私のアイヌ語地名解2〜窓岩からトド岩まで〜(2004年5月31日更新)
目次
オタモイ海岸から赤岩海岸までの地名資料整理と、その位置の検討
★(オタモイ海岸〜山中海岸)
1.アイカプ
2.窓岩
3.シュプンモイ
4.オタモイ
5.プクサタウシ
(* ここまでが昔の忍路領、以降は高島領)
6.イクシタ
7.モイ
8.ポイシリパ
9.ポンモイ
10.チパトイ
★(山中海岸〜赤岩海岸)
(* 山中海岸入口)
11.チャラセナイ
12.ポンチャラセナイ
13.川平
14.ノテトゥ
15.ケトゥチ
16.「ヲタ子ウシ」「クツタラシ」
17.ピリカワッカ NEW!!
18.「ウコロシケ」
★(赤岩海岸〜祝津方面)
19.フレチシ
(* 青い岩塔)
(* 赤岩海岸入口)
20.ワタラ
21.ハンタカイシ
22.赤岩(ポン赤岩または三角岩)
23.ノテトゥ NEW!!
24.メナシトマリ
25.チャシヌスマ
26.トド岩
一度入れこむと、しばらく止まらなくなるまで集中してしまうのが、私の良いところでもあり、悪いところでもあると思っています。熱しやすいのは良いのですが、冷めやすいのがいただけません。アイヌ語地名の検討も、やりたがっているうちにやらないと、すぐ熱意を失ってしまうのではないかと思い、ここ数日はまるで学生のように資料の整理を行っています。ホームページで先日書きはじめた「山中」に関する地名随筆を検討していくうちに、どんどんわからないことが増えてきて、このままでは知的な欲求不満で悶え苦しみそうになったので、ここで改めて集中して検討していきたいと思います。
「私のアイヌ語地名」では、思いついた地名解を思いついた順番に綴りましたが、ここではテーマを絞り、オタモイ海岸の窓岩から祝津のトド岩までの地名を順番に見ていき、過去の地名関連資料の記述を、積極的に比較検討していこうと思います。もちろん、そこから私なりの地名解釈や位置の検討も記していきます。
仕事の都合や個人的事情により、更新は不定期になるかも知れませんが、どうか気長にご覧ください。私は地名解に関してはまだまだ駆け出しの身ですから、ご意見ご要望、叱咤激励などもご遠慮なくお寄せください。2002年3月30日 浜田隆史
では、この「地名解2」ページを書く契機となった、「山中」「川平」に関する地名随筆をまずごらんください。
このページを更新しなくなって、実質的に2年ほど経ってしまいました。あれだけ熱中した地名解の検討も一段落、自分の中で是非触れておきたい地名解という事に関して言えば、これまでの解でだいたい区切りがついたと思っていたのでした。その間、新世紀を迎えるわ、私は本業のギタリストとして少し忙しくなるわで、いろいろなことがありました。
いつの間にか2002年になっていましたが、私は相変わらず小樽の売れないミュージシャンで、なかなか他の土地を調べたりする余裕ができません。このページで触れている大部分の地名のように、子供時代に慣れ親しんだ地名について、少しずつエッセイのように触れていくくらいしかできないのです。もし小樽の海に関する地名を挙げるとすれば、もちろん「蘭島」「塩谷」という二大海水浴場は外せませんが、私が特に親しんだ地名として、もう三つ挙げたいと思います。それは「山中(やまなか)」「赤岩(あかいわ)」「オタモイ」です。三箇所とも、私が子供の頃から大学生の時まで足繁く通った、夏の思い出の地です。
結論から先に言っちゃいますが、「オタモイ」以外はアイヌ語地名ではありません。よって、「私のアイヌ語地名解」に載せるのもどうかと思いますが、地名解をやっていく中で一番大切なことは、その土地への愛情と敬意だと思いますので、こういう個人的な思い出を綴る随筆も、少なくとも無駄ではないと思います。どうかご勘弁を。この項では、まず「山中」と、その海岸にある岩場を指したと思われるアイヌ語地名「川平」について綴っていきましょう。
さて、いきなり奇妙なことに気がつきました。
地名の資料にてっきり記述があると思っていた山中海岸は、何と意外にも、『データベースアイヌ語地名』にも『北海道地名分類字典』にも『北海道蝦夷語地名解』にも載っていませんでした。巻末の索引を調べた限りでは、『北海道地名分類字典』の方に「寿都町」の地名としてのみ載っていましたが、小樽市の山中海岸ではありません。前述の通り「山中」はアイヌ語ではないのですが、アイヌ語地名でないからといって載せなかったというわけでもないと思います(もしそうだとしたら変です)。とにかく、私としては少し残念でした。しかし、最初私は見落としていましたが、かろうじて『北海道の地名』には、「川平」という地名の解説のところで「山中という小部落」が登場していました。
確かに、この「山中」という地名は、町名でも住所を示す字でもなく、バス停の名前にもなっていなかったと思います(?うろ覚え)ので、地元の人以外はあまり注目しない土地かも知れません。しかし私は、それこそ小学生の頃から何度も親に連れられて海水浴に行った、思い出の地名です。赤岩も好きでしたが、山中の海はもっと好きでした。ここの最寄のバス停は確か「オタモイ団地」で、そこから山の中、うっそうと茂る森の中へ入っていくという感じでした。そして、赤岩ほど急ではありませんが、ずっとこの山の中の道を降りていきます。この道は舗装されていなくて、いつもぬかるんだ水溜りがあって歩きにくかったことを記憶しています。かなり歩いて、やっと海岸にたどり着くのです。山の中を抜けたところにある海岸だから、山中海岸。全くその通りだと思います。
そこは観光客が通うような正式な海水浴場ではありませんが、隣の赤岩海岸と同じく岩場が続くところで、まさに「穴場」。単に海水浴だけでなく、風光明媚な景色、さらに釣りやツブ(岩に引っ付いている、黒く小さな貝)取りも楽しめるとあって、釣りの好きな父が好んだ場所でした。山道から海岸への入り口付近には、あまり使っていなさそうな漁師の舟がつけてあったのも覚えています。昔はこの海岸もニシン漁でにぎわったらしいという事を、母から聞きました。岩場はかなりごつごつと連なっています。その点、赤岩と同様です。その岩磯を海に向かって右に行けば赤岩へ、左に行けばオタモイへ続いています。私たち家族は、いつも赤岩側へ少し行き、父はかなり大きい磯岩の上に竿を固定し、いつも磯釣りをしていました。子供だった私たち(三人兄弟)は、その近くの浅瀬で、岩と岩の間で区切られた海を「プール」に見たてて、「ここはオレのプール」「じゃあこっちはボクのプール」などと言って陣地を作って遊んでいました。潮の満ち引きでプールが大きくなったり小さくなったりするのを見て、不思議に思ったものでした。今思えば、そんな小さな発見を楽しい遊びに変えてしまう、子供の頃の想像力はすごかったなと思います。
アイヌ語で岩のことをシララ sirar と言います。海岸の磯岩を指すことが多いですが、千歳辞典には「sirar nupuri 岩山」という例もあり、「磯」とは限りません。萱野辞典には「(粥や糊が)固い」という意味でも載っています。シララとという言葉に、岩のような固いもののイメージを連想していることは明らかです。
これに対して、類語のカマ kama またはカマソ kamaso という言葉があり、こちらははっきりと「海中、川中にある偏平な岩」(千歳辞典)です。もう一つ、「(厚さが)薄い」という動詞でもあるカパラ kapar という言葉があり、これも地名小辞典によると「水中の平たい岩」という名詞の意味を持っています。もう一つオマケに、ワタラ watara(海中の岩)という言葉があります。これらの言葉は混同しやすいので、シララとの微妙な違いに注意しておきたいのですが、まだ私にもその意味の住み分けが捉えきれていないようです。この山中のあたりから赤岩までの海岸には、石原もありますが、だいたい sirar が続いているのです。榊原さんの『データベースアイヌ語地名』にある地名「カパラシララ」(kapar は厚さが薄い、sirar は岩)は、この山中海岸にある地名です。
『データベースアイヌ語地名』によると、過去の語形は以下の通り。伊能忠敬の『伊能中図』には「カハシラヽ」、武四郎の『東西蝦夷山川地理取調図』には「カハリシララ」、永田地名解では「カパラシララ」、明治25年の地図には「カウシラ」とあるそうです。さらに『北海道の地名』には、同じ地名が「川平」(前述)という名で載っていました。その解釈はもっぱら「kapar sirar」を思わせる解に揃っていまして、アイヌ語解釈の疑問は私にはありません。
薄くまたは平べったく見える岩場は、この辺にはいっぱいありそうです。私は、学生の頃歩いて山中から赤岩まで歩いたことが何回かありました。大学生の頃は、漁師の依頼でウニやアワビなどの密漁監視員のアルバイトをやっていたので、赤岩が中心でしたがかなり歩き回りました。榊原さんは「カパラシララ」の項で、「この岩礁については、筆者の観察では確認できなかった」と記していますが、それはこの「カパラシララ」という単語を「海の中の波かぶり岩」に限定して解釈したからだと私は思います。
