私のアイヌ語地名解(2002年7月17日更新)

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目次

  私のアイヌ語地名解

 北海道余市町「畚部(フゴッペ)」について

 北海道小樽市「蘭島(らんしま)」について

 北海道小樽市「忍路(おしょろ)」について

 北海道小樽市「於古発(おこばち)川」について

 北海道小樽市「朝里(あさり)、柾里(まさり)」について

 北海道小樽市「張碓(はりうす)、有幌(ありほろ)」について

 北海道小樽市「チエトイナイ、信香(のぶか)」について NEW!!

 北海道小樽市「祝津(しゅくつ)」について

 北海道「倶知安(くっちゃん)、倶登山(くとさん)川」について

 以前ここに載せていた「倶知安(くっちゃん)、倶登山(くとさん)川」の解は、削除いたしました。私の解は『データベースアイヌ語地名1』とアイヌ語的には一緒の解で、ここで取り上げる意義は小さいし、私は現地を詳しく観察していません。よって、後日改めて現地を確認してみたいと思います。他にも、自分でじかに見ていない所の地名解も載せていますが、ここでは正しいアイヌ語の適用という観点からの検討が主になされていて、その結果過去の説と違う結論になったものです。説として不充分ではありますが、地名を考える際の参考になると思われるので、これらはとりあえず残しておきます。ご意見や他の地名解をお待ちしております。

 北海道寿都町「政泊(まさどまり)」、積丹町「柾泊(まさどまり)」について

 北海道小樽市「手宮(てみや)」と「ヤ」の謎について

 難しい漢字の地名について

 北海道・北見「無加川」、胆振東部「鵡川」、日高「沙流川」について

 北海道札幌市「星置」について

  小樽市博物館紀要7、9のアイヌ語地名に関する論文について

  私のアイヌ語地名解2(別ページへ。オタモイ海岸から赤岩海岸にかけて)

 

 

 私のアイヌ語地名解

 私は、地名に関する文法をいろいろ再勉強していくうちに、どうやら生来の「アイヌ語地名好き」の血が騒ぎだしてきてしまいました(ヤ、ヤバイな)。アイヌ語の知識人を気取って、人の地名解には違う違うともっともらしい難癖をつけるくせに、自分からは何も新しい説を出さないというのも、賢明なようでいて実はずるいのかも知れません。私は、そんな自分を変える意味でも、少しづつ持論を展開していきたいと思います。いろいろな人から様々な地名解が出てくるということは、それだけ皆さんが地名に愛着を持っている証拠なのだと思いますので、それ自体はとてもよいことです。私もその一人として、なるべくアイヌ語の文法的な問題点に気を配りながら、できる限りきちんとした地名解を考えていきたいと思います。応援、疑問、叱責、つっこみ、何でも結構ですので、ご意見お待ちしております。私が暴走していたら、いさめて下さい。

 

・北海道余市町「畚部(フゴッペ)」について

 「畚部(フゴッペ)」は、今の小樽市と余市町の境にある地名で、一般には「フゴッペ洞窟」という古代文字の書かれた洞窟が有名です。このユニークな地名は、アイヌ語の地名としても他に似たような例がなく、昔からいろいろな説が出されていました。榊原正文編著の最近の労作『データベースアイヌ語地名1』によると、松浦武四郎(以下、愛着を込めて「武四郎」と言います)の地図や日誌などの資料には「フンコエ」「フンゴヘベツ」「フンコヘサキ」「フンゴエ岬」「フンゴベ」、伊能忠敬の『伊能中図』には「フンコンヘ」、玉蟲左太夫の『入北記』には「フンコヘ崎」、そして永田方正の『北海道蝦夷語地名解』には「hum koi be 浪声高キ処」「フンゴベ」「フンキオベ 番ヲスル処」「フンコベ 蜥蜴(とかげ)」という名称が書かれています。いろいろあるなあ。当の榊原さんは「humki o pe 砂丘・たくさんある・もの」という解を示しています。どちらにしても、現在の地名「フゴッペ」は、さらにそこから日本語なまりをしたものなのでしょう。

 別ページでも展開している地名関連の文法から言えば、永田さんの解「hum koi be < hum koy pe 音・波・もの」は間違いなく脱落します。まず、意味が分かりません。形式名詞 pe の使い方も違います。「波」を描写したらしい地名は他所にありますが(例:「声問」→ koy tuye i 波を切る所?)、それほど波の高いところなら、この海岸のどこかに似たような地名があってもいいはずなのに、そういう地名は皆無です。永田さんの他の解だと思われる「punki o pe 番人・〜についている・もの?」も、残念ながらすんなりと意味が通りません。それを元にした榊原さんの解の一つ「punki ot pe 番をする・いつもする・もの?」も同様です。また、punki は「番人」という名詞です。さらに、2項動詞「o」「ot」の意味については、上の「地名でよく使われる語彙」で解説する予定ですが、普通の使い方では「番人」を目的語にとるとは思えません。

 わかりやすさが魅力のアイヌ語地名で、どうしても意味のつながりが悪い解になったとしたら、それはとりあえず疑うべきだと思います。ここの地形は、フゴッペ川という川もあり、フゴッペ岬という目立つ岬もあり、海岸には砂浜もあります。一体これらのうち何に注目して「フゴッペ」と言ったのでしょうか。まず、それを私なりに解明したいと思います。

 私も子供の頃にフゴッペ海水浴場(と言っても当時は誰も管理していないようでした)で泳いだものです。この辺は、「おたるドリームビーチ」ができるまでは小樽随一の砂浜の海水浴場のある蘭島海岸に続いていて、砂の量も結構豊富です。そうすると、榊原さんの地名解の「hunki 砂丘」(注:humki ではありません)は、かなり意味を持ってきます。ただしこの解も pe の用法が違っていて、もしその解ならば「hunki o p 砂丘・〜についている・もの」となってしまい、フゴッペやフンコへなどと音が離れてしまいます。

 そして気になるのは、フゴッペ川の不自然に安定した支流の名前です。武四郎は「フンゴヘベツ」という語形を挙げているのに、武四郎のそれとは別の資料に、以下の3つの川の名前があるといいます。
 「チフタフンコエ」
   おそらく cip ta (us?) hunkoe 舟・〜を掘る・(〜をよくする)・フンコエ川
 「ソウウシフンコエ」
   おそらく so us hunkoe 滝・〜にある・フンコエ川
 「シノマンフンコエ」
   おそらく sinoman hunkoe ずっと奥へ行っている・フンコエ川

 これで、「フンコエという語形を単独で固有名詞として使っていた」という仮説を立てることができます。こういう固有名詞化した川名の例は、他にもあることです(地名文法のページで触れているナヨロ、ルベシベなど)。ということは、フンコエという言葉の中に川を示す言葉がどう考えてもありそうにないならば、もともとその語は川と関係なく固有名詞化したのではないか、という推測をしてもよいと思います。

 すると、怪しいのはやはり「岬」と「砂浜」です。特にフゴッペ岬は、昔で言えば余市郡と忍路(ヲシュロ)郡を分ける郡境で、目印としても命名の意義は高いはずです。そこで私は、その線でいろいろ考えてみました。まず、古い形の hunkoe は、o-e と母音が連続していて、音韻脱落の観点から見れば不自然です。よって、hunkohe とする方がまだ理にかなっています。そして、先につばを付けておいた「hunki」を逆算で適用すると、「hunki ohe」(音韻脱落Aにより、i が落ちるのでOK)となります。これだけではまだ意味が分かりません。

 そこで、さらに考えてみると、「フンコヘサキ」「フンコヘ崎」という形があることが大きな意味を持つように感じてきました。もし「フンコヘ」+「崎」という日本語からの類推でなく、これ全体がアイヌ語だとすれば、いろいろな疑問が解けるのです。まず結論から先に言いますと、以下が私なりのフゴッペの解です。

 hunki o hesankei 砂丘・〜についている・岬 「砂丘についている岬」

 これは、フンコヘサキの音から類推した形で、「n」の省略以外は音韻脱落Aで説明ができます。

 hunk(i) o hesa(n?)k(e)i

 「hesankei 岬」という語は『アイヌ語地名小辞典』にも載っていて、「he sanke i 頭・〜を浜に出す・もの」という語源です。頭の h を落として「esankei」という形でも使うので、なぜ過去の資料に「フンコヘ」と「フンコエ」の形があるのかをこれで説明することができます。そして、和人たちが日本語「崎」を念頭において「フンコヘ崎」と解して、フンコヘという固有名詞があるかのように誤解して定着してしまい、アイヌ(または武四郎)もそれを使って他の地名に応用してしまったと見れば、先の奇妙な川の名も納得できるのです。

 フゴッペは、いろいろな意味でアイヌ語地名解の難しい形です。音韻変化や単なる転訛だけではなく、和人が言葉を途中でぶった切ったということまで考えなければ、私もここまで解釈できませんでした。この解釈は「机上の空論」の域を出ていないかも知れませんが、少なくとも持論を丁寧に説明したつもりです。

 *追加:さらに『データベースアイヌ語地名1』によると、フゴッペから蘭島に続いて少し離れた忍路で、「ホロヘサキ」という言葉が、武四郎の地図に載っているそうです。永田地名解にも「ポロベサキ」として載っています。これは、前と同じく「poro hesankei 大きな・岬」と解することができます。「フンコヘサキ」が全体でアイヌ語地名だったことを裏付ける、まさしく「大きな」証拠です。私は、ホロヘサキが、フゴッペ岬の何倍もの大きさである忍路の岬(ポロマイ崎や竜ケ岬を含む)全体のことを言ったのだと思います。忍路の岬は、かなり大きくせり出していて、砂浜を越えてはるか海側にまで達しています。それと比較すると、フゴッペ岬はかなり小さく、砂浜にくっついているように見えるはずです。よって、これら2つの岬のうち、大きい方を単に「ポロヘサキ」、小さい方は素直に「ポンヘサキ」と言えばいいものを、より具体的に「砂丘についている方の岬」と言ったのが「フンコヘサキ」なのだ、と私は結論づけることにします。

 また、この説を補強するために、「hesankei」を「'esankei」と置き換えることも考えています。「he」と「e」の混同ではなく、喉頭破裂音を含む音節「'e」を和人が「he」と聞き間違えた結果として「フンコエ」が「フンコヘ」になったとした方が、後々都合がよいことに気付いたのです。
 なお、漢字の「畚部」は、文字通りには「ふご・べ」と読めます。

 

・北海道小樽市「蘭島(らんしま)」について

 「フゴッペ」の解でも触れた、小樽市の西の端にある地名です。昔、といってもつい最近まで、蘭島の海水浴場はものすごいにぎわいを見せていました。小樽市の海岸の中でも、当時は最も広い砂浜で、海水浴には最適でした(もちろん今でもよい海水浴場なので、是非一度お越しになって下さい)。私が子供の頃は、札幌からもたくさんお客さんが訪れていたので、行きも帰りも汽車(文字通りの意味)はぎゅうぎゅう詰めでした。今でも、たまに蘭島近くを車に便乗して通り過ぎたりすると、何だか懐かしくてわくわくしてしまうのです。最近の私のCD『クライマックス・ラグ』にも、「蘭島」というギターソロ曲を入れています。

 さて、私のような小樽っ子にとって、とても思い出深い蘭島の地名解なら、黙ってはいられません。この地名もフゴッペと同じく、ある地名解を定説にするには至っていないようです。まず、過去の資料の語形を見てみましょう。先と同じく『データベースアイヌ語地名1』によると、武四郎の地図や日誌などの資料には「ラヲシユマナイ」「ラコシマナイ」「ラゴシユマナイ」、永田さんは「ran-oshuma-nai 下リ入ル処」、榊原さんは「ran-o-suma-nay 坂(道が)・付いている・岩の(所の)・川」という解を書いています。『北海道駅名の起源』は「ラノシマナイ」つまり「ran osmak nay 下り坂のうしろの川?」という解らしいのです。『北海道の地名』で、山田秀三さんは「他に例がなく、解しにくい」と嘆いておられます。

 資料は古ければ古いほどいいとも思いませんが、今とは比較にならないほどアイヌ文化が残されていた江戸時代の資料の語形は、やはりおろそかにしないようにしたいものです。「ノ」を武四郎が「コ」と聞き誤った可能性も全否定はしませんが、少なくとも3回書いて3回とも「ノ」とは認識していない以上、大いに疑問です。それなのに「時代が古かった」という理由だけで武四郎の言葉を信用しないのは、フェアではありません。もし現在の形が、すでに日本語なまりが進んだ結果なのだとすれば、武四郎が認識したように「コ」または「ヲ」が古い語形の中にあったと考える方が、順番としては合っていそうな感じがします。

 先のフゴッペとは異なり、ナイという形が明らかな以上、これは「蘭島川」の描写に間違いありません。また、支流の名が「チブタシナイ」(cip ta us nay 舟・〜を掘る・〜をよくする・川)なので、その語形が固有名詞化したと考える材料もありません。いろいろ上に書いた通り、名詞の連続には神経質にならざるを得ないので、ここはナイの前が動詞だと仮定して解を探していきましょう。

 さて、少し予備解説。
 アイヌ語は、母音の連続をどうしても嫌います。片方を落としたり、二重母音として片方を子音化したり、わたり音を入れたりと、あの手この手で母音の連続を回避しています。もう一つ、メインページの文法解説で触れた喉頭破裂音「'」というのも母音の回避にはよく使われます。例えば、「teeta 昔」という言葉は、「テータ」と伸ばしたり続けたりせずに、「te'eta テ・エタ」と区切るように発音します。この区切り音が「'」であり、アイヌ語の立派な子音の一つです。アイヌ語研究の世界では、言語学者の知里真志保や服部四郎、そして田村すず子の先進的研究から、この区切り音を特に重要視するようになりました。単に母音を発音する際も、やかましく言えばこの「'」を必ず使っているので、『アイヌ語方言辞典』などでは「'a」「'i」「'u」「'e」「'o」と表記しています(とても煩雑なので普段は省略することが多いのですが)。

 和人はこの喉頭破裂音「'」を、まれに破裂音「k」と混同しています。横道にそれますが、同じ小樽市の「勝納(かつない)」は、「at tomari 群れる・港?」の「at('at)」を「カッ kat」と聞き取ってしまい、それを例によって固有名詞化して「kat nay カッ・川」と言ったことに由来するという説があります。これは永田さんと山田さんの解です。私は、「港が群れる」のはどう考えても変だと思うので、とりあえず「'at tomari オヒョウニレ・港」と解しています。これなら昔の「カチナイ」と言う語形も「'at オヒョウニレ」の所属形「'aci」と解することが可能です。「'」の誤解は上の通りです。

 なお、榊原さんは、山田さんの解をさらに進めた新しい解として、「heroki at ニシン・群れる」の前の部分が略されて「ki-at → kat」になったという仮定をされています。傾聴に値しますが、「at」は1項動詞で、例えばそれを受けて「heroki at tomari」と言うのは文法的に破綻します。それならば作例として「or ta heroki at tomari その中・に・ニシン・群れる・港」などと考えることが必要になります(文にすれば「tomari or ta heroki at 港の中にニシンが群れる」)。地名でこのような分析的言い回しになるのはあまり例がないので、もっと都合のよい合成語的な言い回しにするならば「heroki ko-at tomari ニシン・〜に向かって・群れる・港(ニシンがそこに向かって群れる港)」となるでしょう。それなら「ko-at」の「o」が落ちることはあり得ます。これなら「at tomari 群れる・港」よりもアイヌ語的です。ただいずれにしても、過去の資料にそういう語形を示唆するようなどんな形も見いだせないことが、この説の説得力をかなり減じています。

 話を蘭島に戻しましょう。この「'」の誤解を含めて考えれば、以下のような解を簡単に導くことができます。これは、榊原さんの別の試案とほぼ同じであり、私も支持する地名解です。

 ra 'osma nay 下方・〜に突っ込む・川

 川の叙述としては、何の問題もないほど自然な言葉です(ただ、そこまで詳しく現地調査したわけではないので、それは宿題にしておきましょう)。
 「ra'osma 下方に飛込む」は東北部のアイヌ語では普通に使う自動詞で、沙流ではもっぱらわたり音「w」を入れて「rawosma」になります。この解ならば、「ラヲシユマナイ」「ラコシマナイ」「ラゴシユマナイ」のように、なぜラの次の音が揺れたのかをきちんと説明することができます。語源における母音の連続を回避するのに、「'」と「w」の両方を使ったのではないかと推測できるからです。不運にも、小樽地方のアイヌ語話者が「アイヌ語小樽方言」を明らかにしたことはありませんが、地理的に見ておそらく、沙流よりは石狩地方などのアイヌ語に近かったのではと思われます。つまり「'」で区切る方が普通だったと思われ、そのために「ラ・オ
マ」から「ラゴシマ」などの転訛を生んだと考えたいのです。

 むしろ、そこからどうして「らんしま」という語形になったかが不思議です。永田地名解には「虻田のアイヌが山を越えて下ってこの地にやってきた」という故事が書いてあり、先入観として「ran 下る」という自動詞や、「ran 坂道」という名詞が入って、例えば「ran osma nay 坂道・に突っ込む・川?」とか「ran us ma 下る・〜をよくする・入り江?」などのように誤解されて定着してしまったとしか考えようがありません。

 アイヌ語は、「どうあっても母音の連続だけは許さないぞ」という強い意志が感じられる言葉だと思います。知里真志保もそれを「かなり目だつ強い傾向」と言っています。これは、実は日本語ともある程度共通します。アイヌも和人も、言いにくい母音の連続を認めるくらいなら、「'」でも「w」でも「n」でも「k」でも、その間に入れた方がまだ発音しやすかったのかも知れません。このことは、他の地名解にも応用できるかも知れないので、参考までに。

