌ語地名ノート』(榊原正文著)でのワタラ登場回数は実に23回にも及びます(国後、択捉)。つまり、感じとしては「東北部」「千島」中心で、どうやら使用頻度に方言差のある言葉のようです。20.で、小樽にワタラという地名が登場しているという事実に、私はとても興味を惹かれています。

 さて、ここで注意したいのは、「watara」は「watar」でも「wattara」でもないという事実です。
 久保寺辞典では「watar n. 岸壁. watara?」とありますが、私が今まで見た資料の中で、ワタラのラが r の閉音節であると連想するような「音の揺れ」を持つ地名はほとんどありませんでした( hattar [淵]の異型 wattar との混同と思われる例はあり)。ワタラであればだいたい「ワタラ」であり、「ワツタラ」となっている資料も見つかっていません。『北方四島のアイヌ語地名ノート』でも23例全てワタラで、言葉のゆれがないのです。同じ赤岩海岸で、20.で登場するワタラも、ちゃんとワタラ、オワタラウシと記されています。
 これに対して、例えば同じく岩を表す言葉の一つ「シラ
 sirar」の閉音節は、既に見てきたように「カバシラ」「フヨマシラ」などの脱落(つまり武四郎たち和人の聞き取りエラー)や「シラリ」などの音の揺れをあちこちで起こしています。同じ海岸にあるワタラの発音が、ここだけ妙に転化すると考えるのも不自然です。

 これは推論の域を出ませんが、紀要7の注目する「ワタリシ」という地名は、「渡り石」という日本語である可能性を考えてもいいと思います(『紀要7』でもそういう説が紹介されています)。
 ワタリシは、実は位置にも疑問があります。私が2002年6月に北方資料室にて閲覧した明治の仮製5万分の1地図によると、ワタリシと書かれている位置が赤岩山と下赤岩山のちょうど間くらい、赤岩海岸入口から20.の大岩までのなだらかな湾になっている辺りに見えました。仮製5万分の1の地図は、オタモイや赤岩の海岸一帯を2枚の地図(「小樽」「余市」)で表していて、「わたりし」はそのうち「小樽」(言わば祝津側)の方に書かれています。少なくとも、紀要7が記しているこの位置とは少し異なっているように見えるのです。『紀要7』の説は、あくまでクツタラシが「ワツタラシの誤植」であるという前提です。それが誤植であるという明確な証拠がなければ、ワタリシの位置をクツタラシに関連づける理由はなくなります。


(写真1.)中央が「ワタラ」と思われる大岩。
 こことは位置が離れる。
 詳しくは20.参照のこと。

(写真2.)「赤黄のガレ」。位置は、ケトゥチのすぐ後。

 この位置の見方が正しければ、20.の大岩(私の説で言うワタラ)のことを「渡り石」と呼んだという新たな推論が可能になってきます(写真1)。そこは実際、大岩を渡らないと向こう側に行けないような場所です。ワタラは日本語「渡る」を連想させ、さらに後に紹介するオワタラウシというアイヌ語地名の音も「渡り石」という日本語にたまたま似ているため、そのような俗解釈が生まれたのではないかと私は考えます。よって、「ヲタ子ウシ」と「クツタラシ」の解釈は、改めて「わたりし」とは切り離して検討しました。
 なお、音韻脱落の法則
A(2母音が並ぶと最初の母音が落ちやすくなる)により「watara-us-i 大きな岩・〜に付いている・所」と解釈した語形をワタルシ watarusi と見ることは確かに可能ですが(バチェラー辞典にもあり)、ここでの音の差を埋めるには未だ不充分だと考えます。さらに私が思うに、岩であればそこに付いているのは当たり前であり、20.のオワタラウシのように、そのワタラが「何に付いているのか」を説明することが必要だと思います。

 長々と「ワタリシ」のアイヌ語解釈を否定してきましたが、すると「ヲタ子ウシ」と「クツタラシ」はどういう解釈になるのでしょうか。最初私は、単純に語形から類推して「オタッニウシ o-tatni-us-i 〜の尻・樺の木・〜に生えている・所」「クッタルシ kuttari-us-i イタドリ・〜に生えている・所」と考えていましたが、どうやらそうではないようです。二度目の調査(2002年5月)でケトゥチから「青い岩塔」までの間に生えている「植物」に注目して歩きましたが、「kuttar イタドリ」も「tatni 樺の木」も全く確認できませんでした。

 少し場所は飛びますが、現在の小樽市入舟町にある運上屋跡地(旧名「クッタルシ」)が西蝦夷日誌ではきちんと「クツタルシ」と記されていて、「此処則虎杖《クツタルウシ;いたどり》多き故号《なづ》くなり。」とあり、明らかに武四郎はその意味をわかって書いています。(クツタラシという語形で残る kuttar-us-i も他所にあるようですが)「クツタラシ」とのみ記し、他に何の注釈も記さなかった西蝦夷日誌の記述は、当時そこを実際に歩きながら書いた武四郎にとって、虎杖の解釈では捉えられなかったという事ではないでしょうか。今生えていない、昔生えていたことを証明もできないとすれば、これらの植物を表す言葉を地名解に取り入れるのは、その厳密性を危うくします。植物から頭を切り替えて、違う解を考える余地があると思いました。

 さんざん考え、二年近くも考えた挙げ句、私はクツタラシを冒頭の解釈「クッタラ kut-ta-ras 崖・にある・割り端」に変更しました。普通、格助詞として使われる「タ ta 〜に、で」ですが、これには日常会話の用法以外に、動詞を使わずに名詞の位置または従属関係を表す「連体詞的な用法」もあります。例:「cise-ta-tures 家にいる妹」。地名小辞典にも「nay ta yupe 川にいるサメ(チョーザメ)」などの例があります。「kut」は祝津の解でも出てきた「帯状の崖」、「ras」は木っ端などの切れ端を表します。ここは、「赤岩山鳥瞰図」で言う「赤黄のガレ」の崖から海岸まで一直線に下がる、細かい岩の破片(写真2)がそれに当たるのではないかと考えました。

 この解が正しいとしても、まだ疑問は半分しか解決しません。そこで、津軽図の「ヲタ子ウシ」の解釈です。「クツタラシ」と同じ場所・同じ光景を、別の言い方で表現したと仮定して解釈し直すと、冒頭の「オタネウシ ota-ne-us-i 砂・〜状になる・〜のが常である・所」という解釈になりました。オタは「砂」以外の何物でもないため、この解釈は一見突飛に思われますが、「ガレ」は、崖から崩れた岩がバラバラになって落ちた跡という光景に見て取れるため、岩が細かく砕けた様を「砂のようになる」と解釈したのではないかと思いました。
 植物に頼らずにここまで解釈するのは大変でしたが、これが正しいという確証もありません。ぜひ識者のご指摘やさらなる議論を待ちたいと思います。