知里真志保は、おそらく語源解「sir 地 + rar 水へ潜るという意味の語根?(久保寺辞典より推定)」という観点から「波かぶり岩」というイメージを得たのではないかと私は当て推量していますが、「sirar nupuri 岩山」「sirar sayo 固いおかゆ」「sirar nisu (石の)挽き臼」などの例からわかる通り、私はそのように意味を限定する必要を感じません。シララとは、岩でさえあれば、必ずしも波をかぶるほど海の中になくてもOKだと私は考えるのです(もちろん、かぶっているケースもあるでしょうが)。地名をつけた理由を探るときには、名付けた人がそこで何に注目したのかを考えてみます。すると、やはりこういう岩場の多い海岸では通行そのものが大きな関心事だと思います。海岸の岩場は、場所によってはかなり大きくゴロゴロしていて渡りづらく、普通にサクサクと渡れる平らな岩場を、その対比で「カパラ 薄い」と呼んだと私は仮定しました。ちょうど赤岩と山中の真中辺りは、けっこう渡りやすい場所があったはずで(よく学生さんたちがキャンプをやる場所もあったと私は記憶しています)、おそらくそういう岩場をカパラシララと呼んだ可能性は高いでしょう。
『データベースアイヌ語地名』によると、カパラシララは、武四郎の西蝦夷日誌の記述に「チヤラセナイ、(二町)カワリシララ」とあることから「(チャラセナイという滝状の川)の200mほど東側にある岩礁を指すものと考えられる」としています。この「岩礁」を、上記のように読み替えて海岸部を見ていけば、地点はほぼ特定できると思います。それは次回の宿題にしておきます。なお、アイヌ語に多少詳しい人にはむしろ意外かも知れませんが、少なくともアイヌ語沙流方言の音韻変化には、r + s → s + s となる法則はありません。だから、kapar + sirar → kapassirar とは、理論上はなりにくいはずなのですが、何故か実際、カパッシララ kapassirar と言うところが他にあります(渡島西部乙部町「蚊柱(かばしら)」、北見枝幸「カパッシララ」など)。
『伊能中図』の「カハシラヽ」という語形は、小樽でもそういう音韻変化があった可能性を示唆しています。「川平」はこの「カパッシララ」の日本語音読地名と言えるようです。「東北弁がシ、ヒを混同した...」(『北海道の地名』)ということです。追加(2002・3・30):できの悪い生徒のように、いつも宿題を先延ばしにするのは良くないと思い、私は2002年3月28日に、上記のように当たりを付けた後、改めて山中〜赤岩へ実地検分に出かけました。まだ山道には雪が残っていて、今思えばかなり危なかったのですが、私にとっては今の季節くらいしか行くチャンスがないのです。久しぶりに山中へ行くと、昔の思い出が蘇ってきました。チャラセナイで水を水筒に入れたこともありました。もちろん疲れ果てるまで遊びました。岩でひじをすりむいたりしました。もう家族そろって海水浴に来ることはできませんが、本当に気持ちの良いところです。
いろいろ見て回りましたが、ここでは「チャラセナイ」と「川平」に注目します。チャラセナイは「carse-nay ザァっと言う・川」で、勢い良く流れる川の音を擬音語で表した地名で、かなり類例が多いです。『データベースアイヌ語地名』によると、武四郎は「チヤラシナイ」「チヤアラシナイ」、永田地名解は「チャラセナイ」。全く同じ地名が同じ小樽の張碓にもあり、ここはほとんど滝といってもいいくらい落差のある水の落ち方でした。どのくらい大きいと「ソ so 滝」と言うのか、逆に研究が必要かも知れません。
(写真1.)「チャラセナイ」と思われる西側の滝。
(写真2.)「ポンチャラセナイ」と思われる東側の川。山中のチャラセナイについて、榊原さんは「「オタモイ海岸」の東側には二筋ほどの小滝が確認出来たが(初夏)」と記しています。私が行ったのは春先で、雪解けのために水量はかなり多く、小さな滝ということで言えば、山中海岸の入り口から300メートルくらい東へ行く間に少なくとも3箇所は出来ていました。しかし、一番大きくて目立つ滝は一目瞭然で、入り口から歩いてほんの少しの所にあるもの(写真1)でした。榊原さんの記した二筋のうち、オタモイ寄りの川のことです。もう一つの方(写真2)もそれなりに大きいのですが、いわゆる「滝壷」にあたる岩場には草が生い茂っていて、それほど勢いも強くありません。対して、大きな川の「滝壷」部分は、水の勢いが強すぎるせいで流域には何も生えていないため、遠くからでもよくわかります。どちらをメインの地名に残すかというと、やはり大きな方ではないかと私は単純に考えます。
(写真3.)左端ポンチャラセナイ、右端遠くにチャラセナイが見える。このチャラセナイの位置を特定すると、続く「川平」の位置解明が楽になります。先の西蝦夷日誌の記述から、チャラセナイから二町(約200メートル)の圏内を見てみると、200はありませんがだいたい100メートルくらい離れたところ(ちょうど先ほどの小さな方の川が流れているあたりから東方向)がちょっとした小石原になっています。
その地点の海上だけは、ごろごろした磯岩が見当たらないのです。東西を見てみると、やはりごつごつした岩が海上にも岸にも目立ち、実際歩くのに苦労します(ここ以降は、久々にゴロゴロの岩場を歩き、恥ずかしい話ですがヘトヘトになりました)。ふと、その地点の海を覗いて見ると、背後の岩山から続く、コバルトブルーの平らな岩盤が見えるのです(写真4、5)。この床のような岩盤は、溶岩が溶けて固まったような、のっぺりした感じです。ここの小石原は、その岩盤上に敷き詰めたようになっていたのでした。なお、青い岩は山中海岸でよく見かける色で、赤岩の赤い岩とは対照的です。
(写真4.)「川平」と思われる場所。
青く平らな岩盤が海中に続いている。
平ら過ぎて海草が生えないところがある。
(写真5.)「川平」の岩のアップ。
私は、ここが「川平(kapassirar)」だと感じました。前の方で推論した話は的中とはいきませんでしたが、私はここに間違いないと私は思います。一万分の一の地図「小樽市街図」に載っている「川平」の位置ともほぼ合致するようです。「川平」は先に触れたようにアイヌ語地名なのですが、もし「川の近くにある平らなところ」という日本語の文字通りの意味合いも持たせた地名だと考えれば、実地検分ともぴったり合致するのです。
オタモイ海岸から赤岩海岸までの地名資料整理と、その位置の検討
ではここからは、私が知り得た限りの地名資料による、過去の語形の一覧表をとりあえず載せてみます。過去の原典の中でも一番具体的で信頼に足る『西蝦夷日誌』を基準に、アイカプからトド岩までの地名を順に並べました。『津軽図』の2、3のみ順番を入れ替えていますが、その他は資料に記載のある順番を踏襲しました。誤植と思われるものは、ヘタに直さず、とりあえずそのまま記しています。孫引きが多いのは、私の不徳の致すところです。
以下は、取り上げた資料とその略称です。
津軽図...『文化7年(1810)津軽藩旧蔵 蝦夷地図』(山田秀三氏の写しより)
西川図...西川文書の絵図類(『小樽市博物館紀要7』(1994)の引用より孫引き)
西蝦夷...『西蝦夷日誌』(松浦武四郎)
山川図...『東西蝦夷山川地理取調図』(山田秀三氏の写しより)
永田解...『北海道蝦夷語地名解』(永田方正、初版復刻版、1984、草風館)
紀要7...『小樽市博物館紀要7』「小樽市の「地名」調査概報−1−アイヌ語に由来する地名−」(石神
敏による近・現代の地名)
データ...『データベースアイヌ語地名1 後志』(榊原正文、1997、北海道出版企画センター)
その他
伊能図...『大日本沿海實測・伊能中図』(『データベースアイヌ語地名1 後志』の引用より孫引き)
廻浦...『廻浦日記』(松浦武四郎、『データベースアイヌ語地名1 後志』の引用より孫引き)
明20万...明治25年発行の『20万分の1地形図』(陸地測量部、『データベースアイヌ語地名1 後志』の引用より孫引き)
明5万...明治43/44年発行の『5万分の1地形図』(陸地測量部、『データベースアイヌ語地名1 後志』の引用より孫引き)
仮製5...明治29〜31年発行の『仮製5万分1北海道地形図』(陸地測量部、北大北方資料室にて閲覧)
現1万...『エリアマップ 小樽市(1万5千分の1地図)』(昭文社)
私の調査日は以下の通り。
第一回目 2002年3月28日 山中海岸入口から赤岩海岸(「ワタラ」手前)まで
第二回目 2002年5月13日 オタモイ海岸(「シュプンモイ」手前)から赤岩海岸(「ぽん赤岩」手前)まで
津軽図 | 西川図 | 西蝦夷 | 山川図 | 永田解 | その他 | 紀要7 | データ | |||