 

・北海道小樽市「忍路(おしょろ)」について

 何か、この「私のアイヌ語地名解」、書いていてとても楽しいのです。別に、こういうことのためにアイヌ語を勉強したわけではないのですが...。この調子で故郷・小樽市の地名を完全制覇!、なんて少し調子に乗り過ぎですね。しかし、やはり小学生の頃から思い入れのある地名なので、単純に「書きたい」という欲求を抑えることができません。

 しかしいきなりですが、この「おしょろ」の地名解、私が書くまでもなくすでに江戸時代から決定しているようです。山田秀三さんが『北海道の地名』にて紹介しているものです。私もこの古い説を全面的に支持します。

 us or 入り江・の中

 昔の上原熊次郎地名考や永田地名解でも、同じく「入江」「湾内」となっています。忍路の大きな岬は、その中が湾になっています。武四郎の日誌には、悪天候で波が高くても問題なく舟を停めていられたということが書いてあり、このような地名として名付ける意義は充分あります。そのそばに小さい入り江もあり、これも「ポンオショロ」という地名で残っています。「pon us-or 小さな・オショロ」に間違いありません。さらに『北海道の地名』によれば、他の地方にも有珠(うす)、潮路(うしょろ)、神恵内の忍路(おしょろ)があり、どれも湾あるいは入江だそうです。ただ、たった一つ考慮すべき問題は「u と o の混同」です(アイヌ語がソとショを区別しないことは、もう書かなくてもいいですね)。

 アイヌ語の母音は、やかましいことを言わなければ日本語とほぼ同じなのですが、特に「u」の発音はアイヌ語ならではの傾向があるようです。田村辞典では、「u は、もっと口の奥のほうで発音するので、ウとオの中間のように聞こえることが多い」とあります。和人によるアイヌ語の聞き取りにおいて、この「u と o の混同」はかなりたくさん例があります。私も、札幌にいた頃、アイヌ語テープの聞き取りの授業を受けたりしましたが、少なからずこの手の間違いをしたことがあります。

 地名は私よりさらにひどく、「ota sut 砂浜・のふもと」が歌棄(うたすつ)になったり、「ota nupuri」が歌登(うたのぼり)になったりと、むしろかなりの確率で間違えているんじゃないかと思うくらいです。特に歌登は、アクセントのある音節でも間違えている(nup`uri)ので、間違いにも念が入っています。この傾向は、和人が早くから入ったと思われる南西部や海岸地方などで特に強いように思われます。ちなみに、私の母方の実家は寿都町磯谷という海岸にありますが、この辺りの浜言葉は津軽弁が元らしくて方言がきつく、私は子供の頃、親戚のおじさんおばさんたちが何を話しているのかよくわかりませんでした(今でもちょっと自信ないです)。これは、もはや「u と o の混同」どころの話ではありません。
 この混同はもちろん規則的なものではありませんが、アイヌ語自体の音韻変化の規則とは別の意味で、日本語なまりのくせの一つとして覚えておきたいものです。

 さて、上の忍路の地名解は、地名を決定づける条件(過去の語形や地名解、文法、意味、地形、故事、命名の意義、他地域の用例など)を、いろんな意味で問題なく満たしています。本来ならこれで地名解は終わりですが、実はこの忍路の地名解、他にも説が出されています。

 武四郎は「upsor ふところ」ととったそうです。永田地名解は賢明にも、その説を「発音同ジカラズ」と退けています。しかし、あろうことか知里真志保も「upsor」説を支持し、「女陰」と訳しています(彼は結構エッチなネタが好きで、こういうところは彼の魅力だとも思います)。なるほど、音韻転化K「p + s → s + s」と解せば「ussor」となり、この解も不可能ではありません。しかし、この音韻転化Kは必然性が低く、必ずこうなると言い切ることは誰にもできません。実際、例えば同じ日本海沿岸・増毛の「信砂(のぶしゃ)川」は、「nup sam 野原・のそば」という語源らしいのです。おまけに、音韻変化の冒頭で触れたように、こういう変化は異なる語根間でのみ議論できるものです。「upsor」の語源について、田村すず子は「upsi-or 内部におおわれている(?)・ところ」との説を掲げていて、その意味でも「ussor」という形は作ろうと思ってもなかなか作りにくいのです。「upsor」説の可能性は全くゼロではありませんが、残念ながらどう考えても「us or 入り江・の中」説の説得力を覆す力はありません。これは、後付けでできた民間語源解の一つとしてとらえておきたいものです。

 また、近年の榊原さんの地名解「poro-osor(-kot) 大きい方の・尻(餅跡状の)(・入り江)」では、入り江を「osorkot 尻餅の跡」に見立てています。これも可能性はあります。ただ、それならコッ(kot くぼみ)やコチ(koci:kot の所属形)の形がどこかになければいけませんが、過去の資料に近い音を示す形はないようです。もし和人による省略を考えるならば、音韻脱落や先の「フンコヘ崎」のように、なぜそれが省略されたのかを一応理屈づけることが必要だと思います。また、「ポンオショロ」の湾は、どうも尻餅の形とは思えないのです。ポンやポロで対比するからには、2つとも同じく「尻餅の跡」に見えるという要件を満たしていなければ不自然です。よって、やはりオショロを単純に「入り江」の意味で使っていたと考える方が理にかなっていて、そういう意味でも「us or 入り江・の中」は自然な地名解なのです。

 *追加:榊原さんは、忍路の「カブト岬」の語源をアイヌ語に求め、「kamu tu (海面に)かぶさる・岬」という説を出されています。武四郎は『廻浦日記』で「遠見は甲の如きが故に号るか、又は夷言噛付事をカフレイと云によって号るか。如何にも此頂口を阿々と開きし形也」と記していて、当時からアイヌ語説があったことを伺わせています。しかし、これらの説はどう考えても納得できません。

 まず「kamu 〜にかぶさる」は2項動詞で、特に地名の場合は名詞を必ず2つ取らなければいけません。この地形が仮に「kamu」の意味に当たるとしても、小樽の海岸では岬のことを「siretu」や「sirpa」または「ヘサキ」という言葉で表現していて、ここにだけ「etu」のさらに略語形の「tu」を使うのは、たとえ辞典に載っていても少し慎重にならざるを得ないのです。また、「カフレイ」の形はわかりません。アイヌ語で噛むことを「kupa」「kuy」「kawe」「kepkepu」などと言いますが(語彙が豊富です)、音が離れている上にこれらも全て2項動詞なので、この少ない音の要素から名詞を二つつむぎ出すことはまったく不可能です。『廻浦日記』の記述も武四郎の当て推量で、アイヌの説とは言えないようです。

 この岬を、和人がその形状から「兜(かぶと)」と呼んだということを否定するに足る証拠は、この地名の語形をいくら吟味してみても何も出てこないと思います。

 

・北海道小樽市「於古発(おこばち)川」について

 前回の「オショロ」は、北海道南西部の難解な地名解の中では、かなり簡単な方です。今度は、それとは全く反対に、一番難解かも知れない例を考えてみましょう。小樽を観光で訪れたことのある方なら、寿司屋通りの真ん中を流れて小樽運河に注ぐ川のことを覚えていらっしゃるかも知れません。それが、今回の地名である「オコバチ川」です。

 私は小樽市の緑小学校に通っていましたが、オコバチ川はそのすぐそばを、険しい沢を駆け抜けるように流れています。少年時代、私はこの川を見ない日は一日としてなかったくらいです。川下の方では、この川は「妙見川」という名前にもなります(地名は、一つのものに一つとは限りません)。小樽市の主要な市場の一つとして「三角市場」などとともに有名な「妙見市場」は、この妙見川の上をまたいで作られたというけっこう珍しい市場です。私も、よく母に頼まれてお遣いに行ったものです。昔は、市場の上端に、これまた川をまたいだお手洗いがありました(今日、オコバチ川を上っていったら、昔の姿から改装されてはいましたが、まだお手洗いがありました)。ひょっとしたら川に落とすようになっていたかも知れません(これ、萱野茂さんが聞いたら怒るな、ぜったい...)。

 この「妙見」の由来は何でしょうか。『北海道の地名』には「昔の川尻近くに妙見堂があったからであろう...」とあります。「妙見堂」とは何か、仏教に詳しくない私はよくわかりませんでした。どうやら、妙見菩薩を祭った祠のことらしいです。妙見菩薩は、広辞苑によると「北極星あるいは北斗七星を神格化した菩薩。国土を擁護し災害を滅除し、人の福寿を増すという。特に、眼病平癒を祈る妙見法の本尊。主として日蓮宗で尊崇」とあります。まあ、とにかくこの「ミョウケン」という言葉がアイヌ語ではないことに違いはないようです。

 さて、過去の資料をひもといてみましょう。『データベースアイヌ語地名1』によると、武四郎の日誌などでは「ウコバチ」「(本名)ウクバチ」「ヲコハチ」、永田地名解では「オコハチ川」、解として「oro at 鰊(ニシン)群来ル(クキル)処」、『北海道の地名』の山田さんは試案として「u-ko-pash 互いに・向かって・走る→急流が走り寄る」、『データベースアイヌ語地名1』の榊原さんは試案として「o-ukot-pet 川尻で・交尾する・川」をそれぞれ出されています。これらの中に、定説はないと言っていいでしょう。オコバチ川関連の支流の名としては、武四郎の地図に「ホンヲコハチ」「ハンケナイ」「ヘンケナイ」「シノヲマンヲコハチ」という名が挙がっているそうです。

 オコハチは、どうも妙な名前です。フゴッペに勝るとも劣りません。ならば、そのフゴッペの地名解と同じように考えましょう。同じ川筋に「pon okohaci 小さな・オコハチ川」「sinoman okohaci ずっと奥へ行っている・オコハチ川」があるという点、そして「panke nay 下流の・川」「penke nay 上流の・川」というきれいな対比を持つ川名が支流としてあるにも関わらず、その名にナイを含まないという点を考慮すれば、この「ヲコハチ」は一度固有名詞化した川名と見て良いように思います。ヲコハチになぜ「nay 沢、川」という言葉を臭わせる要素がないのか、そう仮定しなければうまく説明できないのです。

 これはその仮説を裏付ける事実ですが、小樽の周辺では川名はもっぱらナイを使っていたらしく、ペッ(pet 川)を含むと思われる川名は一つもありません。カツナイ、イロナイ、モモナイ、ラコシュマナイなど、全てナイです。なぜペッを使っていないのか、その地形から説明することはまず無理です。ナイとペッの対立で「川と沢の区別」をすると決めつけることは、地方の特色を無視することになります。このように、その地方地方によって語彙の傾向に違いがあることは、上の「地名でよく使われる語彙」で説明する予定です。よって、まず「pet」を使う解釈は除外した方が無難です。100パーセント否定はしませんが、なぜナイと言わなかったかを説明することができません。

 武四郎の資料では「u と o の混同」を見いだすことができます。その割には「ハ」の音が、どの資料を見ても清濁以外は全く揺れていないので、永田地名解のような「'at」を使った説明はしづらい所です。もちろん、先にも書いたようにペッの「ヘ」とも間違えにくいのです。「h」を落とす可能性を考えれば怖いので、「ha」は置いて「pa」を採用してみます。よって、何となくヤマ勘ですが ukopaci を母体に考えました。オコバチには、先の「フンコヘ崎」のような省略を示唆する材料はありません。また、地名の対象となったものも、この辺ではオコバチ川以外にはなかなか考えにくいものがあります。よって、オコバチ川の描写に特定して考えましょう。

 この川は、坂道の多い小樽らしく結構急な所があり、繁華街なので現在多くの下水道がここに注いでいるということも考えれば、どうも昔はあちこちで合流していた川らしいのです。和人は川の上に市場やお手洗いを建てるくらいなので(こんなことはアイヌから見れば言語道断です)、その支流を下水として使うくらい、別に何とも思わなかっただろうということは容易に想像できます。現在でも、妙見市場の上で二本の川(『データベースアイヌ語地名1』によると、商大通り沿いの一方は「ポンナイ」らしい?)が勢いよく合流しているのがかなり目立ちます。
 そこで、私なりのオコバチの試案を、何とか以下に3つ導いてみました。これらの解は、榊原さんの地名解のよいなと思うところを受け継いだ形です。

(1)o-ukot-pa-ci i 〜の尻・互いにくっつく・(複数)・(複数)・所
   「川尻がいろいろ結びついているところ」
   (知里真志保流に言うと「いろいろ交尾しているもの」かな)

 二重母音の片方省略は音韻脱落@とA、t の省略は音韻転化Jと音韻脱落Bの併用で、それぞれ説明できます。

 (o)uko(t)pac(i)i

 「ukot 互いにくっつく」は1項動詞で、「o ukot nay 交尾する川」のように、川が川尻で合流している様を描く、地名ではよく出てくる動詞です。川の描写としては、これに近い語形の中でも最も自然な単語です。ナイの形がない以上、存在を示すのに形式名詞 i を使わざるを得ないし、前が動詞なので別に障害があるとは思いません。

 ただし、この試案の問題点は、複数形を表す助動詞 pa と、同じく複数を示す特殊な語尾「ci」の連続が許されるか、という所にあります。特にこの「ci」は、沙流方言学習者には全然なじみのない言葉です。しかし、これは知里真志保の『地名小辞典』にもあり、例えば幌別方言では「itek neno iki-ci こらそんなことをいつまでもするんじゃない!」と言ったりしたそうです。こういう「ci」は、樺太方言ではむしろ普通です。地名の例では、空知の解として「so rap-ci 滝・ごちゃごちゃ落ちている」があります。これによれば「rap」という「ran 下る」の複数形にも「ci」がついています。よって、ちょっと拠り所が少なくて自信ないですが、「pa」と同じく連続が許される、複数を強調する助動詞なのだと考えてもよいのでは...、と考えた次第です。しかし、そうするとなぜ pa と ci の両方を同時に使わなければならなかったのか、説明ができません。よってこの説は、不採用とします。

 そこで、さらに考えました。後でつっこまれないように、予防策として挙げるものです。

(2)o-ukot-pa ciw 〜の尻・互いにくっつく・(複数)・水流
   「川尻がいろいろ結びついている水流」

 地名では、二重母音の子音化は少なく、むしろ子音化すべきものを落としてしまう傾向があります。よって、「ciw 水流」の「w」が落ちるという寸法です。

 (o)uko(t)paci(w)

 ただし、この「ciw」は川などの流れの叙述に使われることはあっても、自ら地名の主語になる名詞とは考えにくいのです。例えば忠類の地名解「ciw ruy 流れ・激しい」は、川が念頭にあるからこそ、このような文章で意味が通じたと考えられます。ペッを不採用にしたのと同じく、なぜあえてナイではなく意味の違うチウを使ったか、説明ができません。よってこの説も、不採用とします。

 それではということで、もう一つ試案を挙げてみます。今度のは、思い切って理論上不備のある複数語尾という考え方をやめて、少しアダルトにせめてみました(?)。

(3)o-ukot pawci 〜の尻・互いにくっつく・淫魔
   「交尾している淫魔」

 (2)と同じく、二重母音の子音が落ちるという地名の傾向を考えて逆算した形です。

 (o)uko(t)pa(w)ci

 知里真志保が見たら気に入ってくれそうな解になりました。上の(1)(2)と異なり、少なくとも文法上の穴は小さいと言えるでしょう。
 アイヌ語の地名では、川の合流は、生き物の交尾と同じ表現で描写されています。川尻があちこちで合流している様を、昔のアイヌの「川は生き物」とする考え方で見て「あちこちで交尾しやがって、このインランめ!」という悪口になったとも解釈できるのです。これは、パウチという言葉から連想される可能性の一つですが、それだけでは、なぜここ以外でそれに類する地名がないかを説明することはできません。

 パウチは、必ずしも淫魔だけを指すものではなく、「ばかやろう」という悪口として使う地方もあります。田村辞典では「頭をおかしくさせる害毒の神(?)」、そしてバチェラー辞典では「To put poison in one's food. As :- Pauchi o-shuke, “ to prepare a poisoned meal.” Pauchi e yara, “ to give one poisoned food to eat. ”」とあり、「毒」という意味でも使われていたらしいのです。少なくとも決していい意味の言葉ではありません。現在のオコバチ川は、前にも書きましたが市街地を流れるので下水が集まり、お世辞にもきれいとは言えません。この前、私が仕事で運河へ行ったら、オコバチ川からなんと座布団が何枚も流れてきて、(運河に入らないように設置された)ゴミ留めの網に引っかかっていました。観光地としての小樽には、ちょっと似つかわしくない残念な光景でした。よって、「淫魔」以外に、汚い川を「毒」という描写で表したという第二の可能性も挙げておきます。

 パウチが、単に魔物を指す地方もあります。今考えれば、昔(私が母親から聞いた話)小樽では珍しい洪水があり、妙見市場に元々流れの急な川の水があふれたことがあったそうです。川尻に妙見堂があったのは、ひょっとしたら昔、川があふれて人が命を落としたとか、何か怖いことがあったとか、信仰心が特に必要なことがあったかも知れません。そう考えると、むしろ「魔物(畏れる対象としての川)」という意味でパウチという言葉を使っていたという、第三の可能性も考えられます。

