投げ銭随筆3(2004年10月14日更新)

HOME

 目 次

 はじめに

 第1部 8年目の春
  
1.銭湯に入った
  
2.バッハを弾いた
  
3.弦を張った 
  
4.Sketchさんが来た
  
5.歪んだ喜びを感じた

 第2部 8年目の夏
  
1.霧が出た
  
2.ラッキーフェスに行った
  
3.いろいろあった
  
4.暑い中、AKIさんが来た
  
5.お盆を迎えた
  
6.「石狩挽歌」を歌った

 第3部 8年目の秋
  
1.台風が来た
  
2.寒かったり暑かったりした
  
3.デジカメ購入作戦は10分で終了した NEW!!

 

はじめに

 この随筆は、私のストリート・ミュージシャンとしての体験をつづり好評を博した『投げ銭随筆』シリーズの最新版、前作『2』から二年ぶりの執筆である。前々作、前作が終了して時間が経ったので、そろそろ二番三番煎じでも新鮮に思える頃合いかな、と判断した。

 また勝手気ままに書きたいことを書くつもりであるが、今回はまたちょっと一味変えてみたい。というのも、今までたびたび顔を出した皮肉屋さんとしての私の主張は、2004年に発表した電子出版本『ミュージシャンのためのスットコドッコイ辞典』とその『補遺』でさんざん書いているので、いつも「斜めに物を見てガッカリ」みたいな感じでは、私というなかなか見所のある人間の人格を疑問に思う方も出てくるかも知れない。

 そのため、今回の『投げ銭随筆』の執筆方針は「いつも心に音楽を」「暖かい感動を胸に」「素晴らしい出会いを大事にしたい」などという、どっちかというと癒し系、なごみ系の傾向を出していきたい。これは私には最も似合わない、冒険的なジャンルかも知れない。
 しかし人間、冒険を恐れていては何もできない。
 どうかみなさん、これを読んで、各自適当に癒えていただきたい。

2004年5月12日
浜田 隆史

第1部 8年目の春

 

 1.銭湯に入った

 私が小樽運河で投げ銭活動をするようになってから、すでに8年が過ぎようとしている(1996年秋より)。長いようで短いかも知れないが、ついに会社生活よりも長くなり、まあまあ歴史とも言える。この間、住まいが三度変わった。当初はアイヌ語勉強のため札幌の住まいから小樽運河に通っていたのだが、1997年に小樽市信香(ノブカ)町の安アパートに移って約4年(この住まいをと仮称しよう)、入船3丁目の小高い丘にある借家に移って約2年()、そして入船2丁目の現在の借家に移って今年が2年目()である。

 Aは風呂どころかトイレも共同という格安物件だったが、なぜか居心地がよくて長く住んだ。風呂のないこの時代に、私は近所の銭湯に入っていた。Aから歩いて20秒という異例の近さで、小樽の現存する銭湯の中でおそらく最古、道内全体でも有数の歴史を誇る「小町湯温泉」があったのはラッキーだったと言えるだろう。

 この銭湯、「温泉」と銘打っている通り温泉銭湯である。実は、温泉銭湯は小樽では珍しくない。しかしこの銭湯がひと味違うのは、近くから汲んだ温泉水を何と薪で沸かしている所。しかも、まさに「湯船」という言葉が似合うような丸い形の湯船が一艘あるのみ(もちろん桶はケロリン)。今時珍しい古風な銭湯である。薪で沸かした温泉の効用は、筆舌に尽くしがたい。コーヒーや焼き肉の炭火焼きみたいなものだ。熱さがきつくなくやさしい感じがして、それでいてじんわり暖まる。湯から上がったあとも温泉のいい匂いが残る。昼夜の別無くギターを弾いて疲れ切った体を、この銭湯で何度も癒したものだ。

 しかし、Aは水道が凍るなど不便な点も多々あったので、悩んだ末に実家の知人の旧家Bにお世話になった。Bは私にはもったいないくらい普通の一軒家で、ボイラー式のお風呂があった。そのため、近くに別の温泉銭湯があったにも関わらず、私は二年ほど銭湯に入らない生活を続けた。

 小樽は、人口に比する銭湯の数(つまり銭湯密度)が多分世界一ではないかと思えるほど、多くの銭湯があった。『小樽の建築探訪』(小樽再生フォーラム編、北海道新聞社、1995年)によると、かつては70軒を越えていたらしい。しかし、2004年の電話帳で確認すると20軒ほどになってしまったようである。
 でも私にとっての小樽は、運河の町であるより前に、銭湯の町なのである。だいたい、父の実家のあった現・松ヶ枝町には「大門湯」があり、父の少年時代の写真にもこの銭湯が写っている(この銭湯は平成9年に歴史の幕を閉じた)。私が少年時代、緑町に住んでいた頃は、家に風呂があるにも関わらず、近くの「高尚湯」にたびたびお世話になったし、学校の友達と銭湯めぐりも楽しんだものだ。一つの大通りに二つも三つも銭湯があったからこそ、そういう遊びができた。

 上京して会社員生活を送るようになると、夜遅くに帰ってシャワーだけという生活に慣れてしまったのだが、今考えればある意味人生の不幸だったと思う。銭湯は、家の狭っちい風呂や、今流行のスーパー銭湯などの大型施設と違い、静かにゆったりとくつろげる、かけがえのない場所だと思う。
 さて、話を戻す。B時代には味わえなかった銭湯の楽しみを、私は昨年Cに移ってから満喫している。何とまたまた歩いて20秒の所に、「京の湯」がある。別に銭湯が近いところを選んで無理やり引っ越しているわけではないが、Cにも風呂はないのでちょうどよい。この銭湯は温泉ではないものの、超音波風呂や日替わり湯があり、きちんとしたシャワーも付いている。もちろんこれから末永く利用するつもりである。

 今の時代は、銭湯の不景気が言われて久しいが、私は断固として銭湯の効用を世に訴えるものである。お金を払って風呂に入る! 何だか人生のけじめと癒しを両方やっているようで、私は好きなのだ。どんなに貧乏でも、最低でもこの銭湯代を稼ぐため、私は今日も運河でギターを弾く。そう思ってもらえればよい。
 これのお読みの皆さんも、だまされたと思って今一度近所の銭湯に入ってみて下さい。

(2004・5・17)

 

2.バッハを弾いた

 今回のテーマは癒しということで、癒しといえば? そう、「クラシック」だ。
 私はよくクラシック・ギタリストに間違えられると言う話を『投げ銭随筆』でも書いた。そのたびに「いえ、違います、チューニングがこんなだし、楽譜読めないんで。」と自分で自分を地べたにおとしめるような発言をしてきたのだが、実はいつも釈然としない感覚があった。こう見えても、私はクラシックだって結構好きだし、ソロギターとしての一般的な認知度から言えばそちらの方が有利だろうから、間違えられたままで大正解なのかも知れない。

 ここでクラシックと私の関係について語りたい。私が全くクラシック・ギターを練習しなかったかと言えば、そうでもない。私の父はマンドリンやピアノが得意だったが、昔からギターも弾いていたので、私は大学時代あたりに父の持っていた楽譜を借りたり、自分でも買ってきてよく練習したものだ。禁じられた遊びに始まって、タルレガのアルハンブラやラ・グリマ、ヴィラ=ロボスのショーロ、コストの練習曲、ラウロのベネズエラ舞曲、バリオス・マンゴレのオリジナル曲などといろいろかじった。指の根性や忍耐力がまだまだできていなかったので、てんでものにならなかったと記憶しているが、初期のライブではよくクラシックも取り入れていた。

 これらはもちろんフォーク・ギターで練習したのだが、同時期にグロスマンをやったり、自分の曲を作り始めたりと、演奏ジャンルにまるで節操がなかった。大学時代はちょうど、音楽の好みが二転三転していた時期で、小泉文夫氏がやっていた民族音楽のFM番組や、西洋クラシック(特に舞曲系が好きだった)を楽しむのとほぼ同時に、スティービー・ワンダーやダック・ベイカー、さらにユーライア・ヒープのソールズベリーを聞いたりと、まるで雑食というか暴飲暴食の音楽鑑賞だった。学生時代は、結構何を聞いても感動できる、幸せな音楽生活を送っていたらしい。
 まあ、そんなわけでクラシックにはそもそも抵抗がないのである。