津軽図 西川図 西蝦夷 山川図 永田解 その他 紀要7 データ
17. ヒルカハツカ - ヒルカワツカ
(小川)
- -   ぴりかの水 -
【浜田】 「ピカワッカ pirka-wakka きれいな・水」

 赤岩海岸の地名調査において、20.「ワタラ」とともに恐らく最も重要なポイントになるのが、この「ピカワッカ」という地名です。まずは地名解釈についてですが、アイヌ語の初心者でも、このくらいは何となく察しがつくでしょう。きれいな水、つまり飲むことのできる水を指しています。
 語形上で注意したいのは、『津軽図』『西蝦夷日誌』が二つとも「ヒルカ」と記していることですが、「pir」というような末尾が「r」の閉音節は、必ず前の母音を引きずって発音するというものではありません。時と場合によって、また話者や聞き手によってその捉え方は異なるのです。現在普通には「ピ
カ」または「ピカ」と聞こえることが多いのですが、昔の資料や地名を見ていくと「ピカ」と聞こえる場合もあったらしいのです。

 さて、言葉としてはこれでいいのですが、位置の特定となると多くの問題が出てきます。
 まず、最低限の調査として、それが飲めるかどうかについての問題です。私は、「私のアイヌ語地名解1」で、チエトイについて「いやしくもシビアな学問ならば、食べられるかどうかの確認は当然必要である」と偉そうに主張しました。そこで、二度目の調査では、発見した川の水を手当たり次第に口に含もうとしました。しかし、現在は「エキノコックス」などの病気が川から蔓延することが考えられています。飲めるかどうかを確認した挙句、深刻に健康を害するのもつまらないと思うのです。しかし幸いにして、私の過去の体験や、赤岩山鳥瞰図での情報から、飲める水がどこにあるかは察しがついています。

 そこでもう一つの問題が出ます。実はその飲める水というのが、前項や前々項とかなり離れた、20.の「ワタラ」寄りの海岸(海岸入口から50メートルほど東寄りか)にあります。今まで見てきた地名・これから出てくる地名の位置や順番と、明らかに矛盾するのです。赤岩に一度でも行った人は知っているはずですが、赤岩海岸入口に到る山道の最初に、鳥居で囲われた水飲み場があります。この水が流れて行く先が、その川(仮にAと呼称しましょう)なのです。

 ただしこのAは川といってもかなり小さくて、水量も少ないため気がつかない人もいます。私は学生時代、赤岩海岸での密漁監視のバイト中、喉が乾いて難儀していた時、Aのあたりの石原を掘って、石の下に流れる小さな水脈を探し当てた経験があります。何とか水筒ですくえる程度の落差しかないため苦労しましたが、意外に冷たい水でおいしかったのです。
 私がそうしていた当時(1980年代)は、多少の違和感はあるもののごくごく飲める水でしたが、5月の二度目の調査でAの水を口に含んで見た所、すっぱくて勢いよくは飲めない水になってしまっていました。理由はわかりません。山の上にある鳥居の水飲み場の水は、それから比べると鉄臭い酸味が抜けてまあまあ飲めなくもありませんが、やはり昔より少し飲みにくくなった気がします

 この赤岩海岸には、決してA以外に川がないわけではありません。今まで見てきた地名の位置から言えば、赤岩山鳥瞰図が「飲用不適」と記している川(仮にBと呼称しましょう)の方が近いのですが(これはさすがに怖くて飲めませんでした)、それでも次項「フレチ
」の位置の後にあるもので、順番が前後してしまいます。Bが「ピカワッカ」である可能性はなさそうです。

 私が考えた仮説が二つあります。先の「ケトゥチ」で二つの苔むす場所のことに触れましたが、そのうち東側の方には若干の水の流れがあります(仮にCと呼称しましょう)。昔はもっと水量が多くて飲み水が取れるほどであり、このCのことを「ピ
カワッカ」と言ったのではないかというのが仮説1。このCは、もちろん19.「フレチ」よりも西側にあることが確認できています。

 仮説2は、AもCも両方とも「ピ
カワッカ」であること。何故なら、紀行文である『西蝦夷日誌』の地名順は動かせませんが、『津軽図』は必ずしもそれと対応しているとは限らないからです。『津軽図』には「ワタラ」の記述がなく、19.「フレチ」の次がいきなり24.「メナトマリ」ですから、『津軽図』で登場するフレチシが「ポン赤岩」または「下赤岩山」の事だった可能性も棄てきれないのです。仮にそうだとすると、『津軽図』の「ピカワッカ」がAのことであっても不思議はありません。
 どちらの仮説にしても、Cまたはその近辺に「ピ
カワッカ」に当るものがないと、『西蝦夷日誌』の記述を信頼する上で非常に困るのです。まだ結論は出ていないので、これからも検討を続けます。

追加(2004-5-21): 見直しNEW!!

 おととい(5-19)、赤岩の歴史解明にとって重要なニュースが飛び込んできました。私は今まで詳細不明のためあまり言及しませんでしたが、明治の一時期に営業していたという伝説の「赤岩温泉」の位置が判明したというニュースが、北海道新聞の地方版に載ったのです。地元の登はん家の方による大発見でした。しかも、その位置というのが、ちょうど私がこの項「ピカワッカ」で検討していたCのあたり(「海岸入口からおよそ300メートル」とのこと)ではないかと思われるのです。泉質は鉄鉱泉ということで、先のケトゥチなどに生えている苔は、この鉄鉱泉を源に生えたものだったのではないでしょうか。
 つまり、アイヌ語地名「ピ
カワッカ」は、飲料水というより、この鉄鉱泉の在処を指したものではなかったのか、という推論が可能になりました。

 今でも鉄鉱泉のわき出す水たまりのような写真が、上記の記事に載っていましたが、建物などの跡は見つからなかったと言います(もしそんな決定的なものがあったら、私も二度の調査でさすがに気付いたはずです)。私が持っている『写真集 明治大正昭和 小樽』(小樽市談会編)の「赤岩温泉」の写真と、過去の調査で撮影したC周辺の写真とを今改めて見比べてみると、確かに海岸線や山の形が似ています。いずれ、改めて私も確認しに行きたいと思います。

 『写真集 明治大正昭和 小樽』によると、「那須火山帯の赤岩海岸は、温度は低かったが温泉が出た。明治の末頃ここに温泉境を造ったが、裏の崖は風雨のためくずれ、建物が破損して閉鎖された」とあり、少なくともこの時代と今の景色は少し変わっていることを考慮に入れなければならないようです。つまり、以前はもっと湯量がたくさんあったのに、崖崩れや温泉境の撤去に伴い、ピカワッカだったところがふさがってしまい、わずかを残してほとんど水の流れが無くなってしまった、と考えるのが妥当ではないでしょうか。
 文献により「ピ
カワッカ」であると推測された位置に明らかな水がなかったという、今まで紹介してきた最大の謎は、ここが赤岩温泉だったという報告により初めて氷解しつつあります。結論として「ピカワッカ」の位置は、このCに確定してもよいのではと私は考えます。