 今まで挙げたパウチの真意を示す可能性のうち、私が最もありそうだと思うのは、実は「魔物」説です。一応、意外にもこの(3)説が私のお気に入りで、今のところの私の最終的な解釈です! しかし私は、絶対の確信を持ってこれを推挙するものではありません。例えば、「pawci」は語源分解が難しく、アイヌ語の音韻変化として「w」が落ちたと考えるのは、前に「upsor → ussor」を批判したばかりで少し都合がよすぎます。また、私の勉強不足もありますが、他の地域にもパウチという語形を持った地名があるかどうかはわかりません。謎の地名オコバチ。しかし、謎が多いという点もアイヌ語地名解の面白い所かも知れません。さらなる議論と立案を試みたいと思います。

 

 *追加:オコバチ川の姿そのものを、もう少しねちねちと詳しく見ていくと、また思うところが出てきました。今度は語源解ではなく、その地形から攻めてみましょう(本当はこれを一番最初にやるべきですが)。
 武四郎の日誌には、川幅は5、6間(1間1.8メートルとすれば9〜10メートルほど!)だったと記されているそうです。字義通りとれば、現在の勝納川よりは小さいものの、寿司屋通りの道などはすっぽり入ってしまいそうです。今の姿からはあまり想像できない、広い川だったようです。古くから人家が多かったらしいという歴史を感じますし、昔の川筋はかなり改変されているという印象を新たにします。

 現在の川口付近では、川を挟んで両側が道路になっていて、川幅はせいぜい3メートルくらいです。こういう護岸の利用方法は、町作りにとっては都合がよく、比較的簡単にできるものです。また逆に言えば、このような道路の付き方から昔の川筋を想像することもできます。そう考えると「昔の地形が全く失われた...」と言って嘆くのは少し早い感じもします。オコバチ川を寿司屋通り沿いに上っていけば、途中から道路の中に消えて、国道5号線に接する妙見市場終端付近でまた見ることができます。この付近には、JRの高架がありますが、それに沿うような形で小樽駅方向に目立たない小さな沢が付いています。
 先に書きましたが、榊原さんは、妙見市場の上で合流する二本の川のうち一方を「ポンナイ」と推論されているようですけれども、私には、この小さな沢が文字通り「ポンナイ」に見えて仕方ないのです

 寿司屋通りの道路も、そしてこの線路も全くでたらめに作られたものではなく、当時の地形を生かした方がたやすく作れたはずです。よって、ポンナイに沿う形でこの線路の軌道が決まったと仮定することは、あながち不自然ではありません。もう一度確認すると、例の「ukot」している所は、そこから妙見市場を上った、少し離れたところにあります。オコバチ川本流はそこからウネウネと左の急な沢を上っていき(あ、アイヌ民族の考え方です)、右の商大通りへ至る川は完全に道路に潜ってしまっています(この川もここから緑町方面を上っていくのです)。私は、この右の川がポンナイだとする説はとらないことにします。その理由は以下の通りです。

 『データベースアイヌ語地名1』によると、『西蝦夷日誌』には「ポンナイ(小川)過て人家つづき、ウコバチ(人家多し)、此処まで平地、其上畑によろし...」とあり、ポンナイ、ウコバチの順に地名が出てきて、ウコバチまでは平地が続いていて、そしてウコバチの「上」が耕作によいという表現になっています。こう見ていくと、ウコバチは「妙見市場の上で川が合流する地点」のことを特に狭義に指したと考えると、『西蝦夷日誌』の記述に合います。ちょうどそこから小樽市の水道局や図書館、また小樽公園へ上る坂道になるからです。小樽公園にある「花園グラウンド」は、私も少年時代に大変親しんだ運動場ですが、昔は畑だったと聞いていますので(だいたい戦後も食糧不足のため、ここで耕作していたそうです)、なおさら納得いきます。この推論が正しいとすれば、川下から上り「ポンナイ→人家つづく→ウコバチ(合流点)→上に畑」となり、順番的にポンナイは、例の合流点より少し前に現れてくれた方が説明しやすいのです。

 どちらにしても、この『西蝦夷日誌』に沿った考え方から見れば、オコバチの語源となった地点とその地名解をもう少し吟味する必要がありそうです。アイヌ語は少ない音節数でいろいろな意味を持たせる言葉であり、さらに音韻変化を含めて考えれば、いろいろな解を考えることができます(でも、やりすぎると信用をなくしそう...)。今度は以上のような観点から、「川の合流点の描写」に絞ってウコバチの解を考えてみました。

(4)u-ko-patce i お互い・に・飛び散る・所
   「飛び散り合う所」

 今回の解は、思い切って「ukot」を使うのをやめました。主語を川にしないで、勢いよく合流する地点の様子を描写したのです。「patce 飛び散る」は自動詞で、「pat-ce パッ・という」という語源です。もちろん水がはね飛ぶ様子にも使われる言葉です。語形的には、音韻脱落Aで「e」が落ちるのに加え、つまる音「t」の転訛があったと考えました。

 ukopa(t)c(e)i

 今までの解と違い、意味的によけいな詮索をする必要があまりない分、少しはましかも知れません。例えば、山田さんの「pas 走る」を使った一試案は、「果たして川が走るという表現に pas が使えるのか」「川は上流に上る生き物ではなかったのか」という、正解のなさそうな難しい議論を引き起こします。「pawci」もその意味では、この語が使えたか使えなかったかを詮索する時間がもったいない感じがします。
 よって、これを「oukot pawci」に代わる現在の私の案にしたいと思います。

 

・北海道小樽市「朝里(あさり)、柾里(まさり)」について

 続いて、どんどん難解な地名解に挑戦していきましょう。言うだけならタダです。しかも、正しいアイヌ語地名解を導いたという名誉は、ひょっとしたら長く残るかも知れません(...嘘っぽいな)。いや別に、大衆を惑わす妄言を吐いているつもりはないのです。
 知識人、特にアイヌ語研究者と呼ばれる人たちは、地名研究者たちのあぶなっかしい一私案を批判することは多くても、それをより正しい方向に持っていかせようと善意で協力することは少ないようです。もしアイヌ語研究者が、「地名の謎解きができたからと言って社会への貢献度は低い」と見ているならば、それは大きな誤解です。知里真志保が、その魅力ある語り口により、地名を含めたいろいろな切り口でアイヌの心に迫りました。それは、多くの読者の心を動かしたという点で、アイヌ関連では最も影響力の強い研究だったのかも知れません。何でもそうですが、私たちは(間違いも含めて)いろいろな人の説を踏み台にしてものを考えることで、より多くの観点から真実に迫ることができます。フィールドワーク、古文書の知識、俗説、他地域からの類推などを地名研究者から、アイヌ語の正確な知識をアイヌ語研究者からというように、お互いが足りないものを補いあってこそ、社会の進歩があるのです(ってなんだかオレ、かっこいいなあ)。

 今度の地名「朝里(あさり)」は、小樽市最大の温泉街「朝里川温泉」地区で有名です。ついこの前(2000年4月)、札幌の定山渓とを結ぶ道路が通年通行となり、さらなる発展が期待されています。朝里川は、小樽市を流れる川の中でも最も長く、大きな川です。朝里のダムによって出来た大きな湖は、現在「オタルナイ湖」と呼ばれています。これは、アイヌの時代ではなく、公募で決めた名前だそうです。また、「柾里(まさり)」という地名が朝里のそば東側にあり、比較的小さな「柾里川」が流れています。

 過去の語形。『データベースアイヌ語地名1』によると朝里は、武四郎の地図や日誌などの資料には「アサラ」「アサリ」、解釈として「アツウシナイ」、『伊能中図』には「ヲン子アサリ川」、永田地名解には「ichani 鮭の産卵場 和人「イザリ」ト訛ルヲ常トス因テ漁(イザリ)ノ字ヲ充用セシヲ漁ノ字ハ「アサル」ノ訓アルヲ以テ「アサリ」ト呼ビ遂ニ朝里(アサリ)村ト称ス」とあり、さらに又一郎というアイヌの人が、武四郎の「アツウシナイ」説を否定していることが書かれています。同じく柾里は、武四郎は「モアサラ」「マサリ」「マサラ」、『伊能中図』は「モアサリ」、永田地名解には記述がないようです。『北海道の地名』によると、「北海道駅名の起源」では、朝里の語源を柾里に求め、「マサリ(浜ぞいの草原)」と解しています。榊原さんは「ichan-un-i (鮭鱒の)産卵床・ある・もの(川)」としています。

 例によって、川筋の名称もチェックしましょう。まず朝里川川筋。いっぱいあるので「武四郎(永田地名解)」のように示すと、「シヤクシアサリ(sakush ichani)」「キンクシアサリ(kim un kush ichani)」「キトサンナイ(kitu esan nai)」「ヲン子ナイ(onne nai)」「ホンナイ(pon nai)」「サツホ(sat poro oma ichani)」「シヤマツケアサリ(samatke ichani)」「シノマンアサリ(なし)」。そして柾里川川筋(永田地名解はない)。同じく「タツウシナイ」「ウテヲリコマナイ」「サマシケマサリ」「ヲカマコアンナイ」。

 ...何かいっぱいあるので、「朝里」に絞って順番に考えましょう。まず、アサリは固有名詞としていろんな川筋名に応用されています。よって、その固有名詞の語源考察を、川の叙述以外の何かに求めてもよいことになります。全ての例を通して、川を指す言葉ならばナイが使われています。『伊能中図』では、アイヌ語地名のメジャーな言葉である「onne 大きい」「mo 小さい」がきれいに付いている点から見て、

 onne asari 大きな・アサリ川
 mo asari 小さな・アサリ川

という対比にほぼ間違いありません。
 また、アサリとマサリの名を受け継ぐ川筋名は以下のように解釈できます。これはそんなに難しくありません。

 sa kus asari 浜の方・〜を通る・アサリ川
 kim kus asari 山の方・〜を通る・アサリ川
 samatke asari 横になっている・アサリ川
 sinoman asari ずっと奥へ行っている・アサリ川
 samatke masari 横になっている・マサリ川

 マサリは、「mo asari」の「o-a」という母音の連続を嫌い、音韻脱落Aで最初の「o」が落ちたと見ることが出来ます。「masar 浜の草原(所属形は masari)」を使いたい気持ちも分かりますが、それだと「なぜ m が落ちた形と落ちない形の両方が同じ地区にあるのか」という合理的な説明が大変難しくなります。いくら古くから日本語なまりをしたとしても、言葉というものはそんなに理由なく付いたり落ちたりするものでしょうか。まして、結構寛大に幅のある解釈を許す山田さんでさえ、現地を調べて「あまり広い草原はなさそうである」と否定的なのです。そうではなく、アサリという言葉の語源解を回避せずにきちんと考えて、その上で「朝里川」の固有名詞として応用すれば、マサリの形や支流の名を含めて、その多くを「浜の草原」説より簡単に説明できるのです。

 さて、そのアサリという語形、言葉の揺れは唯一「リ」と「ラ」の部分だけです。実は、私は昔、永田地名解の「漁(イザリ)という字の読みを変えてアサリとした」という説を支持していました。いかにもありそうな話だからです。しかし、そうするとなぜ「アサラ」の形があるのかをうまく説明できません。さらに、昔はカチナイ(勝納)川にも同じようにサケマスが上ったはずです(実は今でもマスが放流のために上ってきますが、産卵場所が護岸工事でとっくになくなっています)。それにも関わらず、カチナイの辺りになぜイチャニやアサリを示唆する地名がないのか、なぜ特にアサリ川だけに「産卵場」と名付けたのか、そこがどうも解せないところです。このような理由から、私は「icani サケマスの産卵場」説は採らないことにしました。

 ご承知の通り、アイヌ語の子音「r」の発音は、前の母音をひきずって響きやすいので、「ar ア」「ir イ」「ur ウ」「er エ」「or オ」と聞こえることが多いのです。もちろん全てがこう聞こえるわけではありませんが。よって、この発音の揺れは、語尾が「r」の閉音節であった可能性を示唆します。つまり、asar を母体にして考えたいところです。

 そうすると、どうしても「sar 湿原(所属形は sari)」というメジャーな地名が使いたくなってしまいます。sar は必ずしも湿原だけではなく、地名小辞典には「葦原(あしはら)」「沼地」「泥炭地」「やぶ;しげみ」という訳もあります。葦だけでなく「笹」「竹」「イタドリ」などの細い茎を持つ植物が生い茂っているところにも使う言葉です。所属形が sari なので、容易に現在の形を類推することができます。もしこの sar が使えるとしたら、以下のアサリの解を導くことができるでしょう。

 hat sar ブドウ・茂み

 音韻脱落Eで語頭の「h」が消え、音韻転化Kで「t + s → s + s」を適用しました(異なる語根間ならばあり得ることです)。そして音韻脱落Bでその「s」の一つが落ちたと考えました。

 (h)a(t→s)sar

 「hat ブドウ」は、千歳辞典によると「実も食べるが、つる(プンカ punkar)を様々な用途で利用した」とあり、地名の意義としては充分です。では、なぜ同じ有用植物で語形も近い「at オヒョウニレ」ではいけないのでしょう。まず、オヒョウニレはその皮をはいで繊維を作れるくらい大きな木で、sar で叙述できる「やぶ;しげみ」という意味の範囲を超えています。また、前に紹介したカチナイの地名解で「'at → kat」の転訛を使ったばかりで、同じく応用すれば「カサリ」と転訛してもいいはずです。なのに、そういう語形や音の揺れは、どの資料にもありません。つまり、喉頭破裂音を使わず、別の要因で音韻脱落が起きたのだと見る方がつじつまが合うのです。これは、先の「蘭島」の解で触れた、アイヌ語小樽方言が石狩を含む東北部方言の発音の特徴を(全てそうではないとしても)持っていたとする仮定にも合うものです。

 この解は、少なくとも文法上または意味上で破綻しているところはないと思います。
 筋立てとしては、まず朝里川の川尻あたり?の地名が上記のように作られ、「sar」と「sari」はほとんど同じことなので、和人にも言いやすい開音節を使ったアサリの方で決定して固有名詞化し、それがひいては河川名として「ヲンネアサリ」と「モアサリ」として応用されたのではないか、ということになります。まだ語形からしか検討していないので、今度実際に行ってこようと思いますが、まあ、つる植物くらい、どこにでも生えていそうな気もします。ただ、もし文献しか頼るものがないのならば、より合理的にその語形をアイヌ語で説明できなければ意味がありません。その意味では、よくできた解だと自負しています。

 

・北海道小樽市「張碓(はりうす)、有幌(ありほろ)」について

 この辺で、小樽の地名の傾向について、今まで出てきたものを含めて考えをまとめてみたいと思います。

1.川名にもっぱらナイを使った(ペッを使った明白な例がない)。
2.アイヌ語原形から、よく「u と o の混同」をした。
3.母音の連続を、音韻脱落や喉頭破裂音「'」で回避した。
4.語頭の「h」を落としやすかった。
5.喉頭破裂音「'」が強かったらしく、他の子音に転訛することがあった。
6.ある地名を固有名詞化して、河川などの名に応用する例が多かった。
7.アイヌ語固有の地名は、他地域と同様に海岸線周辺と川筋に集中している。
8.形式名詞「p」「pe」を使った例が少ない(単に偶然か)。

 など。ただ、語彙の傾向など、もう少し検討が必要なものもあります。

 「張碓(はりうす)」は、朝里駅から電車で札幌方向に行くと次の駅になります。しかし、今はもう廃駅で、電車は停まっていないと思います。私が子供の頃から親しんでいたのは駅を出てすぐ、崖の下にある小石浜で、昔は海水浴場や釣り場としてそれなりににぎわっていました。夏の海水浴シーズン、蘭島が混んでいるなと思ったときは、近場の熊碓(くまうす)や張碓で泳いだこともありました。10年ほど前、両親と一緒に再び行ったことがありますが、海に向かって左側にある「カムイコタン」という大きな崖の所で、重機がものすごく大きな音を立てていて(『データベースアイヌ語地名1』によると「砂利採集事業」)、魚は寄りつかないのかちっとも釣れませんでした。また、大きな沢である張碓川沿いでは、ウバユリやギョウジャニンニクなどが採れたといいます。蛇足ですが、「蘭島」と同じく、私は同名のギターソロ曲も作っていて、CD『ラグタイム・ギター』に収録しています。

 ハリウスの過去の語形。『データベースアイヌ語地名1』によると、武四郎の地図や日誌などの資料には「ハルウス」「ホンハルウシヘツ」『伊能中図』には「ハルシ川」、上原熊次郎地名解は「ハルイシ」「ハルウシ」、入北記は「ハルウス」、永田地名解には「haru ushi 食料多キ処」とあります。張碓川筋の名は、武四郎によると「ホンハルシ」と「ホロハルシ」となっています。

 全ての資料で、「ハル」という言葉が出ています。と言うことは、漢字「張碓」と当ててハルウスと読ませていたのが、「張りウス」となってしまったのが現在の読みでしょう。これに似た例は、「星置」の解でも触れました。漢字に引っ張られて読みを変えてしまうというのも、日本語なまりのよくあるパターンの一つとして覚えておきたいところです。

 ハリウスの語源と思われるのは、次の形です。過去の地名解と全く同じ意見です。

 haru us i 食料・〜に生えている・ところ
 「食料がそこに生えているところ」

 過去の資料の語形から見れば、疑問の余地はほとんどないでしょう。また、「pon harusi 小さな・ハルシ川」「poro harusi 大きな・ハルシ川」という川名への応用を見ると、もうおなじみの「河川名の固有名詞化」がなされているとわかります。