1. | アイカツフ | アイカフ | アイカツプ (岩岬) |
アイカフ | Aigap (能ハズ) |
アイカイフ【伊能図】 アイカツフ【廻浦】 アイカフ崎【明20万】 |
あいがっぷ | aykap (出来ない) |
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【浜田】 「アイカプ aykap 行き止まり」 (執筆予定) |
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津軽図 | 西川図 | 西蝦夷 | 山川図 | 永田解 | その他 | 紀要7 | データ | |||
2. | フヨマシラヽ | フエオマエ | フヨマシラ (大穴岩の義か) |
- | Pui oma shuma (洞岩) |
フユマシララ【伊能図】 フヨマシラリ【廻浦】 窓岩【現1万】 |
窓岩 | puy-oma-sirar/suma (穴・ある・岩) 窓岩 |
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【浜田】 「プヨマシララ puy-oma-sirar 穴・〜についている・岩」 「プヨマスマ puy-oma-suma 穴・〜についている・岩」 「プヨマイ(プイオマイ) puy-oma-i 穴・〜についている・所」 (執筆予定) |
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津軽図 | 西川図 | 西蝦夷 | 山川図 | 永田解 | その他 | 紀要7 | データ | |||
3. | シユツモイ | シエフノモイ | シユブンモイ (二八多し) |
シユフフモエ | - | シユフントマリ【廻浦】 | 中の浜 | sup-un-moy (渦・ある・入り江) |
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【浜田】 「スプモイ sup-moy 渦・湾」 「スプンモイ sup-un-moy 渦・〜に入る・湾」 「スプントマリ sup-un-tomari 渦・〜に入る・港」 (執筆予定) |
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津軽図 | 西川図 | 西蝦夷 | 山川図 | 永田解 | その他 | 紀要7 | データ | |||
4. | モヲタモイ | ヲタモエ | ヲモタイ | ヲタモエ | Ota moi (沙湾) |
ヲタモイ【廻浦】 ヲタモイ【仮製5】 オタモイ海岸【現1万】 |
オタモイ | ota-moy (砂浜の・入り江) オタモイ |
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【浜田】 「オタモイ ota-moy 砂・湾」 「モオタモイ mo-ota-moy 小さな・砂・湾」
オタモイ海岸の代表的な地名であり、小樽市で唯一現存するカタカナによるアイヌ語地名です。私は子供の頃、山中に行く途中に何度もこのカタカナ地名に触れ、ただの地名ではないなと言うことを何となく認識していました。その意味で、私がアイヌ語地名に興味を持つ原点だったと言えるかも知れません。 さて、このオタモイは、アイヌ語解釈としては全く簡単な部類に入り、類例も多い地名です。過去の地名解も軒並み同じ解釈で、何の疑問も湧きません。よって問題は位置の確認に絞られますが、これも現地に行けば一目瞭然で、駐車場から断崖絶壁に空けられた通路(写真1、2)を恐る恐る伝って、現在「オタモイ地蔵」が祭られている丘まで行き、その下を見るとやはり小さい砂浜が広がっています(写真3)。下りて見ると、そこには漁師の舟が泊められていました。その辺りから、上の丘と荷物を運ぶトロッコを上げ下げしていた(いる?)らしく、ワイヤーが繋がれていました。 |
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津軽図 | 西川図 | 西蝦夷 | 山川図 | 永田解 | その他 | 紀要7 | データ | |||
5. | フクシカタウシ | ホクシヤタウシナイ | ホクサタウシ (沙濱) |
- | Pukusa ta ush nai (葱ヲ採ル澤) |
プクサタヲシ【仮製5】 | プクサタウシ | - | ||
【浜田】 「プクサタウシ pukusa-ta-us-i ギョウジャニンニク・〜を掘る・いつも〜している・所」 「プクサタウシナイ pukusa-ta-us-nay ギョウジャニンニク・〜を掘る・いつも〜している・沢」 西蝦夷日誌によると、「ヲタモイ、(七町五十一間)ホクサタウシ(沙濱)」と書かれています。(註:原文では「ヲモタイ」となっていますが、どう考えてもケアレスミスと思われます) 上の項でのオタモイの位置(もと竜宮閣跡の西側にある、この辺りで唯一のちゃんとした砂浜)から700メートル過ぎということですから、おそらくオタモイの駐車場の東辺りにある沢を指しているのではないか、と私は最初に考えました。2002年5月13日に改めて確認してみましたが、この辺りにプクサは生えていませんでした。確かに沢はありますが土くれが剥き出し、硫黄の匂いがする「クズレ」のような所で、かなり上まで上らないと草一つ生えていない状況です。この辺りは昭和初期の「オタモイ遊園地」のあった場所の下ですが、山崩れで多くが流されたと聞いておりますので、植生の確認は少し困難かも知れません。 だいたい、よく考えてみると、西蝦夷日誌の記述では「ホクサタウシ(沙濱)」となっている点が非常に気がかりです。ここまでが忍路領の境で、次が高島領となっている点を考えても、次項の位置と矛盾(前後)することになってしまいます。「竜宮閣」のあった断崖絶壁は、海岸伝いにさくさくと歩けるような場所ではなく、ここが領境であったと思われるので、ホクサタウシはこの断崖絶壁より忍路側になければならない、と私は考える事にしました。 ではどこがホクサタウシなのか。残念ながら私はまだ分かりません。ギョウジャニンニクの自生をどこかで確認しなければいけないのですが、少なくとも海岸伝いに見ていった限りでは全く確認できませんでした。七町五十一間(750メートルほどか)という距離に惑わされてしまいましたが、何も植物など生えていなさそうな海岸を無理やり渡る必要はなく、オタモイの砂浜からオタモイ地蔵の丘をさらに山の方へ入っていけば、あるいは答えが見つかったかも知れません。山の方は緑が豊富、小さいながら畑があったりしました。ただ、今回の調査では海岸に意識が集中していて、そこまで頭が回っていませんでした。ここは次回の宿題にしたいと思っています。 もちろん地名位置の確定は懸案事項ですが、それ以外にここで特に注目したいことがあります。それは方言の問題です。 プクサ pukusa(ギョウジャニンニク)という単語を使うのは、沙流や幌別など主に南北海道の地域で、それ以外の地域ではキト kito(ギョウジャニンニク)という言葉になるという、いわゆる方言差があるのです。ちなみに旭川(石狩方言)ではキトを使います。キトウシ kito-us-i やキトタウシナイ kito-ta-us-nay といった地名も多いのです。 小樽ではどちらを使ったのか、私はよくわかりません。小樽方言の研究は遅れている(というか今やほとんど不可能に近い)と思うのです。この地名から、アイヌ語小樽方言ではギョウジャニンニクをプクサと言ったらしい?と仮定したいところですが、実は永田地名解の小樽関連地名に「Kitu esan nai」(朝里川の支流)「Kitu ush nupuri」(天狗山)という例がありました(永田地名解ではキトが「キトゥ」と誤認されている場合があり)。キトだと、「地理的に見て石狩方言の影響を受けているのではないか」という今までの私の見方と合致することになります。 考えてみれば、「小樽方言」とアイヌ語の傾向を一つにくくってしまうことは、少し乱暴でした。まず、今は「小樽市」の中であっても、昔は別々の郡(小樽内、高島、忍路)でありました。朝里・星置側は札幌方面(石狩・キトを使う)、赤岩・オタモイ側は南方面(虻田や長万部・プクサを使う)と、それぞれ繋がりがあったと考えてもおかしくありません。そもそも川筋が違うだけで方言も違うとすら言われる、アイヌ語研究の難しさがここにも現れていると感じました。 (追加執筆予定) |
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津軽図 | 西川図 | 西蝦夷 | 山川図 | 永田解 | その他 | 紀要7 | データ | |||
6. | - | - | イクシタ | - | - | - | - | |||
【浜田】 「イクシ タ i-kus