 なお、アイヌ語「ピカ」は意味の広い言葉で、一般に「良い」「美しい」ことを漠然と表すものですから、これだけではただ見た目が美しいのか、食べ物や飲み物がおいしいのか、人間にとって役に立つのか、判別できないことがあります(参考までに、十勝・本別の澤井トメノさんの言葉などでは、特に見た目の良さを表す言葉に「ナンカンテ nankante」という別語もあります)。赤岩温泉がここであったという報告により、鉄鉱泉のまわりに生える苔や色を成す岩(ケトゥチ参照)のことを、ただ美しい・きれいだと思って付けた名である可能性も出てきました。「水」がピカするのなら間違いなく「飲み水だ」と考えたのは私の失敗だったのかも知れませんし、さにあらず、ひょっとしたら温泉境閉鎖以前はおいしく飲めたのかも知れません。

津軽図 西川図 西蝦夷 山川図 永田解 その他 紀要7 データ
18. ウコロシケ - - - -   - -
【浜田】 「ウコロシケ ukor-sike 結婚する・荷物」

 『津軽図』にのみ登場するこの「ウコロシケ」は、地名解に少し自信がありません。何故自信がないかというと、前の項目で触れた通り、「ピカワッカ」の位置を確定しないと肝心の「ウコロシケ」の場所がわからないからです。よって、ここではあくまで試みとして、地名解の可能性を探っていきます。

 もし「ピ
カワッカ」の位置が仮説2のAであるならば、ウコロシケの位置はそこより東側、20.「ワタラ」の周辺から22.「赤岩」までと言うことになります。また、仮説1や2で予想されるCであるならばもっと範囲は広がり、19.「フレチ」の周辺から22.「赤岩」までの、一キロ以上つづく海岸のどこかということになります。

 私は「ウコル
ケ ukor-uske セックスする・所」という試案を最初に考えました。単純に音から「ウコ ukor 結婚する/性交する」という動詞を思いついたのです。語形から言えば、「u と o の混同」という転化のくせを考えれば何とか理解できます。下品な言葉ではなく、普通に「結婚する」という意味ですが、「u-kor お互い・を持つ」という意味深な語源から「雄と雌が交尾する」(萱野辞典)というきわどい意味でも使います。例えば「青い岩塔」の裏側や「ワタラ」の裏は奥まっていて、反対側からは見えないところです。そういう人目につかないところでペケペケ...ということは考えられないでしょうか。ただし、「ワタラ」の裏はかなり崖が崩れていて危なそうな上、ゆったり休める所ではなさそうなので、候補としては弱そうです。そもそも、こんな恥ずかしい地名を和人の、しかも赤の他人に話すかどうか、少し疑問があります。

 次に検討したのが
ウコロキイ u-ko-roski-i お互い・に・座る?(複数)・所という試案でしたが、実は私もうっかりしてまして、「ロキ roski」の意味を完全に取り違えていました。これは「座る(ア a)」の複数形ではなく、「立つ(ア as)」または「立てる(ア asi)」の複数形でした! 友人の指摘で発覚したもので、愚かにも今まで誤りに気づきませんでした(ちなみに座るの複数形は「ロ rok」)。穴があったら入りたいくらいです...。座るのに適している、ゴロタ浜のような海岸が比較的続いているため、いい案だと思っていたのですが、意味が違っていてはお話になりません。
 そこで、その単語の意味だけを訂正すると
ウコロキイ u-ko-roski-i お互い・に・立つ(複数)/立てる(複数)・所(みんなで立つ/立てる所)となりますが、これでは意味の上から地名として残す意味が疑問になります。立つ物が「岩」ならば、この海岸にはそういう場所がたくさんあり、今一つピンと来ません。よって、議論は白紙状態、全く別の解を模索しなければなりません。

 いろいろ考えて、次にひねり出したのが「ウクルシケ ukur-us-i-ke タチギボウシ(植物)・〜に生える・所・(場所名詞につく接尾辞)」という試案でした。分類アイヌ語辞典植物篇によると、「ウクキナ ukur-kina タチギボウシ」は、昔は食用となったり濁酒の材料になったりしたそうです。これが地名に出てきた例が『北海道の地名』にあり(ウクペッなどの形)、今までさんざん出てきた「u と o の混同」を少々都合よく考えれば、不可能な解とは言えません。しかし、この植物が実際に生えているかどうかを確認しなければなりません。検討に長い時間が掛かりましたが、無理だとわかりました。目立った植物が生えていないのが、この海岸の特色なのです。

 私は、今年(2004年3月)こそは自分で一応納得できる解を見つけようと頭をひねりました。そしてふと気付きました。いろいろ語形をいじって検討して完膚無きまでに全滅したので、いっそ『津軽図』の語形そのままで検討したらどうかと。
 やってみると、冒頭の見直し案になりました。
 「結婚する荷物」? なんじゃこりゃ、こんなのが地名かと思いましたが、実は意外なことを思いついたのです。どういうことかというと、アイヌの民具で、嫁入り道具などを入れて運ぶゴザ製の袋「ケトゥシ ketusi」というものがあるのです。萱野辞典には「ケトゥシという言葉は嫁入り道具を入れた荷物にのみ用いられている」とあります。
 このケトゥシ、先の15に現れた「ケトゥチ」に響きがよく似ています。ひょっとしたら、本来は「ケトゥンチ(毛皮を干したもの)」を指した「ケトゥチ」という地名の意味が、「ン」の脱落によって分からなくなってしまい、それを「ケトゥシ」と解釈してしまったのではないでしょうか。樺太アイヌ語の複数接尾辞「-ci」が時に「-si」に聞こえてしまう例がありますが(ピウツスキの資料より)、同じような聞き間違いを考慮に入れてのことです。そのケトゥシを表すのに、似たような意味で別の語形を使って表したのではないかというのが私の新しい試論です。つまり「なぞなぞ」風にひねったか、もしくはケトゥシとは何かを説明したという、どちらにしても15「ケトゥチ」の勘違いから生まれた言葉ではないか、と私は考えました。

 今年の解は、なんだか掟破りの地名解になってしまいましたが、少しでも真実に近づく可能性があるなら、これからもどんどん試論を考えていきたいです。

(追加執筆予定)

津軽図 西川図 西蝦夷 山川図 永田解 その他 紀要7 データ
19. フレチシ - フレチシ
(大赤岩)
- - 赤岩【現1万】 ぽん赤岩 hure-chis
(赤い・立岩)
下赤岩山
【浜田】 「フレチ hure-cis 赤い・立岩」