 ここで張碓の語形の一つ、武四郎の挙げている「ホンハルウシヘツ」を考えましょう。私は、先の「フゴッペ」の解で、武四郎の「フンコヘベツ」という語形をほとんど相手にしませんでした。なぜなら、その周辺ではその例以外にまったく「ベツ」が出ていなかったからです。「ホンハルウシヘツ」(明らかに pon haruusi pet 小さな・ハルウシ・川?)のヘツも同じで、別の資料にもまわりの地名にもヘツが全く確認できません。またヘツの語形は、現在の地名にも反映されていません。さらに、固有名詞化した地名が単独で河川名として使用されている例は、道内各地に認められるため、わざわざ後にヘツをつける意義は小さいと思われます。「haru us pet 食料・〜に生えている・川」と解釈すれば、たまたまアイヌ語として意味が通るために、「ホンハルウシヘツ」という地名が実在してもいいように思えるかも知れませんが、これが「hunkohe pet」であれば、固有名詞の説明を入れない限り全く意味が通らないので、pet は後から付けたものだと判断できます。さらに「ホンハルウシヘツ」も、「ホンハルシ」と「ホロハルシ」の例から、少なくともヘツは無くても意味が通ったのだな、と察することができるのです。

 この不自然なヘツやベツは、アイヌ語の知識のあった武四郎が、各地を踏破してきた経験を踏まえて「川ならベツだろう」と書き加えたのだと考えたいです。実際、この二つの例は『廻浦日記』にしかなく、同じ武四郎の地名調査の集大成である『東西蝦夷山川地理取調図』では、ベツに当たる部分が消えているのです(ただし、この『山川図』は誤植の多い資料だというご指摘をメールでいただきました。これを絶対的な論拠にするのは少し危ないようです)。武四郎の語形を軽んじてベツを採用しないというわけではなく、明らかに固有名詞化した川名に後付けしたらしい「無くても通じるベツ」は一応疑ってかかり、本来のアイヌ語地名解から区別をした方が無難だと思うのです。『データベースアイヌ語地名1』では、小樽市の川名の地名解に後付けでペッを使っているものがありますが、私はそれと意見を異にするものです。

 話題を変えます。「haru 食料」という言葉は、地名小辞典に「食料。特に携帯用の食料(弁当)を意味することがある。植物性のものだけでなく、動物性のものも指す」とあります。しかし過去の資料によると、どうやらここでは山菜を指したようです。それは、ここで使われている「us 〜に生えている」という2項動詞からもわかります(地名文法のページの「地名でよく使われる語彙」で解説しています)。断言できませんが、地名で「haru」を動物の肉などの意味で使った例は、おそらく無いのではないかと思います。

 ここでの問題は、「haru」の語頭の「h」が保持されていることです。つまり小樽では、この「h」は必ずしも語頭で落ちるものではないと言うことがこれでわかります(張碓の全ての資料で「ハル」は「アル」にならずに統一されているので、この地名に関してはむしろ不自然な感じも受けます)。これは、一般には別に不思議なことではありませんが、なにぶんアイヌ語小樽方言については何もわからないと言っていい状態なので、こんな些細なことも注意深く確認していきたいものです。まあ、少なくとも落としても落とさなくてもよい、という玉虫色ルールで問題はないと考えておきましょう。
 例えば、十勝にお住まいの有名なアイヌ文化伝承者、澤井トメノさんも、語頭の「h」を落とすときと付けるときがあります。ただし、普通に話すときは「h」が落ちることが多いようですし、そもそも「emesu 登る」などのように、沙流方言からの類推で語頭に「h」を付けようと思っても、全然付かない言葉もあります。

 さて、同じ「haru 食料」を使ったと言われている、もう一つの地名解をついでにやってみましょう。私が1997年から4年間住んでいた小樽市信香(のぶか)町から、臨港線沿いに入船町(オルゴール堂方向)側に歩いていくと、すぐ「有幌(ありほろ)」町があります。これは実はかなり解釈の難しい地名です。

 『データベースアイヌ語地名1』に独立した項目はありませんが、「クッタルシ」の地名解の中で紹介されています。武四郎の資料で「アリホロ(転太石浜なりと書いています)」「(クッタルシの本名として)アリホロナイ」、榊原さんは「ar-oro-nay 片割れの・所の・川」という説を出しています。また『北海道の地名』によると、津軽藩公蝦夷地図では「マクホロ」(山田さんは「アリホロ」の誤記としています)、山田さんは「aru-poro 食料が・多い」と書いています。

 榊原さんの解では十中八九「アロロナイ」となるため、音が離れてしまうので除外します。
 私は今まで、最後の山田さんの説を支持していました。そう考えると、ここでは「haru」の語頭の「h」は落ちています。これは先の「玉虫色ルール」でOKということにしましょう。しかしこれでは、それ以外にどうも解せない所があります。まず、張碓の資料では、先の「ハル」という語形が全く揺れていませんでした。「haru 食料」は、開音節で終わる言葉であるため、別の形の所属形はありません。日本人にも言いやすく、言葉が揺れにくいのです。それが、ここに来て急に全く別の形になるまで音が揺れているように見えるのは、とても不自然です。そして、文法的に無理のない張碓の解に比べて、

 aru poro 食べ物・大きい

 とする理由が全然わかりません。なぜ同じくハルウシとかハルウナイとか言わなかったのでしょう。そして、なぜこの地名は、普通に名詞句として終わっていないように見えるのでしょう。「poro 大きい」は、日常語では量が多いことにも使うので、意味的には百歩譲って大丈夫としても、これは自動詞なので名詞を2つ取ることができません。よって、「aru poro nay 食糧・多い・川」としては文法的に破綻するのです(もうこのくらいの文法は覚えておきましょう)。また、ハルウシと同じように、ペッやナイが付いていない形で地名が残っているので、「アリホロナイ」のナイは後付けだと判断しました。もちろん地形は昔から変わっているでしょうが、私は仕事柄、毎日のように有幌町を歩いて通っています。この付近にハルウシのような目立つ沢はないと断言できます

 だいたい、クッタルシ(kuttar us i イタドリ・〜に生えている・ところ)の本名がアリホロ「aru poro 食べ物・大きい」だったというのも、その意味をよく考えればおかしい話です。自然に対する描写力に優れたアイヌ語地名が、イタドリの自生とギョウジャニンニクなど食用植物の自生を混同することはあり得ません。その植生も違うため、「haru」と「kuttar」が仲良く同じ場所にあるとはどうしても思えないのです。よってここでは、いろいろな意味で不都合のある「haru」という語を採用せずに、別の地名解を模索することにしました。

 すると、語尾から類推すれば、地名らしい形にする方法は限られてきます。榊原さんが使っている「or 〜の所」を適用するか、それを語源として持つ場所名詞を使うしかないようなのです。
 以下に、私の有幌の地名解を記します。

 ar iwa or すごい・岩山・の所

 音韻脱落Aで「a-o」の「a」が消えます。

 ariw(a)or

 「ar」は、動詞にも名詞にも付く接頭辞で、その意味を強調する働きを持ちます(例:「ar-wen 全く悪い」)。前の「'at tomari」のような閉音節でなく、「'ari...」と開音節になるので、アクセントは「'a」ではなく次の音節「ri」になります。このため、アクセントのない音節の発音において喉頭破裂音「'」は目立って響かなかったのだと考えれば、「カリホロ」にならないことを説明できます。
 また、ここで新しく「w → h」が出てきます。これは、北海道東北部の一地方が、水を表す語根「wor」を「hor」としていることからも、アイヌ語から見て突飛な変化ではありませんし、また「ウォ」という日本語では言いにくい、文字でも表しにくい音節を、和人が「ホ」と認識したとする仮説も立てていいと思います。

 地形的には、現在ちょうど有幌町のガソリンスタンド(この辺には3つ並んでますが一番運河側)の向かい、オルゴール堂の裏あたり、南小樽駅側が急に盛り上がった地形になっています。上に、昔の豪勢な家屋[注:下記に追加しました]が建っています。この地形をイワで表現できるかどうか、正直言って少し自信がないのですが、今でも小樽市の崩壊危険区域にも指定されているくらい急な地形なので、可能性は高いと言えます。いろいろ考えて、地形的にも見て、どう考えてもそれ以外に納得いく解にはならなかったのです。まあ、少なくとも採れたか採れなかったかわからないハルを当てにするよりは、よっぽどありそうな解だと言えるでしょう。さらに、この解ならば、「この山の周囲にある土地」という意味でクッタルシと呼ばれていた所(例えばオルゴール堂の裏辺り)にもその名が適用されたことを無理なく説明できるのです。

 *追加:私は昨日、このアリホロ町を眼下に見下ろす大きな歴史的建造物「海陽亭」の玄関まで行ってきました。近くにいたおじさんの話では、ここに昔「住吉神社」があったそうです。また、この小山の裏側には木がびっしり生えていましたが、風でなぎ倒されて今はなくなってしまったとのことでした。よくこんな所に木造家屋なんて建てられたなあ、と昔の人の努力に頭が下がる思いです。全然アイヌ語地名解と関係ないかも知れませんが、自分の勉強不足を恥じると共に、もっともっと歴史を勉強したくなってきました。
 また、そのおじさんは有幌町のことを「アリポロ」と言っていました。「aru poro」説が背後にあるものと思われます。

 

・北海道小樽市「チエトイナイ、信香(のぶか)」について

 私の地名解でたびたび引用している(というか、これがないと何にもできません)『データベースアイヌ語地名1』は、後志地方のアイヌ語地名に関する様々な資料の分析と現地調査、解などをまとめ上げた、最近の地名研究書の中でも出色の労作だと思います。ものすごい情報量を持つ、まさに「データベース」です。今度の地名「チエトイナイ」は、私は近くに住んでいるにも関わらず不勉強なもので、この本で初めて知りました。それもそのはず、今ではもう失われた古い地名なのです。

 まず、チエトイナイの過去の語形。『データベースアイヌ語地名1』によると、武四郎の日記と地図にそれぞれ「チエトイナイ」、永田地名解は「shir'etu un nai 山崎川 松浦地図「チエトイナイ」ニ誤ル」、明治の地図には「チエトナイ」とあるのみです。少し資料が少ないのがやりづらいです。しかし、その中で一番詳しい武四郎『廻浦日記』の記述から察するに、以下のことがわかりました。

1.勝納川の川口から5、6丁(5〜600メートルほど)上ったところで、右側に「チエトイナイ」があったということ。
2.武四郎は、その語源を「cietoy nay 食用粘土・川」と考えたこと。
3.しかし土地のアイヌたちは食用粘土を取ることはなかったらしいということ。
4.そこから少し上って左側にノツハタヤンナイ(注:後述)があったということ。

 榊原さんは、「チエトイナイ」が勝納川水系「下奥沢川」を、「ノツハタヤンナイ」が同じく「真栄川」を指すとしています。私は、自宅がすぐ近くなので歩いて確認しましたが、確かにそのようで、武四郎の記述通りでした(北の誉の工場のあたりで確認できます)。ただ、実はこれとは別に、「チエトイナイ」に行く途中、潮見台から南樽市場方面に向かう川が左側から勝納川に注いでいます。私を含めた地元の人は、よく近道としてその川に沿う小道を利用しています。この川(潮見台川)についてはどの資料にも記述がないのが、地元民として少し残念です(注:以下の「追加」参照の事)。

 ここで、チエトイ(cietoy 食用粘土「ci=e toy 私たち・〜を食べる・土」)が問題になります。チエトイを知らない人のために解説しますと、昔のアイヌ料理において、煮込み料理(地方によって cikaripe とも rataskep (retaskep) ともいう)に少量加えられたと言われる、調味用の珪藻土を指します。知里真志保によると、地名では単に「toy 土」とだけ言うこともあります。小樽の地名、豊井は「toy o i 土・〜にいっぱいある・所」という意味ですが、この「toy」がチエトイを指すかどうかは、不勉強なものでよくわかりません。私の見た資料の中には、実際にここで珪藻土が見つかったとする記述はないようです。
 榊原さんも触れている通り、下奥沢川の辺りの地形はかなり人為的に改変されていて、下奥沢川は完全にコンクリートに覆われた「水路」と化しています。この付近でチエトイが採れたかどうかを確認することは、まず不可能です。

 そして、例によって「なぜ、なに、どうして?」と気になることがあります。今回は特にいっぱい疑問点があります。チエトイが既知の言葉だからという理由だけで、これらの疑問点を看過することは、私にはできません。
 まず、なぜここは「豊井」という地名にならなかったのでしょう。同じような意味なら同じ地名になるとも限りませんが、まず素朴な疑問。
 また、当事者のアイヌの人たちがチエトイを取らなかった、と武四郎は自分で書いているのに、なぜチエトイにその語義を見いだしたのでしょう。アイヌの人たちも、自分たちが取らないものをわざわざ地名に残す必要があるでしょうか。大昔は食べて、武四郎の時代になって急に食べなくなったのでしょうか。地名に残すくらい意義のある文化が、そんなに簡単に変わるものとは思えません。
 『北海道の地名』で紹介されている地名のうち、チエトイを語源に持つものは「杖苫内(つえとまない)」だけのようで、「cietoy oma nay 食用粘土・〜にある・川」という語源です。どうしてチエトイナイは、この形にならなかったのでしょう。確かに、アイヌ語の地名としてただ「haru nay」「kito nay」などと言うのが不自然であるのと同じように、ただ「cietoy nay」とだけ言うのは、やっぱり奇妙に感じます。
 では、先の「フンコヘベツ」のように、固有名詞化した「チエトイ」に後からナイが付いたのでしょうか。しかし、少なくとも明治までは、「チエトナイ」とナイの付いた形で地名が残っていたのです。資料が少ないという弊害もありますが、現時点ではナイを後付けだとする証拠は全くありません。さらに、固有名詞で残るからには、最低でもその元の名は地名として無理のない形で説明できなければいけませんが、チエトイだけでその解釈を探すことは、私にはどうしてもできませんでした。ナイという名詞を落とす理由はないのです。

 こうして考えると、チエトイナイの語源を「採れたか採れなかったかわからないチエトイ」に求めることは、文献の記述から見ても、アイヌ語の語形から見ても、他の類例から見ても、そして現地調査できないと言う状況から見ても、少し無理があるのではないかと思うのです。しかし、永田地名解の「山崎川」という解も、何だかよくわかりませんし(?)、音がかなり離れるので却下します。
 では、チエトイナイの語源は一体どうなるのでしょうか? 正直に言って、私にも納得いく解はまだ見つかりません。「ci= 私たち」という人称接辞を使ってしまうと、その次からナイの前までを2項動詞に設定しなければならず、単語の選択がかなり苦しくなります。その後も次々と「ci etoy 枯れた・はげ頭?」とか「ciye tuy おちんちん・切れる?」とか(おっと失礼)考えましたが、お下品になる一方です。「川は女性」という知里真志保の説に従えば、川におちんちんなんて、しかも切れちゃうなんてナンセンスです。川がはげ頭になったりすることも、奇跡でも起きない限り(いや、起きても)あり得ません。
 以下のような推論を立てるのがやっとでした。

 ciwe ruy nay 〜の流れ・激しい・川
 「流れの激しい川」

 今の地形を何回見ても、「川」以外にトピックスが見当たらないので、私は徹底的に川の叙述を考えることにしました。この「下奥沢川」は、今は水路になっているため昔の姿はわかりませんが、勝納川に注ぐ口と現在の勝納川の川岸が、かなりの高低差があるのです。見た限り、水量はそれほど多くないようですが、険しい岸を(滝ほどではなくても)流れたために、かなり流れが強く見えたのではないかという推論をしたのです。「ciwe」は「ciw 流れ」の所属形で、「ruy 激しい」が自動詞であるため、この形になってナイに繋がります。意味的には「ciw」と来れば「ruy」というくらいこの二語は結びつきが強く、文法的な間違いもないと思います。

 ただ語形的には、アイヌ語の音韻変化の規則は一つも適用できません(強いて言えば「u-y」の「y」が落ちて「チエトナイ」になる?)。「we → エ」「ru → ト」と、かなり無理して間違えなければならないのがこの説の弱いところです。まあ、「r と t,d の混同」も例はあるので、「u と o の混同」も含めて考えれば、全くあり得ないわけではありません。しかしそれよりも、音が似ているということに武四郎が引っ張られてしまい、他の地域で予備知識のあったチエトイを思い浮かべてしまったと考えた方が、音自体の理屈よりも説得力を持ちます。現時点では、これ以上の分析は私にはできません。識者のご指摘を待つのみです。

 *追加:なお、『東西蝦夷山川取調図』を元に考え、「潮見台川」がチエトイナイだという説もあります(小樽市博物館紀要9の論文など。詳しくは「小樽市博物館紀要7、9のアイヌ語地名に関する論文について」参照)。しかしこの説は、より信頼度の高い『廻浦日記』の記述に反します。榊原さんは「松浦図(『東西蝦夷山川取調図』)では右岸から入る支流として記載されているが、これは製版の際の誤記と考えたい」としています。『廻浦日記』に基づく位置の確認では、どう考えても下奥沢川がチエトイナイになるので、これは至極もっともな考察です。
 ただ、もし私の地名解「流れの激しい川」が正しいならば、もう一つの可能性も考えられます。つまり、『山川図』が単純な誤記ではなく、やっぱり潮見台川も、下奥沢川と同じく「チエトイナイ」だったかも知れないという事です。なぜなら、「流れの激しい川」という意味で考えれば、潮見台川も河口と岸の高低差がかなりあり、潮見台の急な坂から降りてくるため、むしろ下奥沢川よりも流れは急なくらいなのです。その意味で、潮見台川が「流れの激しい川」であることを妨げる要因は、別にないように思えます。下奥沢川も、そして潮見台川も、そんなに大きい川ではなく、魚がいたり形がユニークだったりと言うようなトピックスにもイマイチ乏しい川であるため、敢えて名前をつけるならばそんなものだったのかも知れません。
 この説ならば、一応「どの資料も(説明不足なだけで)間違ってはいない」ということになるのですが...。この説は私のチエトイナイの地名解が正しいと言う前提で進めたさらなる推論であり、もちろん断言は出来ません。