ta (その)向こう側に」? 西蝦夷日誌によると、「タカシマ領」の書き初めで「イクシタ、(一町廿三間)モイ(小湾)」と書かれています。 私には、地名というよりも「句」に見えます。オタモイの砂浜から東を見ると、昔に竜宮閣が建っていた岬のあたりが蔭になって、そこから東側の海岸は隠れてしまいます(写真1)。そのため、その岬を境にしてたまたま「あちら側には...」などと言っていたのでは。他の資料に記載がないことなどから、とりあえずそう考えておきます。 なお、『北海道の地名』奥尻島の項によると、武四郎の郡名建議書に「ヲクシリはイクシリの転語。イクはイクシタ(向こう側)の略。シリはモシリ(島)の略にて、此の向島の儀」とあります。 追加:新たに疑問が湧きました。それは、武四郎たちがどうやって竜宮閣の岬(写真1、2)を渡ったのかということです。西蝦夷日誌にはそういう記述がありませんが、ホクサタウシの項で書いた通り、ここをただ歩いて渡るのはかなり大変そうに見えます。この岩崖さえどうにか越せば、後は楽に歩いて行けるのですが、実際、私は怖くてできませんでした。今でこそこの断崖絶壁の上に刳り貫かれた洞穴や橋が通り、そこを伝って駐車場の方へ歩いて行く事ができますが、これは竜宮閣建設時の道で、江戸時代にはなかったはずです。さりとて、西蝦夷日誌には山越えをしたという記述がなく(彼の資料の常として、回り道をしたらそのように書いてあるはずです)、やはり海岸を通って行ったのではないかと考えられます。
すると、イクシタにはもう一つ考えられる解釈が出てきます。 追加(2004-2-14): イクシタとは結局何を指して言ったのでしょうか。私はやっと自分なりの結論に達しました。 今までうかつにもそういう考えが及ばなかったのですが、イクシタがここだと仮定すれば、先の解の印象はかなり具体的なイメージを持つことになります。つまり、「人」ではなく「舟」が板を通るのです。 【浜田】 「イクシタ i-kus-ita もの・〜を通る・板」(もの[舟]がそこを通る板) 写真中央、ちょっとわかりづらいですが漁師の舟と、その舟を海上に進水させるためのハシゴのような木の枠(レール)があります。昔の木の小舟は、今のヨットなどと違って海に浮かべたままではやがて腐ってしまうので、長いこと乗らないときはかならず海から上げたはずです。あの恐ろしげな崖に橋を渡すことはかなり難しそうですが、この「木のレール」のことをイクシタと言ったのだとすれば、ようやく私の疑問が解けることになるのです。 |
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津軽図 | 西川図 | 西蝦夷 | 山川図 | 永田解 | その他 | 紀要7 | データ | |||
7. | モイ | モエ | モイ (小湾) |
- | - | モイ【仮製5】 | - | - | ||
【浜田】 「モイ moy 湾」
西蝦夷日誌で、このあたりの説明をもう少し長く引用してみます。「イクシタ、(一町廿三間)モイ(小湾)、此所岬有。往昔はここを以て境目となせし由。ホイシリハ、(ならびて)ホンムイ(小澗)...」。イクシタが前述の通りと仮定すると。そこから100メートルあまりは、写真のような湾が続きます(写真1、2)。 オタモイの項でも明らかなように、アイヌ語で「モイ moy」は「湾」という意味で、いわば基礎単語です。地名解はこのようにごくごく簡単ですが、ポイントは、西蝦夷日誌の記述で「境目」になっていたという岬です。私は、写真1でよくわかる小さい岬がそれに当たるだろうと思います。場所的にも、このモイ(湾)の途中にぽつねんと存在する岬はピッタリだと思いますし、次項「ポイシリパ」以外の岬はこれしかないのです。 |
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津軽図 | 西川図 | 西蝦夷 | 山川図 | 永田解 | その他 | 紀要7 | データ | |||
8. | - | - | ホイシリハ | - | - | モイ崎【仮製5】 モイ崎【明5万】 |
- | - | ||
【浜田】 「ポイシリパ poy(pon)-sirpa 小さい・岬」
前項「モイ」が過ぎると、また岬になります。しかも今度は、山の尾根部分とほぼ一体になっています(写真1、2)。余市のシリパ岬などと比べると全く小規模ですが、この地形は「シリパ sirpa 岬(大地の頭)」と言って良いと思われます。これに「ポン pon 小さい」が付いて、音韻転化Cにより「n + s → y + s」となって「ポイシリパ poy sirpa」となります。「私のアイヌ語地名解1」のフゴッペの解で登場した「ヘサキ<hesankei 頭を浜の方に出す者」と外見的に違うのは、ヘサキほど山の一部が半島のように思い切り海にせり出してはいないことですが、「シレトゥ sir-etu 大地の先端」との使い分けとともに、今後もっと多くの用例を確認しなければなりません。 さて、ここでなぜ「pon 小さい」が付いているのか、実はよくわかりません。次項「ポンモイ」は、前項「モイ」の小さいものと見れば解決しますが、少なくともこの辺りの地名としては、比較の対象が現れていないのです。まあ、先の竜宮閣の恐ろしい崖に比べたらかわいい地形だし(もちろん歩いて向こう側に通行できます)、ポンモイがすぐ後に続くため、この岬も単に「小さいもの」として認識されたと見るのが妥当かと思うのです。 |
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津軽図 | 西川図 | 西蝦夷 | 山川図 | 永田解 | その他 | 紀要7 | データ | |||
9. | ホンモイ | - | ホンムイ (小澗) |
- | - | 山中 | - | |||
【浜田】 「ポンモイ pon-moy 小さい・湾」
ポイシリパを越えると、写真のように小さい湾があります。地名解は記している通りで、特に付け加えることはありません。この湾を越えると、地元の人ならわかる「山中海岸」の入り口付近にたどり着くのです。オタモイから山中まで歩くのは、まあまあ良い運動になりますが、そこからさらに赤岩海岸まで歩くとなると、私のような運動不足の人間にとってはかなりの労働になります。 |
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津軽図 | 西川図 | 西蝦夷 | 山川図 | 永田解 | その他 | 紀要7 | データ | |||
10. | チヘトイ | - | チハトイ | - | - | - | - | |||
【浜田】 「チパトイ cip-at-o-i 舟・綱・〜に付いている・所(舟の綱がそこに付いている所)」
西蝦夷日誌によると、「ホンムイ(小澗)、チハトイ、(八町廿間)チヤラセナイ」と書かれています。 ただし、この辺に特に綱が多いというわけでもないので、きちんとした証明にはなりません。後の裏付けが必要になりそうです。なお、西蝦夷日誌の書き方によれば、このチパトイと次の11.チャラセナイの間にある「山中海岸の入り口」は、特に何の地名も付いていないことになります。山中には昔、小さい村があったそうなのですが、今は家が建っていたと思われるいくつかの跡と、漁師の舟が一艘あるだけです。山を登り切ったところには神社の鳥居、建物、お地蔵さんの列があります。また、私が子供の頃は、山中海岸の入り口付近にも小さな祠か何かが建っていたように記憶しているのですが、うろ覚えです。江戸時代の地名から辿れる「山中」はここまでですが、山中の「村」としての具体的な歴史や、周辺地域の歴史との関連がわかれば、さらに面白い発見があるかも知れません。 |
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津軽図 | 西川図 | 西蝦夷 | 山川図 | 永田解 | その他 | 紀要7 | データ | |||
11. | チヤラシナイ | - | チヤラセナイ | チヤラシナイ | Charase nai (小瀑) |
チヤアラシナイ【廻浦】 | ちゃらつない | charse-nay (ザァーッという (滝状の)・川) |
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【浜田】 「チャラセナイ carse-nay ザァっと言う・川」 上記「川平」についての随筆参照。 |
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津軽図 | 西川図 | 西蝦夷 | 山川図 | 永田解 | その他 | 紀要7 | データ | |||
12. | ホンチヤシナイ | - | - | - | - | - | - | |||
【浜田】 「ポンチャラセナイ pon