 最近、思うところがあってバッハの『無伴奏チェロ組曲』を練習している。ジャズの人も練習に取り入れることが多いらしいが、私も当初は、オタルナイ・チューニングで苦手とされてきたスケールの世界を探求するという位置づけを考えていた。これまでも水面下では試みてきたが、今では結構本気で取り組んでいる。
 そもそもバッハの音楽(特にケーテン時代の器楽曲)は、セゴビアの編曲が今日のクラシック・ギター隆盛のきっかけになったといわれるほどで、ギターとの相性がよい。原調を守るためにはチューニングの一部変更が必要となるが、4弦のチェロにできることがギターにできないはずはない。

 旋律楽器の無伴奏ソロという、もの凄く特殊な形態の音楽にも関わらず、この組曲は音楽史に残る傑作だと思う。『無伴奏チェロ組曲』は第六番まであるのだが(各曲がそれぞれ7曲の舞曲からなる)、最も短くて取っつきやすい第一番は何とか運指ができた。参考までに過去のギター編曲を見ると、勝手気ままに調を変えたり、ベースや和音を加えたりと、結構編曲者のやりたい放題で改変されていることが多い。

 調は、どんな編曲だろうと、どんな楽器だろうと、できるなら原調が望ましい。これは当たり前の話。西洋音楽にとって、調の選択は大きな課題。ソロ演奏という、音色に制限のある演奏形態であれば、なおさら避けて通れない。その選択が作曲者の意志なのだから、それを編曲者が変えるには、それ相応の音楽的理由がなければならない。
 だいたい、私の持っているモーリス・ジャンドロン校訂のチェロ楽譜によると、バッハは第五番に変則調弦を指定しているし、第六番は当時一般的だった5弦のチェロが前提になっているらしい。そうまで作曲時から各組曲の調を意図的に変えているのは、単に演奏の快活性だけの問題ではない。

 私はチェロの楽譜の音符をほとんどそのまま演奏することを目指しているが、伸ばす音や切る音、フレージングの練習にもなって、これだけでもなかなか奥深いものを感じている。弾いていると、バッハを含めいろんなものに感動していた学生時代を思いだし、結構いい気分なのである。
 さっそく、投げ銭の効果も出た。道行くロシア人に「クラシカル・ムジカ(?)!」などと要求されたので、練習中のバッハを弾くとたいそう喜んでくれて、札を投げてくれた。
 バッハ、もうかるじゃん

(2004・5・17)

 

3.弦を張った

 上記の続きだが、バッハの無伴奏音楽は本当に面白い。先に私はスケールと書いたがそれは全く適切ではなく、その本質は「単旋律で表現されるポリフォニー」である。無伴奏チェロのCDを出しているチェリストはたくさんいるが、その内の一人アンナー・ビルスマは、「バッハの組曲は「語る speak」音楽であって「歌う sing」音楽ではありません」と端的に記している。練習すればするほど、その語り口を工夫する面白さがわかってくる。

 そんなわけで、齢40に近い今の時期に、私は改めて音楽の楽しみと練習の必要性を痛感している。仮にも演奏家が練習しなくなったらおしまいだ。投げ銭活動中も、観光客がまばらなときは繰り返し同じ曲を練習したりしている。以前、インド人のタブラ奏者・デニッシュさんが札幌にいた頃、投げ銭成績が落ち込んでガッカリという話を私がすると、彼から「でも、入らなくても良いプラクティス(練習)ができてハッピーね、全然気にしない」などと言われた事を、今さらながら思い出す。

 いつもの年よりも演奏時間が長くなってくると、さて、弦に異変が出てくる。巻き弦のあちこちから小さい毛根みたいなものが出ているのだ。実は、この弦は今流行のコーティング弦
 以前の私はコーティング弦があまり好きではなかった(音まで何かにコーティングされている感じがしたものだ)が、最近試してみた薄いコーティングを施した弦(エリクサーのナノウェブ)は、とてもブライトな響きが長い期間持続するので、様々な環境で弦を酷使するツアーや野外演奏にはピッタリだと考えている。この毛根みたいなものは、その薄いコーティングの一部が剥がれたものではないかと思う。
 そうか、コーティングが剥がれるまで練習したのか! と考えると何だかうれしくなってくるが、さすがに時間が経てば嫌でもこうなってくるのだろう。

 ついでだから、私の愛用弦の歴史を述べたい。ギターを始めた頃はヤマハのライト弦だったが、すぐにマーチンの弦に変わった。その後、大学時代あたりからギルド(当時は高かった)、ダダリオのブロンズやフォスファーブロンズと変遷した。ダダリオのフォスファーブロンズ・ミディアム弦を愛用するようになったのは会社員時代から。ジョン・ピアーズも一時期使っていたことがある。
 現在、最もよく使う弦はDRのミディアム弦で、ビックリするほど新鮮で明るい音色が個人的に最も気に入っている。発売当初はなかなか置いてある店が少なくて、しかも価格は2000円以上もしたものだが、その後買いやすくなった。1999年の『クライマックス・ラグ』の録音時、DRとそうでない弦の響きに微妙な違いがあり、もちろんDRで録ったテイクを優先した。現在でも、録音の際はだいたいDRを使うことにしている。もっと良い音の弦もあるのだろうが、こういうのは単に好みの問題だろう。

 楽譜『クライマックス・ラグ』の解説でも書いたが、私にはやはりミディアム弦が一番しっくりくる。私にとってのレギュラーであるオタルナイ・チューニングは、ほとんどの弦を半音以上下げているので、テンション的にちょうど良くなるのである。もちろん、弦は少しでも太い方がしっかりした音が出るというのはギターの常識だ。しかし、好みのメーカーのミディアム弦が売っていないお店も結構あるため、ツアーでは現地のお店を当てにせず、だいたい常に持ち込みである。

 小樽の楽器店「トーンポエム」の店長・堺さんは、「浜田さん、これイイよ〜」と言って別の弦をいろいろ勧めてくれるのだが、今のところ弦の好みをあんまりコロコロ変えても得るものは少ないと考えている。どうせ練習したら、どんな弦でも時間の問題でボロボロになるのだ。潮風の吹く小樽運河で、徐々にダメになっていく弦には気の毒なことだが。
 そうだな、そろそろ張り替えるか。

(2004・5・19)

 

4.Sketchさんが来た

 春といっても、すでに6月に入った頃、横浜の凄腕ギタリスト・Sketch(益田 洋)さんが北海道にやってきた。神奈川ではすでに何度か共演させてもらっていたが、北海道では初めてのこと。今年の四月にビートルズのソロ・ギター曲集『With a Little Help From My Friends』をアメリカのレーベルから発表したSketchさん。この新作により、今までの知る人ぞ知る存在という印象から、より多くのギター・ファンに認知されるところとなり、昔からお名前を存じていた私も感無量である。初の北海道ツアーをサポートさせていただくことは、本当に光栄の至り。
 ここに、そのツアーのレポートを書こうと思う。

 Sketchさんは、6月2日(水)の午前中に南小樽駅着。ナイロン弦とスチール弦、二本のタコマ・ギターを携えていた。思えば、こうして本州のギター仲間のツアーをサポートするのは2002年のAKIさん以来である。さて、どこに連れていこうかなと思いつつ、とりあえず我が家に到着。2日と3日だけが我が家にお泊まりで、それ以降は札幌のホテルに宿泊という予定。「いえいえ、どうぞご遠慮なく」と事前に申してはいたが、Sketchさんは翻訳のお仕事も抱えていて、ノートパソコン持参。常にネットでお仕事の状況を確認しなければいけない。そのため、ホテルの方がご都合がよいとのこと。仲間と一緒に軽く10連泊くらいはしたAKIさんとはちょっと事情が違っていたのである。