(写真1.)下赤岩山の遠景。
 3月に撮った写真で、まだ雪が残る。

(写真2.)「青い岩塔」の200メートルほど西側にある大岩。
 磯釣りの人が二人ほど乗ることができる。

 この赤岩海岸の代表的な地名ですが、意外にも位置確定にかなり悩んだ地名です。
 『データベース』では、この地名は下赤岩山のことだとしています。確かに赤い岩山であることは一目瞭然なので
(写真1)、これで何も問題ないように思われますが、そうすると西蝦夷日誌の記述「フレチシ(大赤岩)、過て(十町十五間)ワタラ(大岩岬)、此上を赤岩山といへるなり」という文章と、話がちょっと合わないような気がします。武四郎は今の下赤岩山を「赤岩山」と言っていたらしいので、そこから少なくとも1キロも離れたところにフレチが現れてくれないと困るように思えるのです。

 私は当初、このフレチ
は、榊原さんの記す通り「下赤岩山」のことだと思っていました。「青い岩塔」(写真3)以東の地点で初めて下赤岩山が視認できることから、その地点で下赤岩山を指して「フレチ」という言葉が出てくるのは問題ないと考えていたのです。
 しかし、武四郎の記述を厳密に地図上で検証すると、ワタラから約1キロ(十町十五間)という距離は、そう考えるにしても長すぎます。ワタラから1キロほどオタモイ寄りを見ると、そこはだいたい現在の赤岩山の下、「青い岩塔」から200メートルほどオタモイ寄りの地点であり、そこからでは下赤岩山はまだ見えてこないはずなのです(二度目の調査で、下赤岩山の「窓岩」がちょっとだけ顔を出すことが新たにわかりましたが)。いくらなんでも、遠くにすら見えないのでは名指しできるはずがないし、武四郎もその名を訊くはずがありません。


(写真3.)「青い岩塔」を山中方面から写す。ここを越えないと下赤岩山の全体は見えない。

 先にも触れましたが、地名が現れる順番は、大きな手がかりです。『西蝦夷日誌』でのフレチ
が、下赤岩山が見えないうちから地名として現れている以上、やはりその地点に下赤岩山ではない「赤い岩」があると考えなければなりません。
 それではということで、紀要7の記している「ぽん赤岩」を調べてみましたが、私が20.ワタラと見ている大岩を越えて祝津の方の、沖のいくつかの岩のうちで最も大きい岩のことでした。なお、戦前の観光案内図を調べると「ポン赤岩」とありますが、釣り好きの父が持っていた昭和50年の釣り雑誌を見ると、地元釣り人の呼称で「三角岩」とあります。「ポン赤岩」は「小さい・赤岩」ということですが、どうしてそんな名前になっているのかよく分かりません。どちらにしても、この岩も『西蝦夷日誌』で推定できるフレチ
の位置からは大きく外れるものでした。

 私は悩みました。上記の辺りの岩がどうなっていたか、実はよく覚えていなかったのです。私は、地図の上から距離を計って、その地点にあるものを検討しました。3月に一度赤岩海岸に行って写真をたくさん撮ってきましたが、その時は「川平」の位置の検討が主な目的だったため、後で見返すとこの地点での写真が意外に少なく、よくわかりませんでした。その時は、この海岸は岩がゴロゴロしているため歩くのに必死で、息が上がっていました。ただ、大きな岩の陰で風を避け、休んだ記憶もあります。16.の「わたりし」の所で触れた大岩から先の海岸を、もう少し写真に収めていればよかったのですが。
 そういう訳で、もう一度詳細に位置の検討をすることになりました。

 二度目の調査の前に、何か当たりをつける資料はないかと思い、先の釣り雑誌の記事や、釣りのポイントを航空写真で写した本などを調べてみました。すると、やはりこの地点には「立岩」または「赤岩」と呼ばれる大きな岩があることが分かりました。その後、二度目の調査で、私はこの岩を確認しました
(写真2)。この「赤岩」が本当のフレチだと証明できれば、やっと武四郎の記述が裏付けられたことになります。
 まとめますと、今のところの仮説として、私は「青い岩塔」から200メートルほどオタモイ寄りの地点にある「赤岩」が、武四郎が『西蝦夷日誌』で記したフレチ
ではないかと考えます

 もしこの説が正しいとすれば、多くの人は意外に思うかも知れません。私も小さいときから、下赤岩山の恐ろしげな赤い岩肌に「赤岩」のイメージをダブらせていたから、「下赤岩山はフレチ
ではなかった?」という説は少しショックなのです。でも、これは学問上のことであり、私の個人的な思い出とは関係がありません。今のところの私の考えでは、そうならざるを得ないのです。
 ただし、これは『西蝦夷日誌』の行程を厳密に解釈しただけの話で、後の人たちが地名に馳せる想いまで否定できるものではありません。フレチ
「赤い・岩山」という言葉だけを見ると、下赤岩山が「赤い岩石の坊主山」であることは間違いないため、「最初に出てきた赤岩だけがフレチで、他は絶対にフレチではない」と考えるのもおかしい話で、ちょっと狭い考え方のような気もします
 道内のロッククライマーたちの聖地として、釣りや海水浴の知られざる穴場として、また「我が郷土のほこり」(先の観光案内図より)とまで称えられた小樽有数の景勝地として、「赤い岩山(フレチ
)」は間違いなくここに聳えているのです。

 それにしても、釣り関連本に載っている詳細な土地の情報には驚きます。どこそこを歩けばこういう岩場があるなど実に詳細に書かれていて(もちろん記述は釣りのポイントに限られますが)、上手く使えば、武四郎の『西蝦夷日誌』の追確認にとても有益だと感じました。しかし、これは当然かも知れませんが、ずっと昔からそうした地名を残してきたアイヌ民族はもっとすごい観察眼を持っていると思います。「岩」を表す表現一つ例に取ってみても、それがわかります。
 
 cis は、地名小辞典によると「立ち岩」「岩石の坊主山;丸い岩山」などの意味があります。これも「岩」関連の言葉です。このページでいろいろ見てきたように、アイヌ語地名において岩を表す言葉の豊潤さには驚くばかりです。日本語の世界ではただの「岩」が平らに見えたり山に見えたりするだけですが、アイヌ語の世界ではそれらがもっと多様に捉えられていたということを、私たち「和人」は謙虚に受け止めなければいけないと思います。私ももっと勉強しないと、まだまだこれらの言葉の多様な意味が掴みきれていないのです。

津軽図 西川図 西蝦夷 山川図 永田解 その他 紀要7 データ
20. - - ワタラ
(大岩岬)
ワタラ Seta watara
(犬岩)
オワタラウシ【伊能図】
ワタリシ【仮製5
ワタリシ【明20万】
- o-watara-us-i
(そこに・海中岩・
付いている・もの
(海岸))
トド岩
【浜田】 「ワタラ watara 大岩」
     「セタワタラ seta watara たいしたことない・大岩」
    