carse-nay 小さな・チャラセナイ」 上記「川平」についての随筆参照。 川平の近くの、小さな滝のことを指していると思います。 |
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津軽図 | 西川図 | 西蝦夷 | 山川図 | 永田解 | その他 | 紀要7 | データ | |||
13. | カバシラ | カワシラ | カワリシラヽ | カハリシラリ | Kapara shirara (磯岩) |
カワシラ【仮製5】 カウシラ【明20万】 |
かわひら | kapar-sirar (平たい・(海中の) 波かぶり岩) |
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【浜田】 「カパラシララ kapar-sirar 薄い(平らな)・岩」 「カパッシララ kapassirar」(音韻変化形) 上記「川平」についての随筆参照。 |
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津軽図 | 西川図 | 西蝦夷 | 山川図 | 永田解 | その他 | 紀要7 | データ | |||
14. | ノテツ | - | - | - | - | - | - | |||
【浜田】 「ノテトゥ not-etu 岬・〜の先」
古い資料で、地名が記されている順番は重要な手がかりです。 |
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津軽図 | 西川図 | 西蝦夷 | 山川図 | 永田解 | その他 | 紀要7 | データ | |||
15. | ケトチ | - | ケトヂ | - | - | - | - | |||
【浜田】 「ケトゥンチ ketunci 毛皮を広げて干した物」
この特異な語形から判断できるアイヌ語は、妙にこじつけなければ、かなり限られてしまいます。 |
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津軽図 | 西川図 | 西蝦夷 | 山川図 | 永田解 | その他 | 紀要7 | データ | |||
16. | ヲタ子ウシ | - | クツタラシ (*1)ワッタラシ |
- | - | - | わたりし | - | ||
【浜田】 「オタネウシ ota-ne-us-i 砂・〜状になる・〜のが常である・所」 「クッタラシ kut-ta-ras 崖・にある・割り端」 註:(*1)紀要7の引用での形。執筆者が誤植だと判断した語形。 二つの文献で、それぞれ違う語形になっていて、私も検討にかなり時間が掛かった地名です。
この位置の見方が正しければ、20.の大岩(私の説で言うワタラ)のことを「渡り石」と呼んだという新たな推論が可能になってきます(写真1)。そこは実際、大岩を渡らないと向こう側に行けないような場所です。ワタラは日本語「渡る」を連想させ、さらに後に紹介するオワタラウシというアイヌ語地名の音も「渡り石」という日本語にたまたま似ているため、そのような俗解釈が生まれたのではないかと私は考えます。よって、「ヲタ子ウシ」と「クツタラシ」の解釈は、改めて「わたりし」とは切り離して検討しました。 長々と「ワタリシ」のアイヌ語解釈を否定してきましたが、すると「ヲタ子ウシ」と「クツタラシ」はどういう解釈になるのでしょうか。最初私は、単純に語形から類推して「オタッニウシ o-tatni-us-i 〜の尻・樺の木・〜に生えている・所」「クッタルシ kuttari-us-i イタドリ・〜に生えている・所」と考えていましたが、どうやらそうではないようです。二度目の調査(2002年5月)でケトゥチから「青い岩塔」までの間に生えている「植物」に注目して歩きましたが、「kuttar イタドリ」も「tatni 樺の木」も全く確認できませんでした。 少し場所は飛びますが、現在の小樽市入舟町にある運上屋跡地(旧名「クッタルシ」)が西蝦夷日誌ではきちんと「クツタルシ」と記されていて、「此処則虎杖《クツタルウシ;いたどり》多き故号《なづ》くなり。」とあり、明らかに武四郎はその意味をわかって書いています。(クツタラシという語形で残る kuttar-us-i も他所にあるようですが)「クツタラシ」とのみ記し、他に何の注釈も記さなかった西蝦夷日誌の記述は、当時そこを実際に歩きながら書いた武四郎にとって、虎杖の解釈では捉えられなかったという事ではないでしょうか。今生えていない、昔生えていたことを証明もできないとすれば、これらの植物を表す言葉を地名解に取り入れるのは、その厳密性を危うくします。植物から頭を切り替えて、違う解を考える余地があると思いました。 さんざん考え、二年近くも考えた挙げ句、私はクツタラシを冒頭の解釈「クッタラシ kut-ta-ras 崖・にある・割り端」に変更しました。普通、格助詞として使われる「タ ta 〜に、で」ですが、これには日常会話の用法以外に、動詞を使わずに名詞の位置または従属関係を表す「連体詞的な用法」もあります。例:「cise-ta-tures 家にいる妹」。地名小辞典にも「nay ta yupe 川にいるサメ(チョーザメ)」などの例があります。「kut」は祝津の解でも出てきた「帯状の崖」、「ras」は木っ端などの切れ端を表します。ここは、「赤岩山鳥瞰図」で言う「赤黄のガレ」の崖から海岸まで一直線に下がる、細かい岩の破片(写真2)がそれに当たるのではないかと考えました。 この解が正しいとしても、まだ疑問は半分しか解決しません。そこで、津軽図の「ヲタ子ウシ」の解釈です。「クツタラシ」と同じ場所・同じ光景を、別の言い方で表現したと仮定して解釈し直すと、冒頭の「オタネウシ ota-ne-us-i 砂・〜状になる・〜のが常である・所」という解釈になりました。オタは「砂」以外の何物でもないため、この解釈は一見突飛に思われますが、「ガレ」は、崖から崩れた岩がバラバラになって落ちた跡という光景に見て取れるため、岩が細かく砕けた様を「砂のようになる」と解釈したのではないかと思いました。 |
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津軽図 | 西川図 | 西蝦夷 | 山川図 | 永田解 | その他 | 紀要7 | データ | |||
17. | ヒルカハツカ | - | ヒルカワツカ (小川) |
- | - | ぴりかの水 | - | |||
【浜田】 「ピリカワッカ pirka-wakka きれいな・水」 赤岩海岸の地名調査において、20.「ワタラ」とともに恐らく最も重要なポイントになるのが、この「ピリカワッカ」という地名です。まずは地名解釈についてですが、アイヌ語の初心者でも、このくらいは何となく察しがつくでしょう。きれいな水、つまり飲むことのできる水を指しています。 語形上で注意したいのは、『津軽図』『西蝦夷日誌』が二つとも「ヒルカ」と記していることですが、「pir」というような末尾が「r」の閉音節は、必ず前の母音を引きずって発音するというものではありません。時と場合によって、また話者や聞き手によってその捉え方は異なるのです。現在普通には「ピリカ」または「ピリカ」と聞こえることが多いのですが、昔の資料や地名を見ていくと「ピルカ」と聞こえる場合もあったらしいのです。 さて、言葉としてはこれでいいのですが、位置の特定となると多くの問題が出てきます。 まず、最低限の調査として、それが飲めるかどうかについての問題です。私は、「私のアイヌ語地名解1」で、チエトイについて「いやしくもシビアな学問ならば、食べられるかどうかの確認は当然必要である」と偉そうに主張しました。そこで、二度目の調査では、発見した川の水を手当たり次第に口に含もうとしました。しかし、現在は「エキノコックス」などの病気が川から蔓延することが考えられています。飲めるかどうかを確認した挙句、深刻に健康を害するのもつまらないと思うのです。しかし幸いにして、私の過去の体験や、赤岩山鳥瞰図での情報から、飲める水がどこにあるかは察しがついています。 そこでもう一つの問題が出ます。実はその飲める水というのが、前項や前々項とかなり離れた、20.の「ワタラ」寄りの海岸(海岸入口から50メートルほど東寄りか)にあります。今まで見てきた地名・これから出てくる地名の位置や順番と、明らかに矛盾するのです。赤岩に一度でも行った人は知っているはずですが、赤岩海岸入口に到る山道の最初に、鳥居で囲われた水飲み場があります。この水が流れて行く先が、その川(仮にAと呼称しましょう)なのです。 ただしこのAは川といってもかなり小さくて、水量も少ないため気がつかない人もいます。私は学生時代、赤岩海岸での密漁監視のバイト中、喉が乾いて難儀していた時、Aのあたりの石原を掘って、石の下に流れる小さな水脈を探し当てた経験があります。