投げ銭随筆2(2002年12月10日更新)

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 目 次

 はじめに

 第1部 ストリート・ミュージシャンの春
  
1.準備した
  
2.風邪をひいた
  
3.練習した
  
4.ちょっとだけ先生になった
  
5.すねた
  
6.徐々に調子が出てきた
  
7.ノリについて考えた
  
8.連休を乗り切った
  
9.同情した

 第2部 ストリート・ミュージシャンの夏
  
1.壱千万円もらった
  
2.修学旅行生が大挙押し寄せた
  
3.ギターケースが壊れた
  
4.目のやり場に困った
  
5.雨が降った
  
6.CDを売った
  
7.雨が降り続いた
  
8.目をつぶった

 第3部 ストリート・ミュージシャンの秋
  
1.投げ銭箱について考えた
  
2.イサトさんが来た
  
3.AKIさんが来た
  
4.南澤くんが来た
  
5.CDを焼きまくった
  
6.本州ツアーをやった

 第4部 ストリート・ミュージシャンの冬
  
1.雪が積もった
  
2.室内投げ銭について考えた NEW!!

はじめに

 この随筆は、私のストリート・ミュージシャンとしての体験をつづり好評を博した前作『投げ銭随筆』の続編である。前作は一応の区切りがついて時間が経ったので、新しく書く分は別にした方がいいと思い、こちらのページにまとめることにした。

 前作は、小樽運河でのストリート・ミュージックで日々感じていたことを整理して項目別にまとめたのだが、ここで同じ事をやるのも二番煎じなので、今度は時系列的に、よりリアルタイムに書き記していこうと思う。よって、詩集と同じく書いた日付も明記することにした。

 前作の序文のまとめは「間違ってもこんなやくざな商売は一般にはお勧めしません」というものだったが、本編中ではストリート・ミュージックの職業としての正当性を主張してきた。今もその気持ちに変わりはないが、「ボク大きくなったら路上で生きていくんだ」などと言う子供がいたとしたら、きつく注意しよう。

2002年3月1日
浜田 隆史

第1部 ストリート・ミュージシャンの春

 

 1.準備した

 2002年ももう3月、雪解けの季節である。

 散々雪かきで苦しめられた私の家の玄関前も、どんどん解けてきている。屋根から雫がひっきりなしに落ちてきて、落ちたところはもう土が見えている。冬が始まる11月頃は「冬を飛び越して、すぐに春がやってくればいいのに」といつも思うものだが、いざこうして春の兆しがあちこちに見られるようになると、何だか春の訪れというものは唐突だなあとも思う。
 「春なんか来なければいいのに」と思った年が、今までの人生の中で一度だけあった。1998年2月、父の余命があと半年と医者から聞かされてからは、投げ銭なんてどうでもいい、いつまでも雪の季節ならいいのにと思って私はよく泣いていた。でも、冬を飛び越すことが出来ないのと同じように、いくら泣いてもほえても雪解けを止めることは出来ない。それが無常というものである。
 春の訪れを心から喜ぶことができる今の私は、幸せ者だ。

 私は、2002年のストリート・ミュージック初見参に備えて、最近2つの準備をした。
 一つ目は髪を切ったこと。
 私は、このホームページの写真をご覧になるとお分かりだろうが、長髪と短髪のサイクルをだいたい一年かけて巡っている。知り合いの HARD TO FIND のメンバー扇柳さんは、たまに私に会うといつも「あれ、浜田くん、髪伸びるの早いね〜」と感想を述べてくれるが、やっぱりさすがに一年はかかる。つまり散髪をするのはだいたい一年に一回程度で、それまで肩まで伸ばしていた髪を一気にバッサリとクリーンカットしてしまう。床屋の人もスパスパと切れて、しびれるような快感だった事だろう。

 長髪であれば、遠目にもミュージシャンであることがわかりやすいので、ストリートでは有利なのかなと思うのだが(それこそが長髪にしている理由だったが)、小樽運河の年配の観光客には「ナンだ、あの不良?」などと思われて逆効果かも知れない。どちらがストリートで有利かは、何とも言いがたいところだが、短い髪はシャンプー代が浮くので悪くはない。また、何と言っても視界が広くなるため、髪に起因する弾き間違いはなくなる。長い髪では、例えば指でフレットを押さえる際に髪まで一緒に巻きこんでしまったり、口や鼻に入ったままむずがゆくなったりして、とちりそうになることもあった。
 さて散髪後、なじみの飲食店に行くと、ど、どうしたの?とお店の人に言われてしまった。「失恋でもしたの?」...いやはや、私もまだそう思われているうちが花なのだ。

 二つ目はメガネを新調したこと。
 今までのメガネは会社員時代の初期に購入したもので、もう10年選手だった。材質があまり良いものではなく、とても重たかった。長年の酷使のおかげで、レンズ表面のコーティングが剥げて傷だらけ、フレームもねじが落ちるわ、右の耳掛けが半分折れるわで、かなりメチャクチャな状態だった。なぜか今ごろメガネを替える気になったのだが、むしろ遅すぎたのかも知れない。久しぶりに地元商店街にお世話になり、最新式の素材(このフレームは柔軟性があって折れにくいらしい)、端っこがゆがまないレンズなど、結構良いものを買った。ただ、知り合いの高校生ギタリスト・谷本君がしているような、今流行りのウルトラセブンみたいなメガネはイヤなので、デザインだけは元のフレームに近い堅実そうなものを選んだ。「今風でない」と言われそうだが、実際、私は今風の人間ではないからいいのだ。

 今までのメガネが重かったのに比べ、新しいメガネは軽く、鼻の頭や耳の上に傷は付きにくくなった。これだけでも高いメガネを買った甲斐があったというものだ。メガネが軽いと、顔も軽くなり、心も軽やかに感じる。CMで「メガネも着替えの時代」とかやっていたのも、まんざらデタラメではないかもと思ってしまう。
 ギターを弾かない日はあっても、メガネを掛けない日は恐らく一日たりともないはずなので、ここに設備投資をしたのは大正解だった。その上、新しいレンズには紫外線をカットする機能も付いているらしく、これはこれからの外の仕事に向けて本当にありがたいことである。

 このように、今年は例年以上に準備オーライなのである(準備万端の時こそ、実は要注意なのだが...)。

(2002・3・1)

 2.風邪をひいた

 3月2日からの天気は荒れた。前回、雪解けの季節であると書いた途端に、冬に逆戻りしてしまったようで、何だかいきなりリアルタイム執筆の効果が出ている。お天気と付き合うのはいつも大変である。これが原因の一つだろうが、3月2日のマイカル小樽出演のあと、私は珍しく風邪をひいてしまった。今日(7日)ようやく治り、いつもの調子になってきたようである。風邪を完全に治す特効薬というものがない以上、だらだらと時間を掛けて直すしかない。

 改めて思えば、私の今までのストリート活動で、風邪をひいて休んだということはあまりなかった。確か一度くらい熱を押して出動したこともあったが、あんまりひどかったら休むのが商売の鉄則である。自分が苦しいだけならまだしも、同僚やお客に迷惑がかかるからだ。
 ちょっと話が飛ぶが、札幌にいた頃とあるカレー屋で飯を食べているとき、カウンターの学生バイトがよく咳をしていた。何か気になるなと思いながら食べていると、彼の知り合いとおぼしき学生客に「いや〜オレ今日風邪でさ〜」などと愛想笑いしていたので、怒るより先にあきれてしまい、私は急いで店を出たのを覚えている。

 私は入院したことが一度もなく、丈夫な体に生んでくれた親に感謝しているのだが、それでも病気になったら結構治りが遅いタイプである。私の場合、冬に風邪をひくケースが多い。おそらく夏に忙しい反動が、冬に気の緩みと共に出てくるのだろう。会社員時代の頃は、大晦日に風邪をひいたこともあった。おかげで楽しかるべしお正月が台無し、治ったらいきなり会社というまさに地獄のような年始を経験している。

 風邪に関連した話で、最近で忘れられないのは、札幌ジャックインザボックスでのライブ(2000年1月20日)だ。前々日に風邪をひいてしまい、例によって長引いてしまい、当日は本当に38度の熱でふらふらしていた。ジャックさんとの付き合いは長く、これは申し訳ないがキャンセルさせてもらおうかと思い、恐る恐る電話してみると、何と本州から里帰りできているお客様が私のライブを見に来るという話を知らされて、これはたとえ死んでもキャンセルできないと思いたった。
 当日は悪いことに低温かつ悪天候だったが、やっとの思いでジャックにたどり着き、厳重にマスクを装着、うなされるように一時間ギターを弾きまくった。これが文字通りの「大熱演ライブ」と評判になり、今でもたまにジャックの店長・高倉くんに「あの時はすごかったね」と語り草にされている。
 以前の血染めのライブ(前に「疾病一覧」で紹介)といい、最近のバレンタイン・ライブといい、ジャックのライブでは、実力以上のものを発揮することもある(?)。ちなみに、おそらく生涯初めての私のライブ(1986年5月)もジャックインザボックスだった。

 前にも書いたが、大事なものを失ってからでないとありがたみに気がつかないというのが人間である。健康を害してからでないと健康のありがたみがわからない。いや、健康の大切さはよくわかると口では言ってみても、頭でそう考えてみても、痛みが伴わないと実感が沸かない。この実感こそが生きている証のようなものだろう。だが、何度でも愚かな自分に気がついてしまう私は偉くもなんでもなく、ただ忘れっぽいのか、または嫌なことを一刻も早く忘れたい人間なのかも知れない。
 投げ銭のシーズンをこれから迎えるにあたり、月並みで恐縮だが風邪には気をつけたい。気をつけると言っても「落石注意」の標識と同じく、注意したところでほとんどどうしようもない事なのだが。

(2002・3・7)

 3.練習した

 投げ銭活動に出かける前から、こんなに随筆を書いてもいいのだろうかと不安ではあるが、書くことがいっぱいあるのは悪いことでもあるまい。今日は札幌で今年一番の暑さであり(10度を超えたらしい)、そろそろ明日あたり行ってみようかというところである。

 現在、ライブの予定が入っているということもあり、現在演奏可能な曲の練習をしている。今年の冬は録音があったり、例年になく多いライブの予定をこなしたりしてきたが、それでも夏場の1日6時間演奏というハードワークに比べたら全然大した事がないので、ストリートに向けてもっと練習時間を増やさなければならない。
 試しに、ヘンタイあるいはオタルナイ・チューニングによる「すぐに演奏可能な曲」をリストアップしてみると、何と110曲あった。何かの間違いだろうと思って見返してみると、数年前はよくやっていたが現在は忘れているという曲が半数近くあった。それでも、控えめに見ても50曲はある。

 私は、どこか他のページで書いているかも知れないが、楽譜が即読できない。タブ譜も、もっぱら書くだけであまり読まず、万が一の為に忘れないようにというメモ書き程度のものである。この「メモ書き」すら、私にとってはかなり面倒なので、心に余裕があるうちに一気に書かないと、すぐ忘れてしまう(実際、こうして弾き方を忘れてしまった曲がかなりある)。指が覚えているうちに弾かないと、苦労してできるようになった曲も幻のように消えてしまう。
 タブ譜に書いてある数字の情報は、やはりただの情報でしかなく、毎日弾くことによって得られる感覚を教えてくれるものではない。こういう慣れた感覚ができないと、感情がこもらなかったり、フェイクして弾くような余裕ができなくなる。言い方が難しいかも知れないが、同じ曲でも、弾くたびに違う感覚を込めることができないと、すぐ飽きてしまう。
 こうして、私のギターの練習は、最初のうちはうまくなるためというよりも、ただ慣れるため、回数をこなすため、弾く感覚を思い出すためにやっているという部分がある。そうしないと、毎日のレパートリーにするには不安が残る。

 そういう訳で、先ほど書いた50曲を忘れないように毎日練習しないといけないのだが、一曲に4分かかるとして単純計算しても200分、3時間以上ギターを持っていることになる。忘れないためだけに費やす時間としては多すぎる。こんな事を毎日やっていては、新しい曲はなかなかできないので(昨年はまさにそういう状態で、あまり曲ができなかった)、適当なところで古い曲を忘れ、新しい曲にチャレンジするというサイクルを作らないといけない。
 私の場合は、一度ヘタにならないと新しいことができないみたいだ。

 新しい曲を録音しては忘れ、録音しては忘れるということを繰り返していたら、もっと多くの曲を作れるかも知れないが、長年弾き続けたというありがたみは薄れるだろうな。

(2002・3・14)

 4.ちょっとだけ先生になった

 さて、「練習」で思い出した蛇足話。いきなりこの随筆の趣旨と違う内容だがご容赦を。
 今年の2月頃に、昨年運河で知り合った人が私にギターを教えてほしいというので、一度だけその人のうちにお邪魔して、柄にもなくギターの先生になったことがある。最初は、私の「ヘンタイ・チューニング・スタイル」を教えてほしいのかなと思ったが、ふたを開けてみると、南澤大介くんの「ソロ・ギターのしらべ」の弾き方を少しばかり指南することになったというだけであった。

 そこで私は、先生としてはなはだ未熟者だということを思い知らされた。どうやって教えていいものかわからない。コードネームすら忘れている。だいたい、スタンダード・チューニングのギターにすることにすら異常な抵抗があるのだから、最初からアウトである。「ソロ・ギターのしらべ」を前にして、脂汗がタラ〜リタラリ。
 「どうしたらもっと上手くなるでしょうか」という生徒の問いに、「もっと練習しなさい」としか言えないガサツ者だから(もちろん確かにその通りなのだが...)、私はどうやらいい先生にはなれそうもない。
 アイヌ語関連の人脈から、私には教育関係者の知り合いが多いのだが、「ミスリード」を含めて大変な話ばかり耳にするので、私は先生というものに対して大きなコンプレックスを感じているのかも知れない。