 「オワタラウシ o-watara-us-i 〜の尻・大岩・〜に付いている・者」
    
 「ワタリシ WATARISI 渡り石」

(写真1.)中央が「ワタラ」と思われる大岩。
 赤岩海岸の中で最も目立つ岩の一つ。
 左端に「ポン赤岩」が見える。

(写真2.)「ワタラ」のアップ。
 右肩を登って渡るが、気をつけないと滑って怪我をするかも。

 「ワタラ」の各地の類例の検証など、未だ研究が必要だと思いますが、私は「下赤岩山」の海岸下にある大きく丸っこい青い岩が、このワタラだと考えます(写真1、2)
 西蝦夷日誌によると、「フレチシ(大赤岩)、過て(十町十五間)ワタラ(大岩岬)、此上を赤岩山といへるなり」と書かれています。赤岩の海岸を行き交う人が、この大岩に名前をつけないのはむしろ不自然だと思うのです。

 永田解の「Seta watara」のセタは、確かによく使われる「犬」という意味のアイヌ語ですが、実はもう一つ、あまり日常語では使われない別の意味があります。植物名称などで、本命が他にあって、「たいしたことない」「イマイチだ」「こちらは二番手」という意味の修飾語(連体詞)としても使われるのです。確かにこの岩はそれなりに大きい岩ですが、この岩山全体の恐ろしい光景に比べたら可愛いもので、それほど恐ろしくもないように思います。この場合セタはなくてもいい言葉だと思いますが、そういう比較の気持ちからあえて付けられたのではないでしょうか。

 なお、古平の「セタカムイ岩」は、形が犬に似ているということはあるかと思いますが、実はこのセタの意味で使っている可能性が高いと私は思います。なぜなら、普通のアイヌ語では、神様としての犬をセタカムイと言うことは私の知る限り皆無で(『分類アイヌ語辞典』犬の44通りの呼び名にもなし、オオカミも同様)、尊称として「レイェ
 reyep」または「レイェ カムイ reyep kamuy」と言うはずだからです。セタという言葉にどういうわけか「たいしたことない」という別の失礼な意味があるために、犬を神として敬意を表したい場合には、その敬意の気持ちが台無しになるのを別の言葉を使うことで避けるのでしょう。これをセタワタラと同じように考えると、本命のすごいカムイが別にいて、それに比較すると規模が小さいとか、恐ろしくないという意味で「セタカムイ seta-kamuy イマイチの・神」という形容をしたのだと思うのです。
 この件についてはまた別途。

 伊能図の「オワタラウシ」のアイヌ語解釈は、榊原さんの解にほぼ異論ありませんが、敢えて言えば「オ」という接頭辞の解釈が少しあいまいです。これは、私のページ「地名文法」の接頭辞の項目で触れた特別な接頭辞である「所属形名詞的接頭辞」のオで、「〜の尻」という意味です。通常の「格を表す接頭辞」としてのオでは、項が一つ余ってしまうため、ここでは文法が破綻するのです。
 再解釈すると「その尻に大岩が付いている者」ということになり、これはむしろ「下赤岩山」の叙述であると思います。それは今の下赤岩山を擬人化して見ると納得でき、大岩がまるで山のイボ痔のように(おっと失言)くっついて見えるのです
(写真1)。この地名が、岸から離れた海中にあるトド岩を指しているのではないということを、この別名からも感じることができます。
 なお、最後の解の「渡り石」は「16.参照」のこと。

津軽図 西川図 西蝦夷 山川図 永田解 その他 紀要7 データ
21. - - ハンタカイシ - -   - -
【浜田】 「ハンタカイシ hantaka-isi 裸・石」 

 『西蝦夷日誌』の謎の地名と言ってもいいと思うのが、この「ハンタカイシ」です。「ワタラ」(前項)を過ぎると、海上に海鳥の糞で白っぽくなった岩がありますが、私は最初ハンタカイシがこれのことではないかと考え、「パンタカイシ pan-takaisi 色が薄い・鷹石」という試論(和語との折衷という反則っぽい解釈)を考えました。語尾の「イシ」という形は、「熊石」などの地名で見られるように「us-i 〜に付いている・所」の訛りであることが多いのですが、この辺には目立つ植物などもないみたいなので、語形の検討の結果、一旦はこういうことになったのです。

 その後、これじゃあんまりだと悩み、いろいろ無い知恵をひねってみました。しかし、このハンタカイシが一体何を指した地名なのか、地名の出現順以外にはほとんど手がかりが無いのです。『西蝦夷日誌』以外の資料にこの地名が見当たらないのも、検討の可能性が広がらない要因です。『西蝦夷日誌』の記述を見ると「ワタラ(大岩岬)、此上を赤岩山といへるなり。惣て草山にて樹木一本もなし。ハンタカイシ、ならびて赤岩」とありますが、この「赤岩」(次項)の位置を検討した結果、それは上記の糞だらけの岩(「ポン赤岩」とか「三角岩」とか呼ばれる岩)と私は仮定しました。そうだとすると、ワタラと赤岩の間には、磯岩の立ち並ぶ海岸か、または下赤岩山のごつごつとした光景があります。海と山のどちらに注目するかでかなり違った案になってきます。

 少しでもアイヌ語で可能性のある言葉を当てはめようとして全て挫折した結果、「いっそのこと、徹底的に日本語で考えたらどうだろう」と思って作った試案が、冒頭の「ハンタカイシ hantaka-isi 裸・石」
なのです

 日本語とアイヌ語の発音は、似ているようでかなり違う特徴があります。アイヌ語地名を和人が「和人訛り」するのと同じように、日本語をアイヌ語風に発音した場合にも訛りが起こる事があります(必ずそうなるとは言えませんが)。常に開音節が連続するような日本語は、閉音節を交えてリズムを作るアイヌ語話者には言いづらいこともあるらしく、間に「n」を入れる事で言いやすくする例があります。田村辞典の例で言えば、「アシンガル asingaru 足軽」「ウンマ unma 馬」「クンキ kunki 釘」「タマンコ tamanko 玉子」「タンパク tanpaku たばこ」「ハンカネ hankane 鋼」「ピントロ pintoro ガラス(ビードロ)」「ムンキ munki 麦」など、枚挙にいとまがありません。こういう発音の癖があるので、「はだか」が「ハンタカ」になることは不思議ではありません。

 では何が「裸の石」なのかと言えば、「ワタラ」の上から望む下赤岩山の草木も生えない岩山の光景
(写真1)ではないかと考えました。しかし、この「裸」という意味でのアイヌ語が無いわけではなく、ちゃんと「アトゥサ atusa 裸である」という単語があります(例:アトゥサヌプリ atusa nupuri 裸の・山)。どうしてこちらを使わなかったのかは分からないので、この説には少し難があるかも知れません。
 また、「石」という言葉も今一つイメージが湧きません。ただ、日本語の「石」とアイヌ語の「スマ suma 石」は、一見対応しているようですが実はアイヌ語の方が意味が広く、私たちが「岩」と呼ぶような大きなものでもスマと言うことができます。アイヌ語の「スマ」の感覚で、「イシ」という言葉を下赤岩山に対して使ったのではないかと考えてみました。
 今のところの私の案はこの通りですが、まだ理論武装が充分ではないので、引き続き検討していきます。