 さて、ついでにノツハタヤンナイ「真栄川」の方も片づけてしまいましょう。
 過去の語形。『データベースアイヌ語地名1』によると、武四郎の資料や明治の地図には「ノツハタヤンナイ」「ノツハタアンナイ」、永田地名解には「nup pa oma nai 野上川」とあります。榊原さんは「nup-pa-ta-an-nay 野原・の上手・そこに・ある・川」としています。
 先のチエトイナイと違って別に難しい地名ではなく、私も全くその通りだと思います(「u と o の混同」はもうおなじみですね)。これは、文にすると以下のようにきれいに理解できます。

 nup pa ta nay an 野原の上手に川がある。

 地名としては、こういう言い方よりは、2項動詞「oma 〜にある」がよく出てくるところです。そこで、永田地名解もそのように解したのでしょう。2つとも同じ意味です。「ヤン yan 上陸する」は文脈上使えないので、ここは「ア」を「ヤ」と誤記したくらいに考えておきましょう。
 この川の名前は、私が1997年から4年間住んでいた「信香(のぶか)町」の原名だと言われています。しかし、真栄川は現在の信香町からはかなり離れたところにあります。単に、この辺りから始まる平地「nup 野原」の上端を流れる川という意味で、「nup pa ta an nay」という名が付いたのでしょう。

 昔は、この辺から勝納川川口までの平地一帯が全て、文字通り「nup ka 野原・の上」だったのでしょう。信香町近辺は、小樽市の中でも特に歴史の古い町並みの一つで、「勝納町」「新富町」「若松町」「真栄町」「奥沢町」「住吉町」など、少し歩くだけでいろいろな町名を見ることができます。その中でも、この土地のもともとのアイヌ語形を持っているのは、後付けされた「勝納町」以外はこの「信香町」ただ一つなのです。坂の多い小樽の町では、平地は住みやすかったに違いなく、nup ka にどんどん人が住み着いていろいろなグループができた結果、後から日本語で町名を分ける必要ができたのでしょう。

 私は、この由緒ある「野原の上」に住まわせてもらっていました。

追加(2002-7-17) NEW!! チエトイナイ(下奥沢川)についての補足。初めて「ciwe-ruy-nay 〜の流れ・激しい・川」という地名解を考えてから2年近くが経ち、特にそれを否定する材料も肯定する材料もなくここまで来ました。しかし最近、ちょうど激しい雨のとき偶然にもこの川口付近を通りかかり、かなり急な水流が確認できました。天候次第では、充分激しい流れが感じられることが分かりました(ただし、これはどんな川にでもある程度言えることで、真新しい発見ではありません)。しかし、ここを流れの激しい川と捉えたらしい要因は、ただ勢いの問題だけではない気もします。それは下奥沢川のコースを見ていて思いました。

 改めてこの川の流れ方を見ると、蛇行しながらもだいたい勝納川本流と平走していたものの、落ち口付近でほぼ直角の急カーブがあり、このカーブの所でドッと水しぶきが上がるような感じなのです。よく見るとカーブ付近には、小さいながら波よけの堤防がありました。流れが真っ直ぐ行けば人家があるので、この堤防で万が一のしぶきを防いでいるのです。普通、いくら激しい流れの川でも、ただスムーズな流れでしたらそれほどスゴイという感じがしないものですが、このカーブによる流れの混濁と水はねにより、激しい勢いの印象が倍化するように私には見えました。もちろん河川工事により「水路」と化している状態ですから、元もとの状態ではなかった、と割り引いて考える必要もありますが、チウェルイナイという解釈の小さな検討資料になることは確かなようです。

 

・北海道小樽市「祝津(しゅくつ)」について

 現在「小樽水族館」のある所として、小樽の中でも有名な地名です。あのニシン御殿もあります。さして小樽港から離れていないのですが、この辺は海水浴場も点在しています。

 過去の語形。『データベースアイヌ語地名1』によると、武四郎の地図や日誌などの資料には「シクシシ」「シクジシ」「シクジジ」『伊能中図』には「シクトル岬」、上原熊次郎地名解は「シクズシ」、永田地名解には「shikutut 山葱(ヤマラッキョウ)」「シクトツ」とあります。明治の地図では「救自志」の字も当てられていたようです。『北海道の地名』によると、元禄郷帳にも「シクズシ」とあり、知里真志保は「shi-kut-ush-i 全くの・岩崖・群生する・場所」といっています。榊原さんは「shikutut-us-i エゾネギ(アサツキ)・群生する・もの(山麓)」としています。

 私の父は、生粋の小樽っ子でした。祝津に家族みんなで行くときは、タクシーに乗って「クズシまで」(最初のにアクセントあり)と言ってました。「祝津市?」と私は疑問に思ったものです。父は「本当はしゅくつじゃなくてクズシだった」と、タクシーの運転手と楽しそうに確かめ合ったりしていました。よって、私も父の意志を継ぎ、この地名は誰が何と言ってもシクズシだと考えています。

 例によって気になることがあります(ちょっと性格が悪くなってきているのかも知れませんが、「なぜなにどうして」という疑問は学問の基本なので、忘れないようにしたいと思います)。
 武四郎の時代から「sikutut ネギ」をその語義に使っている解釈は多いにも関わらず、『データベースアイヌ語地名1』の榊原さんの観察では、この辺りにネギ科の植物は見えなかったそうです。張碓のように「haru 食糧」が取れたことが他の方の調査で明らかになっているところに比べて、これは少し証拠としては弱い、疑わしいと見なければいけません。もちろん「昔は取れた」というのはとても簡単ですが、(永田地名解の「満山皆葱」という本当か嘘かわからないコメントを除いて)過去の資料に実際に取れたことを伺わせる記述がなければ、ネギはどうも使いたくないのです。

 さらに、知里真志保のライフワークだった『分類アイヌ語辞典』では、「エゾネギ」の項で

(1)sikutur「シくトゥル」葉,及び球莖《穂別》《A 沙流・鵡川・千歳》
(2)sikutut「シくトゥッ」葉,及び球莖《長万部,幌別》
(3)sukutut「スくトゥッ」葉,及び球莖《美幌,屈斜路》《A 有珠》
(4)sirkutut「しルクトゥッ」葉,及び球莖《荻伏》

 とあり、「sikut」と下略された形がいろんな方言を含めて考えても全くないのです。この語形は、アイヌ語の音韻脱落の法則にも当てはまりません。これはいつも思うことですが、「言葉を地名解の目的で勝手気ままに省略してはいけない」のです。もし省略があったなら、なぜそれが省略されたかまで一応考えなければ、十分ではありません。よって、シクズシを成り立たせるために「sikut us i ネギ・〜に生えている・所」と考えることは不可能だと見なければなりません。それならばむしろ「シクトル岬」という語形から攻めた方が、まだ可能性があります。

 さらに言えば、室蘭にも「祝津」という同名の地名があり、小樽の祝津と同じく岩岬があるそうです(永田地名解では「葱。今ハ無シ」)。こういう地形の所にだけネギが選んで生えていたとでもいうのでしょうか。同じ地名に同じような地形、ならばその地形に命名の由来があると考えた方が、ネギを探すよりも簡単です。
 榊原さんの観察では、祝津(小樽)の隣の高島の山には「アサツキ(エゾネギのこと)の群落」が見られたそうですが、ではなぜそちらにも「シクズシ」に類する地名が付かなかったのか、よけいな理由を考えなければいけません。

 よって、「sikutut ネギ」をその語義に取り入れるのは都合が悪いのです。私は、この説を否定いたします。
 以下が私の祝津の解です。

 si kut ous 大きな・断崖・〜のふもと
 si kut or 大きな・断崖・〜の所

 最初、知里説と全く同じに考えていましたが、「us」の使い方に今一つ自信がないのでもう一度よく考えてみると「ous 〜のふもと(所属形 ous-i-ke)」が使えるので、そちらに改めてみました。語源は[o-us-i その尻が・つく・所]となっているので(田村辞典より)、音韻脱落Aで「o-u」の「o」を消すことができます。二重母音の子音として「u → w」が落ちるとも考えましたが、「ous」のアクセントは「u」にあるので、落ちにくかったと考えました。

 sikut(o)us

 もう一つの解「si kut or」は、「シクトル岬」の解として用意しました。「シクトル」のルを無視するわけにもいかず、ネギの「sikutur」で説明するのはどうしてもいやだったので、少し頭を働かせて考えてみました。すると、この形でちょうど「si kut ous」に似たような意味になるのです。どちらも、「大きな断崖」の辺りにある土地として、同じように言ったのだと思われます。アイヌ語地名では、意味が通じるなら地名をいろいろに言ったということは、山田秀三さんも『北海道の地名』で書いています。
 2つの異なる語形が似たように応用できることも、この説の説得力をさらに増す材料だと思いました。

 この辺りは大昔からアイヌの村があったそうですが、西側の海岸には恐ろしい断崖絶壁が続き、小樽でも有数の奇観となっています。この地形は、まさに「kut 帯状に岩のあらわれている崖」としか言えません。この地形にふさわしい、最もありそうな解だと思います。こういう奇観が村のすぐそばにあるのに、それについて何の名前も付けないのも少し不自然です。
 また、そこからさらに西側の海岸を行くと、赤岩からオタモイに至るまでは岩崖や奇観が続きますが、この辺は人が寄りつきにくい所だったらしく、祝津・高島方面に比べてアイヌ語地名が激減します。この辺だけが「シクズシ」という地名になったのは、住んでいるところからいつも見える場所にあったからではないでしょうか(これはある意味で榊原さんの「アサツキの群落」を援護することになるかも知れませんが)。

 もう一つ、私の父の言葉のアクセントが気になるのです。地元の人は小樽のことを「オル」と言い、父もその通りだったのに、シクズシは「クズシ」としか言いませんでした。これは、語源を「sikutut ネギ」とした場合、第二音節にアクセントがあるため不都合が起きます。しかし、「si kut 大きな・断崖」であれば、「si」にアクセントが来ることはアイヌ語として自然なことです。これは他の人から見ればささいなことだと思いますが、私にとってはまさに「大きな」証拠です。私は、父のくれたヒントを無駄にしたくないのです。

 植物の群生に最もよく用いられる「us」という語尾からの類推で、似たような語形の「sikutut ネギ」を持ってきて解したのが、今一般に考えられている地名解なのだと私は考えます。
 何度も言うようですが、「実際にそうだったかどうかわからないもの」を頼る地名解の姿勢は、学問としての説得力を減じるという点で、あまりよいとは思えません。私が先の「チエトイナイ」(さらに言えば「アサリ」も)に自信がないのは、そういう推論だからです。

 *追加:kut(帯状の崖)という言葉をもう少しよく考えましょう。これは本来「帯」という意味です(「中空の管」という意味もありますが)。
 知里真志保の『アイヌ語入門』は、とても面白くて惹き込まれてしまう名著ですが、その表現に「山は生き物」というのがあります。古い時代には、自然は単に物理的存在ではなく、一つ一つに人間的な、意識を持った存在が感じられていたことが、物語だけでなく地名からもわかるのです。例えば山は、帯を締めたり裸になったり横になったりと、人間と同じような表現を使って様々な形態が言い表されています。逆にいえば、そう表現することによって、地名がより親しみやすくなります。つまり、地名の覚えが良くなったり、言葉だけでイメージがたやすくできたりするという利点があり、結果としても優れた命名法になっています。こういう世界の捉え方が、アイヌ語地名の大きな魅力になっていることは、いまさら言うまでもありません。
 そういう観点でいくと、単に kut を「断崖」とのみ訳していた上の解説は、少し言葉足らずでした。またその地点も、単に大きな崖が続く赤岩・オタモイ方面の地形は kut の範囲外です。より正確には、祝津の灯台のある岩岬の周囲、これが kut つまり帯を巻いている姿に見えたのだと考えられます。資料で確認する限り、室蘭の「祝津」も同じような地形です。これは、海から見るともっとはっきりわかるのではないかと思います。

 

・北海道寿都町「政泊(まさどまり)」、積丹町「柾泊(まさどまり)」について

 次は、北海道後志地方にある2つの同音地名を取り上げてみたいと思います。一つは、積丹半島の西側、日本海沿岸地方の寿都町にある「政泊(まさどまり)」、もう一つは積丹半島積丹町にある「柾泊(まさどまり)」です。どちらも湾になっています。「tomari」は、アイヌ語で「港」という意味なので、どちらも同じく港を指していることは間違いなさそうです。

 前に触れたことがありますが、私の母方の実家は寿都町磯谷にあります。政泊は磯谷から少し離れているところではありますが、母方の実家は漁師(農業もやっていますので、半農半漁)なので、いつもその地名は四方山話の中で聞いていました。近くには弁慶岬もあります。そういえば積丹町の「柾泊」も、神威岬という有名な岬が近くにあります。
 「岬のそばに港あり」というのは、舟乗りの立場で考えれば至極もっともなことです。まず、灯台もない昔の航海では、岬は海に浮かんだ格好の目印です。また、波がどちらの方向からやってきても、岬のどちらか一方の岸を波止場にして、波を避けることができます。

 アイヌ語で「tomari 港」の類語として「moy 入り江」「us 同左」「ma 同左」がありますが、意味的な違いはよくわかりません。ただ、全道で広く用例があるのは「moy」で、「tomari」はどうやら和人が早くから入った地方に多く見つかる地名のようです。小樽には「ota moy 砂浜・湾」などのモイもありますが、むしろ「repunkur tomari 外国人・港」「menas tomari 東風・港」のようなトマリを使った地名の方が多いようです。

 さて、寿都町の方の過去の語形を載せたいのですが、少し面倒なことに、永田地名解には「寿都郡」と「島牧郡」(昔の分け方)で2つ、『データベースアイヌ語地名1』によると4つの似たような地名があり、大変混乱します。よって、その4つについてきちんと解を探さなければなりません。うわー、メンドクサイ、なんて言わずに『データベースアイヌ語地名1』の記載を借りて、整理してみましょう。今回は大仕事です。私も泣きながら(?)必死にパソコンを打っています。南から弁慶岬まで北上するという順番で書きました。なおいずれも、『北海道の地名』には記載がありません。

1.「島牧郡」の「政泊(川)」
 武四郎は「マツナトマリ、小川」「マチナトマリ」。永田地名解は「machina-tomari 北風泊」。榊原さんは「mata-tomari 冬季の・停泊地」「mata-ne-tomari 冬季の(ためによい)・ような・停泊地」としています。

2.「寿都郡」の「スナマサトマリ」
 武四郎は「レレマキトマリ」「シ(ス)ナマサトマリ」、「レヽマキ泊り、(番や、いなり)、和人沙まさ泊と云」。『伊能中図』は「マキナヲトマリ」、榊原さんは「rer-mak-tomari 山向こうの・奥の・停泊地」「mak-inaw-o-tomari 後に・イナウ(の祭壇)・ある・停泊地」としています。

3.「寿都郡」の「石政泊」
 武四郎は「フエオマイ」「イシマサトマリ(石まさ泊)」、榊原さんは「puy-oma-i 穴・ある・もの(岩)」としています。

4.「寿都郡」の「政泊」
 武四郎は「水ナシ」。永田地名解は「mata-tomari 冬泊」。榊原さんも「mata-tomari  冬季の・停泊地」としています。

 少し違う形の2、3はさておき、地名としてみるとどこに行こうか間違えそうな形で、どうしてこういう命名になったのか不思議です。まず、1の島牧の政泊(川)は、過去の語形が「マツナ...」「マチナ...」となっているのに、どうして「mata-tomari」という形になるのかがわかりません。榊原さんの説「mata-ne-tomari」は、直訳すれば「冬のような港」で、意味がよく通じません。また、アイヌ語の音韻変化の規則からは、その形からマツヤやマチナになることを証明できません。さりとて、「macina」という形のアイヌ語は、どの辞書を見てもありません。
 港を叙述する言葉を考えてみると、小樽の「menas tomari 東風・港」の例から考えれば、以下のような解を得ることができます。

1.matnaw tomari 北風・港
 [matna(w)tomari]
 「北風の港」

 永田地名解の意味と全く同じです。方向、または風がどちらから吹くかは、当時の航海者にとっては大きな関心事で、そのため瀬棚に「pikata tomari 南風・港」、積丹町浜婦美に「sum tomari 西・港」などの例があります。よって、この命名は他の例から見ても自然かと思います。ここでは、二重母音の子音となった「w」が例によって落ちたと考えました。「マチナ」となってしまったのは、「t」を強く発音しすぎたか、または「mat 婦人」の所属形「maci」からの類推の可能性が考えられます。
 なぜこれが「政泊川」のような地名になってしまったかは、よくわかりません。実際、武四郎の時代には違う地名だったのです。「政泊」に音が少しだけ似ていたのを、強引に当てはめてしまったか、または実際にここも後述するマサトマリの条件を満たしていたのかも知れません。