 定番の老舗・大丸ラーメンで軽く昼食、その後は小樽運河で多少遅めの時間からストリート演奏。しかし私もSketchさんも全く稼げない。それもそのはず、なぜか最近は人が少ないのである。ちなみに次の日の運河もまるでダメで、Sketchさんに「浜田くん、いつも大変だね」と言われてしまう私...いやぁ、カッコ悪いところをお見せしました。
 6月2日のライブは小樽の「一匹長屋」
 Sketchさんの演奏は、改めて懐の深さを感じるものだった。チェット・アトキンスのアレンジに始まり、様々な曲を様々なスタイルで料理する巧みな演奏。日本のフィンガースタイル・ソロ・ギタリストと呼ばれる人たちの中で、Sketchさんのようにナイロン弦とスチール弦の完全な両刀使いという人は、意外に少ない(思いつく限りでは坂元昭二さんなど)。そのため、音色の幅がとても広いのである。

 6月3日(木)は唯一の空き日程。しかし、翻訳の仕事がお忙しかったようで、なかなかパソコンから離れてくれない。本当は小樽の名所旧跡でもご案内したり、海産物でも食べさせたかったのだが、Sketchさんは不思議なくらいそういう観光ならではの楽しみに興味が湧かないそうで、ちょっと拍子抜け。こういうところもAKIさんとは正反対で、逆に面白かった。どっちもスタンスは違えどマイペースな人なんですね〜。でも、別に頼んでいないのに煙草を家の外で吸ってくれたり、翻訳のお仕事中こちらの運河での投げ銭活動に支障がないようにと、ご配慮頂いたりもした。1.でご紹介している銭湯に二人で入って、この日はぐっすりと眠る。こんな家で良かったら、またお泊まりに来て下さい。

 6月4日(金)は「ファニー」で初の札幌ライブ。ギター同好会「はぐねっと」の方々にも見に来ていただいたが、複数日程が災いして4、5、6日とお客が分散してしまったようだ。私としては、やるからには少しでも予定は多い方がよいと、慎重なSketchさんを説き伏せて企画した経緯があったのだが、ともかくこれで良かったのだと思う。
 ファニーは今年出来た新しいお店なのだが、お店の雰囲気は最高。Sketchさんのプレイは、それに呼応してさらに鋭さを増す。難曲のアイ・アム・ザ・ウォルラスを聴くたびに、これは一種のファンタジアまたは交響曲だなと思う。他の曲も、ソロ・ギターの形になって初めて気づく魅力があった。私はチューニングが変態だが、Sketchさんはチューニングが普通でも、やっていることが変態(もちろん誉め言葉です)という感じである。

 6月5日(土)は「中森花器店」でのライブ。私は前日にチューナーを「ファニー」に忘れてしまったことを思い出し、「中森花器店」で荷物を置いてから、Sketchさんを残して「ファニー」に取りに行く。忘れ物キングの私、またまたやってしまった。戻ってみると開演40分前。PAの作業を通じて、Sketchさんとマスターに友情が芽生えていたらしい(マスター談)。お二人ともマイペースな人とお見受けするので、お話が合ったのだろうか。
 最初にやった私の時はPAに問題はなかったが、続くSketchさんの番になってPAが不調に。ではということで、完全生音でやることになった。もともと私も、昨年のここでのライブは生音だったのだが、なかなかこの奥行きのある空間で生音ライブのできるギタリストは少ないかも知れない。特に、昨今のフィンガースタイル・ギタリストは、ピックアップ前提のステージングをする人が圧倒的に多いため、こういう時は多少あたふたしてしまうはずだ。しかし、Sketchさんはその点、本当の意味でのアコースティック・ギタリストである。
 この生音がまた良かった。

 6月6日(日)はツアー最終日で、澄川の「びすとろ・DEPOT」でのライブ。マスターの狩野さんと私は以前からの知り合いで、この日はアット・ホームなライブになった。多少狭いスペースを有効に使って、お客様の楽しい顔が見えるような、良い雰囲気でのライブだったと思う。Sketchさんとの共演、回数を重ねる度にどんどん調子に乗ってしまい、最初の曲は私がカポタストの位置を間違えてしまったのだが、強引に戻して何事もなかったかのように合わせる。Sketchさんと共演したメイプル・リーフは、何度弾いても気持ちいい。
 打ち上げも楽しく、余興で演奏されたSketchさんのアレンジ「男と女」などがまた素晴らしかった。

 会場が札幌になってからは、私は毎日小樽行きの終電に飛び乗るというせわしなさだったが、何だかもう楽しい想い出になっている。人生経験が私より遥かに豊富なSketchさんと過ごした数日間は、私にとっても新たな刺激となり、音楽の勉強にもなったと感じている。
 Sketchさんのライブ、これからも多くの人に注目していただきたい。

(2004・6・9)

 

5.歪んだ喜びを感じた

 Sketchさんが帰った後、また私はマイペースな投げ銭生活に戻った。すると、全然稼げなかったのがウソのように稼ぎまくった、となればめでたい話だがそこまではいかないものの、なぜか客足が戻って今のところ普通に稼げている。Sketchさんがいるときに、なぜこんな感じでいい思いをさせてあげられなかったのか、と思うと口惜しい。
 思えばもう6月も中程にさしかかり、この項で「春」は最後としたい。

 今回の随筆テーマは「癒し」であるが、お金が適当に入ることによる心の癒しというのも見逃せない。まさに現金である。おかげで、無理して寿命を引っ張ってきた弦を買うことができる。一日余計に風呂に入ることもできる。欲しかったバッハのCDを買うこともできる。この可能性だけで、心に選択肢が増えていく。
 そんな中で、久しぶりに金田一京助の随筆集(再編集版)が単行本で出ていたので購入し、暇を見つけては読みふける。面白い。歯抜けながら全集を持っているというのに、今さらではある。アイヌタイムズの編集はかつて無いくらい難航しているし、きたるライブのポスターやチケットを制作しないといけないなど、最近何だか忙しくて心の余裕がなくなりがちだ。こんな時、運河の片隅で体を休めながら本を読んでいるという、余裕しゃくしゃくの自分をただ楽しみたいのかも知れない。

 お客様の反応をいただけるのはうれしい。アルゼンチン旅行の経験のある方が、向こうで訳もわからず購入したギタリストのCDを気に入っているそうで、私のギターを聴いてそれと同じような感じだとおっしゃってくれた。
 また、望外にもすごい誉め言葉をかけてくれた年配の方がいらっしゃった。いわく、「あなた、顔がいいわね」ですと。もちろん造形が美しいのではなくて(?)、気持ちよさそうに演奏していたのが良かったのだろうか(難しい曲じゃなくて良かった!)。こういうお声を掛けていただくのは、頂いたお金以上にうれしいのである。これこそ私にとって、本当の「癒し」であろう。

 今や雪祭りに匹敵する動員数を誇る「よさこいソーラン」の時期、小樽にも観光客が多かったので、いわば特需という感じを味わった。しかしそんな時期も昨日まで。今日からは、北海道神宮の例大祭がよさこいソーランと入れ替わる形で行われているが、歴史ある大祭が新興のダンスパーティーのおかげでかすんで見えるのは少し考えものだ。あっ、こういうシニカルな視点は癒しの大敵?
 ともかく、案の定、今日は人が少なかった。何だか雲行きがあやしいので、昼の部が終わった後自宅に戻って休憩しつつ待機していると、悪い予感が当たって雨が降ってくる。

 「やったぁ! 雨だ! それ見たことか!

 喜んじゃダメでしょ?