 いや、それもあるが、恥をしのんで正直に言えば、最初「浜田さんの曲を教えてもらいたい」と言われるかと思って、ちょっと期待してしまった自分が悲しかった。未だかつて、私の曲やアレンジを演奏してくれたアマチュアの人を、私はほとんど見たことがない。私が覚えている限りでは、たった一人だけそういう人にお会いしたことがある。確かその人は私の目の前で「航海者の歌」をやってくれたのだが、その時は感激のあまり、頭がクラクラしたものだ。しかし、それ以来そういう人にはなかなか会えない。

 現在利用できる私の楽譜は『クライマックス・ラグ』だけ、しかも私から見ても簡単とは言えない曲ばかりである。さらに、私は自分の曲の弾き方を人様に手取り足取りご教授したことがあまりないから、私の曲を弾く人がいないのは考えてみれば当然かも知れない。私は生業として曲を作らないといけない立場なので、別に人に演奏されたからどうだという話でもない。しかし...
 ちょっとだけの先生体験は、私の心を贅沢にしてしまったのかも知れないなあ。

 「ヘンタイでもいい!ヘンタイ万歳!」というすごい奇特な人は、ご一報を。

(2002・3・14)

 5.すねた

 そんなこんなで、やっと小樽運河でギターを弾ける季節になってきた。初めて出たのは3月20日。まだ雪が残っていて寒かったが、仕事始めというものはいつも感慨無量である。投げ銭がそんなに入らなくても気にしない。次いで、4月1日から本格的に演奏し始めた。いつもの写真屋さん、アクセサリーの人たち、絵を書くおじさん、人力車、そして音楽仲間と会って話をするのも久しぶり。今の時期は新学期シーズンと言うこともあり、例年でもそうそう稼げるものではないので、気楽にやっていきたい。

 しかし、私はこう見えても気分屋である。3時間半弾いても100円くらいしか稼げないときは、いくらなんでもさすがに落ちこむ。観光客が少ないとは言っても、全然いない訳ではないのだが、日によって私のギターは彼らの心に全然届かないこともある。そんな日が何回かあると、気楽な気分が一転、正直な話ガッカリしてしまう。これなら、海岸で空きビンを拾った方がまだ儲かるというものだ。私は丸5年間、演奏するスタンスは変えていないのだが、何か抜本的な構造改革が必要な時期なのかも...(?)。

 まったく人のいない中だと、急激にモチベーションが落ちてくる。せめて演奏の質は落とすまい、質の高い演奏持続時間を長くするための特訓と思えばいいと、目をつぶってノンストップで演奏していると、知り合いの音楽仲間から「浜ちゃん、もっと笑顔を見せなきゃ〜」と言われる。確かにその通り、と思い直してバカみたいに愛嬌を振りまきながら演奏し、それでもたいして変わらない結果を見ると、何だか売れないお笑い芸人みたいで空しくなってくる。この不景気の折、例年似た状況が続いているが、このくらいでめげていては、文字通りお話にならない。
 真のエンターテナーは、相手がどうすれば喜んでくれるかを考えるはずだが、それ以前にここではお客の足がなかなか止まらない。今年は、私の曲を1曲通して聴いてくれた人は皆無で、たとえお金を投げてくれる人であっても、30秒くらいしかこの場に留まってくれていないかも知れない。ウルトラマンのカラータイマー以下である。その30秒を何とか3分にするために必要な技術を持たないまま、私は毎日観光客に無謀な挑戦をしている。

 まだまだ本格的にシーズン突入とはいかないのは、もちろんお客のせいばかりではない。私にも、小難しいオリジナルを演奏するだけでは全くお金が入らないことを悟った時期(1996年)があり、そんな柔軟でポジティブな向上心がなければいけない。しかし、こういう状況を楽しむことができるある種の達観に、私はまだまだたどり着けない。
 ローリング・ストーンズの「イッツ・オンリー・ロックンロール」は、お客の満足をなかなか得られないロック・ミュージシャンの悲哀が感じられる佳曲だが、ジャンルは違えども、私はまさに今そんな気分を味わっている。極端な話、投げ銭のためなら腹をかっさばいて血を吐いて見せるくらいの気持ちがないと、ここでは生きていけないのかも知れない。
 ちょっとすねてみました。

 話は全然違いますが、「うぶ茶」のCMに使われているジャニス・イアンの歌、ハバネラ風でいい曲ですね。

(2002・4・10)

 6.徐々に調子が出てきた

 4月13日の札幌でのライブは、おかげさまで満員御礼だった。企画してくれた友人でミュージシャン仲間の堀口君、田中さんのご尽力と、お忙しい中見に来ていただいた皆さんのご支援の賜物だった。こうして少しでも恵まれた思いをすると、人間というのは現金なもので、今までちょっと愚痴っぽくなっていた自分が実に狭いヤツに思えてしまった。日本の天下万民がご覧になるホームページで、個人的でつまらない不平不満を訴えるのはなるべくやめようと思う。

 これはストリート・ミュージシャンの陥りやすい心理だが、実力を全て出して演奏しているのになかなか投げ銭が入らないと、「自分は価値の無い人間なのではないか?」と思ってしまうことが多い。本当は、演奏の優劣とは違う次元で収入が左右されているはずなのだが、なかなか大人になるのは難しい(って私はもう37歳なのだが?)。こういう心理学を研究するのも面白そうではある。例えば、芸としてまだまだ未熟なのに思わぬ投げ銭に恵まれて増長してしまうような、逆のケースも考えられる。そういう幸せな増長なら、多いにやらせてもらいたい。

 このライブ以降、小樽運河での演奏に弾みがついてきた。
 私の場合、水を飲んだりお手洗いに行ったりという時間を除いて、3〜4時間ほとんどギターを弾きっぱなしに出来れば、だいたい本調子の目安となる。今のところ、2時間ちょっとでまだ息が切れるが、良い感じになってきた。今までのシーズン初めでは、冬の長いブランクがたたって指が切れたり裂けたりしていたが、今年は録音やライブなどで一年中弾いていたおかげで、指も精神もタフになっているようだ。
 誰も通りかからない時でも、空しさを感じずに「オレの音楽、聴きに来い!」という気概を持ちたい。ここには自分の知り合いもギター愛好家もマニアックな音楽ファンもいない、本当に一般の世界のみなさんが相手なので、演奏する方にはあたかも宗教に近い程の、自分の音楽への愛情が必要不可欠だ。その点だけで言えば、今の私には全く何の心配も無い。

 一般の世界といえば、少し変化の兆しも感じられた。例えば、例年より早い暖気で、サクラの開花がそろそろ見られた。学校の完全週休二日制で、子供の姿が増えた。札幌でも行われるサッカー・ワールドカップの影響なのか、いつもは珍しい白人(ロシア人以外)をたまに見かけるようになった。私のギター演奏に「ワ〜ォ」とか言ってビックリしてくれたが、すぐにバ〜イだった。
 その「ワ〜ォ」をもっと「ゲット」したいなあ。

(2002・4・22)

 7.ノリについて考えた

 今年もゴールデン・ウィークが近づいてきた。何と言っても書き入れ時なので、期間中は一日合計6時間ほどギターを弾く日も珍しくない。そのため、連休前はなるべく無理をせず、かといって楽もせず、耐久力を蓄えることを念頭においてプレイしている。今まで、この投げ銭随筆やアメリカ日記などで書いてきたことに通じることだが、私はマラソン・ランナー的なミュージシャンなのかも知れない。レコードにおいてはたかが三分間の娯楽である音楽も、外でリアルタイムにやるパフォーマンスとなると、どれだけギターを持っていられるかという持久力勝負になる。

 さて、この数年間、ギターを運河で弾き続けて初めて理解できたことがある。それはラグタイム音楽の「ノリ」に関することだ。以前、当HPで執筆していた「ラグタイム・ギターの方法論」(現在は掲載終了)でも少し解説していたが、ラグのノリは完全なシャッフルではなく、ジャズのスイングとも少し違う。例えば同じメイプル・リーフ・ラグを弾くのでも、いろいろな表情のつけ方がある。クラシック風にジャストに弾くことも出来るし、完全にシャッフルで弾くことも出来るし、かなり快速に弾くことも出来るが、何十回何百回と弾いていくと、どうしてもやや中庸なテンポで、落ちついた感じで弾くのがちょうどいいノリを生み出すことが分かってくる。

 ただ遅めに弾けばいいのでもなく、そこにはリズムの「うねり」がある。
 ピアノの左手を想像するとわかりやすいが、二拍子であるラグタイムでは、最初の拍は長めに(もしくは強めに)、二つ目の拍は短めに(もしくは弱めに)弾くというサイクルがある。これはいわゆる「オンビート」の特徴なのだが、ラグのシンコペーション感は「オフビート」への誘惑を強烈に駆り立てるものであるから、そこにエネルギーの波、つまり「うねり」ができる。これは、完全にオフビートになってしまったリズムでは表現することが出来ない、微妙なタイミングのズレを生み出す。
 この感覚はその日の気分によって変わってくる。人がまばらで余計な力が抜けている時などは、自分でも驚くほどいい感覚で弾けたりする。今まで録音したどの音源よりもうまく弾ける事だってある。人が集まってきて興奮している時などは、そういう言わば「のどかな感覚」に満足できなくなり、比較的快速でジャストなノリに変わってくることもある。いわゆるハシるということだ。かと思えば、疲れて指のろれつが回らなくなってきた時は、自分のプレイの懐の浅さ・狭さが如実に分かってしまう。
 自分の演奏がそういうノリの極意を少しは掴めていると思っているが、これは感覚的なものであるから「これでいい」というレベルはありえない。

 数え切れないくらい弾いているメイプル・リーフ・ラグ、私は毎日全く同じことをやっているのに、少しも自分で飽きが来ないのは、おそらくまだまだ楽しむ余地があるからなのだと思う。リズムのノリだけではなく、例えばメロディーの抑揚、フェイク、右手の弾く位置の調整、アタックのつけ方、ストンプなど、決められた一曲を演奏するのに実に多くの選択肢がある。別にアドリブをやらなくても、曲さえ良ければ、指が自然に弾いていて気持ち良いアイデアを見つけてくれるのだ。
 野球やテニスでは素振りが、バスケットボールではフリースローが、サッカーではドリブル練習が重要なのは当然だ。同じことの繰り返しだからといってそういう努力を投げてしまう人はいない。ボールやバットやラケットの生み出す放物線には、一つとして同じものがない。音楽も同じで、同じ曲を同じように演奏しているつもりでも、常に新たな楽しみが生まれている。どんなつまらないこと、完成されたと思っていることでも、ずっと数え切れないくらい繰り返しているうちに、何か得るものがあると私は信じている。向上心があれば、「これでいい」ことなど一つもない。

 連休、がんばります。

(2002・4・24)

 8.連休を乗り切った

 私の稼ぎ時であるゴールデン・ウィークがやっと終わった。ここ数年は大幅な天気の崩れがなかったが、今年もだいたい良い天気だった。今の季節、風がまだまだ冷たいが、気持ちの良い春である。小樽運河界隈は多いに賑わい、観光業の皆さんもてんてこ舞いだったはずである。あくまで私の感覚で言えば、昨年で景気は下げ止まった感が強い。なんとも有り難い話だ。
 私といえば、やはりフル回転状態。ギターをいつにも増して弾きまくった。5月3日には昼夜合わせて8時間演奏という自己新記録を達成してしまった。弾き過ぎと言ってもいいくらいで、指はボロボロ。だがおかげさまで、何とか昨年並の稼ぎで一安心。今は心地よい疲労に浸っている所である。
 私は、いつも自分の事ばかり心配して生活しているが、観光客の中には私のギターをわずらわしく思われた方もいらっしゃるかも知れないので、この場を借りてお詫びしておきます(止めませんけど)。

 また、いろいろな知り合いの方との出会いも、この時期ならではである。なじみのお店のマスター、本州の楽器店のマスター、札幌のライブハウスのマスター、ライブを見に来てくれた(天然記念物さながらに)貴重なファンの方たち、いつもは仕事が忙しくてなかなか会えない旧友など、本当に良くぞ小樽まで来てくれたという気持ちでいっぱいである。
 私はあまり道外に出歩かず、春から秋にかけては小樽にずっと張りついて演奏している。もちろんあちこちで歩きたいという希望も持っているが、「自分の故郷である小樽に人を呼びこみたい」という希望はもっと強い。小樽市は、つい最近人口15万人を割ってしまい、運河やマイカルの繁栄をよそにますます斜陽化しつつある。私への投げ銭はついででも構わないので、少しでも小樽という歴史ある街に関心を持っていただければと思う。

 さて、同業者の動向だが、やはりいつも通り。といっても、昨年秋からグラスの露店さんが出てきて、今年から新たにアクセサリなどを売る人が出てきたあたり、商魂たくましいものがある。逆に言えば、それだけ小樽運河近辺は、まだまだ集客に魅力のある観光地ということなのだろう。
 唄歌いの人たちは、今年新たにイキのいい高校生たちがやり始めた。朝の9時くらいから夜まで延々とエネルギッシュな歌を歌いつづけているのだから、その若い体力には脱帽である。以前「投げ銭が入らないとすぐあきらめてしまう」ダメな連中の事を書いたが、件のコたちはなかなか根性があって感心している所である。今のままでも充分上手いが、あまり甲高い高音を使わない歌、ちょっと力を抜いた歌を覚えれば、もっと良くなると思う。一方、今の流行歌は、「高音信仰」と言ってもいいくらいキツイ歌い方がもてはやされているのだが、私にはなじめない。

 その高校生の一人が、キャンディーズの名曲「春一番」を歌っていた。男が歌っても意外にいい曲だなあと気づかされた。この曲は歌詞がとてもいい。特にサビの「泣いてばかりいたって/幸せは来ないから」のところは、軽めな歌詞の内容から言えば少し唐突な展開なのに、実に人生の真実だと思った。
 これで恋さえあればなあ...。