 さて、次は2の解を考えましょう。ここでは、ややこしいことに3つのアイヌ語形が混在しています。うち、少なくとも「レレマキトマリ」と「スナマサトマリ」は同じ場所を指したことが、武四郎の記述でわかります。榊原さんの解は、「rer 山の向こう側」と「mak 山奥」という2つの位置名詞を連続させていて、疑わしい形です。さらに「mak」は「mak-a-ke」という所属形にもなるため、たとえ位置名詞2つが合成したとしても、マキという形にはなりづらいのです。語頭から攻めていくと、アイヌ語で「rer...」で始まる数少ない言葉の中で、港にふさわしい言葉となると、ほぼ絞られます。よって、以下のように解を作ってみました。

2−@.rera emaka i + tomari 風・〜を嫌がる・所 + 港
 [rer(a)emak(a)i + tomari]
 「風を嫌がる港」

 過去の資料の文意に沿う解として、「rera 風」を思いつきました。こうすることで、まさに、直接的に「風を避けるところ」という命名だったと思うのです。「rer 山の向こう側」は位置名詞なので、例えば「rerke oma nay 向こう側・にある・川」のように、動詞がきちんとないと単独ではなかなか使えない言葉です。位置名詞の出てくるところというのは、場所名詞を要求する動詞の前などと、だいたい察しがつくのです。
 音韻脱落Aは、今までの例でもそうですが、本当によく使います。これにより、「a」が二つ落ちます。マキとなっている語形をきちんと解するためには、形式名詞「i」が欠かせません。そうなるとトマリが宙に浮いてしまいますが、ここは「rera emaka i」+「tomari」という名詞+名詞の構文と解することで理解できます。小樽の「repunkur tomari」「ota moy」の例から見ても、許容できないほど変ではありません。この辺はトマリという港がいっぱいあるので、最初にレレマキといっていた港に後付けでトマリを使ったのだと考えます。
 では続いて、「マキナヲトマリ」の解です。これは、榊原さんの説に従います。

2−A.mak inaw o tomari 〜の後ろ・イナウ・〜についている・港
 「その後ろにイナウがついている港」

 音がほぼ音韻変化の適用外なので、その原形がとどまっていたと見ることができるでしょう。「mak」が所属形ではないので、「tomari」を修飾していないとも見えるのですが、必ずしも所属形でなくても、名詞が名詞を修飾する場合があることは、文法解説で触れました。ここではそのように判断していますが、もし「maka inaw o tomari」であっても、音韻脱落Aによりその「a」は落ちるので、どちらでも結果は同じです。
 武四郎の記述から、ここに「おいなりさん」があったことを考えると、和人もアイヌに習ってお祈りしたのだと見ることができます。航海や旅の無事を祈ったのでしょうね。

 では、問題の「スナマサドマリ」です。この形も、そして次の3「石政泊」も、おそらく4「政泊(マサドマリ)」から派生したものでしょう。さらに、積丹町の方の「柾泊(マサドマリ)」の解とも共通しそうです。よって、いよいよ肝心の4「マサドマリ」を先にやっつけましょう。
 しかし、これがどうも、なかなかくせ者なのです。

 参考までに、積丹町の「柾泊」の過去の語形を出しておきましょう。武四郎は「マサトマリ」「マチナ泊」。永田地名解は「mata tomari 冬泊 和人「マサドマリ」ニ誤ル元名ハ「シユンクトマリ」ト云蝦夷松泊ノ義」。榊原さんは「mata-tomari 冬季の・停泊地」。山田さんは永田地名解を紹介しているだけのようです。
 上記の寿都関連地名の音型と違うところはないようです。

 榊原さんは、永田地名解からの類推で「mata 冬」という言葉に影響されているようですが、一体この「冬の港」とは何なのでしょうか。また「なぜなに」で議論してみたいと思います。

 疑問1。知里真志保が紹介している「sak kotan 夏・村」「mata kotan 冬・村」は、季節によって狩猟の場所を移動したという昔のアイヌ民族の生活に基づいた地名になっています。しかし港は、これとは事情が全然違います。まず、夏冬で対比されるとしたら「sak tomari 夏・港」があってもいいはずなのに、そういう形は私の持っているどの資料にもないようです。まあ「ポンがあったらポロがある」とも限らないのですが、「冬があるのに夏はない?」というのが、まず最初におかしいと思う点です。

 疑問2。『データベースアイヌ語地名1』の「レレマキトマリ」の項において、榊原さんは調査の結果「冬季の季節風を正面からまともに受ける地点となっており、”マタトマリ”にはそぐわない地点となっている」としています。また、積丹町の柾泊の項でも、地元の方の言として、冬季間は風波が強く、あまり港として利用できない地点であることを紹介しています。これらは、「冬季にここを港として利用した」という仮説に対する反証としか思えないのです。

 疑問3。常識で考えてみても、特に冬にしか使わない港があったかどうかは、非常に疑わしいのです。そもそも、和人の弁財船ならともかく、アイヌの丸木舟で凍てつく冬の海を航行できたかどうかすら、検証が必要なことだと思います。万が一、例えば2月あたりに舟から海中に落ちてしまったりしたら、いくら体が丈夫でも即効で死に至るでしょう。いや、普通に漕いでいるだけでも、足や腰がしびれて感覚がなくなってしまうはずです。冬の日本海をなめてはいけません。まして、昔は今よりもずっと厳しい冬だったはずです。降りしきる雪を避けることは、どう考えても不可能なことです。これらの悪条件を省みず、冬にわざわざ辛い航海をする理由が仮にあったとしても、それが地名に残るほど特に頻繁だったかどうかは大いに疑問です。

 疑問4。さらに、この地名の音形を見る限りにおいても、「mata」と「masa」が合い通じるという説には、少し無理があります。アイヌ語の音韻変化からは、そのような転訛を説明することはできません。さりとて和人の転訛と見ても、「マタ」という日本人にも言いやすい語形がそんな変化をするかどうかは、可能だとしても非常に不確かです。「ta」が「sa」に転訛した用例が他にあったとか、その転訛を助けるような条件があったとか、そういう議論を経なければ、この転訛の可能性を証明することはできないのです。いくら転訛とは言っても、まったくでたらめには起きないと私は考えます。

 よって、私はいろいろと無理のある「冬・港」説を否定します

 ではマサドマリのアイヌ語地名解はどうなるのでしょう。「masa」というアイヌ語があるかというと、「maka 〜を開ける」という2項動詞の異形として久保寺辞典に記述があったのみでした。2項動詞は、名詞が「トマリ」一つしかないこの局面では、たとえ意味が通じたとしても使いづらいのです。
 いろいろ考えて、私は政泊と柾泊の解を、以下のように決定しました。

4.mas e-at tomari カモメ・〜に・群れる・港
 [mas(e)a(t)tomari]
 「カモメがそこに群れる港」

 単に「mas tomari カモメ・港」の「mas」がマサになるという推理もしましたが、そのままではアイヌ語の規則からは適用できません。少々都合のいい転訛を考えなければならないので、これだけでは不十分だと思いました。そこで、あえて1項動詞「at 群れる」の利用を考えました。音韻脱落Aで「e-a」の「e」が、そして音韻脱落Bで「tt」が一つになったと考えました。「e-at 〜に群れる」という語は辞書にありませんが、千歳辞典によると動詞の接頭辞「e」は「o」よりも生産性が高いので、いろんな動詞に利用できるだろうと思ったのです。ここが1項動詞のままだと文法が破綻するというのは、前の方で似たようなケースが続いたので、もう解説はいらないでしょうね。

 「カモメの群れる港」は鳥に関する地名になりましたが、このたぐいとしては、小樽に「wawo siretu アオバト・岬」などの例があります。カモメくらいどこにでも群れると考えがちですが、この辺は冒頭で触れた通り「岬のそば」です。舟に乗った人間と同じように、鳥にとっても岬というのは目印であり、その裏は風を避ける格好の着陸点であり、そのそばによく群れたことは想像できます。何も港は、人間のものと決まっているわけではありません。
 まあそれにしても、そういう意味の地名ならば、この岬の付近の港の多くを指していてもおかしくないです。おそらく、実際そうだったのでしょう。だからこそ、和人は同じ地域の中で以下のように「砂マサドマリ」「石マサドマリ」として区別したのではないか、と思うのです。

2−B.SUNA + masatomari 砂 + マサトマリ
「砂の方のマサトマリ」

3.ISI + masatomari 石 + マサトマリ
「石の方のマサトマリ」

 なお、「石政泊」の本来のアイヌ語地名解「puy oma i」は、榊原さんの説に異論ありません。また、積丹町の柾泊の「マチナ泊」は、島牧の解1「matnaw tomari 北風・港」に準じると思います。

 以上、かなり長くて見づらくて大変だったと思いますが、政泊と柾泊に関しての持論を説明しました。
 冬の港よりカモメの港の方が、私は何だか楽しい気分がするなあ。

 

・北海道小樽市「手宮(てみや)」と「ヤ」の謎について

 また小樽に戻ります。次の地名「手宮」は、北海道の鉄道発祥の地でもある手宮駅のあった所として、またフゴッペと同じく古代文字の遺跡があるところとしても有名です。地元のお祭りソングである「潮音頭」の歌詞に、「見せてあげましょ手宮の文字を/謎は朝里のお湯で解け」と歌われています。
 昔、石炭の輸送のために建設された手宮駅のあった所は、現在バスターミナルと「交通博物館」になっています。私が小学生の頃、手宮線は廃止となりましたが、未だに線路は残っていて、当時の面影を残しています。現在、この線路を利用して観光用の路面電車を作るという街作り案もあるそうですが、実現したとしても先の話になりそうです。

 いつものように過去の語形から見ていきましょう。『データベースアイヌ語地名1』によると、武四郎は「テミヤ」「本名テムヤン」「テムヤ(沙浜)」『伊能中図』も「テミヤ」、上原熊次郎地名解も「テミヤ」「テムヤ」、永田地名解は「temmun ya 菅藻丘」。知里真志保も、さらに山田さんも榊原さんも同じ解です。武四郎も『西蝦夷日誌』で「訳してテムとは海草にして...ヤヽは岡といふ義」としています。これほどみんなが一致している地名解というのは、むしろ珍しいのではないかと思います。

 この説で言えば、「temmun 菅藻」+「ya 岸」で、音韻脱落Bで「mm → m」となり、音韻転化B「n + y → y + y」という変化が起こって「te(m)mu(n → y)ya」となったと説明できます。音的にはあまり疑問はありませんし、私もこの地名はそういう解が妥当だと思っています。しかし、この解は本当に問題がないのでしょうか。実は、私はこの説をすんなりと受け入れられないことに少し困っています。諸先輩たちの意見にもの申すわけですが、別にへそ曲がりで言っているのではないのです。

 「ya 〜の岸」という言葉の使い方がどうもわからないのです。そもそもこれは、千歳辞典で言えば「位置名詞」であり、通常は以下のように使います。

 to ya 沼・の岸
 us ya 湾・の岸
 sup ya 渦流・の岸
 mosir ya 島・の岸
 ruyka ya 橋・の岸(橋のたもと)
 kama ya us i 平べったい岩・〜の岸・〜に付いている・所
 atuy ya un kur 海・の岸・〜にいる・人
  
(ユーカラの登場人物の名、普通、海岸は atuy sam「海・のそば」と言います。)
 ya pekano i=kesanpa 岸沿いに私を追いかけてきた(千歳辞典より)

 変わった例では、上に紹介した「ruyka ya 橋・の岸(橋のたもと)」もそうですし、炉の手前側を「ya」と言ったりすることです。つまり、必ずしも海や沼などの岸でなくてもいいのが面白いところです。
 さて、位置名詞の復習ですが、これは「上」「外」「前」などのように、何かの位置や方向を表す特殊な名詞です。よって、普通は場所目的語として、または修飾語としてのみ用い、主語や被修飾語にはならない言葉なのです。上記の例では、全て場所を説明する修飾語として、そして場所を要求する動詞の目的語として用いられています。位置名詞を使った「名詞+名詞」の構文では、2つの名詞の関係は対等ではなく、必ず「普通名詞A+位置名詞B」という語順で、BがAの位置を表すことになっているのです。「ya」がBであることは明白です。そして、「ya」は、Aの位置を説明する言葉です。

 ところが、次の例があります。

 temmun ya 菅藻・の岸
 iso ya 磯・の岸
 so ya 磯・の岸
 kama ya 平べったい岩・の岸
 pi ya 石・の岸
 suma ya 石・の岸
 top ya 竹・の岸

 「temmun ya 菅藻・の岸」は、菅藻が大量に寄りついている場所の「岸側」を指しているのでしょうか。「iso ya 磯・の岸」は、礒岩が続く場所の「岸側」を指しているのでしょうか。どうも違うような気がします。これらは、単純に見た限りでは「iso 磯」や「temmun 菅藻」などの普通名詞が「ya 岸」という場所を修飾している(つまり「石状になった岸」「菅藻が寄り来る岸」などの)ように思えるのです。これらの例は(BがAの位置を説明しているようには見えないという点で)上の例とは異質です。
 例えば「ota nupuri 砂・山」はOKでも「ota kim 砂・山」とは言うことができないという、位置名詞の禁忌に同じように触れるものです。私が知る限り、位置名詞がこのような連体修飾を受けることはありません。「ya」は、「何かの岸側」という場所を指す言葉で、「岸」とか「岩」とか「岡」というモノを表す言葉ではないことをきちんと考えれば、これらは都合の悪い形なのです。
 しかし、実際にそういう形で地名が残っているので、とても困ります。今回はどうも、すっきりした結論が出にくい厄介な問題なのです。

 「iso ya 磯・の岸」の「iso 磯」は、地名小辞典によると「磯(水中の波かぶり岩)。海または川の中にあって、しければ隠れ、なぎれば現れる平たい岩」とあり、「kapar」という似た意味の言葉もあります。「kapar」は、名詞であると同時に「薄い」という意味の1項動詞でもあり、「iso 磯」と違って純粋なアイヌ語だと思われます。では「kapar ya」があるかというとどうやら皆無で、地名では「kapar sirar 薄い・岩」「kapar us i 波かぶり岩・〜についている・所」という形がほとんどです。

 また「kama ya 平べったい岩・の岸」は、上記の「kama ya us i 平べったい岩・〜の岸・〜に付いている・所」(釜谷臼の地名解)という例を考えてみると、場所目的語を取る動詞が略されている形と見ることもできそうです。
 「磯谷」は、渡島、根室、そして後志の3地方に同名の地名があります。『北海道の地名』によると、そのうち根室の方では「エシヨ」、『データベースアイヌ語地名1』によると後志では「イソウ」という語形を武四郎が挙げていて、このヤがない形を示唆しているのです。

 こうして考えていくと、上の「普通名詞的な ya の使い方」は、ひょっとしたら後の時代の人の誤用が、一つの用法として限定的に定着したのではないかと推論できるかも知れません。少なくとも、私にはそう思えるのです。ただ、とにかくここまで多く広い用例があるのです。こと地名に関する限り、「ya」には従来の辞典の示す「位置名詞としての用法」だけでなく、連体修飾を受けるという「普通名詞に準じる特殊な用法」があることを、現時点では認めざるを得ないのです。

 ああ、すっきりしない。しかし、こういう微妙な問題を気にすることは、最終的には単語の議論になるアイヌ語地名解にとって、大きな意味のあることだと思います。
 この議論についてのご意見は、
メールでお願いします。

 

・難しい漢字の地名について

 すっきりしない考察の後は、気分転換しましょう。
 北海道の地名は、アイヌ語地名に後から漢字を当てたものがほとんどなので、初めて見る人はどう読んでいいのかわからないことが多いのです。苫小牧(とまこまい)、釧路(くしろ)、胆振(いぶり)、後志(しりべし)などの超メジャーな地名も、改めて見るとどうしてこんな字を当てたのかわかりません。今でこそみんなが間違えずに理解しているはずですが、何の予備知識もないと、「とまこまき?」などと突っかかってしまいそうです。先に紹介した中では、小樽市の「忍路(おしょろ)」なども難しい読みですね。

 こんなよく知られた地名すらそうなのですから、マイナーでしかも難しい漢字の地名は、もはや地名のワンダーランドと化してしまいます。『北海道の地名』から、そういう地名をピックアップしてみましょう。読みは( )で示しました。
 まず、アイヌ語の知識があれば、何となく察することのできる例です。

 跡永賀(あとえが):釧路の地名。昔は海だったらしいので「atuy ka 海・の上」。
 伊茶仁(いちゃに):根室地方標津の地名。「icani サケマスの産卵場」。なお、同じ読みでも「勇仁(網走市街東郊の地名)」となってしまっては、まず読めません。
 雨煙内(うえんない):石狩地方雨竜(うりゅう)の地名。「wen nay 悪い・川」。
 植苗(うえなえ):胆振地方東部の地名。上と同じく「wen nay 悪い・川」のようですが、どうしてこんなに違う漢字なの?
 仙美里(せんぴり):十勝本別町の地名。「sempir 陰」。
 登延頃(のぼりえんころ):後志地方・喜茂別(きもべつ)町や留寿都(るすつ)町を流れる川名。「nupuri enkor 山・鼻」が固有名詞化して川名になったか、永田地名解の「nupuri enkor kus pet 山・鼻・〜を通る・川」という地名解です。