(2004・6・14)

-------------------------------------------------------------------------

第2部 8年目の夏

 

1.霧が出た

 6月は雨が少なく、近年にしては投げ銭の入りがまあまあだった。
 気温もぐんぐん上昇。今これを書いている私の格好は、恥ずかしながらほとんど裸に近いくらいの薄着である。

 この間、小樽運河にまた「旅芸人」がやってきた。昨年の夏にも来ていたご年配の加藤さんという方で、ナイロン弦ギター(フラメンコ・ギターか)の弾き語りである。去年はユパンキの歌など南米のレパートリーを楽しませていただいたが、今年は主に演歌を歌っているらしい。現在はメルヘン交差点(運河からかなり離れた場所にある、オルゴール堂に面した場所)で演奏している。私の住んでいる所からすれば、ちょうど通り道なため、いつも挨拶していく。本当に、世の中いろんな人がいるものである。お互い、がんばりましょうね。
 その加藤さんの使っているカポタストは、フラメンコ用の木ねじの付いた文鎮みたいなもので、いつもシャブ製のカポを利用している私にとっては珍しい。

 さて、6月は雨が少なかったと書いたが、降りそうなときは結構あった。雨が降りたくても降れない時は、天気が霧っぽくなる。小樽は元々、霧はそんなに多くないのに。以前、私が昼頃やっとギターを担いで運河に行くと途端に雨が降るということがたびたびあったのだが(もちろん偶然)、アクセサリー販売などの同業者から「浜ちゃん、雨男」と言われることが多かった。しかし今年は逆に、私が行くと何とか空が持ちこたえるという状況が続いている。これももちろん偶然だが、なぜか良い方の偶然はあまり認めてもらえない
 私のことは是非「晴れ男」と呼んでいただきたい。

 霧は、あまりにも濃くなるとほとんど雨と変わらない。霧の粒粒が見えるときもある。比較的見晴らしの良いところから遠くの山を見ると、雲が空から降りてきているように見えるものだ。あの山にかぶさっている雲と同じものが、今自分のいる所にもあるのだと思えばよい。こんな湿気のある状態は、当然ギターには良くない。
 去年までは、こんな時は、お気に入りのギター(ヤマハS−51)の代わりに別の合板ギターを持っていったものだが、今年はもっぱらS−51だけを弾いている。そもそも、長年にわたる酷使を強いてきたこのギターが不憫であるからこそ昨年は代わりの安いギターを3本も買ったのに、結局どういう訳かまたS−51に戻ってしまった。ああ、このギターにも他のギターにも、あらゆる意味で申し訳ない。

 S−51のサウンドホールの中を改めてよく見ると、高級オールド・ヤマハの象徴とも言える「テリー中本」さんのサイン入りラベルなどに、8年間の汗がしたたり落ちてにじんでいる。表面板の艶はとっくに無くなり、指板はさらにすり減っている。仮にコイツを今競売にかけても、人が買う価値はないだろう。
 自分の指に嘘はつけない。少なくとも運河はこのギターじゃないと、やっぱりしっくりこない。何度別のギターを試しても、運河でのサウンド・バランスや演奏の快活性は、このギターにかなわない。こうなったら、霧だろうが何だろうが、コイツと心中するくらいの気持ちで、指板がすり減って無くなるまで弾いてやりたい。実際、今までそうやって弾いてきたことを続けるだけである。
 S−51に限って言えば、癒しの時は当分訪れそうにない。

 今まで触れていなかったが、今年は雨よけの「新兵器」もある。TAO(「闘うオヤジの応援団」の略号)プロジェクトが制作したギターケース用のレインコートである。昨年秋のツアー中に手に入れた。これのおかげでギター運搬時の防水対策はほぼ完璧。濡れないようにギターケースを抱えて傘の範囲内に入れなければならなかった苦労が、全く不要となったのである。まさに私のような野外派ギタリストのために作られたようなものだ。
 もちろん、雨も霧もない方がいいに決まっているが、さすがに8年間もやっていれば、少しは備えを考えます。

(2004・6・30)

 

2.ラッキーフェスに行った

 天気はままならないもので、7月に入って天候不順が続いた。もはや「例年通り」と言うべきで、いつもの年も、本州の梅雨明け前後あたりに北海道にしわ寄せが来ることが多い。この前見ていたテレビによると「蝦夷梅雨」と言っていたが、全くいつの時代だ。

 この前、7月10日(土)〜11日(日)に、私は追分ラッキー・フェスティバルという音楽フェスに参加した。すでにずいぶん前から何度も参加しているフェスである。企画はハード・トゥ・ファインドの小松崎健さんで、今年ですでに16回目という歴史がある。
 昨年の私は、ちょうどその日に引っ越しが重なったため、手伝いに来てくれた友人の覆面シンガーと共に追分を断念した経緯があった。だから、今年の追分を休むわけには行かない。なぜそこまで追分に出たいかは追々話すとして、ちょうどその7月10日に札幌でライブをしたAKI&久仁子さんには大変申し訳ないことであった。「共演したいね」と以前から相談されていたからである。すみません、それでも追分は私にとって結構大事なイベントなのです。この埋め合わせは、8月のAKIさん単独ツアーでさせていただくつもりです。

 7月10日、朝のうちだけ小樽運河で演奏しようか迷うが、疲れるので止めることにして、午後3時頃の電車で南小樽から南千歳へ。そこで夕張行きのワンマン電車に乗り換えて、途中の東追分で下車。こう言っては何だが、まわりには牧草地しかない無人駅。道外の観光客が喜びそうな、だだっ広い風景である。そこで、酪農大や北大の学生たちと共に、待ち合わせていた小松崎さんたちの車に便乗して、フェス会場へ。
 おお、追分。小松崎さんの廃屋同然の別荘が見えてきた。そもそも一年に一度、このフェスをやるためだけに借りている土地だという。草刈り、会場設置、雨よけのシート設置など、各自がこのフェスのために奉仕を惜しまない。

 各バンド15分の時間をもらって次々とパフォーマンスが続く。それでも6時から始まって真夜中(2時頃?)までかかる。学生のブルーグラス・バンドから、私たち常連にはおなじみの社会人バンドまで、そのジャンルもアイリッシュ、B級歌謡、カントリー、フォーク、沖縄音楽、大道芸、そして我が友人・覆面シンガーのようなただの変な人など、様々に楽しめる。純粋なブルーグラス・フェスとはひと味違う、雑多な魅力がある。
 あいにく、冒頭の通り天候には恵まれず、追分では初めてかと思えるほど最初から最後まで雨だったが、相変わらず熱いステージが繰り広げられた。特にストーブ、バッコンズといった超ユニークなベテランバンドや、万歳屋右近さんの閉会挨拶は、もはや一種の無形文化財ではないかと思う。二年ぶりに爆笑し、また感動し、癒された。

 なぜ追分に独特の魅力があるかというと、やはり主催者の小松崎健さん、よっちんださん、そしてそのお知り合いたちの人徳であろう。
 私がまだ学生の頃、まるでブルーグラスのできないソロ奏者の私に、当時バリバリのバンジョー奏者だった健さんは「浜田くんもフェスに出なよ」と気軽に声をかけてくれた。多分同じような調子で、札幌ジャック・イン・ザ・ボックス界隈から出ている暖かく気持ちよいオーラに引き込まれて様々な人が参加し、これだけ多くの人の繋がりになったのだろう。このような連帯感、幸福感は、私が音楽をあきらめずに続けている大きな理由の一つでもある。

 すでに来年が楽しみな追分の夏。
 次こそはからっと晴れたステージで、覆面君とデュエットでもやりたいものである。 

(2004・7・14)

 

3.いろいろあった

 私の仕事は夏がピークであるから、当然夏に随筆のネタになりそうなことがいっぱい起こる。しかし、やはり忙しいのでそうしたことはなかなか実際には書けず、起こってはただ消えていくだけである。仕方ないので、この際思いついたことをつれづれなるままに書き散らしていきたい。

 今年の夏は天候もよく、投げ銭家業の調子はまあまあ順調である。特に今年の傾向としては、日本人以外の方々(台湾や韓国、香港などからの観光客)が多く、CDも売れている。以前は、私の記憶する限りこんなに外国人が買ってくれた年はなかった。中川イサトさんをはじめ、台湾で活躍するアコースティック・ギタリストが近年増えているせいもあるだろう。
 なお、CD物価の違いのため、私はいつもアジアの同胞にはCDを割り引きして売っている。外国人との値引き交渉は結構な確率で話として出てくるため、面倒なのでこちらから先に持ちかけている訳だ。いわゆるアーティストとしての自分を安売りしたいわけではないが、(CDの)各国価格差はまた別の話。せっかく遠く海外からいらっしゃった方々へ、せめてものサービスのつもりである。

 しかし、台湾などのお客さんがここまで多いと、ただでさえ私たちと外見上の差があまりないのに、そのうち日本人と区別が付かなくなってくる。この前、投げ銭を入れたあとでCDをしげしげと見てくれている人がいて、「また台湾の人かな?」と思って「It's my original CD...」などと片言の英語で話しかけると、「えっ?」...思い切り日本人だった
 ああ、国際的な観光都市・小樽よ。これからもっとこういう状況は増えていきそうである。