(2002・5・6)

 9.同情した

 下げ止まったかに見えたお客の出足も、連休後は何だか調子が出なくて、また辛抱の日々。たびたび書いている通り、連休が終わると客足は落ちこむのが常だが、それにしても...である。
 以前、知り合いの飲み屋さんに行って人並みに愚痴をたれていると、「浜ちゃんはまだいいよ、こっちも大変なんだから」とニコニコした顔で言われた。考えてみれば、飲み屋さんこそ不景気な時代は大変なはずである。客商売は、そんな大変な時期でも客に苦しい台所を悟られないで努力をするのが美徳である。

 いつか、ニュースで「私たちを助けてください」と張り紙した牛肉レストランか何かが話題になっていたと思うが、本当に情けないな、とそれを見てすぐに思った。確かに狂牛病に関する過剰反応という社会現象については同情するが、仮にも客商売をする人間としてはひどい心得違いだと私は思う。第一、お客さんに失礼である。まるでお客さんが正しい目を持っていないと非難しているようなもので、裏を返せば自分たちの生活という「権利」を当然のように主張するだけの、商売とは違う考え方があるような気がする。客は「いらない」と思うものにはお金を出さない。これは当たり前の話だ。
 お客様は神様と言っても、その神様を迎えるにはそれなりの作法というものがある。客に泣きつくのではなく、「欲しい」と思わせるだけの努力をする事こそ、正しい商売の姿であり、誇りなのである。

 さて、こんなことを書きたいのではなかった。実は今、小樽運河が大変なことになっているのである。
 ここ数年間、運河での一番の稼ぎ頭は、恐らく人力車の人たちであったと思う。いつも二、三台で観光客を乗せて走ったり、写真を撮ったりという商売である。観光地といえば人力車が出てくるのは世の常であるが、やはり人気があるから続いているのだと思う。

 ところが、今年の連休後、京都からやってきたという人力車の人たちが、何と8台も人力車を連れてやってきたのである。突然の黒船来襲という感じだった。いきなり増えた人力車の群れに、私の目は一瞬丸くなってしまった。とある新聞にも「人力車戦争」などと書かれたらしいが、今まで独占的に人力車で商売をしてきた古株のオジさんがとたんに苦境に陥った。なんでも、収入が十分の一まで落ち込んだとか...運河に出た辺りの広場になっている「浅草橋」近辺は、そんな訳で大して広くもないのに人力車でごった返している。
 新しく参入した人力車の人足さんは皆イナセな若い人たちで、背中に「小樽」と書いたはっぴを着ていて、気合充分。しかもなかなかのハンサムぞろい。私は、アクセサリーの人たちと冗談交じりに「あいつら、走るホストクラブっぽいな」とか言って笑い合った。いやいや、確かに人力車の本場から来ただけあって、スマートで粋なのである。

 そもそも、小樽はニシン漁や貿易で栄えた古い町であるから、人力車(冬は何と「人力そり」)も確かに存在した。しかし、小樽は坂の多い町なので、なかなか苦労したらしい。庶民が利用するようなものではなかったはずだ。現在の小樽運河近辺は埋立地であるため、地面は平らで走りやすいはずだが、しかしまさかこんなに人力車が行き交う状況になろうとは、誰が予想したであろうか。

 こんな小さな観光地でさえも、どこかの「駅前デパート戦争」とか「タクシー戦争」のような仁義無き争いの時代を迎えたのかと思うと、ついつい古株のオジさんには同情してしまう。でも「助けてあげる」ことは誰にもできない。
 この太平の世にあっても、人は何故か無意味に争うもの。こんな話は、誰にとっても他人事ではないのだ。

(2002・5・24)

 

第2部 ストリート・ミュージシャンの夏

 

  1.壱千万円もらった

 いつまでが春で、いつからが夏なのだろうか。境目はない。
 アイヌ語学者・知里真志保によると、アイヌの古い考え方では、私たちの言う「季節」はサ
とマタの二つだけだったらしく、それぞれ「夏」「冬」と私たちが訳しているものである。そもそも、この二つはそれぞれ一つのパ(年)であり、「夏年」と「冬年」が交互にやってくるものだったらしい。数え切れないほどの歳月が流れたことを意味する慣用句に「sak pa iwan pa / mata iwan pa(夏の年六年/冬六年)」というものがあるのは、そのことを表している。ただし、現在は「春」といえばパイカ、「秋」といえばチュと言う。ともかく、短い夏・長い冬の北海道に住んでいる感覚で言えば、「夏年冬年」の考え方はとても納得できるものがある。
 私たちの感覚で言う「春」になった時点で、大昔は既に「夏」だったのかも知れない。だから、いつ「ストリート・ミュージシャンの夏」に執筆を移行するかで悩まなくてもいいのである。

 さて、6月に入って忙しくなる前に、これまで頭の中でストックしておいた「ネタ」を書いてしまいたい。とりとめのない文章になるが、お許しを。

 まず新たな商売人について。運河にもついにアイドル写真の露店が登場した。私の記憶が確かなら、このジャンルは初めてだ。この時期は、修学旅行の学生が多く、とてもタイムリーである。逆に、某店から出張で来ていたアクセサリーの露店は姿を消した。ステンドグラスの絵描きは最大で三人という激戦区になった。先にお話した人力車の活況と合わせ、そんなに儲かるものなのか、とちょっとあせってみる。景気がいいのは商売人だけなのか、運河にいる観光客より商売人の数の方が多いときもある。「さびし〜!」と言いながら、誰もいない運河でギターを弾くのも結構好きなのだ。

 タンポポについて。運河の道端にも、タンポポはいっぱい咲いていた。いくらギターを弾いても何も起きないとき、ふとその可愛さに目を奪われることもある。タンポポにはいろんな種類があるようだが、私たちが目にするものの多くはいわゆる「西洋タンポポ」で、在来のタンポポはなかなかお目に掛かれない。確かその区別は、花の下にある房が上向き(在来)か下向き(西洋)かで見分ける、というのを何かの本で見たことがある。そういう目で見ると、やはり皆下向きだ。
 西洋タンポポは、あっという間に咲いて、いつの間にか散る。ものすごく成長が早く、キングギドラの首みたいに一つの根からたくさんの茎を生やすものもあり、その茎も長いものがある。これは見ようによっては気持ち悪かったりする。しかし、一斉に綿毛を飛ばすタンポポの光景は、やはり叙情的である。ギターケースにタンポポの種が入るのはわずらわしいが。
 ところが、タンポポはやはり雑草。この前大掛かりな芝刈りがあったとき、全てあっさりと刈られてしまった。だいたい綿毛を飛ばした後だったから、タンポポにとってはまだよかったと思う。どうせすぐまた生えてくるから、私は同情しない。

 「珍しいお金をもらった」PART2。
 まず日本の500円玉。天皇御在位六十年(昭和61年)の記念硬貨で、例によって分厚くて重く、お土産のメダルのような質感。菊のご紋がまぶしいが、裏(表?)は皇居の絵が描かれていて、なかなかいいデザインである。しかし、本当によくこんな珍しいコインを投げてくれたもので、私にとって千円札よりうれしい投げ銭である。
 次に、初めていただいたシンガポールの10セント硬貨(1991)。ロシアのコペイカ硬貨と同じくらい小さいものだが、二匹の獅子が誇らしげにこちらを見ている。国名を記した文字が、こんな小さな硬貨の上に4種類も書いてあり、多民族・多言語国家であることをうかがわせている。実際の価値以上に感心してしまった。
 最後に、何と私、「壱千万円」をもらってしまった。と言ってもおもちゃのお札で、私が席を外していた隙に子供がくれたらしい。投げ銭箱のそばに置かれていたそのお札には「おジャ魔女どれみドッカーン! 冗談銀行券」と書かれていた。とほほ...。

(2002・6・1)

  2.修学旅行生が大挙押し寄せた

 この時期の客層として特筆すべきは、学生さんが多いという事である。大型バスで大挙して押し寄せる修学旅行生。観光地である小樽では当たり前の話だが、ありがたい事には違いない。
 この前は、私が学生の頃にアコースティック・ギター関連で知り合った大阪の先生が、学生の引率でやって来た。ワルガキどもの引率は結構大変らしい。しかし、その学校の泊まる運河近くのホテルのラウンジでお話しながら、「今の修学旅行生って、こんな豪華なホテルに泊まるんだ...」と、かなりうらやましく思ったのも事実である。

 ちなみに、私の高校時代の修学旅行は奈良・京都だったが、青函連絡船、急行・新幹線を乗り継ぎ乗り継ぎで、時間が無くて東京を素通りするほどの強行軍だった。飛行機などは夢のまた夢。奈良・京都はそれなりに楽しい思いをして勉強にもなったが、明日を担う若者に日本の首都を体験させなかったこの学校の方針は、今考えれば片手落ちというほか無い。東京駅の周辺を歩かせるだけでも、後に上京したら役に立つはずだったのだが。

 さて、また悲しい愚痴っぽくなってきたのでこのくらいにして、小樽の修学旅行生の話だった。
 学生さんはお金があるという。なかなか投げ銭が入らない状況を嘆いて、私が「学生さんはお金持ってないですよね〜」と言うと、「いやいや浜ちゃん、持ってるよあいつら」とゴム長さんが言う。そうかも知れないが、私は学生さんがCDを欲しいと言ってきた時には、「学割料金」として500円割り引くことにしている。
 以前にも書いたが、本来、子供たちは興味を持ったものには素直だと思う。大人たちが全く興味を示さないとき、外国人か学生さんだけが投げ銭を入れてくれたという日は結構多い。これがきっかけになって、投げ銭文化が成長していない日本において、子供のうちから投げ銭という行為に慣れていただければうれしいと思う。

 彼らと投げ銭の関係には、心理学的に興味深い傾向が見て取れる。例えば一つのグループの中の誰かがたまたま入れてくれると、他のみんなが「投げないと悪く思われる」と考えて連鎖的に入れてくれるという特徴がある。連鎖反応で、ほとんど聴いていなくても入れてくれる人もいる。これは、集団で歩いているご年配のオバさんたちの行動パターンと全く同じで、私にとってはありがたいが、この主体性の無さはちょっと考えてしまう。気に入らなかったら、無理に入れてくれなくても全然構わないのだ。
 逆に、すごく興味深そうに聴いていても、他のみんなが先に行ってしまったので彼らの後を追ってしまうというケースもある。要するに、仲間はずれになりたくないという意図を強く感じる。先ほどと逆に、ここは気に入ってくれたら投げるべきなのだ(もちろん強制はできないが)。
 こういうのは、見ていてもどかしい。

 さて、もう一つ思うことは「走り去り」と私が仮称している奇妙な現象である。これは、ストリート・ミュージシャンの前をわざと駆け足で通り過ぎるという行為で、特に女子高生がよくやる。私の前を通り過ぎた後は普通に歩いていたりするので、時間に追われているということでもないらしい。気に入らなかったら普通に無視して通り過ぎればいいものを、わざわざ「意地でも聴かねーぞ」という意思表示をしていると考えられる。これをやられると、私はそのたびに悲しくなる。
 この年頃の多感な女の子は、よい音楽への感心とアイドルへの憧れの区別がついていない事が多いので(一生区別がつかない人もいるが)、「ここでこの音楽に入りこんだら彼を認めたことになり、仲間に冷やかされるのではないか」という心理も働いているのではないかと私は推察する。つまりこれは感心の裏返しなのではないか、という(私にとって心の慰めっぽい)推察である。ちなみに、年端もいかない小学生は、時間に追われていない限り「走り去り」をしない。もし仮に、私が女性ギタリストだったら、「走り去り」をした彼女たちの半分くらいは関心をもって私の音楽を聴いてくれるかも知れないが、そんなのはつまらない話だ。

 修学旅行は、楽しい遠足みたいなもの。投げ銭の話はともかく、小樽の街で何か一生に残るような思い出を持って帰ってほしい。タバコも酒も万引きもいけませんよ!