 次は、どう考えても漢字からはわかりそうにない例です。こういう地名は、無理に漢字を当てたために原形が忘れられたりして、その地名解も比較的難解なようです。

 安足間(あんたろま):石狩川の南支流。「antar oma p 淵・ある・もの」という地名解には納得しかねる所があり、定説となるほどの地名解はないと言っておきましょう。
 咾別(いかんべつ):十勝の地名。久保寺辞典の例から見て「ikan pet またぐ・川」? 無理に漢字を当てなきゃいいのに...。実際、東北海道の地名は、漢字を当てきれなくてカタカナ地名になっている例が多いです。
 伊惣保(いこっぽ):十勝、士幌川の支流。簡単そうに見える地名ですが、その地名解は残念ながら、今のところ全くわかりません。
 紫雲古津(しうんこつ):沙流郡平取町の地名。「sum un kot 西・にある・窪み」?
 追直(おいなうし、おいなおし):胆振地方・室蘭の地名。漢字を当てるセンスがすごい。「o inaw us i 〜の尻・イナウ・〜に付いている・所」。
 於尋麻布(おたずねまっぷ):根室地方、麻布町の旧名。なにやら犯罪でも犯したような物騒な地名に見えるので、改名されたのも無理ない感じですが、もとは近くを流れる精進川のアイヌ語名「o tatni oma p 〜の尻・樺の木・〜にある・もの」からだと言います。
 幸福(こうふく):十勝の地名。原形をとどめないまでにアイヌ語地名の語形が破壊されてしまった代表的な例で、折に触れて紹介されている地名です。もともとは「sat nay 乾いた・川」だった地名に、何と「幸震(さつない)」という難しい漢字を当ててしまい、それが村の名前になりました。しかし案の定読めなくなってしまい、「幸震(こうしん)」村という読みに変更。それでもわかりにくいので全く関係のない「大正(たいしょう)」村に変更。すぐ隣の村を「幸震村の中の、福井県人が入植した土地」と言う意味で一字づつを取って「幸福」としたというのです。これでは、アイヌ語地名だったことが全くわからなくなるのも無理はありません。ただし、川の名前だけは「札内(さつない)」川として残っています。ここに来る観光客は確かに幸福の気分を味わうかも知れませんが、元々の意味と歴史も覚えて欲しいなあと思います。
 重蘭窮(ちぷらんけうし):釧路の地名。こんなの絶対読めません。「cip ranke us i 舟・〜をおろす・〜をよくする・所」。ランしかわかりません。だからカナにした方がいいってば!
 涛釣沼(とうつるとう):北見・斜里町の地名で、「ニクル沼」と並んでいます。2つの沼の間が「to utur 沼・の間」という地名になり、後に大きい方にその名を付けて「to-utur to トウトゥ
・沼」と呼んだそうです。しかし、「沼」と書いてトーと読ませるところがすごい。

 (追加予定)

 

・北海道・北見「無加川」、胆振東部「鵡川」、日高「沙流川」について

 定説は不明と言われているアイヌ語地名は、結構多いのです。当たり障りのない地名談義より、そういう地名解に挑戦してみる方が、私は百倍のおもしろさを感じています。ただ、今は小樽を離れられないので、フィールドワークはできそうにありません。いつか時間があれば、旅行がてら行ってみたいところがいっぱいあります。地名や歴史の旅を、老後の楽しみにしている人は学校関係者に多いようですが(ってまた問題発言か?)、別に教師でなくたって、過去の歴史と文化を巡る旅は人生にとって有意義なはずです。どんどんやるべきです。この不景気のおり、旅館も潤います。

 さて、前の項で難しい漢字の地名を探していて、次の例に当たりました。

 奔無加(ぽんむか):北見地方・無加川の支流。

 「pon muka 小さい・ムカ川」という解ですが、ポンに「奔」を当てるセンスがなかなか奔放、シュールだと思い、難漢字地名に追加しようと思ったのです。しかし、ふと解を考えると、ムカが全然わからないのです。これは、胆振東部の「鵡川」とも通じるようです。改めて『北海道の地名』を調べても、どちらもどうやら謎の地名のようなのです。
 まあしかし、「わからない、不明だ、謎だ」といって、ムカムカしていてもしょうがありません。ということで、今回はこれを考えてみたいと思います。なお、どちらの地方も川名にはペッとナイの両方を使うので、小樽近辺とは話が違うことを最初に確認しておきます。

 では過去の語形を、『北海道の地名』から引用しましょう。まず北見の無加川の方。武四郎は「ムッカ」。永田地名解は「muka 水川を越す ムは塞る、カはイカにして越すの意。此川温泉があるために水氷ること遅し。水氷りて流れ塞る時始めて氷上を越すを得べし。故に名くと云ふ」。この無加川の支流は、「相内(あいのない)」「奔無加(ぽんむか)」「シケレベツ」「ヌプリケショマ」「ヌプリパオマナイ」「イトムカ」「シームッカ」とあり、ムカは固有名詞として3つの川筋名に応用されています。山田さんは、そのうち「イトムカ」の推論を「i-tomka それ・輝かす」「i-tom-muka それが・輝く・無加川(支流)」「i-tom-utka それが・輝く・早瀬」と出しています。
 この3つの支流名を、私は次のように考えました。

 1.pon muka 小さい・ムカ川
 2.si muka 大きな・ムカ川
 3.i-tom o utka それの胴体・〜につく・川の瀬
   「裏山の胴体に付いている川の瀬」

 1、2は、説明不要ですね。
 無加川の解は、「ムッカ」の形から、最初は「mo utka 小さい・川の瀬」とも考えました。しかし、この無加川本流は、小さいどころかかなり長大な川です。「si utka 大きな・川の瀬」と対比される地名もありません。よって、「mo 小さい」以外の解が妥当だと考えました。すると、この「イトムカ」という一見分からない地名の解(3)が、この「ムカ」または「ムッカ」という地名全体の源だと推定できるように思えてくるのです。

 語形的には、音韻脱落Aで「o-u」が「u」に、そして音韻転化Jで「t-k」が「k-k」になり、さらに音韻脱落Bでその一つが落ちたと解することができます。

 itom(o)u(t→k)ka

 ここで「i」という特殊な接頭辞が出てきます。これは、「i-hoski 飲酒する」などのように動詞に付く「i もの」とは異なり、名詞に付く接頭辞です。よって、文法的に先の「i」とは別の言葉として分類されています。
 千歳辞典では「人の。ものの。...イマッネ i-mat-ne「人の・妻・〜である」=「妻である」。イサパキ
ニ i-sapa-kik-ni「ものの・頭・殴る・木」=「サケの頭を叩く棒」のように、親族関係や身体名称を含む合成語の中に用いられる」とあります。そうすると、まるで所属形語尾のような意味を付加する接頭辞ですが、地名小辞典に「イサパハ i-sapaha 彼・の頭(様似方言)」の例があるので、どうやら所属形名詞にも付くと考えられます。これはおそらく、動詞に付く「i もの」を名詞と捉え、「名詞+名詞」の構文で使っているものと思われます。

 また、「utka 川の瀬」は、川の叙述として用いられる言葉です。地名小辞典には「脇腹」また「川の波立つ浅瀬;せせらぎ」ともあります。比較的長い、流れがそれほどウネウネと曲がっていない川のことを指す言葉として使われるようです。この無加川の叙述には適した地名語彙だと思いますので、これを使わない手はありません。

 この地名の語義を机上で探れば、近くに石北峠があり、そこがちょうど石狩川源流の裏山になっている所全体を「胴体」と見て、そこを源流とする川の瀬という意味だと考えました。後にその語義が忘れられ、近くに日本最大の水銀鉱山があったということから「tom 輝く」の連想が生まれ、上の山田説「i-tom-muka それが・輝く・無加川」のように解されて「ムカ」が固有名詞化したと推論しています。ただ、あくまでこれは推論で、固有名詞化の過程を探ることは、アイヌ語での地名解そのものよりも難しいと思います。

 さて、では胆振東部の鵡川にいきましょう。果たして、北見の無加川と同じように考えられるのでしょうか。しかしこれは、隣の沙流川の古名「シシムカ」との関連を考えずにはいられません。この近辺の地名なら『沙流郡のアイヌ語地名1』というとても詳しい本がありますが、私は持っていたと思っていたのになぜか家の中に見当たらないので、後で確認して追加引用することにします。

 まず鵡川の過去の語形。『北海道の地名』によると、上原熊次郎は「ムカなり。則水の湧くといふこと。此水上平原にして所々に水の湧き出で源水となる故地名となすといふ」、永田地名解によると武四郎は「本名ムカなり。延(のび)たる義」、その永田説は「mukap,=muk-ap つるにんじんある処」、バチェラーは「ムカ・ペッ (上げ潮で運ばれた砂で口を)止められる川」、北海道駅名の起源はバチェラーとほぼ同じで「ムッカ・ペッ(塞がる川)。鵡川が上げ潮のため砂で川口が塞がれるからである」。山田さんは鵡川の古老の話として「沙流川が男でシシ・ムカ(古名)、鵡川は女なのでポン・ムカと呼ばれた」と書いています。なお、久保寺辞典では、「muka vi 上る,登る =mure」とあります。この鵡川の支流のうち、ムカという語形をその中に持つ「占冠(しむかっぷ)」という語形があります(この地名は永田地名解にはありません)。これは山田さんも言っていますが「si mukap 本流の・ムカ川」ということでしょう。
 みんな言いたいこと言ってますが、どれがホント?

 さらに沙流川=シシムカの過去の語形を紹介したいのですが、実は『北海道の地名』にも永田地名解にもその形がありません。この地名の解釈は、地名研究者ではなくむしろ言語関係者に多くなされていて、久保寺辞典は「沙流川の古名 Sara pet の kamui-rehe <shishiri emuka 川に沿うて上る poro shiri の方へ上るから.」、萱野茂さんは「<シ=本当に シ=あたり ム=つまる,塞がる カ=させる *雨が降るたびに上流から土砂が流出し河口が門別の方へ寄ったり鵡川の方へ寄ったりした.それを河口がつまるとアイヌは考えてあたりがつまる川と名づけた.その説明を聞いた日本人は日本語で,砂の流れる川,砂流川と名づけたがいつの時代からか砂の文字が沙になった.」と書いています。

 まずこの名高いシシムカを考えましょう。沙流川のどの支流を見ても、それに近い語形を実際に保持している地名はないようです。さらに、動詞の使役形を作る接尾辞である「ka」はあまり応用の利かないもので、特に沙流方言では一部の限られた語にしかつきません。「mure 〜を塞がらせる」という形が別にあることを考えると、「mu-ka」という形になる必然性は低いと見ることができます。久保寺辞典の意味が正しいとしても、川が登ることに、木登りによく使われる「mu」を使うという説にはどうも納得できません。それなら「oman」「sinoman」などいくらでも言い方があります。
 これだけでは即断のそしりを免れませんが、このシシ
ムカという雅語は、物語には多用されても、どうやら実際の地名としては定着していないようです。実際の川名は、下流域が「sar 湿原」であることから、そのまま「sar」という形で、例によって固有名詞化した川名なのです。シシムカは、そのカムイレヘ(神様の本名)ですから、普通の地名のように軽々しく言ってはいけないのかも知れません。

 こう見ると、鵡川の古老の話は意味を持ってきます。つまり、

 si sir muka 大きな・土地・ムカ川
  「大きな土地のムカ川」「本当の土地のムカ川」

 という風に、隣のムカ川との対比で沙流川を讃えたのだと思えるのです。ここで、(便宜上「土地」という訳を付けましたが)なくても通じるような「sir」が出てきます。このような(千歳辞典によると)「虚辞」ともいう言葉を繋げて華麗な彩をつける成語法は、ユーカラなどで見られる技法です。これは修飾の意味もありますが、主に節を付けて歌う目的で使われます。「sar」「muka」などだけでは音節が足りないのですが、「sisirmuka」では4音節となり、4〜5音節が基本のユーカラでは一つのフレーズを作ることができるので、とても便利な形なのです(音節の数は、母音の数を数えればわかります)。実際、口承文芸では「sisirmuka」が一つのフレーズで使われています。
 この考えでいけば、やはり鵡川「ムカ」の地名解で全てが説明できると思われます。

 では、このムカの地名解はどうなるのでしょう。「mu 塞がる」を使いたい気持ちは痛いほど分かりますが、塞がると言うからには「o mu pet 〜の尻・塞がる・川」のように、川尻がちゃんと塞がる必要があります。上にも書きましたが、「mu-ka」とやってしまっては「ka」のすわりが悪いのです。では、永田地名解の「muk a p」はどうでしょう。まず「a 座る」は1項動詞で、名詞を二つ取ることができません。それなら「muk ta us i ツルニンジンなどの根・〜を掘る・〜をよくする・所」などの形になりそうですが...。いろいろな形が全て疑わしく見えてしまい、困ってしまいます。
 私には現在の所、以下の形を作ることしかできません。

 mu utka 塞がる・川の瀬

 音は、音韻脱落@で「u-u」が「u」に、そして音韻転化Jで「t-k」が「k-k」になり、さらに音韻脱落Bでその一つが落ちたと考えました。[m(u)u(t→k)ka
 やはり「mu 塞がる」を使ってしまいました。「mo 小さい」とも考えましたが、どういう観点で見ても「小さい・大きい」の対比が難しいのです。また、川らしい形にするには、先の無加川のように「utka」をどうしても使いたいところです。「mukap」という語形は、江戸時代の資料にはないことを考えると、後の人の拡大解釈だと思います。「占冠(しむかっぷ)」は、そうしてできた地名ではないでしょうか。
 まだ語形からしか検討していないので、この解が正しいかどうか、本当に塞がったのかどうかの検討には、現在・過去の川筋や川口の様子を調べることが不可欠です。

 なお、鵡川の西側にある「入鹿別(いるしかべつ)」は、「iruska pet 怒る・川」という地名解のようですが、意味が全然わかりません。『北海道の地名』では、更科源蔵の説話も紹介されていますが、こういうお話付きの地名というのは一度疑ってかかるべきです。何だか後付けのお話のような気がするのです。
 これは暴論かも知れませんが、もし漢字「入鹿」が「イルッカ」という音に当てられたと仮定すれば、以下の解を導くこともできます。

 ir utka 兄弟の・川の瀬

 隣のムカ川(鵡川)の兄弟として見た川名に、例によって後付けで「ベツ」をつけたと考えると、何だかすんなり理解できそうなのですが。まあ、どちらにしてもまだまだ研究不足で、裏付けが取れません。何かご意見や情報があれば、是非お知らせ下さい。
 しかし、沙流や鵡川のような、比較的アイヌ文化が伝承されている地方ですら、地名の解釈となるとこのように全くわからなくなってしまうのは、他の地方とそれほど変わらないような気がします。

 *追加:最近買った『北海道地名分類字典』(本多貢著、北海道新聞社)によると、武華(ムカ)と言う地名が網走・留辺蘂町にあります。字が違うだけで、無加川と同じようです(この川、長いです)。武四郎の『廻浦日記』では「ムウカ」となっているそうです。先に、イトムカからムカの固有名詞化を考えましたが、鵡川と同じように「mu utka 塞がる・川瀬」でもいい感じがしてきました。「ムッカ」に「ムウカ」とくれば、やはり語形の揺れを「mu utka」で説明することがたやすいのです。また「o mu pet」ではなく、地名の中に川尻を指す言葉がないので、塞がるのは川のどこでもいいと思えてきました。
 ただ、どこがどのように塞がるのかは、文献からはよくわかりません。未だ宿題にしておきたいです。

 

・北海道札幌市「星置」について

 札幌の中でもぎりぎり小樽寄り、銭函に近い手稲区に「星置(ほしおき)」という地名があります。小樽と札幌の境で、実際、永田地名解は「小樽郡」の所に載せています。
 私が子供の頃に比べて、札幌小樽間は、JRの駅もかなり増えました。昔は銭函から稲穂、手稲、琴似、桑園、札幌となったのですが、一つ増え、二つ増え、今では「何でこんなに駅が増えたの?」と思うくらいです。各駅停車なら高速バスに抜かれてしまいます。その中で、この星置、そして隣駅の「ほしみ(星見)」も、何だかきれいでロマンチックな語感の漢字です。「星見」は、星置のイメージから生まれた新しい地名でしょう。前の方で、難しい漢字の地名を紹介していますが、こうしてみると悪い気もしないのです。ただ、やはり正しい地名解は大事です。

 その「星置」の地名解は、例によってかなりやっかいです。
 まず過去の語形から。『データベースアイヌ語地名1』によると、武四郎は「ホシホキ」、『入北記』は「ポシポキ」、永田地名解は「so pok 瀑下 一名「ホシポキ」ト云フ...」。山田さんは『北海道の地名』で「pesh-poki(崖の・その下)のような名ででもあったろうか」と書いています。榊原さんは「pes-pok-i 崖の・下の・もの(川)」としています。なお『北海道地名分類字典』によると「1857年の石狩原野開拓地にホシボッケ」とあります。

 私は前に、別の所で以下のように書きました。

 私は、星置の地名解は so poki(滝・の下)が正しいと思っています。
 なぜなら、まず星置の滝まで行けば、まさに自然に滝の下に来てしまうという事実。これほど目立つ滝を直接言わずに、崖の描写をするのは不自然に感じます。アイヌ語は so と syo を区別しないのでショーポキと聞こえたはずで、その「ショー」に昔の仮名遣いで漢字「星(ショウ)」を当てたと私は思います。一般にはなじみのない「星(ショウ)」という音読みと「置(おき)」という訓読みの混成がわかりづらく、後から二つの漢字をすべて訓読みして「ほしおき」と言い換えたらしいと推察されるのです。この見方は、pes が hosi と転訛したと無理に推理するよりも論理的です(o と u の混同はよくありますが、o と e は間違えようとしてもかなり無理があります)。よって、私は so poki だと判断しました。