何とか水筒ですくえる程度の落差しかないため苦労しましたが、意外に冷たい水でおいしかったのです。 私がそうしていた当時(1980年代)は、多少の違和感はあるもののごくごく飲める水でしたが、5月の二度目の調査でAの水を口に含んで見た所、すっぱくて勢いよくは飲めない水になってしまっていました。理由はわかりません。山の上にある鳥居の水飲み場の水は、それから比べると鉄臭い酸味が抜けてまあまあ飲めなくもありませんが、やはり昔より少し飲みにくくなった気がします この赤岩海岸には、決してA以外に川がないわけではありません。今まで見てきた地名の位置から言えば、赤岩山鳥瞰図が「飲用不適」と記している川(仮にBと呼称しましょう)の方が近いのですが(これはさすがに怖くて飲めませんでした)、それでも次項「フレチシ」の位置の後にあるもので、順番が前後してしまいます。Bが「ピリカワッカ」である可能性はなさそうです。 私が考えた仮説が二つあります。先の「ケトゥチ」で二つの苔むす場所のことに触れましたが、そのうち東側の方には若干の水の流れがあります(仮にCと呼称しましょう)。昔はもっと水量が多くて飲み水が取れるほどであり、このCのことを「ピリカワッカ」と言ったのではないかというのが仮説1。このCは、もちろん19.「フレチシ」よりも西側にあることが確認できています。 仮説2は、AもCも両方とも「ピリカワッカ」であること。何故なら、紀行文である『西蝦夷日誌』の地名順は動かせませんが、『津軽図』は必ずしもそれと対応しているとは限らないからです。『津軽図』には「ワタラ」の記述がなく、19.「フレチシ」の次がいきなり24.「メナシトマリ」ですから、『津軽図』で登場するフレチシが「ポン赤岩」または「下赤岩山」の事だった可能性も棄てきれないのです。仮にそうだとすると、『津軽図』の「ピリカワッカ」がAのことであっても不思議はありません。 どちらの仮説にしても、Cまたはその近辺に「ピリカワッカ」に当るものがないと、『西蝦夷日誌』の記述を信頼する上で非常に困るのです。まだ結論は出ていないので、これからも検討を続けます。 追加(2004-5-21): 見直しNEW!! おととい(5-19)、赤岩の歴史解明にとって重要なニュースが飛び込んできました。私は今まで詳細不明のためあまり言及しませんでしたが、明治の一時期に営業していたという伝説の「赤岩温泉」の位置が判明したというニュースが、北海道新聞の地方版に載ったのです。地元の登はん家の方による大発見でした。しかも、その位置というのが、ちょうど私がこの項「ピリカワッカ」で検討していたCのあたり(「海岸入口からおよそ300メートル」とのこと)ではないかと思われるのです。泉質は鉄鉱泉ということで、先のケトゥチなどに生えている苔は、この鉄鉱泉を源に生えたものだったのではないでしょうか。 今でも鉄鉱泉のわき出す水たまりのような写真が、上記の記事に載っていましたが、建物などの跡は見つからなかったと言います(もしそんな決定的なものがあったら、私も二度の調査でさすがに気付いたはずです)。私が持っている『写真集 明治大正昭和 小樽』(小樽市談会編)の「赤岩温泉」の写真と、過去の調査で撮影したC周辺の写真とを今改めて見比べてみると、確かに海岸線や山の形が似ています。いずれ、改めて私も確認しに行きたいと思います。 『写真集 明治大正昭和 小樽』によると、「那須火山帯の赤岩海岸は、温度は低かったが温泉が出た。明治の末頃ここに温泉境を造ったが、裏の崖は風雨のためくずれ、建物が破損して閉鎖された」とあり、少なくともこの時代と今の景色は少し変わっていることを考慮に入れなければならないようです。つまり、以前はもっと湯量がたくさんあったのに、崖崩れや温泉境の撤去に伴い、ピリカワッカだったところがふさがってしまい、わずかを残してほとんど水の流れが無くなってしまった、と考えるのが妥当ではないでしょうか。 なお、アイヌ語「ピリカ」は意味の広い言葉で、一般に「良い」「美しい」ことを漠然と表すものですから、これだけではただ見た目が美しいのか、食べ物や飲み物がおいしいのか、人間にとって役に立つのか、判別できないことがあります(参考までに、十勝・本別の澤井トメノさんの言葉などでは、特に見た目の良さを表す言葉に「ナンカンテ nankante」という別語もあります)。赤岩温泉がここであったという報告により、鉄鉱泉のまわりに生える苔や色を成す岩(ケトゥチ参照)のことを、ただ美しい・きれいだと思って付けた名である可能性も出てきました。「水」がピリカするのなら間違いなく「飲み水だ」と考えたのは私の失敗だったのかも知れませんし、さにあらず、ひょっとしたら温泉境閉鎖以前はおいしく飲めたのかも知れません。 |
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津軽図 | 西川図 | 西蝦夷 | 山川図 | 永田解 | その他 | 紀要7 | データ | |||
18. | ウコロシケ | - | - | - | - | - | - | |||
【浜田】 「ウコロシケ ukor-sike 結婚する・荷物」 『津軽図』にのみ登場するこの「ウコロシケ」は、地名解に少し自信がありません。何故自信がないかというと、前の項目で触れた通り、「ピリカワッカ」の位置を確定しないと肝心の「ウコロシケ」の場所がわからないからです。よって、ここではあくまで試みとして、地名解の可能性を探っていきます。 もし「ピリカワッカ」の位置が仮説2のAであるならば、ウコロシケの位置はそこより東側、20.「ワタラ」の周辺から22.「赤岩」までと言うことになります。また、仮説1や2で予想されるCであるならばもっと範囲は広がり、19.「フレチシ」の周辺から22.「赤岩」までの、一キロ以上つづく海岸のどこかということになります。 私は「ウコルシケ ukor-uske セックスする・所」という試案を最初に考えました。単純に音から「ウコロ ukor 結婚する/性交する」という動詞を思いついたのです。語形から言えば、「u と o の混同」という転化のくせを考えれば何とか理解できます。下品な言葉ではなく、普通に「結婚する」という意味ですが、「u-kor お互い・を持つ」という意味深な語源から「雄と雌が交尾する」(萱野辞典)というきわどい意味でも使います。例えば「青い岩塔」の裏側や「ワタラ」の裏は奥まっていて、反対側からは見えないところです。そういう人目につかないところでペケペケ...ということは考えられないでしょうか。ただし、「ワタラ」の裏はかなり崖が崩れていて危なそうな上、ゆったり休める所ではなさそうなので、候補としては弱そうです。そもそも、こんな恥ずかしい地名を和人の、しかも赤の他人に話すかどうか、少し疑問があります。 次に検討したのが「ウコロシキイ u-ko-roski-i お互い・に・座る?(複数)・所」という試案でしたが、実は私もうっかりしてまして、「ロシキ roski」の意味を完全に取り違えていました。これは「座る(ア a)」の複数形ではなく、「立つ(アシ as)」または「立てる(アシ asi)」の複数形でした! 友人の指摘で発覚したもので、愚かにも今まで誤りに気づきませんでした(ちなみに座るの複数形は「ロク rok」)。穴があったら入りたいくらいです...。座るのに適している、ゴロタ浜のような海岸が比較的続いているため、いい案だと思っていたのですが、意味が違っていてはお話になりません。 そこで、その単語の意味だけを訂正すると「ウコロシキイ u-ko-roski-i お互い・に・立つ(複数)/立てる(複数)・所」(みんなで立つ/立てる所)となりますが、これでは意味の上から地名として残す意味が疑問になります。立つ物が「岩」ならば、この海岸にはそういう場所がたくさんあり、今一つピンと来ません。よって、議論は白紙状態、全く別の解を模索しなければなりません。 いろいろ考えて、次にひねり出したのが「ウクルシケ ukur-us-i-ke タチギボウシ(植物)・〜に生える・所・(場所名詞につく接尾辞)」という試案でした。分類アイヌ語辞典植物篇によると、「ウクルキナ ukur-kina タチギボウシ」は、昔は食用となったり濁酒の材料になったりしたそうです。これが地名に出てきた例が『北海道の地名』にあり(ウクルペッなどの形)、今までさんざん出てきた「u と o の混同」を少々都合よく考えれば、不可能な解とは言えません。しかし、この植物が実際に生えているかどうかを確認しなければなりません。検討に長い時間が掛かりましたが、無理だとわかりました。目立った植物が生えていないのが、この海岸の特色なのです。 私は、今年(2004年3月)こそは自分で一応納得できる解を見つけようと頭をひねりました。そしてふと気付きました。いろいろ語形をいじって検討して完膚無きまでに全滅したので、いっそ『津軽図』の語形そのままで検討したらどうかと。 (追加執筆予定) |