(2002・6・14)

 

  3.ギターケースが壊れた

 私は、自分の家から小樽運河まで歩いて通っている。車はない。大学卒業前に何とか免許を取ったものの、その後15年間全く運転していない、筋金入りのペーパードライバーだ。免許証は、完全に身分証明書と化している。以前住んでいた小樽市信香町は、「ヌカ nup-ka 野原・の上」というアイヌ語源の通り、平らな町で通いやすかったのだが、現在の住所はかなり坂の上にあるため、歩くのもなかなか大変である。特に帰りは、バスを使うことも多い。颯爽と車でスタジオやライブ会場に通うギタリストは世の中に多いかも知れないが、私は足腰が立たなくなるまでは徒歩でがんばるつもりである。
 背負う荷物の重たさについては、以前書いたので触れないが、こういう状況で、今年に入ってからギターケースの取っ手部分を二台も壊してしまった。歩いている途中でミシミシと不吉な音が気になっていたのだが、計らずもギターの重さに耐えられなくて、取っ手を止めていたボルトが外れたりねじ切れたりしてしまったのだ。運河に通い始めて6年目、かなり金属疲労が溜まっていたのだろうが、私はさしずめ「ギターケースの破壊者」というところか。

 実は、ギターケースを破壊してしまったのはこれが初めてではない。二年前も2台ほど同じ部分の破損に悩まされ、楽器屋さんに修理をお願いしに持って行くと、「ウチではギターケースの修理はやっていない」とケンモホロロの回答。
 では質問。ギターケースの修理は一体どこでやっているのか? 答えはカバン屋である。

 地元のカバン屋さんに、二年前、その2台の修理をお願いすると、確かに直っては来たのだが、取っ手がモロにサラリーマンが使うような革カバンの取っ手に変えられていて違和感てんこもり状態。「どうですか、特別に作りました。手にフィットするでしょう」と言われて、まさかやり直せと言うわけにもいかず、「ええ、バッチリです」。
 しかし全然バッチリではなくて、グリップが横に広すぎて持ちにくかったのを覚えている。比較的軽量な革カバンの取っ手と違い、通常の楽器ケースの取っ手は縦の面積の方が広く、手に余らず握りやすい形になっているのだ。毎日使うものなので、こんな小さな違和感でもとても気になる。しかも、ギターの重量が全て革の部分に掛かるので、持つ手が革と擦れて痛いのである。おまけに一年ほどで再び一台の取っ手が取れてしまい、それ以来そのギターケースはお役ご免。とんだ散財だった。

 ギターケースには、スキーのケースのように肩紐がついているものもあり、雨が降っているときは便利である。しかしこの肩紐の止め具も過去に何台か壊してしまっていて、要するに市販のギターケースはもろいという結論が出てくる。たかだか6年使っただけで何台もあちこちで壊れてしまうというのは、私の持ち方が悪いというわけでもあるまい。
 ギターケースは、ただ単にギターを買ったときについてくる安っぽいオマケであってはならない。ギターケースは、当たり前だがギターを持ち歩くための入れ物だ。別に使っていないギターを部屋で死蔵させるための棺桶ではない。私のギター本体が無事だったのはただの偶然であり、落した拍子にギターまで壊してしまう可能性は大いにあったのだ。大切なギターを託す以上、メーカーにはもっと丈夫で長持ちするギターケースを作って欲しい。

 そう言えばずいぶん昔、フライング・フィッシュでレコードを出した唯一の日本人ギタリスト、佐藤忍さんの里帰りライブを東京の両国フォークロアセンターで見たとき、佐藤さんのもっていたシェーンバーグのギターと、輝くジュラルミン製のギターケースが印象に残っている。旅行用のアタッシュケースみたいな代物で、あれなら大抵の衝撃は大丈夫かも知れないが、すごく重たそうだったなあ。

 まあとにかくそんな訳で、今年壊してしまったケースの持って行き場がなくて困っている。幸いにしてギターは10台ほどあるので、別のギターのケースを無理やり使ってごまかしているのだが、あきらめて新しいカスタムケースを買おうかどうしようか迷っている。最近イマイチ儲からないのに、出費の予定だけはたくさんあって辟易しているが、必要とあらばしょうがない。ただし、私はアンプをリュックに入れて背負っているため、最近流行りのショルダーケースは使えない(これは楽チンでけっこう好きなのだが)。いいケースがあればご教授願いたい。

(2002・6・21)

 4.目のやり場に困った

 北海道は、当たり前だが本州などよりずっと涼しい夏である。夏が涼しい事は良いことだと思う人も多かろうが、北海道の不景気はこれが原因ではないかという向きもあり、暑い夏はみんなの望む所なのだ。昨日(7月8日)昼の小樽運河は、霧っぽい天気で気温が15度くらい。これでは盛り上がるものも盛り下がってしまう。しかし、数日前まではかなり天気がよく、いわゆる「夏日」が続いた。せめてこのくらいは暑くならないと、北海道の景気が心配である。

 夏の話題で、いつか書こう書こうと思って、なかなか思うように書けなかったことがある。それは、運河を訪れる女性の夏のいでたち(服装など)についてだ。
 もはや「おじさん」の年齢領域真っ只中にある、私のような独身男性は、異性についての言動にはよくよく人目を注意しないとヘンタイ扱いされかねないので、言いたいことも言えずにギターケースの影で震えていたのだが、この辺でお小言の一つでも言って楽になりたいと思う。いわばオヤジの説教である。

 まず何と言っても、今時の女子高生のスカートの短さは、もはや異常としか言いようがない。暑さで頭がどうかしているのではないだろうか。彼女たちのパンツよりも先に、こんな破廉恥なカッコを文句も言わず自分の娘に許している親の顔が見たい。
 私が中学生の頃の女子学生は、ひざ下何十センチ以上は長くしてはいけないという校則があったくらいで、皆が長いスカートをはきたがっていた。ところが今は全く正反対にひざ上何十センチ、イキがる小娘たちがロンパールームの幼稚園児みたいなスカートで偉そうに闊歩しているのは滑稽である。夏なのに、ひざまで届くくらいの長くだぶだぶな靴下を履いているのも彼女たちの特徴だ。自分ではカッコイイと思っているのだろうが、いいかげん幻滅してしまう。『浜田隆史詩集』でも書いたが、「恥を感じない人間は大嫌い」なのだ。

 では、中を見せてもいいくらいの度胸があるかというとそうでもないらしく(ブルマーのたぐいでも履いているのだろうか)、リュックやポシェットなどの荷物類をお尻までだらしなく下げて歩いているのがまた気持ち悪い。何でこんな事をするのだろうか。最近私は、日差しが強いために演奏中目をつぶっていることが多いので、こういう人たちはその間に早く通りすぎて欲しい。
 ファッションは、「みんながやっているから」という理由で選ばれることの多いもの。逆に言えば、みんながやっているならば、良識ある一部の人がどんなに不快になっても許される世の中なのである。私はそういう行動様式をとことん否定する人生を送っているつもりなので、せめて彼女たちの目が早く覚めて欲しいと思う。
 要は、普通にしろよということなのだ。

 大人の女性に目を移そう。さすがに女子高生ほどひどいファッションではないが、最近気がついたことがある。いかしたスタイル、うるわしい洒落たワンピース、なかなか悪くないなあと思っていたら、何だか彼女の腰からソーメンみたいなものがぶら下がっている。あれれ?と思って見ると、彼女はジュディ・オング風にマフラーというか、腰巻のようなものを巻きつけていて、その南京玉すだれ状の細長い飾りがそう見えたのだった。この飾りものの正式名称がわからないので変なたとえになってしまって申し訳ないが、見た感じはやっぱりソーメンである。ファッション雑誌からとり入れた今年の流行りなのかもしれないが、これは頂けないと思った。

 もう一つ、どうしても文句を言いたいことにサンダルの異常増殖がある。この前マイカル小樽の靴屋に行くと、女物の革製サンダルが多くてビックリしてしまった。サンダルといえば普通はビーチサンダルくらいしか思いつかないのだが、ごみごみした街中でもこういうのを履いている人の気が知れない。踏まれたら痛いに決まっているし、外は埃っぽいから足が汚くなるだろうし、ガムや犬のウンチを踏んだら困るだろうし、雨水の溜まった道やでこぼこ道などは、これでは歩けないだろうと思う。
 小樽運河でも、底の分厚い、花魁の履くようなサンダルで、ズルズルとやかましい音を立てて歩く女性たちにあきれてしまった。テレビで見た事があるが、この厚底サンダルはいろいろと危険性が指摘されていて(特にこれを履いて車の運転はマズイという話だ)、他人事ながら心配になってしまう。

 言いたいことは言ったのでだいぶ楽になった。
 ファッションは人の自由、大いに満喫しても別に罪ではないし、投げ銭とは全然関係がない。
 勝手にすれば?

(2002・7・9)

 

 5.雨が降った

 7月の小樽は、今の所まともに晴れた日が数えるほどしかなく、どうにもお天気に嫌われている。雨の話は今までの「投げ銭随筆」で散々出てきたのでウンザリしている方もいらっしゃるだろう。私もウンザリしている。
 今年はいつにも増して天気が悪かったが、7月に特に雨が多いのは、何も今年に限った話ではない。私が子供のころ、夏休みの海水浴シーズンにしつこく雨が降り、泳げたのはたった二三日ということがよくあった。北海道には梅雨がないというのはよく聞くが、実は毎年、かなり梅雨のとばっちりを食らっているのである。梅雨の末期(ちょうどこれを書いている今ごろ)になると、太平洋高気圧が強すぎて、梅雨前線は押し流されて北海道まで北上したりする。こうなるともはや立派な「梅雨入り」で、北海道に梅雨はないという従来の気象庁の説は是非とも撤回していただきたい。

 7月の夏休みから観光客の出足が加速して、私の商売も本格的な稼ぎ時になる。だから、ここで1日出られないと言うことは年収にも影響するほど辛いのだが、本当は私などより、一生に数度しか小樽に来ないであろう観光客の方がもっと辛いという見方もできる。天気は誰にでも平等だから、どんな人も潔く雨に降られるしかない。
 雨が降って仕事に出られなくなると、私は用事で札幌に行ったり、図書館でアイヌ関連の本を読んだり、楽器屋さんに行ったりすることもあるが、恥ずかしながら家で無駄な時を過ごすというパターンが多い。天気は気まぐれなので、一応自宅待機という事なのであるが、結局の所、ただなまけているのかも知れない。最近は、CDRによるアルバムが増えてきたので、空き時間を利用して焼きまくったりもする。意外とジャケット印刷も時間がかかるので、こういう時を賢く使うのが理想だ。

 「浜田サンは家でも熱心にギターを練習しているんですね」「サスガ!」と皆様に言ってもらいたいばかりにサラッと嘘をつく事は簡単だが、夏は小樽運河で1日最低5時間ほどギターを弾くのが当たり前。だからこの時期は、作曲や指使いの確認以外は、ほとんど家でギターを弾いていない。体を休めないと、いいかげんに指が夏バテになってしまいそうなのだ。最近は、外で演奏していても、お客の流れが切れた時には堂々と作曲したりしているので(最近の曲「ジョンファン・マーチ」も、発想は家だったが外で仕上げた)、ますます家でギターを弾く比率が下がっている。

 さて、雨が降って休むしかなくなると、ふとしたきっかけでちょっと鬱になり、今までの自分を情けなく思うこともある。「オレも要領が悪いな」「毎日毎日観光客に無視され続けてよく懲りないな」「こんなつまらないことに何で入れ込んでいるのかな」と思ったりする。私は、投げ銭パフォーマンスが芸事の理想の形態だと思っているので、全然つまらなくないのは自分でもわかっているのだが、やっぱりたまには愚痴りたくなってしまう。
 しかし、どんな異常気象の世の中であっても、降り続いた雨も絶対にいつか上がる。晴れ間がのぞくと、とにかく心が騒ぎ、一刻も早く外で演奏したくなる。出て見ると、もう既に何人かなじみの同業者たちがいる。「やっとできますね」「浜ちゃん、今来たの?」などとやりとりして、お気に入りの場所でいつものように演奏するひとときが、一番落ちつくのである。こんなときタバコが吸えたらいいのにな、とも思う。

 しつこいようだが、私はまた外でギターを弾いている。弾いているのは太陽の音楽だ。

(2002・7・21)

 

 6.CDを売った

 結局、この7月の天候は、私が路上演奏を始めてから今までで一番悪かったようで、お日様が恋しい日が多かった。かくいう今日も堂々と雨が降っているので、しかたなくこの文章を書いている。関東以西の方たちはどうしようもない酷暑に悩んでいるようだが、全く別世界のようである。

 関東といえば、昨日テレビで面白い話題を放送していた。海外の例に習い、東京都が大道芸人にライセンスを出すという、皆さんもご存知のお話である。ちなみに、審査員の一人があの萩本欽一氏で、オオッとうなってしまった。都庁に応募した人がオーディションを受け、合格かどうかの判断を待つらしい。合格すると、東京都が指定する場所で、自由にその芸を披露できるという。審査基準などに疑問の向きはあるものの、今まで肩身が狭く邪魔者扱いされる事が多かった大道芸に、いわばお上が「お墨付き」を与えるということは、とても意義のある事だと思う。もし他の自治体に広まっていけば、大道芸に対する一般の認知度が上がり、芸人がより評価される時代がやって来るのではないか、と私は期待している。芸人側も、客観的に評価されるということは、よりよい研鑚を積む励みになるだろう。

 ただし、注意したいのは、これが試行段階であると言う事。東京都に詳しく掛け合って聞いたわけではないが、芸と商売の関係についてはまだまだ検討の余地がありそうだ。たとえば、投げ銭はもらってもいいらしいが、ねだることはいけないという(このへんはビミョ〜だ)。また、CDなどの物品販売もダメらしい。つまり、公道においての商売行為はやっぱり認められないのだ。ということは、芸人は商売人ではなくアマチュア奨励、ただ単に芸を披露するだけのボランティアということになってしまう。また、東京都が指定する場所以外でのパフォーマンスも認められないため、新規開拓ができない。これらに違反するとライセンス剥奪ということになってしまうため、これは実は苦しい条件なのだ。

 海外の例に追随して「新たな文化を発信しよう」などと賢人ぶっている役人たちは、まず大道芸人たちの多くが芸で生活しているという実態をきちんと認識してほしい。
 芸人が皆様に芸を披露するのは、何のためだろう。
 最終的には、金のためである。

 大道芸人たちが(あくまでたまたま?)いただいた投げ銭を、東京都が所得申告の対象と位置付けているどうかは不明だが、おそらく「対象外」ということなのだろう。物を売ろうがおひねりを貰おうが、収入を得るということは商行為以外の何物でもないのだから、「投げ銭は単なるお客様のご厚意で、収入ではない」という甘い位置付けでなければ、商売を容認する事になり、物品販売禁止の方針と矛盾するのだ。私は、既にそういう考え方を否定している。投げ銭が課税対象の収入であると説く私の考えは「投げ銭随筆(1)」で述べたので、ご一読願いたい。

 そもそも、大道芸は物品販売のための広告塔という一面を持っている。歴史的に見てこれを否定する事はできない。アメリカのミンストレル・ショーもそうだし、日本の(例えばガマの油がタラ〜リタラリという)薬売りもそうだった。芸とは何のためにあるのかという疑問を、芸人の立場に立って考えれば、芸と商売を簡単に切り離す考え方には賛成できない。一部の劇団系大道芸は確かに身一つで実現できるため、物品販売と切り離す事は容易だろうが、特に音楽をやる人は、演奏がCD販売と切り離されると非常に苦しい。「実演販売」により、演奏を気に入ってくれた人がCDを買ってくれるという行為は、単に少ないお金を投げるよりもその人の音楽を認めたということであり、言わば投げ銭の延長なのである(そういえば、以前投げ銭を500円入れてくれた人が、直後に2500円のCDを買う時に「ならあと2000円ね」と入れてくれたのを思い出す)。もちろん、税金をきちんと払うと言う前提で、ある程度販売を認めてもおかしくないのではないかと思う。