 しかしその後、この私の説は軽率であることを知りました。この連載(?)開始以来初めて、反響のメールをいただいたのです(大変うれしいです。異論があればどんどんメールをお願いします)。それによると、『蝦夷図』(伝・間宮林蔵 1822年 国立国会図書館蔵)という古い資料にも「ホシホキ」と記載されているそうで、それ以前の資料に漢字からミスリードされたことを示す材料があるかどうかを問われ、答えられなかったのです。また、何らかの言葉の揺れがあってもいいはずなのに、永田地名解以外は「ホシ」「ポシ」という形のままです。特に、「ポシ」という語形を「星」の転訛から説明することは出来ません。つまり、原形は「posipoki」でなければならないのです。

 さりとて、私は「pes poki 崖・の下」という説も同じくらい疑わしい、と今でも思っています。また、榊原さんの説では、形式名詞の使い方に難があることは、「地名文法解説」でも触れました。
 では一体、星置の地名解はどうなるのでしょう。いろいろ考えてみました。まず、「ホシボッケ」という形から、少なくとも「pok 〜の下」という位置名詞を使ったことは裏付けられたようです(所属形は poki や pokke)。残るは前半の「posi」ですが、いくら考えてもこういうアイヌ語はありません。「pes 水際の崖」は語形が離れている上に、それを示唆する揺れがどこかの語形になければ、使えません。
 すでに川名を記した看板にはこれを使った地名解がでているようですが、それを音韻変化の観点や類例などからきちんと説明できない以上は、早計というべきでしょう。山田さんの一試論が、議論を経ないまま定説になるのは、当の山田さんだって本意ではないはずです。人の説に盲信するのではなく、もっとみんなで頭を使って議論しましょう。

 私は新たに、以下の試論を立ててみました。

 so pok(i) 滝・の下
 pon so poki 小さい・滝・の下 

 まず、現地を見ると、滝の下であることは否定できない事実です。その意味では、「so pok(i) 滝・の下」であったことは、アイヌ語が間違っていない以上、誰が何と言っても、少なくとも間違いではないのです。これは、過去の資料とはあまり関係なく、単純にアイヌ語の中で解決する話です。ただし、そうすると「ホシポキ」などの語形が説明しづらくなる、ただこのことが問題なのです。紛れもなく滝の下で、「pes」では音が離れ、漢字の「星」でも説明できない以上、「p」を語頭にする何か別のアイヌ語が「so pok(i)」にくっついたと見るのが、苦しいですが一番ありそうな解です。すると、二番目の解になります。この滝はそんなに小さくもないとも思いますが...。
 ただ、滝を叙述する「pon 小さい」という言葉があることは、その対象を具体的にするということで、「poki」という所属形が使われた積極的な理由にもなるような気がします。まあ、概念形と所属形の問題を話すと長くなるし、不明な点も多いので、ここではこの辺にしておきましょう。

 音的には、音韻転化Bで「n → y」という変化が起き、子音化した二重母音が消えるということが考えられます。

 po(n→y)sopoki

 つまりこの解だと本来は「ポショポキ」となるわけです。それか「ポシポキ」と転訛する可能性はあるのでしょうか。
 「ショ→シ」の転訛の類例は、神恵内村西の河原の「シシャモナイ滝」があります(『廻浦日記』ではシユシヤモナイ、『山川図』ではシシヤモナイ、『伊能中図』はシシヤムナイ)。私の地名解は「so sam o nay 滝・のそば・に付いている・川」です
(榊原さんは「si-sam-o-nay 和人・たくさんいる・川」としていますが、地名文法で触れているとおり、オは人間を主語に取らないと考えます。「ダニが人間に付く」ならまだしも、「人間が川に付く」のは変なのです。「シャモはダニみたいなやつらだ!」とするなら別ですが、地名ではまずあり得ません)
 また、島松(武四郎はシママフ)の地名解「suma oma p 石・〜にある・もの」などに見られる「シュ→シ」の転訛もあります。「u と o の混同」は何度も触れていますが、その意味ではこれも「ショ→シ」の転訛と同じように捉えることが出来ます。

 まだ理論武装や現地調査が充分でなく、異論もあるかも知れませんが、現在の私の説としては以上のように解したいと思います。さらなる皆さんの議論を歓迎いたします。

 *追加:この「星置の滝」の上流に「乙女の滝」というのがあるそうです。行ったことがないので今度確認しますが、どっちが大きいのかなあ。

 

 小樽市博物館紀要7、9のアイヌ語地名に関する論文について

 

−−−最初に−−−

 私は、「文芸の部屋」の奥の部屋「批判とメディアについて」において、自分の音楽が心ない批判を浴びたときの疑問点から、メディアと結びついた批判の影響力などを示しています。特に、インターネットにおけるそれは、注意すべきです。そこでは、批判のあり方についても自分なりの考え方を示しています。もし相手を批判するに足る正当な要因があるとしても、それに乗じて相手を傷つけることは決して正しくありません。相手を理解しようとする心、つまり学究心がなければ、最初から批判は「非難」に変わってしまいやすいのです。これは、注意しないと犯しやすい過ちであり、人間性の問題でもあります。
 私は、この「私のアイヌ語地名解」の中でも、過去の諸先輩たちのご意見に噛みついている箇所がありますが、それは決して他意はなく、純粋に論理的疑問を抱いているだけなのです。もちろん、先輩たちの労力と卓見がなければ、誰も地名解を続けることができないことは承知しています。ただ、どんな説にも盲信はできないということです。疑問があれば、先生に質問するのが生徒のつとめですし、ひいては先生も勉強になるのです
 音楽と違って、学問とは客観的な評価がしやすいものであり、デジタルな結論が比較的出しやすい分野です。それは、「地名研究」でも同じことです。よりよい結論を目指して、多くの人が紳士的に考えを出し合うことが、本当にあるべき姿だと思います。批判の精神がなければ、思考は生まれません。

 私は、ここで「小樽市博物館紀要7」(1994)、「同9」(1996)所載のアイヌ語地名に関する論文について、批判を展開していきます。たとえ知里・山田という地名研究の双璧の説であっても、私は疑問があるならば従うつもりはありません。ただし、その疑問点はきちんと説明し、自分なりの解釈をも明らかにして、皆さんのご判断を仰ぎたいと思います。

 

−−−「小樽市博物館紀要7」について−−−

 「小樽市博物館紀要7」には、以下の論文があります。
 石神 敏:「小樽市の「地名」調査概報−1 −アイヌ語に由来する地名−」
 福岡 イト子:「小樽市「張碓」のアイヌ語地名にかかわるアイヌの有用植物」

 うち、「小樽市の「地名」調査概報−1」は、小樽市の蘭島から高島までの地名を、過去の文献の整理と地図上での位置の特定によって示しています。
 ただし、地図上には番号が振られているのみで、そこがどういう地形であるかという点に関して、充分なコメントがありません。その範囲も少し曖昧です。アイヌ語地名をデータベース化する方法を高度な形で検討されている研究家の方が別にいらっしゃるのですが、そういう方法からすれば、こういう位置の示し方はいかにも見劣りします。さらに、その土地に関する故事を紹介したり、その地名が名付けられた意義を推論したり、他所の類例を考察するなどといった、地名解なら当然踏襲すべき「山田式」の方法がとられていません。よって、紹介されている地名解がどの程度確からしいのか、ということを考える手がかりが少ないのです。
 また、地名解も、過去の文献を紹介しているのみで、一体本当のアイヌ語地名解はどうなのかという一番肝心なことに関して、ほとんど判断を下していないのです(ただ、少しだけコメントが付いています)。アイヌ語地名の調査なのに、そのアイヌ語解釈が正しいかどうかという検討があまりなされていないのは、やはり不十分です。ただ、この論文が作成された時期は、充分なアイヌ語辞書すらなかったというマイナス要因は考えなければなりません。
 この論文は、結論を導く材料にはなるかも知れませんが、それ以上の何かを私に教えてはくれませんでした。

 もう一つの「小樽市「張碓」のアイヌ語地名にかかわるアイヌの有用植物」は、上に比べて大変参考になる論文です。特に、アイヌ語「haru 食糧」が、実際にどういうものだったのかをきちんと調査されている点がすばらしいと思います。五万分の一の地図が少し見づらいので位置の確認に難がありますが、この論文と、その元になった「小樽市『張碓』のアイヌ語地名についての一考察」(『北海道の文化』65号 北海道文化財保護協会、1992年)は、張碓の地名解説の決定版と呼べると思います。私が祝津の地名解で触れた「他の方の調査で明らかになっている...」の「調査」とは、このことでした。
 なお、執筆者の福岡 イト子さんは、優れたアイヌ文化研究者であり、『アイヌ植物誌』(草風館、1995年)という植物に関する本なども書かれています。これも良著です。

 どちらの論文も、理由は全然違いますが、こちらから新たな疑問点や議論の余地が出てくるという点はあまりありませんでした。

 

−−−「小樽市博物館紀要9」について−−−

 「小樽市博物館紀要9」には、以下の論文があります。
 福岡 イト子:「小樽市の「地名」調査概報−2 (アイヌ語に由来する地名)」
 松田 義章、福岡 イト子:「小樽市におけるクッタ
・カツナイ・オコバチ地名考」
 福岡 イト子、松田 義章:「チエトイナイ地名考」

 全ての論文に福岡 イト子さんが参加されています。

 ます、「小樽市の「地名」調査概報−2」は、小樽市の手宮から勝納あたりまでの地名を、過去の文献の整理と地図上での位置の特定によって示しています。
 川名が多いため、位置の特定は前回ほど曖昧ではありませんが、地図を持ち出すほど専門的にやるのなら、やはり河川番号は付けてもらいたいところです。アイヌ語地名解についても、一応何らかの解を判断されてはいますが、過去の説を再検討して独自の解を提出するところまでには至っていないようです。
 さてその地名解は私の説との違うところが多いのですが、それは抜きにして考えると、過去の地名解と実際の地形条件を比較した批判的な見解などもあり、かなり参考になります。特に、色内の地名解の検討は、正しい解を導くための含蓄ある指摘だと思います。ただし、(後述しますが)チエトイナイの位置が間違っている点、有幌町の地名解がないという点は大きなマイナスだと思います。また、クッタ
・カツナイ・オコバチの解が、次の論文とダブっている理由はよくわかりません。

 次の「小樽市におけるクッタ・カツナイ・オコバチ地名考」は、小樽の代表的な3つの地名に注目し、古文書、古地図の検討や位置の特定、そして地名解釈の検討が行われています。中でも注目すべきは、地形学的な検討の詳細さです。詳しくは省略しますが、これらのデータは地名解にも大変役立つもので、その意義は高いと思います。
 ただ残念なのは、これらのデータが、結局過去の地名解の補強にしか利用されていないように見えることです。もっといろいろな角度、例えば本流だけでなく支流の地名の位置を特定すること、また武四郎の紀行文とのすり合わせによって記述を検討することなど、もっと踏み込んだ使い方ができると思いますし、私ならそうします。

 さて、ちょっと細かい話。この論文の記述で「カツナイ川にとりわけこれだけの数のアイヌ語地名が分布し、かつ松浦武四郎によって詳しく記載されているということは、とりも直さずこの河川がアイヌの人びとの食料入手上、重要な意味をもっていたものと思われる」(14ページより)とあります。可能性はあるかも知れませんが、地名が多いというだけではそんな推測はできないと思います。あくまで小樽市内を流れる川の中で最も長く大きい川だったから、交通に便利だったということだけかも知れないのです。この考えを受ける形で、ではどこでどういうものが採れたのかといった考察を進めていますが、それはあくまで「at nay 豊かな?・沢」の地名解が正しいという前提での話です(「at tomari」の形も考えねばなりません)。当の地名解が本当かどうかをきちんとアイヌ語から検討せずに、食料入手の実際について検討しても、結論は出ないと思います。このコメントは、次に控えた論文「チエトイナイ地名考」にも関係しますが、少し気になりました。

 クッタ(イタドリ)について。イタドリは珍しい植物ではなく、価値の高いものでもないので、なぜこの特定の地点がクッタルシになったかは検討の余地があるとしています。確かにそうかも知れませんが、大昔の写真でも残っていない限り、これ以上はどう検討しようとしてもできない問題ではないでしょうか。イタドリは、大きいものになると人間の背丈をはるかに越えるほど高く成長する植物です。見方によっては、とてもおどろおどろしいと思います。よって、敢えてこの地点を名付ける際に、イヤでも目に付いたものに注目した、ということかも知れません。とにかく、実際に確認できない以上、検討の意義がそれほど高い問題とは思えません。もっと言えば、ここ以外の多くのイタドリの生えていた土地も、名付けられなかっただけで、語義上はクッタルシと言っても決して間違いではなかったのです。また、おそらく一番重要な問題である「クッタルシ」と「アリホロ」の関係については、疑問を提起しているのみで、欲求不満が残ります。

 次の「チエトイナイ地名考」は、この紀要の中で一番問題がある論文だと思います。
 まず、論理を展開する順番が逆です。アイヌ語地名の検討には、まずその地名の語義と名付けられた地点を検討することが必要なのに、いきなり「勝納川支流のチエトイナイ」を無批判に既知のものとして説を進めています。その位置の特定も、前の論文ではいろいろな過去の文献の記述をひも解いているのに、ここでは武四郎の『東西蝦夷山川地理取調図』だけを信用して行っています。なお、この論文を隅から隅まで見ても、それにあたる現在の川名が書いていません(「小樽市の「地名」調査概報−2」を見なければわかりません。「潮見台川」がそれです)。

 地名研究には、文献学としての側面もあります。過去の資料から学ぶ事、そして誤りに惑わされない事が必要になってきます。
 榊原正文さんによる『データベースアイヌ語地名1』は、一つの資料を盲信せず、より信頼度の高い資料である武四郎の『廻浦日記』の記述から、その位置をきちんと特定した上で「下奥沢川」としています。私もその説に賛成です。というより、『廻浦日記』通りにてくてくと歩けば、それが事実としてきちんと確認できます。実際に歩きながら書き綴った紀行文が、河口からの距離や、右と左の川名を間違える事がありえるでしょうか。ここは、あくまで『廻浦日記』の通りに考えなければ、位置の特定が全く出来なくなるのです。
 いろいろ検討した上で出した結論が「潮見台川」だったのならまだしも、このような複数の資料の記述によって位置を検討せずに、無批判に一つの資料に頼ってしまったのは、明らかにこの論文のミスです。なお私は、よく考えた挙句、やはり潮見台川もチエトイナイだったという推論も不可能ではないと思っています(詳しくは「
北海道小樽市「チエトイナイ、信香(のぶか)」について」参照)。

 最初の位置を特定するための検討が不充分なので、その後の論旨は検討するまでもありませんが、あえてもう一つの問題を指摘しましょう。私の地名解では「チエトイ」を否定しているのですが、それはさておき、ここでは知里真志保による「チエトイ」の定義に見直しを提起しています。つまり、チエトイは「珪藻土」だけではなく「ベントナイト」という「肉眼的にも化学成分的にも類似」(41ページ)した粘土も含むのではないか、という説です。おもしろい説ですが、なぜこういう説が出てこないといけないかというと、「潮見台川」付近には珪藻土がなく、代わりに近くの白い崖の岩石からのサンプル採取(この採取位置も方法も示されていないので全く不満です)で、このベントナイトが確認されたと言うのです。

 私は珪藻土やベントナイトについては素人なので、インターネットで少し検索してみました。それによると、珪藻土は自然素材で、「珪藻というシリカに富んだ海藻が堆積して化石化したもの」(産経新聞の企業data-boxより)です。つまり、もとは植物だったのです。それに対してベントナイトは、「火山岩や凝灰岩(ぎょうかいがん)が熱水作用などで変成してできる粘土の一種。我が国で数少ない自給自足できる無機鉱物」(クニミネ工業株式会社のページより)などと記されています。この定義から言えば、両者は成り立ちから根本的に違うものです。取れる地層や化学成分が似ている?というだけで、これら二つの土の用途まで同一視するのはおかしいです。
 第一、それが実際に料理に使われたとする裏付けが全然されていません。食料との接点を探る唯一の記述として「このベントナイトは戦後採掘され、ビスケットの増量剤として活用され...」(45ページ)とありますが、アイヌの時代の用途をうかがわせることにはなりません。知里真志保によれば、そもそもチエトイは調味料として少量のみ使われたはずで、この記述はチエトイの正しい用途を誤解させるものです。「この地域では「チエトイ=ベントナイト」ということになる」(45ページ)と、証明もされていないのに断定口調なのも、すごく気になります。

 「珪藻土」がなかったからといって、従来のチエトイの定義まで見直そうとするのは、どう考えてもこじつけではないでしょうか。そもそも「土なんて食べなかった」と地元のアイヌの人たちは江戸時代から言っているのに、「いいや、お前たちの先祖は食べたはずだ、地名に残っているのだから」と言わんばかりに、無理やり怪しげな土を食わせようとするその論旨は、こっけいだと言わざるを得ません。
 この地名がチエトイに関係するとあくまで主張するのならば、一度ご自分で味噌汁に現地調達したベントナイトを入れて食べてみるくらいのことはすべきだと思います。これは冗談でも何でもなく、岩の成分調査までするほどシビアで実証精神に基づく学問ならば、実際に食べられるかどうかのチェックは当然すべきであり、文字通りの意味です。その味噌汁がおいしかったら、この説の説得力も増すのではないかと考える次第です。

 

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