(写真1.)「ワタラ」の上から下赤岩山の岩肌を写す。
 大きすぎて山が写真に収まりきれない。
 この辺りは落石の危険もあり。


(写真2.)「ワタラ」の上から祝津側の海岸を写す。
 植物が生えるような余地はなさそう。

追加: 松浦武四郎の古文書解読の第一人者・秋葉實氏の編著『植物名一覧』(松浦武四郎翁著作より、北海道出版企画センター)によりますと、「あかぬまらん」「ちどりさう」(ラン科の植物)の項に「ハンタカ」という草名が見えました。ただし、その他の辞書資料にこの名はありません。もしこれが成り立つならば、「hantaka-us-i ちどりそう・〜に生えている・所」という別解を考えてもいいことになります。
 しかし5月の調査では、「ワタラ」以降の海岸に目立った植物は生えていないことを確認しました
(写真2)

津軽図 西川図 西蝦夷 山川図 永田解 その他 紀要7 データ
22. - - 赤岩 - -   - →19
【浜田】 「赤岩(日本語) 


(写真.)白っぽい海中の岩が、ここでの「赤岩」と思われる「ポン赤岩」。
 この写真では分からないが、裏にもう一つ小さな岩がある。
 遠くに「とど岩」が見える。

 『西蝦夷日誌』では「ハンタカイシ、ならびて赤岩、ならびてノテド(大岬)」となっています、この書き方から見て、少なくともここでの「赤岩」という地名は、特に「下赤岩山」を指した言葉ではないと思われます。ワタラのところで既に説明した、頭上に聳える下赤岩山のことを、わざわざ改めてこんな風に言うまでもないからです。
 この辺で一番大きな海中の三角形の岩
(写真)が、現在「ポン赤岩」または「三角岩」と呼ばれる岩であり、『西蝦夷日誌』の「赤岩」はどうやらこれを指しているようです。確かに根元付近を見ると元は赤い岩だったはずなのですが、海鳥の糞がこびりついて白い岩になっています。この辺から祝津・高島の海岸は、海鳥の巣が多いようで、海中の岩には所狭しと海鳥の群れがたたずんでいます。

 「ポン」はもちろんアイヌ語で小さいと言う意味の pon でしょうから、下赤岩山との対比で「pon AKAIWA 小さい・赤岩」と呼んだと考えられそうですが、愛和折衷で少し不自然なものを感じる上に、古い資料にはそういう語形がないようです。察するに、武四郎の時代にはこの三角岩をただ「赤岩」と呼んでいたけれども、「赤岩」という地名がこの海岸や山全体の総称になったため、区別をつける意味でポンを付けたのでは、と考えます。
 先に触れたように観光名所として紹介されるためには、目立つものにはわかりやすい名前があった方が説明しやすいとも思います。この岩は、赤岩にある奇岩の一つ「白龍門」(岩の窓になっていて、海が展望できる)からちょうど見ることのできる岩で、その意味でも敢えて名前がつけられたと思われます。

 残る疑問は、何故日本語なのか?ということです。前項「ハンタカイシ」もそうですが、急にあっさりと「赤岩」という日本語が出てくることに、何となく不自然というか、消極性を感じます。『西蝦夷日誌』以外にこの地名が出てこないということもありますが、アイヌ民族が地名として特に重要視しなかったのでは、と私は考えています。多少大きくて形がへんてこりんでも、海にあるから通行に邪魔というわけでもないし、近くに寄ってもいいことはなさそうだし、中途半端に海岸に近いため、航海や通行の目印にするには別の「トド岩」の方が適任です。それよりも、次の「ノテド」から先をどうやって通行するかの方が大きな関心事だったと思われます。

 なお、
19.「フレチシ」の項も参照してください。『紀要7』の説は、フレチシとポン赤岩を混同していると私は思います。意味としては同じような名前だから無理もありませんが、日誌の地名出現順から考えれば、そうした混同は避けなければなりません。

津軽図 西川図 西蝦夷 山川図 永田解 その他 紀要7 データ
23. - ノテト ノテド
(大岬)高島岬
- -   - not-etu
(岬の・鼻)
【浜田】 「ノテトゥ not-etu 岬・〜の先」 NEW!!

 14.「ノテツ」と全く同じ地名で、アイヌ語の解説としてはそちらをご参照下さい。具体的には、上記「赤岩(ポン赤岩のこと)」の写真を参照のこと。ポン赤岩の向かいがノテトゥにあたると思われます。地形的にも、海岸づたいに通行することができなくなる地点なので、14よりははっきりと「岬の先」である事がわかります。

 注目すべき点は、『西蝦夷日誌』の記述です。何とここが「高島岬」であると書かれています。現在の地名としての高島岬は、
25.「チヤシユノシユマ」つまり日和山灯台のある岬を指しているため、この記述はとても奇妙に感じます。続く「メナシ泊」つまり比較的近年まで地名が残っていたメナシトマリの位置は信頼できるため(後述)、この記述の位置を動かすことはできません。少なくとも江戸時代は、ここが高島岬と呼ばれていたと考えるしかありません。

 もう少し広く見ると、直前に(大岬)とも書かれているため、この地点のみを限定して高島岬と称するのではなく、今言う高島岬まで含めた大きな地形全体を、タカシマ場所にある一つの岬として総称したという可能性も一応あります。ただし、次項の書き方「メナシ泊(岩岬)」「チヤシユノシユマ(大岩サキ)」などからすると、『西蝦夷日誌』の言う高島岬は、やはりこの地点に限定した名称であった確率が高いように私は感じます。このことが
26.「イソ」の項で試論しているタカシマのアイヌ語地名解に影響を与えるかどうかは不明ですが、研究課題としては残ります。
 さらなる資料の検討や慎重な論議を待つのみです。


津軽図 西川図 西蝦夷 山川図 永田解 その他 紀要7 データ
24. メ子シトマリ メナシ泊 メナシ泊
(岩湾)
(二八多し)
メナシトマリ Menashi tomari メナシトマリ【廻浦】
メナシ泊【仮製5
マリンパーク【現1万】
めなし泊 menas-tomari
(東(風の時)の・
停泊地)
【浜田】 「メナトマリ menas-tomari 東風・港」