 芸をやっていいと言っておいて商行為を禁止するのは、「街の芸術」という名目だけを取り繕っているようで片腹痛い。もし本当にそういう考え方ならば、東京都が芸人を雇うという形でなければおかしい。芸がサービスの一種である以上、投げ銭は誰が何と言おうと収入であり、商行為の証であるからこれをもらうことを禁じ、その代わりに自治体が給料を出すしかないのだが、多分そんな事はあり得ない。今までは大空の下での自由な商売だったのに、ライセンスの代わりに中途半端な制約をもらってしまう大道芸人たちの行く末が、他人事ながら(?)気がかりである。
 小樽運河では、もちろん堂々とCD販売も行っているし、一方できちんと納税もやっている。
 どうぞ私のCDを買って下さい。

(2002・7・31)

 

 7.雨が降り続いた

 5.「雨が降った」と同じく、また雨の話になってしまうのはたいへん不本意だが、最近の目立ったトピックがそれしかないのだから仕方ない。8月に入って、まだ快晴という天気がほとんどないのだ。私の今までの6年間の中で、最も稼ぎの良い月は、統計的には8月である。今年の8月、まだ半分も過ぎていない段階だが、雨の降らなかった日が12日中3日しかない状況では、いかに私でもいかんともしがたい。おまけに、気温も低温が続き、今日の最高気温は20度ほどらしい。まるでもう「第3部・秋」に突入してもおかしくなさそうだ。
 5日間ほど連続して運河に行くことができず、やっと雨がやんでとりあえず3時間ほどギターを弾くと、何だかいつもより疲れている。左手甲の「セーハ筋肉」がつり気味になる。やはり「継続は力なり」で、仕事は毎日決まった時間に決まった条件でやらないと、体の調子が狂ってしまうらしい。

 私は何だかんだ言って自分のギターが可愛いので、最近は少しでも雨が降ったらすぐに家に戻ることにしている。いつも乱暴に弾きまくったり日光にさらしたり石畳にぶつけたりと、自分のギターを道具としてぞんざいに扱っているのだが、これは私のギターに対するせめてもの良心である。成績が悪い中、がんばりたいのはやまやまだが、一適でも黒いピックガードに雨粒が見えたらストップ。霧雨程度ならとがんばる若い同業者諸君よ、湿気だけは絶対だめ。楽器が大事ならやめときなさい。

 こうなったら仕方ないから、雨の日でも少しでも楽しい事を探すことにした。
 楽しかったことその一。市場でギター
 思いがけなく最近、子供の頃から慣れ親しんだ市内の「妙見市場」の中でギターを弾いたのだ。市場活性化のために、空きスペースを利用した喫茶コーナー「妙見カフェ」があり、そこで小一時間演奏する光栄に恵まれたのである。私の人生で、まさか妙見市場でギターを弾くという出来事が起こるとは夢にも思わなかった。市場に入ると、昔懐かしいにおいがまたうれしい。その日はどしゃ降りの雨で、屋根の下でギターが弾けるのもとてもありがたかった。お招き頂いた小樽文学舎に感謝である。

 楽しかったことその二。お買い物
 最近順調に売れているCDRによるアルバム(「夏の終り」や「ライブ・ラギング」など)用の材料を、遠くの家電量販店へ買いに行くのが、最近の楽しみになってしまった。もとNEC社員としては、やはりパソコンのトレンドも気になってしまう。イマイチお金がなくて、気分が滅入るときには、ウィンドー・ショッピングが最適である。不遇の日々(?)を送りつづけると、何だか幸せのレベルがどんどん下がってしまうのだが、それも人生。

 楽しかったことその三。朝風呂に入った
 こう見えても元は会社員だった私は、朝寝・朝酒・朝風呂だけはすまい、そんなことをするのは堕落した人間の証拠だ、と自分を戒めてきた。しかし数日前、一日中運河でギターを弾いて夜遅くに帰り、家の風呂に入るのがおっくうでそのまま寝入り、翌日が朝から雨だったりして、ついつい誘惑に負けて、朝からぬる目のお風呂に入ってしまった。これが何と、予想以上に至福のひととき。湯船につかりながら、外のパラパラとこそばゆいような雨音を聞くと、雨もそんなに悪いものではない。このような、たとえ会社の重役でもできない贅沢なことが楽しめる私は、実はなかなか悪くない身分なのかも知れない。

 気づいてみたら、もうすでにお盆のシーズン。もう夏の暑さを期待するのは難しそうだが、せめて今週末くらいはまともにギターを弾きたいものだ。

(2002・8・12)

 8.目をつぶった

 そうこうしている間に、北海道の夏のピークは過ぎ去ったようで、いくら晴れても25度もいかないという状況になってきた。札幌大通公園のビヤガーデンは、今年が過去最低の人出だったらしい。風もすでに秋風の趣。これからたまに暖かくなることがあるとしても、「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉通り、夏の熱気というものはもはや期待できない。夏の記事は、この項でおしまいにしたい。
 結局、8月は、今のところ27日中、15日も雨が降り、そのうち10日が終日雨でつぶれるという、私が今まで経験した中で最も天気に恵まれない月となってしまった。また、土日に特に多く降ったのも打撃だった。今、はっきりいって商売替えを検討したいほどの無力感に襲われている...。本州のニュースで「連日の猛暑」などといっていたのを、どんなにうらやんだことかわからない。
 たびたび繰り返すようだが、なんだかんだ言っても夏は暑くないとダメなのだ。

 人間は、恵まれない状況下の対応にいくつかのパターンがあるらしい。数年前、まだ投げ銭家業がいい商売だった頃、たくさん人がいたのに投げ銭があまり入らないと、私は不遜にも、内心プンプンと怒ったものだ。時が過ぎて、殿様商売では通用しなくなると、怒るよりも「自分にどこか悪い所があるのだろうか」「もっといろいろ試してみよう」などと前向きな所が出てくる。さらに時が過ぎて、どうがんばっても思うような結果が出ないときは、心がだんだん沈んで、暗くなってくる。
 そして、さらにさらに逡巡を経ると、「ええじゃないか」状態になる。いきなり写真を撮られてもええじゃないか。投げ銭が入らなくてもええじゃないか。人が来なくてもええじゃないか、という感じ。前向きな開き直りならまだしも、これでは人間としてダメダメ。希望を持ちつづけるのが苦しくなる時もあるが、人生前向きな希望は捨てないようにしたい。

 数年前から私は、目をつぶってギターを弾くことが多くなった。これは、もちろんブラインド状態での練習ということもあるが、えんえんと無視され続ける自分の状況を見たくなかったからなのかも知れない。おかげさまで、ほとんどの曲をまさに目をつぶってでも弾けるようになってしまった。難曲「クライマックス・ラグ」を最初に目をつぶって弾けたときは、うれしいというよりも不思議な気持ちになった。自分が改めて、こういう事をしているんだということが、感覚で理解できて心が落ち着いたのである。

 私は詩集でもそれとなく書いているのだが、目に頼りきった人生というものに懐疑を抱いている。自分の目というだけでなく、人の目を気にしてつまらなくなってしまう生き方のことである。人に注目されないと調子が出ないのは、ただの目立ちたがり屋。人が見ていないくらいで、ちょっと無視されたくらいで、たかが少しばかりの投げ銭が入らないくらいで、自分の音楽に影響が出てしまうのは、まさに目に頼っている証拠だ。目をつぶって弾くのは、その意味で自分の音楽に集中しようとしている側面もある。
 もしあなたが運河を訪れて、私が目をつぶって弾いていたら、少しでもいいので声を掛けてあげて下さい。

 でも、こんなことを外国でやったら、あっという間に投げ銭やCD盗まれちゃうだろうな...

(2002・8・27)

 

第3部 ストリート・ミュージシャンの秋

 

1.投げ銭箱について考えた

 悪夢のような夏が終わった。
 8月が記録的な多雨・低温・日照不足となったのと対照的に、9月に入ってからは遅まきながら夏のような気温となり、残暑が続いている。9月に最高気温更新となった地方もあったくらいで、今年の異常気象を象徴している。前の方に書いた予想がまるはずれで、「暑さ寒さも...」が全く通用しなかった。
 「残暑ざんしょ?」などとおちゃらけてはいられない。夏より秋の方が暑いという逆転現象は、「どうして夏休みが終わってから晴れるの?」という恨めしさは残るものの、今の私にとっては稼ぐチャンスなのでありがたい。札幌・大通公園のビヤガーデン、ていねプールなど、もう既に営業を終了してしまった夏季の商売には、お気の毒という他ない。

 最近は、久々に思う存分ギターを弾いている。いつもは左手握力の疲労が8月当りでピークになるのだが、今年は今がそういう状況。お手洗いで1時間に一回くらい、水で手を冷やさないといけなくなっている。しかし、これはむしろ心地よい手間である。あとは、何だか変な西寄りのコースばかりたどっている台風が来ない事を祈るのみだ。秋のさわやかな風と、おだやかに流れる雲、そして適度の投げ銭があれば、私はこれからもがんばっていける。

 さて、これだけで記事を終えてしまうのも中途半端なので、全然関係ない事をちょっと書こうと思う。それは、投げ銭の箱についてである。
 以前から小松崎健さんや他の方からも言われていたのは、私がいつも使っている投げ銭を入れてもらうためのカン(お菓子の丸い缶)が小さすぎるのでは?ということだった。確かに、そう言われてみるとCDケースほどの大きさしかなく、目立たないかもしれない。健さんが言うには、これはもっと大きく目立たせないと、投げ銭の入りに影響するのだそうだ。どこにお金を入れて良いのかわからない人も出てくるし、箱がずうずうしい自己主張をしないと印象に残らず「別に入れなくても良いのかな」などと思われるからである。

 ここで、私の投げ銭箱の歴史を開陳しよう。
 まず、ご多分に漏れず私も、最初の1年ほどはギターケースを開けて投げ銭を入れてもらっていた(CD『オリオン』の裏ジャケットなどを参照のこと)。これは多くのストリート・ミュージシャンと全く同じで、ギタリストにとって最も安直な方法である。ギターケースが目に入らないという人はいくらなんでもいないだろうから、大きさという意味ではこれ以上のものはない。私の場合、CDはケースのネックに当る部分に厚紙を置いて、そこに並べたりした。

 しかし、ギターケースには多くの欠点がある事がわかってきた。まず大きすぎるということ。スカスカで、投げ銭をいくら入れたかが分かりやすいため、ほんの少額を入れようとする人にとっては周りの人の目が恥かしいということもある。
 次に言えることは風に弱いということ。海岸地方の小樽では時に強風が吹きぬけ、ギターケースがその都度倒れてしまう。特に札の投げ銭は、底の浅いギターケースの中では飛びやすい。外で大口を開けて待っているので、ほこりが入ってしまいやすく、しかもなかなか取りづらい。ギターにとってほこりが大敵である事は、今更言うまでもなかろう。
 そして、雨が降るともっと始末におえない。とっちらかったお金やCDを片付けてギターを入れるまでには少し時間がかかり、その間ケース内部が濡れてしまうとギターにも深刻な被害があるだろう。

 以上のようなことがたびたびあったので、私はギターケースを開けずに、別の投げ銭箱を使う事にした。ゴミ箱で拾ったお菓子の紙箱をたまたま使ってみたところ、良い感じだったので、そのまま2年ほど使用したのだ。この紙箱は赤い色をしていて、小さいながら少しは目立ったようである。紙なので軽く持ち運びもしやすいため、偶然にしてはよいおもいつきだったと思う。一方、ギターケースは開けずにCDを置くショーケースとして使った。これならば、雨の時の撤収作業も早くなるし、ギターケースの中は濡れない。これは、今のスタイルと全く同じである。
 この紙箱は今の缶よりも小さく、また軽くて飛びやすかったが、なぜか可愛くてずっと使っていた。しかし「紙」の定めか、3年目についに破れてしまい、ガムテープの補修も効かなくなったため、残念ながら廃棄処分になった。

 そこで、同じお菓子つながりで採用したのが、現在の缶なのである。一応ブリキ製みたいで、紙と違って簡単には壊れない。これでも進化しているのである。ディズニーの白雪姫の絵が描かれているため、寄ってくる子供もいるみたいである。
 健さんに言われて、もっと大きく目立つものにしようかとも思ったが
(例えば「トラピスト・クッキー」の空き缶など...発想がお菓子の箱からなかなか離れない...)、あまり大きいとリュックに入らないし、持ち運びが大変。そうでなくても慢性的に肩痛なので、今はこういう状況に甘んじている、というわけだ。

 うわ、ホントに全然残暑と関係ないうえに、オチがないな。
 箱の大きさには目をつぶって、大き目のお金をぜひお願いしますね ♪ などとムリヤリまとめちゃいます。

(2002・9・4)

 

2.イサトさんが来た

 9月は、気持ちの良い好天が続いている。もちろん喜ぶべきことだが、逆に言えばほとんど雨が降っていないので、全然休めない。月が違うだけでこうも天気が違うものかと驚きつつ、粘り強く運河に通っている。