 さて、最近のあまりの暑さに、私はかなり夏バテ気味。気がついたら、演歌・フォルクローレの加藤さんがメルヘン交差点から運河に場所替えしている。私も改めて一度メルヘン交差点でやってみたが、団体ツアー客のインストラクションの場になっていることもあり、お客が集中して音楽を楽しみにくい環境である。また、ここの石畳は太陽光を反射しやすく、照り返しで暑さが倍加する。私は今涼しい顔をして解説しているが、本当にシャレにならないくらい暑い。なるほど、こりゃ場所を移りたくなるってものだ。よく考えたら運河は水辺だから、夏は比較的過ごしやすいのである。
 しかし日差しは場所を選ばない。私は炎天下では可能な限り日陰でやるようにしているが、加藤さんは釣り竿にこうもり傘をジョイントして日除けにしている。最初見たときはグッドアイデアと思ったが、う〜む。絶対ビーチパラソルの方がいいと思うなあ。

 暑い日の本番は夜。いい具合に気温が下がって、過ごしやすい。夕暮れ時には、バッハを自分でもハッとするくらい神妙な気分で演奏できる。いい気持ち。
 しかし夏はお祭りの季節でもあり、太鼓や仮設ステージのロックの音量がうるさいときもある。申し訳ないが、なんで潮太鼓を港でやらずに運河プラザでやるのかなあ。向かいのホテルのお客さんもビックリだろう。こんないい日にマイペースでギター演奏できないのはちょっと辛いけど、そのうちバタバタした祭りは過ぎ去る。たまのことだから我慢我慢。

 昨日は久しぶりに、小樽運河で何かのTVドラマのロケをやっていた。「投げ銭随筆1」も参照してほしいのだが、TV関連の人が入ると、まず例外なく私の商売あがったりなので、やはり我慢モードに突入。照明がまるでサーチライトのようで、目が痛い。それでも我慢して何とかギターを弾いていると、スタッフとおぼしき若い女性が私に声をかける。「あらら、やっぱり演奏を止めてくれって言われるのかな」「だったらもっと早く言ってほしかった...」と思ったら、「ロケが終わったあとの打ち上げでギターを弾いてくれませんか」と言う。なんでもスタッフにこの日が誕生日の方がいて、その人に誕生日の曲をやってほしいのだという。残念ながら、私は遠回しにお断りする。
 別にお高く止まるつもりはないのだが、多分目立ちたがりの学生か何かだと思われたのだろう。(私から見て)どこの誰ともわからない人が、名刺の一枚もくれないでいきなりそんなことを言うなんて、ちょっと無礼だなと思った。そしてそれを無礼だと感じる私は、損な性格であると改めて認識した。

 ありゃ、また愚痴っぽくなった。この随筆のテーマは「癒し」。
 話題のドラフトワンでも飲んで、まったりするべや。

(2004・7・30)

 

4.暑い中、AKIさんが来た

 今年は久しぶりに夏らしい夏。やっと本州に近い暑さになってきたのは大変喜ばしいが、いやはや、ちょっと暑すぎ。去年の真夏日は多分たった一日くらいだったが、今年はもう何度も30度を超えていて、運河よりも海水浴に行きたい気分である。

 この暑い最中、二年ぶりにあのAKIさんがやってきた(『投げ銭随筆2』を参照のこと)。もちろん運転手を務めているフォーク・シンガー、佐藤潤くんも一緒である。またこの憎めないコンビがやってきたのだが、今回もツッコミどころ満載、本当に面白い一週間となった。
 8月1日の四時頃、例によって南小樽駅で待ち合わせ。行くと、駅の駐車場に「東新橋調理所」とペイントされたワゴン車がある。「あれ? 小樽にこんな店あったかな?」、まさかこの車がAKIさんご一行のものとは夢にも思わなくて、そのまま通り過ぎて駅に入ると、コンビニで物色中のAKIさんと再会。そして件の車の中に佐藤君を発見して事情が飲み込めた。
 実はAKIさんは7月にもユニット「AKI&久仁子」で北海道をツアーしていて、以前の車はその時、あまりの酷使についに音を上げて、白煙を吐いてお釈迦になってしまったという。この車は、その代わりに急遽調達したものであった。いきなりMCのネタが一つ出来たのだが、この車は出前か仕出しの最中だと思われるため、駐車場所に困った時は便利であることに後で気がついた。

 前回のツアーで、AKIさんご一行のユニークさをあまり揶揄したためか、今回はお二人とも私にいろいろ気を遣ってくれる。二年前とは違って比較的狭い家で、ご苦労も多かったと思うが、全く気にする様子なしだった。最初の日の晩は、記念にどこかへ食べに行こうと私が誘ったのだが、「いやいや、今日はボクたちが御馳走するよ」と、おもむろに出してきたのはキャンプで使う大きなグリル。かなりごつい。佐藤君は何とこれをお茶の間で点火させ(スゴイ火柱が上がり、しばし圧倒される)、そして飯ごうでご飯を炊く。呆気にとられる私を後目に、鍋に入れたのはボンカレー。
 マジですか?
 こうして、最初の日は世界的ギタリストともにカレーをつつくのであった。
 味は格別であった。

 さて、今回の予定は3日に札幌でAKIさんのソロ、4日が小樽・一匹長屋、6日に札幌のスペース2・3、最終日の7日が恵庭の夢創館。あと、空いている時は小樽運河でストリート(AKIさんは札幌の狸小路でもやったらしい)。
 3日は、ついにAKIさんご一行の札幌からの帰宅時間が夜の2時半になり、今までで最も遅い記録を更新した。ああ、やっぱりAKIさんだ。
 小樽のライブでの共演は、スゴクいい感じ。AKIさんのギターの音がエネルギッシュに、アグレッシブに迫ってくる。ユニットでのライブが多くて、ソロは久しぶりと言うが、すでに独自の世界である。なお、お客様として、久しぶりに先輩の小西さんに会えたのがうれしかった。

 佐藤君は、6日の朝に所用で東京に戻る(定番の青春18きっぷ...)。北海道を満喫できないのが残念そうだった。前の日には、新南樽市場でウニ折りやイクラを買って、みんなでウニ・イクラ丼パーティーを開いたのが、いい記念になった。佐藤君の歌は、確実にうまくなっている。もっと自信を持って、抜くところは抜いて、がんばってもらいたい。
 この日から運転はAKIさんがすることになる。実は私も免許を持っているのだが、教習所を出てから完璧なペーパードライバーを通してきたので、すでにエンジンのかけ方すら忘れている。「アクセルかけながらキーを回すんでしたっけ?」「浜田くん、それじゃ爆発しちゃうよ」と久々にAKIさんがツッコミ役になった。そんなわけで、私は助手席でナビゲーターをやることに。

 6日のスペース2・3は、企画した私の告知不足のためかもしくは人徳がないのか、集客は芳しくなかった(というか私のライブとして初のゼロだった)。どうした180万人の札幌市民? しかしこの状況下でもAKIさんは楽しそうに超絶のプレイ。とびきりのオフレコ話まで飛び出す。面白い! いや、AKIさんには大変申し訳なかった。スペース2・3でいつもお世話になってる越山さんの「いやぁ、絶対もったいないですよ」という言葉に全てが要約されている。
 札幌でのライブというのは、本当に難しいものだと改めて悟った。しかし私たちミュージシャンは、たとえ不都合なことが起きても、それをMCのネタにする強さを持つことができる。一般の人にはあまり公の前でもの申す機会がないだろうから、これはいわば便利な強さである。私はこの日のことを、当分はちょくちょくMCのネタにすることだろう。

 最終日の7日、小樽から延々恵庭までAKIさんに運転させて、多少良心の痛み。お世話していただいた大沼さんや臼木さん、音響や照明などのスタッフの方々、そしてオープニングを務めていただいた方々の努力の甲斐あって、夢創館は大いに盛り上がった。前日のこともあって、なおさらうれしかった。私は調子に乗って二曲も歌を歌ってしまった。「見られた方が燃える」のは、ミュージシャンの性である。AKIさんの「Trust」がいつもよりはじけて聞こえた。お忙しい中お越しいただいたお客様が、本当に神さまに見えた。