 『西蝦夷日誌』には、ノテド(「高島岬」)に続き、「廻りて(廿町五十五間)メナシ泊(岩岬)、訳て東風泊といへる也(二八《にはち》多し。この辺いよいよ繁華也)」とあります。メナトマリは、過去の地図にも載っているメジャーな地名で、地図上では現在ちょうど小樽水族館の海獣プールのある所、つまり「マリンパーク」の湾(比較的最近まで「目梨泊」となっていた場所。以下、Aと呼びます)のことを指しています。
 しかし、実はメナ
トマリはそこではないとする説があります。この海岸にはAの西側にも大きな入り江(以下、Bと呼びます)があり、本来のメナトマリはそちらを指したとする説です。山田秀三さんの『アイヌ語地名の研究1』の「アイヌ語地名の三つの東西」という考察の中で、忍路の老漁師の話として、「ほんとうのメナトマリは此処じゃない。もう一つの岬を廻った処だ。この入江はどんなにやませが吹いても静かなのだ」と記されています。山田秀三さんは、「老漁師は西の方が東風をよりよくさえぎるという意味で云ったのかも知れない」(p.290)とコメントしています。

 地図や資料の机上での検討はもちろん重要ですが、人の実際の体験に基づく証言は確かに説得力があると私は思います。この説を過去の地名資料から帰納法的に検討してみましょう。その観点で見ていくと、まずノテトゥから「廿町」(約一キロ)という距離は都合が悪く見えます。地図上でノテトゥの位置から一キロ東を見ると、どうがんばってもやはりAに行き着いてしまうのです。
 ところが、ノテトゥからメナ
トマリへは「廻りて」とあり、ここはいったん山の方を登って迂回して、また浜に下がったのではないかという考察も可能です。実際、ノテトゥの下は切り立った崖になっていて、海岸伝いに歩く事が出来ない「行き止まり」の場所なのです。前のオタモイ海岸の竜宮閣付近(イクシタ)をどうやって渡ったのかという疑問と同じく、ここでもどういうコースで迂回したのかという疑問が当然出てきます。

 そこで、次回調査の下資料として、例の「釣り雑誌」を見てみると、祝津方面から「三角岩」へ到る道の説明としてこんなことが書いてありました。ちょっと長い引用ですがご覧下さい。
 「祝津の江の島ホテルの下から海岸沿いに天望閣の下の玉石の浜を行くと行きどまりとなり、ここから登りとなります。ここは高い断崖の崖ぎわに細い道が付いています。すぐ目の下は深く、なれない人は足のふるえる所です。一歩一歩気をつけると大して危険はありません。登り口より10分位歩くと磯に出られます。降りた所から右側に折れて戻るような格好に行くと、行止りとなり沖にいくつか岩があり一番大きな岩が三角岩です」(『北海道のつり』1975年12月号、大畠進氏の穴場紹介)。
 舟を使わず海岸を歩いて行ったと仮定すれば、この道こそ武四郎が逆方向に通った道だと思われますが、この辺の崖を見た所、多分かなり危なっかしい道だと思われます。

 この記述からすると、武四郎がノテトゥを迂回してBにたどり着くのに1キロも掛かったとは、やはり想像しにくいものがあります。よって、仮の結論ではありますが、『アイヌ語地名の研究1』の記すBは、少なくとも『西蝦夷日誌』のいうメナトマリではないと考えることにしました。やはり、Aが位置的に見て最も妥当なのです。私は最初、『アイヌ語地名の研究1』の説を信頼して、この前提の元に以下の「チヤシユノシユマ」を検討していましたが、あっさりと見直しました。

 なお、「二八多し」の二八とは「二八取り」の略、すなわちニシン漁の出稼ぎ人を指す言葉です。その由来は、出稼ぎ人が取った漁獲高の二割を当地の請負人に納め、自らは八割を取った所から来たといいます(『西蝦夷日誌』脚注より)。

(執筆予定)

津軽図 西川図 西蝦夷 山川図 永田解 その他 紀要7 データ
25. - - チヤシユノシユマ
(大岩サキ)
- -   高島岬 -
【浜田】 「チャヌスマ casnu-suma さっぱりする・石」

 『西蝦夷日誌』には、メナシ泊の次として「チヤシユノシユマ(大岩サキ)、廻りて濱形東向になる。(八町四十五間)シクジシ(番や、蔵也、船澗よろし)」とあります。
 『西蝦夷日誌』は、信頼に足る第一級の地名資料ですが、それには理由があります。もちろんその採録地名やトピックスの多さはありますが、それだけならば『永田地名解』も負けてはいません。『西蝦夷日誌』が他の資料と一線を画する最も優れた点は、ただ地名を記録するのに留まらず、実際に歩いた行程を驚くほど詳細に書き記していることです。よって、地名の位置を特定する上で方向や距離の記載があるのがとてもありがたいのです。

 チヤシユノシユマを越えると(「廻りて」というのは迂回したことを表しています)、今まで北向きだった海岸が東向きに変わることがわかり、またチヤシユノシユマとシクジシの間が約800メートルであるということまでわかります。シクジシは「私のアイヌ語地名解1」の「祝津」で解釈した通り、日和山(ひよしやま)灯台のある高島岬が帯状の岩崖であることに由来しているのですが、ここでは「番や」などの記載があることから、その東向きにある祝津漁港を指していると思われます。
 私は当初、チヤシユノシユマはちょうど展望所(今はもう閉店しているホテル天望閣の下)のある所の海岸、現在の「マリンパーク」西側に当ると考えていましたが、「メナ
トマリ」の位置を再検討した結果、その「マリンパーク」がやはりメナトマリに当るという結論に達しました。チヤシユノシユマは、地名登場の順番から言ってもメナトマリの後に無ければなりません。よって、チヤシユノシユマは少なくとも「マリンパーク」の東側以降にある、と私は考えを改めました。つまり、まさに現在の高島岬(日和山(ひよしやま)灯台のある岩崖)の辺りを指すことになります。ここも、祝津漁港からは約800メートルの距離と見ることができ、距離的なつじつまは合っています。
 位置を高島岬と確定すれば、続く「廻りて濱形東向になる」という言葉にも実感が生まれてきます。

 「チャヌ casnu さっぱりする、片付いている」という自動詞は、「シッチャヌレ sitcasnure 掃除する」という自動詞の一部としてよく使われています。これは「sir-casnu-re あたり・さっぱりする・〜させる」という構成です。「u と o の混同」という和人の転訛の癖を考えて、もう一ひねりすれば、「チャヌ」が「チャシュノ」と聞こえたと考えてもよさそうに思うのです。「シュマ suma 石」という名詞の前が自動詞であれば、地名の構成としても「すっきりした」形になるのです。
 私は当初、「マリンパーク」の湾は小石浜のため渡りやすく、赤岩海岸で嫌というほどごろごろした岩を渡った後からすれば、邪魔な岩をきれいに片付けたように見えたのだと考え、歩きやすい石原というイメージで推察しました。しかし、位置を高島岬の岩崖付近であると見直した結果、そういう説明は成り立たなくなります。