 しかし、だんだん日が短くなってきているのが分かる。夏は夜7時でも明るかったのに、今は6時でも明かりが必要である。夏は、昼の分が終わるといったん家に戻り、夜再び運河に通ったものだが、今は晩御飯も外ですませてそのまま運河に居着いている。この方が、バス代一回分浮くのである。
 現在、昼に3〜4時間、夜に2〜3時間を目安にギター演奏をしているのだが、さすがに夜は涼しくなってきているので、いつまで夜に演奏出来るかがそろそろ気になってくる。ちなみに、去年は何と11月にも夜の演奏をした日があったが、普通は残念ながら10月初旬あたりで止めてしまう。

 そんなわけで昼夜の別なくギターを弾いているのだが、いくら仕事とはいえ私も人間なので、疲れてしまうこともある。人がまばらなときは、ギターを横に置いて、失礼して一寝入りしたりすることもある。ああ申し訳ない、小樽まで来て私の素晴らしいギター演奏を聴くことなく帰ってしまうなんて、何てアンラッキーな人達だろう、と思いながら、けっこうグーグー寝るのも心地よい。しかし、前作「投げ銭随筆」で一期一会の話をしたが、私が休んでいる間に、貴重な出会いとなるはずだった人達が次々と通りすぎてしまったかもしれない。私は寝ながら反省している。

 9月5日(木)などは赤面の思いだった。上記のようにグースカ寝ていると、パンパン!と手を叩いて私を起こす音がする。私の向かいで商売をしている松尾さん(木彫デザイン)のひやかしだな、うるさいなあと思って見ると、何とあの中川イサトさんと住出勝則さんがいるではないか。ほ、本物?...目が飛び出そうなくらいビックリした。
 中川イサトさんは、言わずと知れた日本を代表するアコースティック・ギタリスト。住出勝則さんは最近知った超絶ギタリストで、お二人は北海道ツアーの一環としてこの日小樽に着いたばかりだったのである。それにしても、いきなりカッコ悪いところを見られてしまい、私は笑ってごまかすしかなかった。お二人の優しい笑顔が印象的であった。

 もちろん、既に前売りチケットを買っていた私は、その日の夜のライブ(小樽・一匹長屋にて)を思う存分楽しんだ。イサトさんのライブを見るのは久しぶりで懐かしかったが、年輪を感じさせる叙情的な演奏に感じ入った。私はこう見えても学生時代からのイサト・ファンであり(「ラグタイム名曲紀行(ギター編)」などを参照のこと)、ほとんどのアルバムを持っている。最近の「トゥリー・サークル」も好きである。私の世代以降の、日本にいるフィンガースタイル・ギタリストは、その多くがイサトさんの影響を何らかの形で受けていると思う。
 住出さんの演奏を初めて生で見て、そのグルーブ感と表現力に仰天した。チョッパー奏法のような、不思議でパワフルなタッチで、目の覚めるようなギターソロを聴かせてくれた。そのクールなギタースタイルと、楽しいMCとのギャップがまた面白く、最後のイサトさんとのやりとりも絶妙だった。
 打ち上げでは、いろいろ興味深いお話を聴くことができて、至福の一時だった。

 思わずライブレポートになってしまったが、私も一寝入りなんてしてる場合ではない。がんばります。少なくとも、寝るときはギターを持って寝ることにしよう...(?)。

(2002・9・11)

 

3.AKIさんが来た

 いきなりだが、秋の北海道にAKIさんがやってきた!(いや、洒落ではない)
 9月14日に北海道入り、23日までの初の道内ツアーは、AKIさんの新作CD「Harvest Moon」(2002)発売を記念した全国ツアーの一環であった。その道内ツアー期間中は、小樽の我が家に泊まっていただき、ここを拠点に小樽・札幌・旭川と次々にライブを行った。AKIさんは、私や谷本光君と競演しながら、北海道のギターファンに強烈な印象を残したはずである。

 AKIさんは、私と同じくTABギタースクールからCDを発表(2作)されている先輩格のギタリストで、ドイツのギタリストのピーター・フィンガーに影響を受けつつ、日本的な情感とアコースティック・ギター音楽との見事な融合がなされている。特に、新作CDの芸術性には言葉も出ないくらいに感動した。AKIさんの感情のこもった音楽が、収穫の秋を迎えてまさに結実している。
 よく「世界に通用する」というフレーズで日本のギタリストを褒め称えることがあるが、この新作はそういうレベルを飛び越えていて、アコースティック・ギター音楽の一つの頂点を極めていると言っても言い過ぎではない。フィンガースタイル・ギター・ファンのみならず、多くの音楽ファンに聴かれることを願ってやまない。

 さて、AKIさんのあの鋭いギターソロと風貌の印象から、「怖い人なのかしら?」と思う人もいるかも知れないが、話してみるとおわかりの通りとても穏和で優しい人柄であり、おおらかな性格の持ち主である。
 ここに書ききれないほど、おもしろい話がたくさんあった。まず、最初に本州から小樽にお車で到着するまでが大変。AKIさんの本拠は神奈川県だから、普通は新潟から小樽のフェリーに乗れば近いのだが、13日頃?いきなりAKIさんから電話がかかってきて、「今、青森なんだけど、北海道に行くにはどんなフェリーがあるのかな?」という内容。新潟から小樽のフェリーの話をすると、「えっ?そんなのあったの?」「どうしよう?戻ろうかな?」という感じで、失礼ながら電話を切った後で大笑いしてしまった。

 一番遠回りの函館〜長万部経由で、やっと14日に小樽に着いたようで、「じゃあ南小樽駅で待ち合わせしましょう」ということになり、待っているとAKIさん登場、しかし何だか知らない人がもう一人いる。AKIさんから「浜田君、彼が運転手をしてくれた、僕の弟子の佐藤君。」とあっさり紹介されてしまった。「浜田さん、よろしく〜」と佐藤君。「えっ? AKIさん一人じゃなかったの?」「あれ?言ってなかったっけ? ゴメンゴメン」という話で、ご一行が到着して初めて、私は我が家に二人の人間が泊まるということを知った。要するに、あまり細かいことは気にしない人なのかも知れない。

 しかし、AKIさんとこの佐藤君、なかなか憎めないコンビであった。何とか二人分の布団を出して寝てもらい、以後10日近く我が家がAKIさんの拠点になったのだが、私にとっても楽しい日々であった。
 佐藤潤クンはフォークシンガーで、かなりの実力派。みんなで小樽運河に行き、投げ銭活動をすると、向かいの絵描きさんから「もうちょっとだけ静かにお願いします」と言われるほど、よく通る大きな声の持ち主だ。自主制作でCDを数作(ギター弾き語り)発表していて、これもなかなか聞き応えがあった。彼の活躍もこれから楽しみである。

 私はいわば、下宿の宿主のような気分を味わわせてもらった。この10日間は、私の人生の中で最も多くのパンを焼いた期間だったかも知れない。それほど朝にパンを焼きまくった。朝AKIさんが起きてくると、「じゃあ焼きますか?」という感じで、お二人ともよく飽きもせず食べてくれたと思う。また、地元の人でないとわからないような穴場のお店をご紹介して、気に入っていただくと、私も地元の人間としてうれしかった。

 お二人が最後のライブを終えて、次のツアーに向かった後、私はまた気ままな一人暮らしに戻ったのだが、さすがに反動で少し寂しくなった。一緒に小樽運河で投げ銭をさせてもらったことは、私にとって良い思い出であると同時に、TABギタースクールの誇る二大日本人ギタリスト(?)が同時に同じ場所でストリートをしているという、よく考えればすごい状況でもあった。
 私も、AKIさんに負けずにがんばります。

(2002・9・24)

 

4.南澤くんが来た

 この随筆は、来道アーティストのレポート・コーナーではないのだが、奇しくもご紹介することとなった三人目の来道アーティストは、古くからの友人である南澤大介くんである。10月に入って秋も深まりゆく頃、6日(日曜日)にモーリス・フィンガースタイル・ギタークリニックが札幌で行われ、その講師が南澤くんだったのだ。以前、同様のクリニックを打田十紀夫さんが行っていたのを思い出す(その時に谷本光君と出会ったのも良い思い出)。

 南澤くんについては、すでに多くの機会に書いてきたつもりだったが、ここで改めて簡単に私とのなれそめをご紹介すると、今から十数年前に南澤くんが運営していた東京のギター同好会に、私が北海道から参加したころからのつきあいであった。その後、私が就職のため上京し、またその後離職で北海道に戻ったり、件のギター同好会を消滅させたりとこちらが一人でバタバタしたが、南澤くんとの親交は今も変わっていない。彼との共作ギター曲「ベーコン・エッグ」は、すでに私のライブでもおなじみである。

 さて、そのギタークリニック、他の人(例えば打田さんのような著名なパフォーマー)のとはひと味違っていた。南澤くんはもちろんギタリストではあるが、そのメインの活動は作・編曲であり、プラネタリウム・CM・ゲームなど様々な分野での音楽担当として多くの実績がある。彼のCD付き楽譜集「ソロギターのしらべ」シリーズは、この手のものとしては空前のヒットを記録したが、ギタリストとしてだけではなく作・編曲家としての彼にももっと注目してもらいたいと思う。彼の「ギター演奏家」とは異なる「一音楽家」としての視点が興味深く、クリニックでもいろいろな編曲の秘訣を聞くことができて、おもしろかった。

 例えば、ご本人も言っていた「人間、楽が一番」は、簡単に見えて実はなかなか奥の深いことで、なるべく無理のない自然な演奏をどうしたら実現できるか、ということを考えるきっかけになるだろう。逆に言えば、苦労して身についたテクニックを場合によっては捨てる勇気も必要なのかも知れない。
 南澤くんならではの「消音」に関するセンシティブなコントロールは、音を漫然と出すことよりも(地味に)高度なテクニックである。私も、ラグタイムのノリを出すときなど、折に触れてミュートのコントロールについて考えている(以前連載していた「ラグタイムギターの方法論」などでも解説した)ので、他人事ではなかった。
 ちょっとだけマイケル・ヘッジスのテクニックについても触れられていて、懐かしさを感じると共に、南澤くんのアレンジの中に今もその考え方が根付いていることが見て取れた。
 また、クリニック内容もさることながら、参加者ならおわかりの通り、彼の飾らない人柄を感じさせるトークがまたおもしろい。おかげでお堅い「教室」のような感じにはならず、肩の力を抜いて見ることができた。

 終了後、会場にずらりと並んだモーリスSシリーズは壮観だった。だいたい、「アメリカ日記」でも書いたが、2001年夏に私が行ったナッシュビルNAMMではたった二台をとっかえひっかえ弾いていたのだから、全くえらい違いである。そう言えば、イサトさんもAKIさんも実はモーリスを弾いていて、今年の秋の風物詩のようだったが、このSシリーズの大群でトドメ。すでにフィンガースタイル専用ギターとして確固たる地位を固めていると感じた。
 クリニックを聞いていた中高生が、銘々興味津々にそれらのギターを弾くのを聞いたりした。今のギター界は、若い世代の足音がどんどん高くなってきている。

 さらに場所を変えて、久しぶりにお会いした昔の先輩や同好会の仲間たちと歓談したり、ここには書ききれないくらい、いろいろ楽しい時を過ごした。もう少しお互い時間に余裕があれば、南澤くんを小樽観光にご案内したり、私の家でAKIさん同様一泊ぐらいさせてパンでも焼いて食わせたいところだったが、無理もできない。また機会があれば是非お立ち寄りいただきたい。
 なお、私も以前モリダイラ楽器の方々にはお世話になったのだが、この日も南澤くんだけでなく私にまでいろいろご配慮をいただき、恐縮すると共に改めて感謝したい。

 おっと、一応「投げ銭随筆」であるから、ちなみにその日の投げ銭状況について記すと、実は雨でお休みだった...。何だか今年は雨が多すぎて、私の心もどこかに流されてしまいそうだが、また明日がんばろう。

(2002・10・7)

 

5.CDを焼きまくった

 こんなタイトルでは、どんどん投げ銭と関係なくなっていきそう...なので、まず今のところの運河の現状を述べたい。

 10月に入ってから、また天気が悪くなったりして(本当に今年の天気は意地悪だ)、投げ銭の成績は今一つ。その割に、美しい運河の秋を撮ろうと、カメラマンだけはやたらに多い。前作の「写真に撮られた」とおんなじような状況である。あのときはいろいろとカメラマンのマナーの悪さばかりを挙げへつらったが、そんなつまらないことでへそを曲げてしまう自分自身にもがっかりしてしまう。「撮ってもいいですか?」「はい」で済む話が、どうしてこうなるのかわからない。
 秋に入ると日が傾くのも早くなり、時間帯によっては、向かいの運河沿いのホテル群で日が陰ってしまうところが出てくる。そんなときは、なるべく長く日が照っているような場所を求めて移動したりする。太陽の光があれば、多少気温が低くても輻射熱で予想以上に暖かくなるから、こういう悪あがきもするのである。
 水が冷たくておいしいのはうれしいけど。

 さて、随筆とは便利なもので、まとまりを考えずにつらつらと筆を進めてもあまり怒られないようなので(?)、話題を変える。
 私は10月20日から27日まで、本州ツアーをする予定だ。私がこの時期に本州でライブをするのは珍しいことで、間近に迫った日程に今からワクワクしている。最近の私の新作アルバムは、2作続けてCDRで発表されていて、これをライブに備えて増産しないといけない、ということで、少し前から私はCDRを焼きまくっている。その機械については、「私の録音機材列伝」で解説済みだが、パソコンの8倍速書き込みを使って一枚一枚焼いている。一枚焼く時間は、「確認作業」を含めてだいたい10分くらいというところか。昔から比べたら夢のような早さではある。

 ところが、パソコンというのはやっかいなもので、例えばCDR書き込みの最中は他のことがほとんどできない。特に、別のドライブからファイルの入出力などをやろうものなら、とたんにCDR書き込みがストップしてしまい、エラーが出てしまうことがあった。そういうエラーチェックも一つの手間である。
 パンや煎餅は焼いたら食べればよいが、CDRは焼いただけでは商品にならない。ジャケットや盤面などの印刷物も作らなければいけない。CDRを焼くのと同時にプリントアウトできるなら時間の節約になるが、可能だとしてもやはり危険である。私の場合は、なるべく高品位印刷にするために高価な専用紙を使っていて、そういうときに限ってプリンタが噛んでしまったり、インクが無くなったりして無駄に手間がとられたりする。プリンタのカートリッジもまだまだ高価。この前は、詰め替えインクをこぼしてしまって大変だった。
 なお、この印刷物をカットしたり張り付けたりというのも非常に面倒くさいことで、並々ならぬ工数が掛かる。

 そんなこんなで、いくらCDRが何々倍速であっても、通算するとかなりの時間が掛かってしまう。一枚二枚ならまだ楽しんでもいられるが、ざっと50枚作るとなると立派な内職である。「一枚焼いてはファンのため〜」などとうそぶきながらCDRを焼く。盤面シールを貼る。CDプレイヤーに通るかどうか確認する。ジャケットを折り込み、裏ジャケを切り取り、やっと商品を袋詰めして、ワンポイント・ラベルを貼る。これで可愛いCDアルバムの完成。
 箱に入れて、一刻眺める。なかなかいい眺めであるが、せっかくいっぱい作っても、売れなければ今までの努力が水の泡。背中に背負って、富山の薬売りみたいにこれから皆さんの町を行脚するところなのである。

(2002・10・17)

 

6.本州ツアーをやった NEW!!