 いろいろあったが、お世辞抜きで世界のギタリストであるAKIさんのツアーをサポートできたのは、北海道の一ギタリストとして大変光栄である。これからのAKIさんの「サマー・サバイバル・ツアー」に、ぜひ注目して下さい。

(2004・8・9)

 

5.お盆を迎えた

 夏は私の稼ぎ時。小樽運河のお客様の数もピークを迎える。彼らがみんな投げ銭を10円ずつでも入れてくれたら、かなりの額になるのだが、実際はいつも以上に通り過ぎていく人の数も増えている。人の関心を引くのは芸の基本だが、これが難しい。いい音楽をやっていればいいというものでもないらしい。調子のいい曲の反応が悪ければスローな曲、聞いてくれていそうなら多少複雑で冒険的な曲。何をやってもダメなときはアドリブ(ノダゴローさんとの共演以降、結構得意になった)。たとえこれから先、何曲覚えても、現場でのレパートリーの選択にはいつも悩む所だ。

 どんなお客様にも感謝しなければいけないのだが、私にとってもっともうれしいお客様がいる。それは、リピーターの方だ。特に、以前CDを買ってくれた方が、今度は別のCDを買っていただけたとき、私は無上の喜びを感じる。私のギターを聞いて、たまたま気が向いて投げ銭を入れてくれる方はいらっしゃるだろうし、一時の気の迷いでCDを買ってしまう方もいらっしゃるだろう。しかし、二度目以降に訪れて、また私のギターを聞いてくれる方は、私の音楽を心から気に入って投資してくれるのに違いない。

 ライブも同じ事。「前に行ったから、もう行かなくてもイイや」と感じられると、私は少し辛いのである。私は常日頃、(音楽を日常品や生活必需品として売りたいという意味で)八百屋のようなギタリストになりたいと思っている。人は、八百屋から一度野菜を買った後、「もう当分買わなくてもイイや」などと思うだろうか。少なくとも、私にとっての音楽の理想は、この野菜と同じだ。できれば、鮮度のあるうちに買ってもらいたい。
 あくまで理想だけどね。

 そうこうしているうちに、ついにお盆を迎えた。
 天候や、またもや特設ステージのジャズの音などが気になるが、今年はまあまあ稼げている。
 8月13日(金)には、弟の車で母と三人でお墓参り。お墓のまわりをうろうろしているでかいスズメ蜂に邪魔されてあわただしく切り上げる。特に弟は蜂が苦手で、こうなったらもうお手上げだ。
 しかし、私だけでなく、蜂やカラスにとっても、お盆のシーズンがいわば稼ぎ時。お供えをかすめ取ってまるまると太る輩を見て、ああ私はこいつらと同じなんだと思う。北海道の短い夏を、彼らも精一杯生きていると思うと、ちょっとは可愛らしく見える。そこで一句。

 お供えに 群がる蜂の 墓守よ

(2004・8・15)

 

6.「石狩挽歌」を歌った

 今年の8月は、私にしては異例なのだが、ライブが4件も(?)入っていた。うち、3件は上記のAKIさんとのジョイント。最後の一件は8/28、札幌のシンガーソングライター、PETA(ペータ)さんとのジョイントが、ライブハウス・ファニーで行われた。PETAさんとのジョイントは久しぶりであった。
 当日は、PETAさん初の楽譜集「PETA WORLD」を購入。歌ものの伴奏の完コピが収められているが、それだけでなくギターソロの楽譜もあり、ギタリストにもお勧め。またライブでも、新曲がとても素晴らしくて、特にアンコール前のラブソングには思わずジンと来てしまった。うわ〜、恋人欲しくなった〜(?)

 さて、ライブの数日前、PETAさんから「アンコールに「石狩挽歌」歌おうよ」と電話で誘われた。「ええっ? はい、面白そうですね」と答えておいたものの、誰のどんな歌だったかほとんど覚えていないことに気がついた。昔、誰かがカラオケで歌っていたことしか覚えていない。そこで、ライブ前日、これも勉強だと思って小樽の都通りにある小さなレコード屋さんに入り、見当もつかないので思い切って店長さんに質問。すると北原ミレイさんの7曲入りミニアルバムを教えていただき、即購入した。1曲目が件の「石狩挽歌」なのである。

 北原ミレイさんの歌は、中音域を使った独特の魅力があり、さすがに名曲の風格がある。あまり演歌というものを聞かない私は「ああ、こんなのもいいな」と思いながら、オタルナイ・チューニング用にコードを取っていく。PETAさんは、原曲の調(Bbm)ではなくAmで歌うとのことだったので、あらかじめカポを付けて取り組む。イントロを除いてそんなに凝ったコードはなかったので、ここまでは順調。

 しかし、よく歌詞を聴いてみると、あれっ? 何だかおかしいことに気がついた。ネット検索でこの歌詞が出てきたので、知らない方はまず読んでいただきたい。
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/ishikaribanka.html
 内容的には、ニシン豊漁でにぎわった頃の漁師町の喧噪を、ご年輩の女性が懐かしむという(こう言っては身も蓋もないか)歌である。筒袖(つっぽ)とかヤン衆という漁師の言葉は各自調べていただこう。

 私の目から見ておかしいポイントは何と5点もあった。
 長くなって申し訳ないがおつきあいいただきたい。
 まず、「挽歌」という言葉。これは辞書を引くと「人の死を悼む詩歌」などとある。例えば、宮澤賢治の「青森挽歌」「宗谷挽歌」「オホーツク挽歌」は、妹さんを亡くした悲しみを振り払う旅の途中で書かれた詩篇である。石狩地方で誰かが死んだとか、誰かの死を悼んだという内容でもないのに、ニシンが来なくなったからとか、石狩地方がさびれてしまったからといってこういうタイトルにするのはおかしい。

 続く二つのポイントは、以下のページですでに考察されている方がいらっしゃる。つまり、「「オタモイ岬」という地名はない」という点と、「そもそも小樽は(朝里もオタモイも含めて)、石狩ではなく後志である」という二点である。
南樽事務局- オタモイ岬についての考察

 上記のページでは、オタモイ岬という地名があった可能性もあるように書かれているが、私が調べた限りではどの資料にもそんな地名はない。オタモイの断崖絶壁は、断崖すぎて岬と言える感じではないし、ここに昔あった「竜宮閣」(『私のアイヌ語地名解2(窓岩〜トド岩)』でも解説している)は、そもそもニシン御殿ではなく、寿司店の店主・加藤秋太郎が建設した料亭であった(『小樽の建築探訪』小樽再生フォーラム編より)。しかも昭和27年に火災で焼失してしまった。
 歌詞が指しているらしいニシン御殿と言える「旧青山別邸」(現・貴賓館)は、オタモイから遠く離れていて、とても結びつかない。
 小樽が石狩ではないのに、なぜ「石狩」挽歌になったかは不明だが、この歌は「石狩湾全体のことを指す」などという苦しい弁明を考えて、百歩譲ってOKと見ることもできる。確かに、浜益や対雁など石狩の浜も、かつてはニシンの好景気に沸いたというから。しかし、これは私の小樽市民としての意地でもあるのだが、最低限、小樽を石狩と同一視するのは困る。札幌市民が小樽を札幌の郊外としか見ない風潮と重なるようで、私はちょっとひっかかるのだ。

 ついでにもう一点。この歌が作られた当時はまだ定説がなかったのでその点は割り引かねばならないが、近年では小樽市の手宮洞窟のいわゆる「古代文字」は、文字ではなく彫刻画だったことがわかっている。参考までに、以下は手宮洞窟のホームページ。
http://www.city.otaru.hokkaido.jp/kanko/dokutsu.htm

 最後の一点。これは私も勉強不足で断言できないのだが、「問い刺し網」という言葉の意味がよく分からない。「問い刺す」という日本語は、いろいろ調べたが出てこない。ご存じの方はご教授いただきたい。なお、刺網は漁法の一種で、魚を網の目に絡ませて取る方法。しかし、ニシン漁の実態を伝える複数の資料から、少なくとも刺網ではなく「建網」(定置網)という漁法が使われたのは明白である。昔はニシンが多すぎて、網の目に絡ませるだけではとても大量には取れなかったはずだ。
 以下のページもご参照いただきたい。ニシンではなく雑魚を取るために刺網を使ったとも記されている。
http://www.tabiken.com/history/doc/L/L184L200.HTM
http://www6.plala.or.jp/AKAIWA/tateami1.html