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津軽図 | 西川図 | 西蝦夷 | 山川図 | 永田解 | その他 | 紀要7 | データ | |||
19. | フレチシ | - | フレチシ (大赤岩) |
- | - | 赤岩【現1万】 | ぽん赤岩 | hure-chis (赤い・立岩) 下赤岩山 |
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【浜田】 「フレチシ hure-cis 赤い・立岩」
この赤岩海岸の代表的な地名ですが、意外にも位置確定にかなり悩んだ地名です。 |
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津軽図 | 西川図 | 西蝦夷 | 山川図 | 永田解 | その他 | 紀要7 | データ | |||
20. | - | - | ワタラ (大岩岬) |
ワタラ | Seta watara (犬岩) |
オワタラウシ【伊能図】 ワタリシ【仮製5】 ワタリシ【明20万】 |
- | o-watara-us-i (そこに・海中岩・ 付いている・もの (海岸)) トド岩 |
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【浜田】 「ワタラ watara 大岩」 「セタワタラ seta watara たいしたことない・大岩」 「オワタラウシ o-watara-us-i 〜の尻・大岩・〜に付いている・者」 「ワタリシ WATARISI 渡り石」
「ワタラ」の各地の類例の検証など、未だ研究が必要だと思いますが、私は「下赤岩山」の海岸下にある大きく丸っこい青い岩が、このワタラだと考えます(写真1、2)。 |
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津軽図 | 西川図 | 西蝦夷 | 山川図 | 永田解 | その他 | 紀要7 | データ | |||
21. | - | - | ハンタカイシ | - | - | - | - | |||
【浜田】 「ハンタカイシ hantaka-isi 裸・石」 『西蝦夷日誌』の謎の地名と言ってもいいと思うのが、この「ハンタカイシ」です。「ワタラ」(前項)を過ぎると、海上に海鳥の糞で白っぽくなった岩がありますが、私は最初ハンタカイシがこれのことではないかと考え、「パンタカイシ pan-takaisi 色が薄い・鷹石」という試論(和語との折衷という反則っぽい解釈)を考えました。語尾の「イシ」という形は、「熊石」などの地名で見られるように「us-i 〜に付いている・所」の訛りであることが多いのですが、この辺には目立つ植物などもないみたいなので、語形の検討の結果、一旦はこういうことになったのです。 その後、これじゃあんまりだと悩み、いろいろ無い知恵をひねってみました。しかし、このハンタカイシが一体何を指した地名なのか、地名の出現順以外にはほとんど手がかりが無いのです。『西蝦夷日誌』以外の資料にこの地名が見当たらないのも、検討の可能性が広がらない要因です。『西蝦夷日誌』の記述を見ると「ワタラ(大岩岬)、此上を赤岩山といへるなり。惣て草山にて樹木一本もなし。ハンタカイシ、ならびて赤岩」とありますが、この「赤岩」(次項)の位置を検討した結果、それは上記の糞だらけの岩(「ポン赤岩」とか「三角岩」とか呼ばれる岩)と私は仮定しました。そうだとすると、ワタラと赤岩の間には、磯岩の立ち並ぶ海岸か、または下赤岩山のごつごつとした光景があります。海と山のどちらに注目するかでかなり違った案になってきます。 少しでもアイヌ語で可能性のある言葉を当てはめようとして全て挫折した結果、「いっそのこと、徹底的に日本語で考えたらどうだろう」と思って作った試案が、冒頭の「ハンタカイシ hantaka-isi 裸・石」なのです。 日本語とアイヌ語の発音は、似ているようでかなり違う特徴があります。アイヌ語地名を和人が「和人訛り」するのと同じように、日本語をアイヌ語風に発音した場合にも訛りが起こる事があります(必ずそうなるとは言えませんが)。常に開音節が連続するような日本語は、閉音節を交えてリズムを作るアイヌ語話者には言いづらいこともあるらしく、間に「n」を入れる事で言いやすくする例があります。田村辞典の例で言えば、「アシンガル asingaru 足軽」「ウンマ unma 馬」「クンキ kunki 釘」「タマンコ tamanko 玉子」「タンパク tanpaku たばこ」「ハンカネ hankane 鋼」「ピントロ pintoro ガラス(ビードロ)」「ムンキ munki 麦」など、枚挙にいとまがありません。こういう発音の癖があるので、「はだか」が「ハンタカ」になることは不思議ではありません。 では何が「裸の石」なのかと言えば、「ワタラ」の上から望む下赤岩山の草木も生えない岩山の光景(写真1)ではないかと考えました。しかし、この「裸」という意味でのアイヌ語が無いわけではなく、ちゃんと「アトゥサ atusa 裸である」という単語があります(例:アトゥサヌプリ atusa nupuri 裸の・山)。どうしてこちらを使わなかったのかは分からないので、この説には少し難があるかも知れません。 また、「石」という言葉も今一つイメージが湧きません。ただ、日本語の「石」とアイヌ語の「スマ suma 石」は、一見対応しているようですが実はアイヌ語の方が意味が広く、私たちが「岩」と呼ぶような大きなものでもスマと言うことができます。アイヌ語の「スマ」の感覚で、「イシ」という言葉を下赤岩山に対して使ったのではないかと考えてみました。 今のところの私の案はこの通りですが、まだ理論武装が充分ではないので、引き続き検討していきます。
追加: 松浦武四郎の古文書解読の第一人者・秋葉實氏の編著『植物名一覧』(松浦武四郎翁著作より、北海道出版企画センター)によりますと、「あかぬまらん」「ちどりさう」(ラン科の植物)の項に「ハンタカ」という草名が見えました。ただし、その他の辞書資料にこの名はありません。もしこれが成り立つならば、「hantaka-us-i ちどりそう・〜に生えている・所」という別解を考えてもいいことになります。 |
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津軽図 | 西川図 | 西蝦夷 | 山川図 | 永田解 | その他 | 紀要7 | データ | |||
22. | - | - | 赤岩 | - | - | - | →19 | |||
【浜田】 「赤岩(日本語)」 (写真.)白っぽい海中の岩が、ここでの「赤岩」と思われる「ポン赤岩」。 この写真では分からないが、裏にもう一つ小さな岩がある。 遠くに「とど岩」が見える。 『西蝦夷日誌』では「ハンタカイシ、ならびて赤岩、ならびてノテド(大岬)」となっています、この書き方から見て、少なくともここでの「赤岩」という地名は、特に「下赤岩山」を指した言葉ではないと思われます。ワタラのところで既に説明した、頭上に聳える下赤岩山のことを、わざわざ改めてこんな風に言うまでもないからです。 |
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津軽図 | 西川図 | 西蝦夷 | 山川図 | 永田解 | その他 | 紀要7 | データ | |||
23. | - | ノテト | ノテド (大岬)高島岬 |
- | - | - | not-etu (岬の・鼻) |
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【浜田】 「ノテトゥ not-etu 岬・〜の先」 NEW!! 14.「ノテツ」と全く同じ地名で、アイヌ語の解説としてはそちらをご参照下さい。具体的には、上記「赤岩(ポン赤岩のこと)」の写真を参照のこと。ポン赤岩の向かいがノテトゥにあたると思われます。地形的にも、海岸づたいに通行することができなくなる地点なので、14よりははっきりと「岬の先」である事がわかります。 注目すべき点は、『西蝦夷日誌』の記述です。何とここが「高島岬」であると書かれています。現在の地名としての高島岬は、25.「チヤシユノシユマ」つまり日和山灯台のある岬を指しているため、この記述はとても奇妙に感じます。続く「メナシ泊」つまり比較的近年まで地名が残っていたメナシトマリの位置は信頼できるため(後述)、この記述の位置を動かすことはできません。少なくとも江戸時代は、ここが高島岬と呼ばれていたと考えるしかありません。 もう少し広く見ると、直前に(大岬)とも書かれているため、この地点のみを限定して高島岬と称するのではなく、今言う高島岬まで含めた大きな地形全体を、タカシマ場所にある一つの岬として総称したという可能性も一応あります。ただし、次項の書き方「メナシ泊(岩岬)」「チヤシユノシユマ(大岩サキ)」などからすると、『西蝦夷日誌』の言う高島岬は、やはりこの地点に限定した名称であった確率が高いように私は感じます。このことが26.「イソ」の項で試論しているタカシマのアイヌ語地名解に影響を与えるかどうかは不明ですが、研究課題としては残ります。 さらなる資料の検討や慎重な論議を待つのみです。 |