 秋の投げ銭随筆は、肝心の小樽運河でのトピックが驚くほど少なかった。実は10月の天気もかなり悪くて、なかなか実働日数が稼げなかったのが一番大きな理由だ。しかも寒気がどんどん近づいてきていて、ひょっとしたら冬の訪れも早いかも知れない。実際、秋の本州ツアー(10月20〜27日)も含めて、もう二週間近く運河に行ってないので、自分の投げ銭箱がどこにあるのかすらわからなくなってしまった。
 投げ銭随筆を書くために小樽運河に行っているワケではないが、こんな状況では、ついつい別のトピックを書くしかないということだ。

 数年前まで、私はそれほどライブ活動に熱心でなかったが、今はできるところがあればどこででもやりたいほど、演奏場所に飢えている。秋の本州ツアーは、神戸(ロッコーマン)を皮切りに大阪(DOVE-TAIL、ミノヤホール)、名古屋(West Darts Club)、東京(クラスタ)、千葉(キッチンパタータ)などと首都圏巡りになったが、本当はもっといろんな場所でもやってみたいと思う。それはこれからの課題だ。
 ストリートで投げ銭をもらうのはもちろん光栄な事で、それが未だに私の本業なのだが、ちゃんとしたお店でチャージを払ってまで来てくれるお客さんは本当にありがたく、それはまた投げ銭家業とは別物だと思う。

 本当は、一つ一つの土地に特別な思い出と、おもしろい話がいろいろあるのだが、全てをご紹介することなどもちろんできない。ここで、本州ツアーの思い出を、思いつくままに少しずつ書いていきたい。

 

★神戸:最初(19日)に大阪・伊丹空港に着いたらいきなり雨。ここでも雨かい。環状線の内回りと外回りを間違えつつも、亀工房の大阪ライブ(ブリコラージュ)の打ち上げに参加、そこでハード・トゥ・ファインドの方たちや、今をときめく押尾コータローくんに再会。前澤くん、星くんと共にギタリスト4人衆対談というのは、実に歴史的だった。その夜に泊めていただいた高橋さん宅で、ハード・トゥ・ファインドや亀工房の面々と遅くまで語り明かした。扇柳さんのジョークは、地味に本当っぽいのが特徴だと悟った。

 翌日、ロッコーマンに行く前に紹介された「異人館」のおしゃれなストリートは粋だった。神戸の町は、震災から見事に立ち直り、素晴らしいアーケードの街並みにしばし見とれた。初めて食べた「すじ玉丼」のうまいこと。てんこ盛り状態のネギがうまさを引き立てていた。お店の人に「絶対ホームページで紹介します」などと言ってしまったので、ここで載せます。ロッコーマンでのライブは、コアなラグタイム・ファンの前で演奏。なかなかいい演奏ができたのだが、何と持ち込んだHDRが、私の設定ミスで未録音になっていたことが後になって判明し、へこんだ。でも、お客さんに喜んでもらえて、私もうれしかった。高橋さんにはその夜も宿をお世話になり、感謝してもし足りない。

 

★大阪・高槻:今回のツアー企画段階で、急遽お世話になった井上楽器さんへ。神戸から高槻への旅路は意外に近かった。早めに高槻に着いて、町中を散策。その後、初めておじゃました井上楽器さんは、ギターのワンダーランド。限られたスペースの中に、フィンガースタイル・ギタリスト垂涎のギターがひしめく。以前からお会いしていた店長の井上さんは、とにかくギターへの愛情が人一倍。高槻のギター・ファンがうらやましい。いろんなギターを弾かせてもらい、私は時が経つのも忘れていた。

 さて、共演の天満俊秀さんと合流し、歩いても行けるところがこの日のライブ会場である「DOVE-TAIL」さん。とてもすてきなバーで、ステージの機材も半端ではなかった。会場は、皆さんのおかげで満員状態。ギターの生徒さんが多いお客さんは、みんな食い入るようにステージを見つめていた。天満さんとは、以前お会いしたことはあったが、初めて生のプレイを聞き、そのケルティック・ギターにしばし酔いしれた。私は感激しながら、かなり荒っぽくヒートアップした演奏でお応えした。ステージでは、井上楽器さんのKヤイリを弾かせていただいた。

 ライブ終了後、井上さんご夫妻や天満さんと打ち上げ。飲み会はとても楽しかった。みなさんは本音で話し合えるフランクな人たちで、私はこの方たちとつながりができたことが、ライブの成功以上にうれしかった。最後に、「ここは打田十紀夫さんも泊まったホテルで、たいそう喜んでましたよ」という豪勢なホテルまで送ってもらう。そのホテルのすぐ近くには超有名な牛丼屋さんがあり、なるほど...と思った。

 

★大阪・中津:その牛丼屋で朝御飯を済ませて、なるべくゆっくり大阪中心街へ。次のホテルのチェックイン開始時間が少し遅いので、時間が余っていたのである。しばらくインターネットカフェで時間をつぶした後、繁華街にあるカプセルホテルでチェックイン。実に数年ぶりのカプセルホテルで、結構ワクワクした。あらかじめ安いカプセルホテルをネットで調べた上での計画である。

 その後、すぐに次の会場であるミノヤホールへ。ここには二年ほど前からお世話になっていて、今回は予約特典CD(「浜田隆史のギター・アルバム一覧」参照のこと)+「覆面シンガー」もありという、宣伝や演奏内容も含めてかつてなく気合いの入った公演だった。今の自分にできる限りのことはやった。しかし、期待していたほど客足が伸びず、自分と覆面クンの力不足を反省。あの表情の見えない覆面クンは、肩で泣いていたようだ(泣くのか?彼は)。私の全てをさらけ出したこの日のパフォーマンスをごらんになった人は、ラッキーだったと思う。ただし、次にミノヤホールさんにおじゃまする機会(おそらく対バン形式になる?)があれば、覆面クンは残念ながら舞台袖で私の勇姿を見ることになるだろう。

 気を取り直して再びカプセルへ。一泊2600円と低料金だったのはいいが、サウナ料金などは別であった。普通のお風呂に入りたかった私は、サウナしかないのでちょっと当てが外れてしまったのだが、それでも久しぶりのカプセルホテルはなかなか楽しかった。大荷物は何とかロッカーに押し込めて、ギターを抱きかかえるように(いや、これは言葉のアヤ。実際は隅に追いやるような形で)寝ると、図らずも熟睡してしまう。

 

★名古屋:大阪から名古屋へはバスで移動するのだが、大阪から出ているバスは限られていて、京都まで行かないとちょうどよい時間帯のバスに乗れないのである。前のツアーの時もここで引っかかっていたので、何とかならないものかと思う。名古屋の駅で、ダメもとで探したタウンページの中に、激安のビジネスホテルを発見。カプセルホテルとほとんど変わらない料金だったので、即こちらにチェックイン。駆け込みで入ったホテルがいい所だと、それだけで幸せな気分。こういうホテル探しも、実は結構楽しんでいる。

 ホテルの施設にコインランドリーがあったので、これ幸いと洗濯しているうちに時間が過ぎ去っていく。次の会場である「West Darts Club」は、地下鉄の藤ヶ丘駅下車であり、都心からは結構遠く、ちょっと遅めに到着。「West Darts Club」は、前回のツアーからお世話になっている楽しい雰囲気のバー。二階建ての吹き抜けになっているのがおしゃれだ。マスターや、共演のニコライ(川合ケン)さんらが笑顔で迎えてくれた。その後、日本ラグタイムクラブの青木さんや室町さんとも楽しく歓談。

 最初はニコライとニコラスさんの演奏。バイオリンのニコラスさん(あれ?本名は?)のブルーグラス風演奏が楽しく、またニコライさんの芸達者ぶりには思わず引き込まれてしまう。歌もウクレレも、そして意外な選曲も、多くの人を楽しませるエンターテナーの風格を感じさせた。私も負けじと、ラグタイム・マニアから一般受けする曲まで、いろいろやって盛り上げたつもりだ。ホテルには門限があったので、終演後は後ろ髪を引かれつつも、お客としてきてくれた大道芸人のモジャくんと途中まで一緒に帰る。今年の夏、追分での再会の約束が、今果たされたのである。
 ホテルのお風呂はちゃんとした普通の大浴場で、心が妙に落ち着いた。やはり私は日本人だ。

 

★東京・移動日:翌朝、名古屋から東京へのバスは早めに乗ったのだが、東名高速道路がちょうど集中工事の期間中だったため、高速は驚異の大渋滞。通常より2時間は遅れてしまう。途中で交替した運転手が、その交替の際に二人目の運転手と口論になっていた。渋滞でイライラしていたのだろうが、客にわかるところでそれを態度に出してはプロ失格である。私も反面教師として勉強した。
 東京まで着いたら、少しは涼しくなったかなと思ったら、まだまだ蒸し暑い(北海道の感覚で)。売れ残ったCDに加え、羽織れない上着まで荷物になってしまって煩わしかった。東京の満員電車に、一番遭遇したくないときに遭遇してしまい、げんなり。

 そんなこんなで、ついにTABギタースクールに到着。打田十紀夫さんと奥さんの治子さんが暖かく出迎えてくれた。本当にありがたくて涙が出る。先の井上楽器で初めて聞いた話だが、打田さんはこの時新作アルバムのレコーディングでいつにも増して多忙であり、図らずもこの時期にご厄介になってしまい、大変恐縮だった。しかし打田さんはいつものおおらかさで、しばし四方山話に花が咲く。本当は旅路が順調だったら寄りたい所もあったのだが、バスの疲れもあったので止める。この日に抜けられない予定を入れてなくてよかった。

 TABのオフィスから打田さんの家に行く途中、新宿で降りてDATテープと同軸ケーブルを購入。まさか、打田さんと二人で家電量販店に行くという事があるとは思わなかった。前回のツアーから常に持ち歩いている、私の録音用のHDRがある。これの空き容量(10GB)が少なくなったので、ポータブルDATデッキを打田さんからお借りして、データ・ストレージを行うために必要なものを購入したのである。こうしてその夜、なんとか空き容量を確保したのだが、やっぱりハードディスクは40GBくらいないと、ツアーでは困るということが判明した(実は前からそのくらいは計算していたが、お金なくて...)。

 

★東京・国分寺:打田さんのお家でゆっくり休ませていただき、翌日はもう疲れがとれてウキウキしているのだから、我ながら現金なものだ。一度TABの教室に寄ってから、そそくさとお茶の水のギター街へ。ここのディスクユニオンでCDをチェック。輸入CD購入は、いつも上京したときの欠かさないセレモニーになってしまった(中でも Robbie Basho の怪作『Zarthus』はスゴイ...まさかピアノ・ソロが入ってるとは思わなかった)。

 その後、毎度お世話になっている楽器店のカワセ楽器、ギターワークショップ、そしてホーボーズなどへ。カワセでは、以前私と共演したこともあるブルース・シンガー・ギタリストの斎藤光始さんの新作CD『遠く離れていても』を買う。これはカワセ楽器にしか置いていないらしい。今回はラグタイム・ブルース・ギター・ソロの比重がかなり高く、ギターファンにもぜひ注目してもらいたい。

 またTABに戻って、防音ブースでちょっとばかり練習した後、次の会場である国分寺の「クラスタ」へ。アットホームですてきな店内。マスターの田中さんとは以前からお店を立ち上げる際の苦労話を聞いていたが、ここでついにそのお店にたどり着き、感慨無量である。外でご飯を済ませて戻ってみると、もうすでに多くの人が。私のライブ史上初めて、予約だけで満席になってしまったということで、本当に感謝感激。生きてて良かった! お客の中には南澤大介君(最前列)、あのAKIさんと佐藤君、そしてちょっと遅れて初対面の益田洋さん、以前から私のライブを見に来ていただいている鈴木さんや菅生君などなど、そうそうたるメンツである。

 これで燃えなければ男じゃない。本番では、心から自分のハジけたプレイを楽しんだ。お客さんが盛り上がる。お店のオベーションを肩に掛け、立って歌まで唄ってしまった(調子に乗りすぎ)。自作の歌もの「プハプハ」はほとんど全ての会場で歌っているが、この日の終わりにはやっとビールを飲む余裕ができた(ここから打田さんのお家はさほど遠くないのである)。打ち上げでは、お仕事を切り上げてやってきてくれた打田さんを交えて、しばし楽しい語らい。益田さんの生演奏も素晴らしい。全国ツアーを終えたばかりのAKIさんは、何だかニコニコ顔。そして若い頃の私にうり二つの「ヘリンボーン」くんにビックリ。