 こんな事を指摘する私が野暮なのかも知れないが、歌だからといって言葉や歴史的事実をねじ曲げていいということはない。特に大ヒット曲は、一般への影響力が強いから要注意である。
 私がネットで調べると、現在「ニシン御殿」として最も有名な祝津の「にしん漁場建築」(積丹半島の泊村照岸から昭和33年に移築されたもの)の建っている「高島岬」が、この歌のせいで「オタモイ岬」と誤解されてしまう例が多数見受けられた。こんな誤解があっては、北海道を代表する民謡の一つ「江差追分」の歌詞「忍路高島 及びもないが せめて歌棄(うたすつ) 磯谷まで」にも登場する、由緒正しい地名が台無しである。名曲にケチを付けるつもりもないのだが、小樽市民として文句の一つも言いたいのはご理解いただきたい。

 でも、でもいい歌だ。
 PETAさんとのデュエットは好評だった。

(2004・8・30)

 

第3部 8年目の秋

 

1.台風が来た

 この話は全然投げ銭に関係ないが、まあおつきあいいただきたい。
 お盆が過ぎて9月になり、実りの秋を迎えつつあった北海道。ところが、つい昨日の9月8日は悪夢の一日になった。
 台風18号
の襲来である。
 今年は何度か台風が北海道にやってきているが、たいていは途中で勢力が弱まり、温帯低気圧になる。ところが、今回の台風はむしろ途中で暴風域が拡大して、北海道のほぼ全土を巻き込んだ。特に、進路が日本海寄りだったため、普段はあまり被害を受けない後志管内も大打撃を受けた。

 かくいう私の住む小樽も、台風直撃コース。だいたい、小樽沖80キロあたりの海上を通ったというからニアミスどころの騒ぎではない。しかし朝のうちはそれほど風も強くなく、普通に外出して燃えないゴミを出せた。「たいしたことないな。これなら、台風一過で運河に出られるかな?」などとバカなことも考えていた。
 ところがその後、今まで経験したこともない恐ろしい風がゴオゴオと吹きすさび、私の住んでいるあばら屋(おっと、大家さんに失礼)も、さながらゆりかごの如し。いつも朝に行っているパソコンからのメールチェックは、極力早めに終わらせて、「停電があるかも知れない」と思って電源を切っておく。すると、それから一時間もしないうちに、見ていたテレビの電源がバチンと落ちる。

 停電だ。これがだいたい午前10時頃の話。
 マジかよ? いやあ、パソコン切っておいて良かった、じゃない。
 そこまですごい台風が来たということに今さらながら気づいて、ようやくビックリしたのである。

 まず気にしたのは冷蔵庫。でもたいしたモノは入っていない。とりあえず下に新聞紙をしいておく。
 電話は留守電機能がダメになったが、とりあえず掛かってくるし、掛けられる。
 ニュースがないと不安なので、携帯ラジオをつける。
 食料は電子レンジで暖めないといけないモノばかりなので、近所のコンビニに行く。

 すると、ありゃりゃ、道路も停電。信号機が点いていない。生まれて初めて見る光景に唖然とした。一丁ほど下の国道五号線まで下がったらちゃんと電気が点いているのに、ちょっとの差でこっちは停電地区なのである。
 例の銭湯(京の湯)の入り口に、おそらく初めてであろう「臨時休業」の文字が。
 コンビニも停電。だいたい自動ドアが開かない。無理やり開けてもらい、パンなどを買ってお金を出しても、レジが開かない。お店の人も苦笑していた。マンションに住んでいる人は、水道もポンプで上の階にあげているから、停電になったら水不足も同時に襲ってくる。電気のありがたみが、嫌でも身に染みた。
 ただ、正直に言うと、自分の所だけが停電でなくて、ホッとしたという気持ちも強かった。

 この停電、なかなか治らなかったので、夕方には別の町にある私の実家に行く。
 私の人生、初の自主避難である。
 新聞に書いてあった避難者の数、私も追加でカウントして下さい。

 その後一度、「どうなっているかな?」と思って夜9時くらいに行くと、全く復旧していなかった。恐ろしいことに、入船2丁目から上の通りが、全く街灯も何もついていない。入船の通りに北電(北海道電力)の車が止まっていた。どうなっているか状況を聞こうと思って近づくと、すでに他の市民数人が職員に食ってかかっていた。私のやりたいことをやってくれていたので心が落ち着き、「あの、いつ停電終わりますか? え? 今のところめどが立たない? いやぁ、そうですよね、これじゃあしょうがないですよね。いえいえ、がんばって下さい」と、イイ子ちゃんぶってその場を治める。
 私も結構ずるい人間である。

 結局、実家で一夜を過ごし、朝に再び帰ってみると何事もなかったように電気が点く。
 こんな話はどうでもいい。それよりも余市や七飯町などのリンゴ畑など、農家の被害が甚大だと思われる。
 さらに、街路樹がなぎ倒されたり、鰊御殿の屋根が吹き飛ぶなど、建物の被害も相当なものだ。
 一刻も早い災害からの復旧支援が望まれるところである。

 西日本の人たちは、こんな被害に何度も遭ってきたんだなと思うと、本当に恐れ入る。

(2004・9・9)

 

2.寒かったり暑かったりした

 月日はさらに過ぎ行く。
 台風の傷跡は思いの外ひどかったらしいが、我が家には幸いにもTVアンテナがずれたくらいしか跡は残らなかった。おかげで未だにテレビの映りが悪いが、まあ見られないということはない。
 9月中は、この事を除いて天候も良かった。雨のため終日休んだのが6日間だけで、投げ銭活動はほぼフル稼働状態。7月8月も雨が比較的少なく、今年は天候で心配するということがあまりなかったのはうれしい。いつも自分の力の及ばないところで嘆いていたので、今年こそは神さまに感謝である。夜の気温も9月中頃までは良好で、暖かかった。気持ちの良い秋晴れ。実働時間も7月と同じくらい。今年は、最低というかどん底だった昨年を、すでに稼ぎで上回った(といっても、例によってそんなにたいしたことはないが...)。前年の稼ぎを上回ったのは実は初めてで、この仕事を始めて以来ずっと続いていた凋落傾向にやっと下げ止まりの観が出たので、正直ホッとしている。

 9月初め頃、博多から来た団体のみなさんが、あっという間にCDを5枚も買ってくれたり(私の長い投げ銭史の中でも、こんな事は初めてだった)、カナダから観光で来た外国人女性、名古屋からバイクでやって来た男性、自転車旅行の最後に小樽を訪れた学生さん、住出さんの新作CDのジャケットなどを手がけたデザイナーの藤尾さんなど、運河で粘ってギターを弾いていて良かったと思える出会いが何度もあった。

 今までは、年々不景気になっていく世の中で、人がいなかったり稼ぎが悪かったりすると、心のどこかであきらめてしまい、いつも通りなら実現していた貴重な出会いを見落としてしまうことがあったと思う。私には、ギターを弾くしか生計の手段がないのだから、たとえ何があっても迷わずに、いつも通り弾くことにこだわりたい。

 思い出すのも辛いことだが、数年前(1998年)父が病気だった頃、家族みんなで神恵内あたりに釣りに行こうという話になったとき、私は仕事だと言って、父やみんなと行かずに運河でギターを弾いていた。これが最後の遠出になると言うことを絶対認めたくなかったし、家族全員揃ってでは、自分が不治の病だと知らない父が変に思うかも知れないと考えたので、心の中で泣きながらいつも通りの仕事に打ち込んだのである。今でもこの事は、私の人生の中で後悔と納得の間をさまよっているが、少なくともこのときから、私にとって小樽運河での演奏が本当の「仕事」になったのだと思っている。