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津軽図 | 西川図 | 西蝦夷 | 山川図 | 永田解 | その他 | 紀要7 | データ | |||
24. | メ子シトマリ | メナシ泊 | メナシ泊 (岩湾) (二八多し) |
メナシトマリ | Menashi tomari | メナシトマリ【廻浦】 メナシ泊【仮製5】 マリンパーク【現1万】 |
めなし泊 | menas-tomari (東(風の時)の・ 停泊地) |
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【浜田】 「メナシトマリ menas-tomari 東風・港」 『西蝦夷日誌』には、ノテド(「高島岬」)に続き、「廻りて(廿町五十五間)メナシ泊(岩岬)、訳て東風泊といへる也(二八《にはち》多し。この辺いよいよ繁華也)」とあります。メナシトマリは、過去の地図にも載っているメジャーな地名で、地図上では現在ちょうど小樽水族館の海獣プールのある所、つまり「マリンパーク」の湾(比較的最近まで「目梨泊」となっていた場所。以下、Aと呼びます)のことを指しています。 しかし、実はメナシトマリはそこではないとする説があります。この海岸にはAの西側にも大きな入り江(以下、Bと呼びます)があり、本来のメナシトマリはそちらを指したとする説です。山田秀三さんの『アイヌ語地名の研究1』の「アイヌ語地名の三つの東西」という考察の中で、忍路の老漁師の話として、「ほんとうのメナシトマリは此処じゃない。もう一つの岬を廻った処だ。この入江はどんなにやませが吹いても静かなのだ」と記されています。山田秀三さんは、「老漁師は西の方が東風をよりよくさえぎるという意味で云ったのかも知れない」(p.290)とコメントしています。 地図や資料の机上での検討はもちろん重要ですが、人の実際の体験に基づく証言は確かに説得力があると私は思います。この説を過去の地名資料から帰納法的に検討してみましょう。その観点で見ていくと、まずノテトゥから「廿町」(約一キロ)という距離は都合が悪く見えます。地図上でノテトゥの位置から一キロ東を見ると、どうがんばってもやはりAに行き着いてしまうのです。 そこで、次回調査の下資料として、例の「釣り雑誌」を見てみると、祝津方面から「三角岩」へ到る道の説明としてこんなことが書いてありました。ちょっと長い引用ですがご覧下さい。 この記述からすると、武四郎がノテトゥを迂回してBにたどり着くのに1キロも掛かったとは、やはり想像しにくいものがあります。よって、仮の結論ではありますが、『アイヌ語地名の研究1』の記すBは、少なくとも『西蝦夷日誌』のいうメナシトマリではないと考えることにしました。やはり、Aが位置的に見て最も妥当なのです。私は最初、『アイヌ語地名の研究1』の説を信頼して、この前提の元に以下の「チヤシユノシユマ」を検討していましたが、あっさりと見直しました。 なお、「二八多し」の二八とは「二八取り」の略、すなわちニシン漁の出稼ぎ人を指す言葉です。その由来は、出稼ぎ人が取った漁獲高の二割を当地の請負人に納め、自らは八割を取った所から来たといいます(『西蝦夷日誌』脚注より)。 (執筆予定) |
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津軽図 | 西川図 | 西蝦夷 | 山川図 | 永田解 | その他 | 紀要7 | データ | |||
25. | - | - | チヤシユノシユマ (大岩サキ) |
- | - | 高島岬 | - | |||
【浜田】 「チャシヌスマ casnu-suma さっぱりする・石」 『西蝦夷日誌』には、メナシ泊の次として「チヤシユノシユマ(大岩サキ)、廻りて濱形東向になる。(八町四十五間)シクジシ(番や、蔵也、船澗よろし)」とあります。 『西蝦夷日誌』は、信頼に足る第一級の地名資料ですが、それには理由があります。もちろんその採録地名やトピックスの多さはありますが、それだけならば『永田地名解』も負けてはいません。『西蝦夷日誌』が他の資料と一線を画する最も優れた点は、ただ地名を記録するのに留まらず、実際に歩いた行程を驚くほど詳細に書き記していることです。よって、地名の位置を特定する上で方向や距離の記載があるのがとてもありがたいのです。 チヤシユノシユマを越えると(「廻りて」というのは迂回したことを表しています)、今まで北向きだった海岸が東向きに変わることがわかり、またチヤシユノシユマとシクジシの間が約800メートルであるということまでわかります。シクジシは「私のアイヌ語地名解1」の「祝津」で解釈した通り、日和山(ひよしやま)灯台のある高島岬が帯状の岩崖であることに由来しているのですが、ここでは「番や」などの記載があることから、その東向きにある祝津漁港を指していると思われます。 「チャシヌ casnu さっぱりする、片付いている」という自動詞は、「シッチャシヌレ sitcasnure 掃除する」という自動詞の一部としてよく使われています。これは「sir-casnu-re あたり・さっぱりする・〜させる」という構成です。「u
と o の混同」という和人の転訛の癖を考えて、もう一ひねりすれば、「チャシヌ」が「チャシュノ」と聞こえたと考えてもよさそうに思うのです。「シュマ suma 石」という名詞の前が自動詞であれば、地名の構成としても「すっきりした」形になるのです。 では一体、どういう石が「さっぱりしている」と見えたのでしょうか? 現在の所の推論として思うところがあります。それは、高島岬の岩崖の層についてです。 この見事な岩層を(「シクヅシ si-kut-ous 大きな・帯→崖・のふもと」を念頭において)、私は当初「帯の模様」のように考えたのかな? と漠然とした感想を抱いていたのです。しかし、ひょっとしたらチャシヌスマとは、このきれいに筋の入った岩肌のことではないのか? と私は考えるようになりました。赤岩のごろごろした岩と、高島岬の妙に直線的な岩層とを比較して考えた新たな推論です。なお、「スマ suma」は日本語の「石」より意味の範囲が広いということは、以前
21.「ハンタカイシ」の項で説明しました。 なお、チヤシユノシユマの解釈として、『紀要7』には「chasi=砦 suma=岩 砦岩?「チャシ」があったのだろうか?」とコメントがありますが、これは「cas-ne-suma 砦・のような・石」と言う解釈でしょうか。私はチャシというものの実例を見たことがありませんが、このあたりにチャシの跡があったという話は聞いたことがありません。また、チャシ研究の第一人者・宇田川洋氏の『アイヌ考古学研究・序論』(北海道出版企画センター、2001)のチャシ地名一覧には、この解釈を思わせるような語形を持つ地名は全くないのです。可能性はゼロではないかも知れませんが、地名解の候補から外した方がよさそうです。 |
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津軽図 | 西川図 | 西蝦夷 | 山川図 | 永田解 | その他 | 紀要7 | データ | |||
26. | - (*1)エショ |
エショ | - | - | - | トト岩【仮製5】 トド岩【現1万】 |
とど岩 | →20 | ||
【浜田】 「イソ iso 磯岩」 註:(*1)紀要7より。山田秀三氏の写しにはなし。 オタモイ海岸から続けてきたアイヌ語地名を巡る旅は、この「トド岩」で一応の区切りを迎えます。 現在の高島岬、日和山灯台から見る光景も近いですが、そこから西へ、小樽水族館を越えて車でちょっと行った所に展望所があり、そこから見るのが一番近いだろうと思います。トド岩という岩の名前は、おそらく昔はトドがたくさん集まっていた岩ということでしょう(小樽水族館がこの近くであるというのは、その意味でも自然です)。岩の名としては、ごくありきたりだったろうと思います。当該のアイヌ語と思われる「イソ iso 磯岩」という言葉も、地名として全くありふれていて、いわば基礎単語です。この大きく目立つ岩の名づけ方としては、実にそっけないものだと思います。私の説は『紀要7』と同じで、特にこれ以上付け加える事はありません。 強いて言えば最後に残った謎、「高島」という地名との関連について見ていきたいと思います。 |