 

★千葉・柏:次の日は、私の本州ツアーで初めて二回ステージの予定があった。一回目は千葉県・柏商店街の新星堂の特設ステージでストリート・ライブ。二回目は新柏駅の近くにあるレストラン、キッチンパタータさんでのライブ。以前から知り合いである東京のラグタイム・ギタリスト、北村昌陽さんとの初共演である。私は千葉県でライブをやるのは初めてで、意外に遠い柏駅への旅路(といっても常磐線で日暮里から30分ほど?)も楽しんだ。

 今年は本当に雨にたたられていて、ここでも結構雨が降っていた。地元のお店に場所を聞きながら、何とか新星堂前へ。アーケード街になっているので、ここでは雨の心配がない。すると、今回いろいろお世話になった「戦うオヤジの応援団」の山下さんが出迎えてくれた。本当に感謝である。導かれるままにお店の中の控え室に行くと、北村さんの他に、何と一卓嗣君がいた。もうかれこれ十数年のつきあいのギター仲間である(CD出せよと彼に勧め続けてすでに十年...早くその日が来て欲しい)。一緒に演奏してくれるのかと思ったら、彼が購入したヤマハFG180を見せに来てくれたのだった。ちょっと弾いただけで、極上の一本であることがすぐにわかった。
 北村さんの実力は、すでにいろんな音源では聞いていたが、生のプレイを見るのは初めて。「過去の共演者ご紹介」でも書いたが、本当にこんな楽しげなラグタイムを弾ける人は珍しい。クラシック・ラグの編曲も見事である。

 新星堂前の演奏では、まず北村さん、そしてビーマイナーさんというギター・デュオの演奏。両者に負けじと、私の番。日曜の昼、しかも雨のアーケード街ということで、お客さんがいっぱい。こういうときは雨の方が得なのである。私も本当に現金だが、やっぱり人間なので、多くの人に見られれば見られるほど興奮する(ヘンタイか?)、いや、調子に乗ってプレイできるようだ。道行く人にCDも買っていただいた(受付をしていただいた山下さんご夫妻に感謝)。もともと私は真性のストリート・パフォーマーなので、ステージや音響機器が用意されている場所は厳密に言えば「ストリート」ではないと思うが、知らない人に振り向いていただけるのは共通している。とにかく、いろんな人の手を借りながら、こういう場所に立たせていただいたことは、本当にありがたいことである。

 終演後は、すぐに新柏へ。キッチンパタータさんは、大人数でもゆっくり食事のできる素晴らしいレストランで、奥にステージがあった。このツアーで今までやってきた、どのお店よりも広い。落ち着きなくキョロキョロしているうちに、どんどんお客さんが入ってくる。「戦うオヤジの応援団」のご尽力のおかげで、予約より多いお客さんでいっぱいになる。何とアイヌ語関係の知り合いまでいらっしゃり、思わず泣きそう(?)になる。
 通常の席のままで、お食事をしながら気軽にラグタイムを楽しんでいただこうと言うステージで、会場は終始リラックス・モード。望むところである。酒場の音楽だったラグタイムは、元来こういう雰囲気こそふさわしい。前半は北村さん、そして後半は私の演奏。自分のつまらないMCの一つ一つに湧いてくださるお客様の楽しげな雰囲気に、私も危うく覆面くんを呼んできてしまうところだったくらいに、楽しんでプレイできた。盛り上がりすぎて、HDRの録音レベルがオーバーの連続だったのが唯一の失敗。ありがたくも、持ってきたCDがここでほとんど売れてしまい、逆の意味で焦るくらいだった。

 打ち上げでの、いろんな方の飛び入り演奏も楽しかった。特に山下さんのカバーした岡林信康の昔の歌(「チューリップのアップリケ」など)は、私も好きだったので感激した。ずっとライブの余韻に浸っていたかったが、打田さんの家まで戻るのが結構遠いので、渋々早めに帰った。といっても、最寄り駅に着いたのが夜の12時くらいで、打田さんの息子・昇太郎クンが鍵を開けてくれなかったらどうしようかと思った。私も居候のくせに、こんな時間に帰るとはいい度胸してる(AKIさんの夜1時近くという記録には及ばない...?)。
 帰ると、2ステージ熱演の疲労と混み合う電車で、クタクタの自分に気がつく。

 

★東京・浅草橋:ツアー最後の日。前日で演奏の予定は全て終了したので、もう余裕である。この日の予定は、友人の南澤君から噂に聞いていた、音楽メディア関連の同人即売会「M3」という催し物への参加であった。同人即売会というとマンガ関連の「コミケ」が有名だが、その音楽版のようなものだと聞いていた。初めてこの会の話を聞いたのが一年くらい前で、念願かなってついに参加できた、という晴れ晴れした気持ちだった。何事も、経験あるのみである。

 会場はJR浅草橋駅の近くで、朝の9時半から入場は、さすがにちょっと眠たい。まだ前日までの疲れが残っていた上に、終わったらすぐ飛行機に乗らなければいけないので、ギターも含めて全ての荷物を運んでいた。「演奏禁止」の会にギターケースを持ち込んだのは、ひょっとしたら私だけだったかも知れない(恥ずかしかったが、どうにも仕方ない)。ブースに着くと、あの一君がいた。お手伝いを頼んでおいたのである。彼の仕事は夜間なので、昼は寝なければいけないところを、私が無理にお願いしたのであった。とりあえず、南澤君の奥さんにご挨拶して、この会の雰囲気に慣れてくる。

 M3の熱気は、想像した以上で、とても楽しかった。ずらっと並んだブースには、この会がなければ一生出会えなかったかも知れない、同人音楽家たちのCDアルバムがひしめく。ずいぶんたくさんのCDを買ったりもらったりした。果たして、ほとんどが誠実で聞き応えのあるアルバムばかりで、私は感心してしまった。私はギターよりピアノのレコードをよく聴くくらいだから、隣のブースのピアノソロCDは愛聴盤になった。
 自分のCDも、この催しの中では比較的高額にも関わらず、十数枚も売れてビックリした。前日までに、代表的なCD(「オリオン」や「ライブ・ラギング」など)がほとんど売れてしまっていたのが、唯一の心残りであった。あの肩の抜けそうなくらいに重かったCD在庫が、いつの間にかほとんど売れていたのである。

 ジャンルを問わず、出展者にも、お客様にも、自分のお気に入りの音楽を探そうという気持ちがあふれていたのが、M3の特に素晴らしいところだったと思う。また、音楽制作者たちとの横のつながりもできて、いろんな意味でうれしかった。次回参加は未定だが、ぜひまた参加したいナイスな催しだった。ちなみに私は一応プロだから、売れた金額はちゃんと税務署に所得として申告します、念のため。

 最終日に限って天気に恵まれたと思ったら、羽田から千歳へ着いたらまたもや冷たい雨。最後まで雨にたたられた今回のツアーだったが、ストリートでの投げ銭と違って、「屋根のある場所っていいなあ」と当たり前のことを再認識したのであった。心まで野ざらしになっていた自分が、多くの人たちの暖かい支援で癒されていくのがわかった。
 こうして、何とか今回のツアーが成功したのである。次の本州ツアーは3月頃の予定にしたいので、皆さん、またよろしくお願いします。

(2002・10・28〜11・10)

 

 

第4部 ストリート・ミュージシャンの冬

1.雪が積もった

 そうこうしているうちに、いつの間にか冬。初雪が降っても、普段の年であれば何度か解けたりしてまだまだできるはずなのだが、今年はとにかく雨の多い年で、特に11月は、まだ一日しか小樽運河に出でいない。雪が積もったのはつい一週間くらい前だが、それ以降も雨や雪の繰り返しで、太陽の顔をしばらく見ていない。というか、全く晴れる気配が見えない。このままだと、達成したくなかった実働日数最低記録を樹立してしまう。働きたいのに働けない、これぞ人間の悲劇である。

 いつまでも気まぐれな天気につきあってはいられない。むしろ、こういう状況だと「ライブ」に気持ちが切り替わっていく。これからは、「天気は崩れるもの」という前提で、運河のシーズンであっても積極的にライブの予定を入れていきたいと思う。私の演奏を生で聴きたい方は、どうぞお気軽に私を貴方の街までお呼びください。いやホント。条件などは応相談ということで。

 しかし、そうすると、もはや「投げ銭随筆」としてこの読み物をまとめる意義がなくなってしまう。
 何とか、冬でも投げ銭ができないものだろうか? という事は以前から考えていた。「運河に透明なテントを張って、その中で演奏しろ!」とか「七輪を持ち込んで暖をとれ!」とか「かまくらを作って(以下略)」とか、みんな、他人事だと思って、結構いい加減な提案をしてくれる。私も、さすがにそこまでするほどの勇気も度胸もない。投げ銭が儲かるより先に、ただでさえ低下気味の社会的な信用が、回復不可能なまでに低減してしまう。

 でも、少なくともテント生活については、何と実践した人を見たことがある。「投げ銭随筆1」ではまだ書いていなかったが、1997年頃だったか、インドから帰国したという二人が、運河にテントを張って一週間くらい(?)生活していたことがある(ただし、これは夏の話)。男性がインドの民族楽器「サントゥール」(あれ?サーランギーだったかしらん?)、女性がインド舞踊というコンビで、ものすごく気合いの入っていた二人だった。私が見ていると、冗談で流すことのできない、一種気まずい空気が流れているような、すごい緊張感だった。これを見て投げ銭を入れないのは、もはや罪であるとしか思えなかったのである。
 しかし彼らは、ある日気がついたらいなくなっていた。今どこでどうしているのやら。今でもたまに、夏休み中の学生あたりが運河で一晩過ごすということがあるようだが、どうせなら彼らのレベルまでブッ飛んでほしい。

 もう一つ思い出した。ある年の晩秋、ものすごく寒くて、そろそろ今年の小樽運河はおしまいかな?と思っている時、学生と思われる二人組の登山ルックの旅行者が、インドだかモンゴルだか知らないが、ミルク入りのお茶を1杯300円くらいで販売していたことがある。七輪ならぬガスでヤカンを暖めていた。この寒いときにホット・ティーで暖まってください、という着眼はとても面白かったが、この人たちが結局何をやりたかったのか、今でもよくわからない。また、食べ物・飲み物の販売は、場合によってはお客様の命に関わることなので(?)調理師免許くらいは持ってないとまずいかも。普通の人は敬遠した方が良さそうだ。
 でも、以前はこのように、ヘンテコリンな商売をやる人がいっぱいいた。最近はこういうのはそんなに多くは見かけず、商売人すら元気のない時代なのかも、と思ってしまう。

 冬でも投げ銭をやる、それでいて寒い思いをしない唯一の方法、それは建物の中で投げ銭をやることだ。「投げ銭随筆1」でちらっと書いた「投げ銭ライブ」というものである。
 チケットノルマもホールのレンタル料もない代わりに、お店のギャラもない。お店の「出し物」「客寄せ」の一つとして、通常の営業時間にやる。チャージは投げ銭のみで、いくらになるかは人それぞれというものである。ひょっとしたら、そういう企画はこれから多くなっていくかも。不景気の折り、音楽専門ライブハウスの集客にもかげりが見えている昨今、お店側にもアーティスト側にもなるべく負担をかけないライブ形態の一つとして、勧めておきたい企画の一つではある。もちろん場合にもよるが、スペースの有効活用がなされていないのに「集客が...」「回転率が...」などと嘆く店があるとしたら、ちょっともったいないと私は思う。そういうお店にとっても、軽いイベント的な選択肢の一つではないかと考える。

 それはさておき、私もこれからは「冬だから」「雪だから」「雨だから」と冬眠直前の両生類のようにあきらめるのは止めて、もっといろいろな環境の中に身をおいていきたい。それが、今年の運河シーズンの教訓であった(え? シーズン、もう終わったの?)。

(2002・11・12)

2.室内投げ銭について考えた NEW!!

 11月は、結局ほとんど外で演奏することができなかった。
 頭を切り替えて、前回でちらっと触れた「投げ銭ライブ」をどうやったら実現できるか、いろいろ考えていると、思わぬ所でその機会ができた。運河近くにある倉庫を改造した食堂街の空きスペースでギターを弾くという「屋内投げ銭活動」をする機会に恵まれたのである。以前何度か仕事を回していただいた方からの依頼だったので、二つ返事でOKした。

 11月末から週末の三日間、お店の人たちにいろいろ気を遣っていただきながら(お昼ご飯を食べさせてもらい、多謝)、毎日三時間ほどドキドキしながら演奏したのだが、どうも普段の投げ銭と勝手が違う。一生懸命演奏しても、お客の知覚範囲に入っているのは食べ物だけ、という感じを受けた。場所も変えてやってみたが、決して少なくないのにお客の反応は好転しなかった。結局、ほとんど稼ぐことができずに、無念の涙をのんだ。いろいろ考えたが、私もこれを商売としてやっているので、さすがに恒常的に演奏するのは無理そうである。

 人間は、食べているときが一番幸せであるから、そんな人たちの側で一生懸命演奏してもじゃまなだけか、もしくは単なるBGMとして軽く見られてしまうのかも知れない。私は過去に別のレストランでの演奏経験もあるが、これはギャラ制の仕事だった。お店でのギャラをもらう仕事と、投げ銭活動のステージングは、なかなか相容れないものであることが改めてわかった。要は、「世の中そんなに甘くない」のである。
 あ〜あ、また愚痴っぽくなってきたなあ。

 三日間の中でただ一人、CDを買ってくれたおばさんがいた。
 一人で十分である。
 私は、たった一人のご厚意に報いるべく、これからもあきらめずに投げ銭ギタリストを続けていくだろう。他によい空きスペースがあれば、是非ご教授いただきたい。

(2002・12・10)

 

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