 話は戻って、今年も、知り合いの飲み屋さんで飲んだりすることもなく、ライブ鑑賞のお誘いも同好会のお誘いも残念ながらお断りしたりした。投げ銭シーズン中は、私のことをつきあいの悪い人間だと思われた方もいらっしゃるかも知れないが、どうかご容赦いただきたい。

 さて、9月中盤以降は、さすがに夜が寒くなってくる。月末頃は、最低気温が10度近辺。いつもなら夜の部がおしまいになる頃だが、今年はまだがんばれた。10月はじめともなると、夜はほとんど冬の格好で演奏。軍手の先を切り、右手指先だけ出して演奏というスタイル。これは慣れないと私でも辛い。軍手の多少の厚みが、指と指の間のスペースを消してしまうため、指の回転が悪くなり、余計な力が必要になる。目をつぶって弾くいつもの感覚に狂いが生じるため、右手指の位置を修整しながら弾かなければならない。この「軍手奏法」には、もちろん寒さ対策というのもあるが、実は「ここまでやって大変だね」という同情票を呼び込むためのパフォーマンスという側面もある。
 どうかこんな私にだまされて下さい。

 10月3日は、寒さがかなり応えたので、ちょうど小樽に来ていたジャズ・ピアニスト、高瀬アキさんのピアノ・ソロ・コンサートを見に行く。現代音楽的なフリー演奏は私の予想を超えていたが、モンクやエリントンなどのクラシックな部分もあって良かった。やっぱりピアノはいいなあ。CDも買ったのでいつかレビューを書きたい。
 ところが、つい昨日の気温は、日中23度、夜でも17度という暖かさ。いきなり変わるなあ。おそらく台風の接近で暖かい空気が北に押し上げられたためだと思う。台風は憎らしいが、暖かいのはうれしい。

 芸術の秋を楽しむ環境はまだ続いているので、どうぞ皆さんも今のうちに小樽運河に遊びに来て下さい。

(2004・10・8)

 

3.デジカメ購入作戦は10分で終了した NEW!!

 メールマガジンでも書いた「デジカメ」についての話題(もう投げ銭とは別世界だな...)。
 新時代の三種の神器といわれる薄型テレビ、DVDレコーダー、そしてデジタル・カメラ。どれもこれも映像がらみの商品というのが少々気になる。私は、自慢じゃないが映像関連に執着の薄い人間だ。テレビは1987年製の14型がどうにも絶好調で、まるで壊れる気配がない。ビデオは今のところVHSで全く不満なし。未だに昔のベータのショックが尾を引いているため、規格争いに巻き込まれるのはもうこりごりという意識が働いているのだろうか、DVDレコーダーはあまり買いたいと思わない。実際、映画を見るのもそんなに好きではないし、自分のライブ映像の入った自主制作DVDを作りたいわけでもない(その前にCDを売らなきゃ)。

 カメラはこれまで、某メーカーのハーフ(フィルムの1コマ分を2コマで撮るカメラ)を使ってきた。確か10数年前、会社員時代に買って、初めてのカメラにうれしくなって、手当たり次第に身の回りのものを片っ端から撮った記憶がある(ストーブの上に乗っているフライパンの中の卵焼きとか)。もちろん、すぐに飽きた。
 まがりなりにもデジタル・カメラを買ったのは数年前。何と数千円という安さだったが、30万画素で液晶画面なし、記憶媒体は無し(本体メモリのみ)、24枚以上撮れない、フラッシュ無しなのでちょっと暗くなると撮影不可、などという感じで、全く役に立たないものだった。
 そんなわけで、近年安くなってきているデジカメ購入は、私にとって今年の一大テーマとなったのである。

 なぜデジカメが欲しいのか。
 アイヌ語地名調査をやりたいと思ってもなかなかできないのは、時間の問題もあるが、費用の問題も大きな理由の一つである。『私のアイヌ語地名解2』で使用されたフィルム代と現像代、プリント代は結構なもので、これをデジタル・カメラに置き換えれば大幅な経費削減になる。
 さらに、以前から小樽の町並みを撮って楽しみたいという願望もあった。小樽は北海道の中でも有数の古い歴史を持つ町で、歴史的建造物も数多い。移り変わりの激しい町でもあり、以前営業していた店が、いつの間にか別の店になっていたという事もしばしばであるから、こうした画像による記録には博物的な価値が確かにある。年を取るに従って、私も趣味が年寄りくさくなっているのかも知れない。

 さらに、私がデジカメ購入を決めた決定的な出来事が最近起こった。
 数日前、何とまたまた北海道にAKIさんご一行がやって来た! といっても、今回はAKI&久仁子としての来道であるが、それでも二度目、AKIさんだけで言えば三度目である。AKIさんに直前になってメールをいただくまでは全く知らなかった。今回は宿もきちんとホテルであるとのこと。スゲー。
 いろいろあって、待ち合わせ場所が夜、小樽運河にてということになった。
 そこで初めてお会いできた帯名久仁子さん、そしてAKIさんと佐藤君。久仁子さんとは初対面だが、もうすっかり四人で意気投合してしまった。そして、しばし感動の対面の後、久仁子さんがデジカメで写真を撮ってくれたのだが、これが夜にも関わらずすっごく良い写りですっかり感心してしまった。これはもういいかげんに観念して買うべし、と久々に私の中に、あきらめにも似た物欲が生まれたのである。

 昨日(10/13)AKI&久仁子の札幌「アコースティック」でのライブ鑑賞のため札幌へ。ついでに、会場に行く前に札幌駅前の某店でデジカメを購入することにした。しかしどうやら開場時間が迫っている。どうしてもっと小樽を早く出られなかったのかと後悔しながら、その店に着いた途端にデジカメのフロアへ直行。
 いろいろああでもないこうでもないと選ぶのも楽しみだと思ってはいるのだが、結局一番安いものを買う(選んでないじゃん!)。店に入ってから購入までの所要時間は10分もかかっていない。
 レジに運ぶと「ご一緒にバッテリーパックはいかがですか」「メモリーカードがないとたくさん撮れませんよ」「保険に加入しませんか」「専用ケースなどもございますが」などと貴重なアドバイスの数々。本体価格が安い分、付属品で利益を稼ぐのは商売の常套である。せっかくなので、メモリーカードと保険だけご忠告に従う。結構な出費だ。そうだ、私も自分の「関連グッズ」で一儲けできないか...(無理です)

 AKI&久仁子のライブを初めて拝見。心から感動した。カッコイイ。AKIさんのすごさはもう紹介不要。初めて見る久仁子さんの全身全霊を込めたパフォーマンスには、正直言って気圧された。これこそ、魂に届く音だった。ほとんど全体重をかけんばかりのあのベンディング! エモーショナルなトレモロ! 精緻に同期したインタープレイ。めくるめく即興のどのフレーズを取ってみても、CDで聴いて知った気になっている自分の認識を根底から変えさせる力に満ちていた。AKIさん自身もかつて言っていたが、久仁子さんの今日のプレイは「琴のジミヘン」という表現が最もふさわしいだろう。
 来年のドイツ公演も決まったそうで、AKI&久仁子はこれからますます大きな評価を勝ち得ていくだろう。

 なぜか私の隣の席にはあの谷本光クンがいた。いわく「AKIさんから今日お誘いの電話をもらいまして...」と。AKIさん、誘うにしてもギリギリ過ぎです! でも、谷本君も感動していた様子。久しぶりに谷本君に会えて、いろいろ話も聞けて良かった。アコースティックのマスターの荒井さんにもお世話になって感謝なのである。

 翌日(つまり今日)、昨日のライブの興奮も一段落、私は初めて買った「きちんとした」デジカメで、やっぱり身の回りのものを手当たり次第に写しまくった。(このカメラで私を撮ってもらった写真一枚を「写真の部屋」に載せました)。運河でも、堺町通りでも、メルヘン交差点でも撮りまくり。やっぱりいずれは飽きるのかも知れないが、少なくともこのカメラを見るたびに、私はなんとなく昨日のライブの感動を思い出すだろう。
 変なパブロフの犬だなあ。

 さて、取り壊しになるらしい運河沿いの「町の寿司」の屋根にあった名物の「巨大タコのハリボテ」が、すでに取り外されていた。残念。おとといまではあったのに、カメラが間に合わなかった...。

(2004・10・14)

 

TOP  HOME