 では一体、どういう石が「さっぱりしている」と見えたのでしょうか? 現在の所の推論として思うところがあります。それは、高島岬の岩崖のについてです。
 私は、日和山灯台の左右にある展望所からそれぞれ、岬の下の岩肌を見た事があります。するとそこは、理科の先生が見たら喜ぶのではないかと思うくらい、「地層」というか、筋のはっきりした「岩層」になっていたのを覚えています。赤岩〜祝津までの海岸において、他の場所ではこのような岩肌はなかなか見ることが出来ません。ちなみに、郷土資料の一つ『赤岩今昔物語』(郷土史〔あかいわ〕研究会、平成13年)で海岸一帯を概観すると、トド岩の地点あたりから高島岬までは「板 桂状安山岩」質の地層であるとのことで、それまでの地層とはやはり確かに違うのです。

 この見事な岩層を(「シクヅシ si-kut-ous 大きな・帯→崖・のふもと」を念頭において)、私は当初「帯の模様」のように考えたのかな? と漠然とした感想を抱いていたのです。しかし、ひょっとしたらチャヌスマとは、このきれいに筋の入った岩肌のことではないのか? と私は考えるようになりました。赤岩のごろごろした岩と、高島岬の妙に直線的な岩層とを比較して考えた新たな推論です。なお、「スマ suma」は日本語の「石」より意味の範囲が広いということは、以前 21.「ハンタカイシ」の項で説明しました。
 未だ現地調査が十分ではなく詰めが甘いので、次回の第三回目の調査ではこの周辺の写真もたくさん撮ってきたいと思います。

 なお、チヤシユノシユマの解釈として、『紀要7』には「chasi=砦 suma=岩 砦岩?「チャシ」があったのだろうか?」とコメントがありますが、これは「cas-ne-suma 砦・のような・石」と言う解釈でしょうか。私はチャシというものの実例を見たことがありませんが、このあたりにチャシの跡があったという話は聞いたことがありません。また、チャシ研究の第一人者・宇田川洋氏の『アイヌ考古学研究・序論』(北海道出版企画センター、2001)のチャシ地名一覧には、この解釈を思わせるような語形を持つ地名は全くないのです。可能性はゼロではないかも知れませんが、地名解の候補から外した方がよさそうです。

(執筆予定)

津軽図 西川図 西蝦夷 山川図 永田解 その他 紀要7 データ
26. -
(*1)エショ
エショ - - - トト岩【仮製5
トド岩【現1万】
とど岩 →20
【浜田】 「イソ iso 磯岩」

   註:(*1)紀要7より。山田秀三氏の写しにはなし。

 オタモイ海岸から続けてきたアイヌ語地名を巡る旅は、この「トド岩」で一応の区切りを迎えます。
 現在の高島岬、日和山灯台から見る光景も近いですが、そこから西へ、小樽水族館を越えて車でちょっと行った所に展望所があり、そこから見るのが一番近いだろうと思います。トド岩という岩の名前は、おそらく昔はトドがたくさん集まっていた岩ということでしょう(小樽水族館がこの近くであるというのは、その意味でも自然です)。岩の名としては、ごくありきたりだったろうと思います。当該のアイヌ語と思われる「イソ iso 磯岩」という言葉も、地名として全くありふれていて、いわば基礎単語です。この大きく目立つ岩の名づけ方としては、実にそっけないものだと思います。私の説は『紀要7』と同じで、特にこれ以上付け加える事はありません。

 強いて言えば最後に残った謎、「高島」という地名との関連について見ていきたいと思います。
 高島は、ニシンの千石場所として古くから名高い地名であり、昔の後志国高島郡、今の小樽市高島であり、前述の通り岬の名前でもあります(この岬には昔をしのばせる「鰊御殿」もあります)。『西蝦夷日誌』には次のように記されています。「高島といへども本名トカリシユマにして、訳て水豹《アザラシ》岩《トカリシユマ》の義也。此処湾の中に水豹の多く寄集る岩有故に号《なづけ》しもの也。また一説には、前の岩の形水豹《アザラシ》に似たる故号るともいへり」と。
 この高島は古くから地名解がよく話題になってきたらしく、『データベースアイヌ語地名』にもそうしたいくつかの説がまとめられています(他に廻浦日記、永田地名解、上原熊次郎地名考)。詳しくは省略しますが、『西蝦夷日誌』と同様「tukar-suma アザラシ・岩」または「tukar-iso アザラシ・磯岩」という地名解と、「鷹の形に似た岩があったから名づけた」という眉唾な説の二説に集約しそうです。

 アイヌ語でアザラシのことを、本来は「トゥカ
 tukar」といいますが、和人がうまく発音できずに訛ってしまい、「トッカリ」という言葉で広まりました。今でもトッカリと言えばアザラシのこととして、北海道地方の方言になっています。実はこのトッカリという言葉は回りまわってアイヌ語に逆輸入されたらしく、今では普通に使います。田村辞典などにも「トッカリ tokkari」が載っています。つまり「tokkari-suma(iso)」でもよいことになり、これに音韻脱落の法則(kk→k)(ii→i)が働いて文字通り「トカリシュマ」「トカリショ」となったとも考えられます。
 ともかく、この語形からどうやって「タカシマ」となってしまったかは、意外にも全くの謎です。さすがにアイヌ語の音韻変化の法則では証明できず、まるで「ラゴシマナイ」が蘭島になったような、デタラメな言い換えを考えなければならないのです。もともと和人の持っていた地名または人名としての「高島」という言葉があり、「トカリシュマ」または「トゥカ
シュマ」がこれにたまたま似たような発音だったから、半ば強引に置き換えてしまったと見る他ありません。

 「トド」(海馬、アイヌ語ではエタ
ペ etaspe)と「アザラシ」(水豹)は違う動物ですが、よく両者は混同されることがあるので、その意味では「高島」が何となく「トド岩」の名前の由来と似ているのです。しかし「高島」は、『西蝦夷日誌』の記述に従えば「トド岩」のことではありません。ここから二キロほど離れた「高島漁港」の湾内に、防波堤に取り込まれてしまった海中の岩(弁天岩または弁天島と言うらしい)があり、『西蝦夷日誌』の言う「湾の中にある岩」はこれが該当すると思われます。ちなみに、これは『データベースアイヌ語地名』の説と全く同じです。
 なお、小樽水族館の「海獣プール」があるマリンパーク内にも、同じく防波堤に取り込まれてしまった海中の岩があり、私は最初これと勘違いしていました。

 アザラシもトドも、大いに漁の邪魔になったに違いありません。今となっては水族館の中でしか見ることが出来ないほど、その多くが古い時代に人間に駆除されてしまい、その結果この辺に寄りつかなくなってしまったのだと思われます。何度か引用した戦前の観光案内図には、トド岩について以下の記述があります。「海馬岩:メナシ泊の海岸より約八丁の沖合にあり、昔此島に海馬が群生してゐたと云ふ、昭和六年の春も三頭の白海馬が姿を見せた」。
 つまり昭和六年の時点ですら、たったの三頭。既に「昔話」、珍しいものになってしまっていたのです。トドのいない「トド岩」という地名は皮肉で、しかも残念ながら北海道にはたくさんあります。

 

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